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第3話:少女と、罪の男Ⅱ


 投獄から何日経っただろう。


 少女に蝋燭が与えられた。


 細かい植物の模様の刻まれた小さな白い蝋燭。

 それが七本。

 一般的な家庭で用いられる、テュットにとっても馴染み深いもの。

 毎晩寝る前に灯す祈祷の蝋燭だった。


 それを投獄されて以来はじめて手にして、少女は嬉しそうな顔をした。


「ありがとう、久しぶりに心落ち着いて祈ることができます」


 祈りを捧げる喜びを取り戻した少女へ、獄吏は言う。


「その蝋燭が全て尽きた翌朝、お前はこの牢を出る」


 言葉が意味することを理解し、テュットの顔がこわばった。

 少女を連れて来た日と同じように感情の無い言葉だけを残して獄吏は立ち去る。

 テュットは立ち尽くして、遠ざかる足音が完全に消えるのを聞き届けた。



 渡された小さな籐の編み篭の中に七つの蝋燭が並んでいる。

 骨のような白さが美しく見えて、テュットは一瞬、燃やしてしまうことを惜しく思った。


 蝋燭を燃やさずとも七日後に再び彼は訪れるだろう。

 少女は洞窟牢の最奥に一つだけ設えられた古い卓の上に篭を置いた。

 そうしてしばらく、岩壁に背を預けて、膝を抱えてじっと座っている。


 会話を聞きつけ事態を悟って、獣も心を乱されていた。

 胸に凍えを感じる。

 心臓からゆっくりと血の気が引いていく。そのまま穴が空きそうな不吉な感覚。

 胸は冷たく、それなのに頭はかっと熱かった。

 理不尽への怒りの熱と奪われる痛みの冷たさに体中が、心までも翻弄される。

 少女を奪われる時を、その訪れの気配を、皮膚が感じて体中が総毛立った。


 自分以上に辛い心地でいるだろう少女を心配して様子を伺う。

 岩に背を預けて座っている彼女が、ふと気付いて獣のほうへ手を差し伸べた。

 獣は少女へ歩み寄る。

 テュットは小さな薄っぺらい手のひらで鼻頭を撫でてくれた。

 しかしそれきりで、顔を背けてしまう。

 すん、と獣は鼻を鳴らした。


「……ごめんなさい。今は、何かをする気持ちになれない。

 だめね、今こんなふうに、時間を無駄にしてしまっては。でも、許してね」


 獣は頭をそっと少女の肩に押し付けた。

 それから少女のそばを離れ、人より優れた聴覚を澄ましてじっとしていた。

 二人がそれぞれ牢の端と端に居ようと、こうしていればどんな小さな囁きさえ聞こえる。


 少女のすすり泣きが聞こえたら、心は共に泣こうと思った。

 少女が世を恨むなら、共にそうしよう。

 たとえ少女が望まぬとも、同じように考えて、同じ感情を示したかった。

 少女と共にあることが、獣の唯一の望みだった。


 獣の耳にそっとテュットの声が触れる。


「ああ、ごめんなさい……みんなのこと、心配してないわ、わたし。

 でも、神さま、ごめんなさい。

 わたし、お願い事がひとつ。

 今以上に、ひとつもあるんです。

 今までこんなにたくさん与えてくださってありがとうございます。

 わたしは最後まで幸せでした。

 わたしは、最後まで望みどおりに生きられました。

 それだけで充分なのに……。

 わたしは悪い娘です、神さま」


 聞こえてきたのは少女の懺悔だった。


 獣は驚き、耳を立てて一言だって聞き漏らすまいとする。

 一本目の蝋燭の灯し火に、少女の顔があかく照らされていた。

 泥や垢にまみれ、栄養不足にやせこけた頬。

 同じ年頃の娘に比べたら十も歳を取ったようにも、ひどく幼いようにも見える。

 とても綺麗とは言いがたい、しかしどこか侵しがたい神聖な面持ち。

 少女は蝋燭の明かりを、その先にある主を見据えた。


(願いを言いなさい)と獣は、主でもないのに促したい気持ちで一杯だった。

 しかし今日、少女はそれ以上に何も言わなかった。

 祈りの蝋燭が燃え尽きるまで時間はそうかからない。



 蝋燭の残りは六本になった。

 燃え尽きた瞬間に少女の胸の鼓動が強く打つのが聞こえた。

 一日一本、燃やし尽くされる祈りの蝋燭。

 それは少女に命の残りを暴力的につきつけて報せる苦痛の針だった。


 獣は毛を逆立てて、血管の血が沸騰してしまいそうな程、人間の残酷さに激怒する。

 ふうふうと喉から獰猛な息を吐き、しかし少女を怯えさせてはなるまいと懸命に気持ちを鎮める。


 残された時間は短い。

 蝋燭の本数が示すとおり。

 まだ歳若い少女に残された日々にしては、あまりに短い。


 なぜ先に自分を殺さないのかと獣は狂おしい気持ちで思う。

 少女が真に罪を犯していたとしても、それがどんなことでも――

 もし牢での落ち着いた様子がとうに訪れていた気の狂いから生じたものだとしても。

 そうだとしても、釈放されればいずれ他者の役にも立つだろう。

 この獣の害なす体とは違う。この老いさらばえた化物を代わりに殺せばいい。


 声があれば叫んでいた。

 この子の代わりにおれを殺せ、と。

 少女は喜ばないだろう。

 だがそれでも、生きているほうが余程良い。


 獣は自分が身代わりになれないことに酷く悔しい思いをした。



 二本目の蝋燭が灯された。

 真摯な囁きが牢の中に満ちる。


「神さま。

 わたしは悪い娘です。

 お願いがあります。

 これまで願いどおりに暮らしておりました。

 貧困は耐えられぬほどではありません。

 代わりに優しい家族がいました。

 過ちも起こりましたが、今はそれを治めることもできました。

 すべてあなたのおかげです。あなたが下さった幸いです。

 わたしにはもう充分、身に余るほど。

 でも、どうか――」



「どうか、お聞きください……」


 三本目の蝋燭の炎が言葉を返すように揺らめいた。

 実際は、テュットの吐息に揺れたのだ。

 祈りの途中で火が消えることは不吉とされている。

 テュットは慌てて呼吸を整えた。


「わたしは、不名誉な理由からあなたの御許へこの命を返します。

 命をお返しすると言うのでさえ、恥知らずと思われるかもしれません。

 でも、それを慰めに思って旅立つのです。どうかお許しください」


 炎が揺れる。


「ねえ、神さま。

 わたしには家族がいます。

 五人もの弟妹たちと、優しい父です。母はあなたのお傍におりますね。

 わたしは弟妹たちの前で罪人とされました。

 まだその意味の分からぬ子もいるでしょう。

 彼らの成長を見ていけなくて、とても残念です。

 けど、みんなしっかりした良い子たちだから、わたし、心配してないの」


 主を意識した改まった口調が、ふいに砕ける。

 従来の友に呼びかけるような調子になって、少女は獣を見ていた。

 少女の傍で祈りを見守る獣が小さく首を傾げる。


「わたしね、みんなのこと信用しているよ。

 だからなんにも心配してない。

 でもね、わたし、ただひとつだけ、思うことがあるの。

 信用してるし、心配もしてないのに。

 少しだけ、ほんの少し、不安になるの。

 わたしの願いはたったひとつ。

 みんなが幸せになることは、みんなで祈っていれば大丈夫よ。

 だから、これは、わたしの自分勝手な願い事」


 獣はぴくりと耳を立てる。

 少女は一呼吸を置いて、落ち着いて話を続けた。


「わたしの弟妹たちは、もう十を過ぎた子も居るけれど、みんな幼いわ。 

 とくに小さなユニなんてまだ四歳。

 わたしが不安に思うのは、神さま。

 わたしがユニやみんなに忘れられてしまうのではないか、ということなの」


 少女の祈りに、獣は震えた。

 たったひとつの最後の願いが、なんと些細なことだろう。

 死の旅のはなむけに望むのが、なんと欲無きものだろう。


「だからね、わたしの願いは、みんなに覚えていて欲しいってこと。

 一緒に暮らしていたテュットがどんな娘だったのかを、忘れないでほしいの。

 わたしなんて、ほんのちっぽけな、取るに足らない娘だとわかっています。でも」

 

 卑屈な響きはなかった。

 素直な声がそう言った。

 途中で言葉が切れて獣は不思議に思った。

 見上げたそこで、少女は唇を噛んでいた。

 そうして涙をこらえていた。


「でも、忘れられてしまうのは、寂しい」


 声は震えて湿っても、涙はついに流れなかった。

 目を開いてまっすぐ、その瞳に祈りの火を映していた。


 彼女の強さに男は胸打たれて、身体が痺れたように思う。

 少女のことを尚いっそう愛しく思い、今すぐにでも抱きしめたい気持ちだった。

 抱きしめるものを害するこの腕を憎く思った。


 だからそっと身を寄せる。

 少女の身体が僅かに震えていた。


 もしも、この腕を回すことができたら、

 その恐怖を、その凍えを、少しでも和らげることができただろうか。


 口惜しさに身が張り裂けそうになる獣の顔を、小さなものが触れた。

 少女の手のひらが獣を撫でる。

 慰めようとしているのに、まるで慰められたみたいだった。

 だって獣の心は、それだけで嘘のように一切のわだかまりが消えるのだ。


 どんな憤怒も、悲嘆も、焦燥も、動揺も、

 手のひらの上の雪のひとひらだったように解けて消えてしまう。


 少女の手にすべて委ねた。

 獣の心は穏やかで、満ち足りて、

 一時でも、迫り来る別離の瞬間を忘れて幸福な気持ちを味わう。



 蝋燭の残りは四本となった。


 見つめる少女と獣の心中は似通っていて、その実遠いものだった。

 あと四日で主の御許へと命を返す少女。

 あと四日で愛しい者を失う罪の獣。

 彼の罪科はその後も続くのだ、きっと。


 少女の死の瞬間、同時に息絶えるのでなければ、獣は再び一人きりになる。


 罰から逃れようとする気持ちはない。

 どんなに辛く苦しくても受け入れられる。受け入れなければならない。

 ただそのために少女の命が奪われるというのなら、それは間違いだ。

 もしもこれが自らへの罰ならば。

 少女の命とは関係なくそれをこの身に課せば良い。


 怒りに猛る獣の毛に少女の手が触れた。

 途端に蓋の閉まるように、獣の心から全ての烈しい気持ちが消える。

 少女への温かな思いに満ちる。


「さあ、これからお祈りの時間ね」


 そう言ってマッチをすって、四本目の蝋燭に火を灯す。

 やや待って溶けた蝋を燭台代わりの皿へたらす。

 皿に蝋燭を固定させて、火の落ち着くのを見守った。

 獣は先日から、少女と同じ時間、同じように祈りを捧げていた。


 獣と化して祈りを忘れ、どれだけの時が経っただろう。

 こうして再び主のともし火を前に懺悔するなど、思ってもみなかった。

 祈りは人の姿でいた遠い昔に捨てていた。

 かつて皮肉な運命に憤り、起きぬ奇跡に苛立って、祈りの果てに絶望した。

 そして彼を獣に変える原因を起こして、それでもなお、こうして気持ち安らかに祈り、願うことを思い出した。


 これが、実際、何になろう。

 主が祈りを聞き届けるだろうか?

 否、少女は「助かりたい、生き延びたい」とは祈っていない。

 祈りはかたちある何かをもたらさない。

 七本目の蝋燭が少女を救うわけもない。


 しかしこうしている時間が、掛け替えのない大切なものだった。


 少女と二人寄り添って、同じものへ思いをはせた。

 言葉はなくとも通じ合っているような気がして幸福だった。

 しかしそんな時ほど一瞬ほどの間に去ってしまう。


 四本目の蝋燭は燃え尽きた。


 テュットの細い喉が震えた吐息を漏らす。

 蝋燭が消えたからだけでなく、少女の顔色は暗く、蒼白に色を失っていた。

 そんな必要もないはずなのに獣へ気丈に微笑んでみせる。

 そうすることが、テュットの勇気になっている。

 微笑むことで力を得るのだ。

 

 少女は獣の顔を撫でた。


「あなたが居て、本当に良かったわ。わたし、寂しい思いをしなかった」


 撫でる手は冷たい。

 それを言うのは自分のほうだと、喉も焼けんばかりの思いで、

 しかし吼え声を漏らさないよう男は堪える。

 少女だってまだ一度も泣いていないのに、男のほうが泣きそうだった。


 もっと訴えても良い。

 もっと嘆いても良い。

 もっと怯えても良い。

 そう言ってやりたかった。


 もう何もかも打ち捨てて、

 心のまま泣き声を上げて、嘆いて、責めて、怒って。

 そうしたほうが心は楽になるだろうに。


 それでも、少女は笑う。

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