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第3話:少女と、罪の男Ⅰ

 考えること、思うこと。

 それを忘れていた獣は、

 それを思い出した獣は、

 少女が成すことをすべて受け入れた。


 口の中に手を突っ込んで牙を磨くのも、

 冷たい水をかけて毛皮を洗うのも、

 眠るときにはこの体を毛布がわりにするように身を寄せるのも、

 返事がないのに延々語りかけてくるのも、

 すべて。

 獣は受け入れた。


 反応を返すことは稀だった。

 不思議とわずらわしいとは思わなかった。

 誰かがそばに居ること。

 いままで失われていたこと。


 何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。

 記憶も定かでない、牢獄に捕らえられていた間。

 獣はひとりきりだった。次第に何も感じなくなった。


 寂しさも。

 苦しみも。


 ずっと、暗闇に一人きり。


 気が狂いそうな日々を生きながらえるために思考を手放したのだ。



 少女は獣の体の垢を落としたように、固く凍った感情も呼び覚ました。

 それは、積み重なった寂しさを彼へ返した。長い間降り積もった孤独を思い知らせた。

 例えるなら寒さだった。

 空腹感に似た、それと比べようもないほど大きな不足感。

 痛みで、苦味で、火傷のようで凍てつく。


 自ら体を引き裂いてしまいたいほどの衝動のようで、倦怠感のようで、

 それは、牙のように、棘のように、幾千の針のように、獣を痛めつけた。


 喪失感はひどく彼を追い立てた。

 独りきりでいた長い年月をつきつけて、無為に取りこぼしてきた時間を見せ付けて、あざ笑うように、胸の内で金切り声をあげた。


 寂しさというやつは、今になって罪の獣に己の過ちを自覚させ、そうして罰を下した。



 忘れてはいけない。


 ――過去が獣へ語りかける。


 罪を犯したこと。

 忘れてはいけない。

 罰を受けていること。

 忘れてはいけない。

 お前は奪った者だ。

 お前は害した者だ。

 お前は欲した者だ。

 お前は。


 ――忘れてはいけない。


 ただの獣であればよかったと、はじめは思った。

 しかしこの牢獄に一人ぼっちではないと気付いて、彼は思考を取り戻したことを喜んだ。

 この寒い牢獄に、ただ一つ灯る蝋燭より、少女ははるかに明るく暖かい。

 その声は、その体温は、その手は獣を慰める。


 しかし、すぐにも奪われる。

 これも罰のひとつなのかと、獣は誰にともなく問うた。


 獣の体は頑丈で長命だった。

 男が死ぬ前に少女が牢から去ってしまうだろう。


 その理由が何であろうと、獣より少女のほうが長居するとはとても思えない。

 ならばやはり、心失ったままで居ればよかったと考えている自分に気付く。


 獣は、男は、揺れる。


 今ある短い幸いの喜びと、いずれ訪れる喪失の痛みの間に、揺れる。



 答えがないのも構わずに少女はぽつぽつと自分のことを語った。

 そうすることで気を紛らわせている。

 逃れられない未来をほんの一時、忘れようとする。


「わたしは一番上のお姉さんなの。下に弟妹が五人! みんな良い子たち。

 お母さんは四年前に亡くなったのだけど……優しい母だった。沢山のものを与えてくれた。

 お父さんは優しくて、とても頑張ってわたしたちの生活を支えてくれるの。

 きっと、これからもずっとね」


 日課のように獣の毛繕いをしながら、毎日少しずつ話をしてくれた。


「マーニは十二歳。一番目の妹。

 もうあと三年もすればお嫁にいける。わたしは行けなかったけれど……。

 マーニは器量よしだもの。きっといくらでも貰い手はあるわ。

 お目目がぱっちりとしてて、お人形さんみたいなの。

 少し甘えん坊なところもあるけど、これからしっかりしていくわ。

 わたし、心配してない」


 もう大分慣れた手つきで食後の獣の口内を洗う。

 それだけで嫌な生臭い匂いが、獣自身も不快に感じていたものが大分薄れた。


「メリとピエニは、二人とも十歳。二人は双子の兄弟なの。

 もう、ほんとうにそっくり! 黙っていられると全然分からない。

 声の少し高いのが兄のメリ。低いのがピエニ、弟ね。

 二人はとっても仲良しで、手先が器用なの。

 いつも一緒に何か作ってわたしたちを驚かせる。

 木彫りの鳥や馬は見事でね、市へ持っていくとぽつんぽつんと売れていくのよ。

 わたしの自慢の双子たち。

 大きくなったら職人になればいいのだわ。きっと繁盛する。

 わたし、心配してない」


 テュットの家の様子は賑やかで温かい。

 獣は、いつか居たはずの自分の産みの親や、いたかもしれない血を分けた兄弟を思った。

 霞がかかったような記憶からは曖昧な思い出にしか触れられない。


 確かに居た。


 顔も思い出せないけれど、確かに居たのだ。


 与えられた温もりを思い出す。

 少女の話から想像しただけかもしれない。

 きっと優しい父母だった。

 今はもうどこにも居ない。


「タルヴィは双子の次の弟。

 少しぼうっとしたところがあるけれど、実は集中力がすごくって。

 何にでも辛抱強く向き合うことが出来る子なの。

 お勉強したら、もしかしたら学者さまになれるかも?

 まだ七歳だもの、わからないわね。でもきっと立派になる。

 わたし、心配してない」


 眠るときには獣の横腹に身を寄せた。

 独りではないことがどれだけ眠りを安らげるだろう。

 体温と体温の重なることが、どれだけ奇跡に思えただろう。


 眠る間際の時間にもテュットは小さく喋りかけた。


「小さな、まだほんの小さなユニ……二人目のわたしの妹。

 わたし、あなたに優しくできた?愛してるのよ。ユニ、わたしの大切な宝石。

 ユニはどんな子になるのかしら。

 動物が大好きだから、家畜たちを大切に育ててくれる子になるわ、きっと。

  とても優しい、かわいいユニ。ああ、きっと大丈夫。

 こんなにもすばらしい家族が居るのだから。わたしは何の心配もいらないわ。

 お父さんは、もう二度と過ちを犯さないもの。わたしは大丈夫。幸せなくらい。

 わたし、心配なんて、してない……」


 ほとんど寝息で囁いて、少女の瞳が閉ざされる。

 静かな夜の、穏やかな時間。

 獣は眠りに落ちた少女の顔の半分もある大きさの眼球を彼女へ向けた。


 テュットのもたらした変化は大きい。

 何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。

 冷たかった日々も不毛な過去もこの数日の温かさに溶けてしまう。

 何も無い、何もかも奪われた牢獄の中で、彼は満たされた気持ちでいた。


 あろうことか、許された思いになった。


 この少女の存在が自分を許してくれているのだと、それこそが許されがたい考えだった。


 慰められてはいけない。

 罪人だというのに。


 それでも獣は深い感謝の念を抱く。

 獣に人の心を返してくれた少女に。

 ぬくもりを寄せてくれる彼女に。


 獣はおぞましいことと理解しながら、惹かれていた。


 彼女に答えを返してやりたかった。

 相槌をうって、頷くことができればどんなに良いだろう。

 ときに同意を示し、ときに意見を交わし合い、互いのことを喋る。

 そうして少女と話せたらどんなに楽しいだろう。

 こちらの声にじっと耳を傾けるテュットの姿を想像する。


 なんと幸せな時を過ごすだろう。


 獣は叶わない空想を振り払って項垂れる。


 言葉を奪われたことが今になってこんなにも歯がゆかった。



 日が経つにつれ男の歯がゆさは増すばかりだった。

 少女は生来そうであるように、何者と分け隔てない態度で獣の姿をした罪人に接する。

 彼女はもう恐れることも怯えることもなかった。

 信頼し、親愛を寄せ、家族と同様に思っていると語ってくれる。

 この老いた獣に尽くすのは、贖いのつもりなのだと男は心のどこかで思っていた。


 少女は牢獄にいる。

 同じように罪人なのだ。


 だから献身的な態度で自らの罪を洗おうとしたのだと思った。

 あるいはその行いこそが、少女の身を潔白と示しているのか。


 少女が自らの罪について語ることは無かった。

 牢番にすがり無実を訴え、恩赦を請うような素振りも見せない。

 落ち着き払い、受け入れて、時を待っているように見える。


 悪事をなした人間の態度だろうか。

 罰を受ける罪人の姿だろうか。


 彼女はありのままに暮らしている。

 時折、遠い昔を懐かしむように家族の話をする。


 そして、獣へ言った。


「わたし、ここへ来られて良かった。最後に家族がもう一人増えたのだもの。

 とっても個性的な家族が、ね」


 獣は、男は、胸に訪れる痛みに気付いた。

 深く深く、悔やんだ。

 言葉を奪われてしまったこと。


 それは罰。


 遠い遠い過去に犯した罪の代償。


 それは戒め。


 愚かな行いをしたことへの叱責。


 自らの人生の都合を他者へ押し付けたその傲慢さへの報い。

 獣は、男は、今何を引き換えにしても少女と意志を伝え合う方法を知りたいと思った。


 言葉を、もう、思い出せない。

 どうやって言葉を紡ぎ出せばいいのか。

 どうやって文字を書き表せばいいのか。


 口を開き発音すると、それは獣の吼え声になる。

 手は地面について重い身体を支えている。

 硬い肉球のついた大きな獣の手でペンを持つなど到底できやしないだろう。

 目を合わせても、少女の瞳の中に異形の姿を見つけるだけだ。


 尋ねたいことがある。

 伝えたいことがある。


 それなのに。

 それなのに、男は他者と親しみを築く術の一切を持ち合わせていないのだ。


 この物怖じしない、心優しく大らかな少女の他に、誰が獣と寄り添ってくれただろう。

 異様な、見るからに肉食のおぞましい形をした獣と。

 めぐり合えたのは最後の、あるいは過去に果たされなかった奇跡なのだと男は思った。

 罪を犯さざるを得なかった過去に、あれほど望み、得られなかった奇跡。

 かつて、取り返しのつかないことを起こした。

 近しい者を全て奪われ、人の姿を失い、獣となり果てた今になって、何故このような。

 何故このような巡り合わせが訪れたのだろう。

 感謝すべきなのだろうか。それとも恨むべきだろうか。

 いずれ奪われてしまう仄かな灯。

 ひととき男の暗闇を照らし、彼の身体を温める。

 それを失ったとき、以前感じていた以上に牢獄の闇は、寒さは、

 老いたこの身と心に重たい枷をもたらすだろう。


 帰結するところは結局のところ苦しみだった。

 それで正しい、と彼は思う。

 なぜならわが身は囚人だから。

 罰を受けて当然の身なのだから。


 だが、もしも。

 この罪が許されたなら。


 否、たった一日でも、天に見ぬふりをしてもらえたなら。


 言葉を取り戻し、少女と言葉が交わせたら。


 一体、どれほどの喜びだろう。

 どれほどの、幸いだろう。


 夢想しながらそれが決して叶わぬことと知っていた。

 男は、あるいはこの時はじめて清廉な気持ちで、己の罪を悔いた。

 正しいと思っていたことを、誤りだと認めようとした。

 罪を犯したことを、恥じた。


 己の行いを見据える。

 奪ったものへの謝罪の気持ちを深く刻み、彼らの安息を祈った。

 どんな罰をも受け入れる。

 この命をもって贖える限りのことを望む。

 傷つけ奪った者たちへ祈りを捧げる。


『だから、』とは願わなかった。


 少女がやがてこの地から去ろうとも、思い通わずとも、

 一瞬でも寄り添えたことを感謝した。

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