第2話:少女と、罪の獣Ⅰ
すみれと踊れ
青い森の
風はどこだ
手打ち鳴らし
今宵は祭り
火に薪をくべ
月も隠れりゃ
けものも逃げる
少女は歌った。
何をすればいいのか分からずにいた。
もう何日ここで過ごしただろう。
頭が麻痺したように、感覚が壊れたように思う。
日が近づけば処刑されてしまう。
死ぬというのに。
テュットはそれほど怯えていない自分に気が付いた。
自分自身のことを危機感を持って考えられなかった。
対して、残される家族のことは、考えれば考えるほど気持ちが重くなる気がした。
だから何も考えずに、覚えている詩を暗唱する。
幼い頃から親しんだ祭りの歌を囁く。
収穫の祭りの歌を口ずさんで、ふいに止めた。
「けものって、狼や鷲なんかじゃなくて、ひょっとして……」
自分の考えを声に出して呟く。
誰に聞かせるわけでもない。
この地下牢は静まり返っている。
天井から滴る水の音、些細なそれが幾重にも反響するのが聞こえるほど。
寂しくて心細くなる静謐。
それに耐えるように、テュットはなるべく声を出そうと決めた。
幸い、獣が音に反応して寄ってくるようなことはない。
「ひょっとして、あの獣のことだったのかしら」
一体、どれくらい昔から、あの獣は生きているのだろう。
収穫の祭りの歌は、祖母の祖母がそのまた祖母から教わったものだと聞いた。
この国で暮らしていれば誰もが歌える民の歌だ。
「そんなこと……」
考えても詮無いこと。
他にすることもないせいか、獣に気を引かれているテュットがいた。
今朝のことで少し警戒心が和らいだのかもしれない。
もしかしたらあの獣は、そう危険なものではないのかも。
だけど、ここは罪人の牢獄。
あの獣も罪を犯して囚われているのだ。
あるいは、罪人に罰を与えるために。
そうだとしても。
「ずっと」
ずっと一人きり。
この地下洞窟に棲んでいた。
もし人並みの気持ちを持っていたならば、それはどんなに辛いだろう。
それともただの獣でしかなくて、何の感情もなく生きていただろうか。
どっちにしたってテュットには、それが寂しいことのように思えた。
それはテュットがたくさんの家族の中で育ったからかもしれない。
家族。
思い浮かべる、みんなの顔。
不安な気持ちと、ほっとする気持ち。
そしてまた考え事は一巡りする。
*
男は。
罪を罰され獣となった男は、思う。
何かを思うことなど久しぶりだった。
今まで何かを思うことなどなかった。
長い、長い間。
何年も、何十年も、あるいはもっと長い歳月。
獣はひとりきりだった。
だから、何かを考える必要を次第に失った。
ただ命を永らえるだけ。
本能のまま条件を満たし、生き延びるだけ。
空腹なら食べ、喉の渇きを潤し、疲れたら眠る。
義務もなく、権利もなく、
目的もなく、意味もなく、
苦痛もなく、喜びもなく、
そこには何の感情もない。
そこには何の意思もない。
男の体だけ、生き続けていた。
あるいは心などとうに死んだのだ。
そうでなければこの無為の命を、無為の時を、たったひとりで過ごすのは酷い苦痛であるはずだ。
それこそが罰なのだから。
罪を罰され獣となった男は、思う。
何か、居る。
自分以外の何かの存在が、ある。
餌ではない。
餌を運ぶ者とも違う。
敵と呼ぶほど危険なものではない。
しかしこちらに無関心なものでもない。
それは、何だ?
男は、獣は、思った。
思った瞬間、思考を取り戻した。
思考する必要などなかった日々を、思った。
誰とも触れ合わずに過ごした日々を。
自分が何者であるか、思った。
獣であることを。
人であったことを。
罪のことを、罰のことを、思った。
死ぬまで終わらぬ刑のことを。
ここが牢獄であることを。
そして。
自分以外の何かのことを、思った。
人であることを。
まだ年若い少女であることを。
この牢に居ることを。
それが意味することを。
――彼女もまた罪人なのだ。
*
はじめの日以来、触れ合うほどの近くに獣が寄ってきたことはない。
テュットからも進んで近づくようなことはしなかった。
食事は、運ばれたらすぐに獣の餌からなるべく遠ざかって摂った。
献立の内容が変わったことはない。
一日一回、ほんの僅か食料だけでは食べたりないが、そもそも身動きをあまり取らない。
だから苦痛に思うこともなかった。苦痛に思わぬようにつとめた
それでも時折強く、味の濃いものを求めてしまう。
甘いビスケットや、ゆっくり蒸した濃いお茶、果実の煮込んだソースをかけた子牛の肉。
日常生活でごくたまに口にすることができたぜいたく品。
(子牛の肉だなんて! 一年に一度だって食べられたかしら?)
そういうものを、舌がわがままな子供になって求めたときは、仕方なく指をくわえた。
汗の塩味で誤魔化して、ひもじい気持ちを収める自分はみじめだった。
けれど、それも構わない。
どうだって良い。
自分のことなど。
今どんなにみじめでも、それを笑う者はいない。
もともと裕福な家ではない。
食事の内容は似たり寄ったりだ(ううん、もちろんこんなに酷くない)。
耐えられないことはない。
そう、耐えられないことなど何も。
罪人だと侮辱されても。
町の皆に軽蔑されても。
裏切り者と指差されても。
暗い洞窟の中に閉ざされても。
恐ろしい獣がそばに居ても。
それが何だと言うのだろう。
それは何も奪えない。テュットの大事なものを、奪えない。
だから。
耐えられないことなど、何もない。
少女は決意を新たにする。
覚悟はもうできている。
時間は刻々と刻まれて、その瞬間は確実に近づいてくる。
己の死の時。
処刑の日。
それは同時に、もう一度皆に会える最後の時でもある。
家族たち。
テュットの一番大事なもの。
この暗闇の洞窟で過去を思い返すことが何度あっただろう。
その度に自分がこうしていられることを、幸福だと感じた。
家族を守れることを誇りに思う。
そう――耐えられないことなど。なにもないのだ。
この恐怖も。
内側から這い出てくる冷たいもの。
胸の奥から滲んだ冷たく鋭いもの。
埋めることできない穴が穿たれる。
少女は湿った岩の上に蹲って、体を掻き抱く。
そうすることで穴を埋めるように。
そんなことをしたって埋められないのを知りながら。