第1話:罪人と、罪の獣Ⅰ
01.
昔犯した罪のために、地下牢獄に閉じ込められた男が居る。
何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。
一体いつから男が囚われているのか国の王も正確には言えなかった。
ただ、すでにそうあるものとして、彼らは彼を罰していた。
*
テュットがその牢に入れられた理由は二つある。
一つは他の牢の管理が間に合っていなかったこと。
それからもう一つ。
テュットには生きて出獄する必要がなかった。
まだ成長途上の、栄養不足の細い体に、一枚だけの肌着姿で彼女はその牢へ案内された。
裸足のつま先がごつごつして湿った冷たい岩を踏む。
地下牢では初夏の嬉しい好天気の気配が少しも感じられない。
ここは岩壁で自然に出来た真っ暗な横穴。
丁度小部屋のように岩壁が抉れているところへ後から鉄格子を嵌めて利用していた。
粗末な、しかし頑強な牢。
洞窟の中には湖が沸いて、牢の縁まで水が迫っていた。
どこを見ても外の世界と少しも似た景色を持っていない。
だからテュットは(本当にここは私が居た世界と同じなのかしら)と不安に思う。
明かりは案内の者が手にした松明と、牢の奥でぼんやりと揺らめく蝋燭の炎だけだった。
「出獄は一月後。食事は日に一度召使が運ぶ」
テュットの手足の枷を外して、案内の男がそれだけ言った。
松明の光と共に立ち去っていく。
遠ざかる光と人の気配をいつまでも追いかけて、やがて、一人残されたことを知った。
そうだ、ここは牢の中。
しばらくの間、テュットは格子の前で立ち尽くしていた。
*
遠い過去、罪を犯した男に下された罰は三つあった。
一つは洞窟牢に死ぬまで閉じ込められること。
もう一つは、罪の記憶以外の思い出を捨てること。
そして最後に、人の姿を奪われること。
今や彼は人間と呼ぶにはあまりに異様な姿をしていた。
人をはるかに凌ぐ巨体に厚い毛皮を纏う。
ペンを持つことも出来ない固い爪の並んだ手。
鹿のような後ろ足は地面を固いひづめで踏んで、二足で立って歩くことの難しい骨格へ変わった。
顔には人に似つかない大きな逆三角の鼻がある。
裂けた口、薄い唇と大きな犬歯。
顎から胸へかけては更に毛が伸びている。
いつの間にか尻尾まで生えていた。狼を思わせる、毛に覆われた長い尻尾。
この変化がいつ起こったのか、どれ程の時間をかけて生じたのか、男にはその記憶がなかった。
元々の姿さえ思い出すことはできない。
人の言葉を話せなくなり、そうする必要もなかったために思考を忘れた。
男は獣となった。
遠い過去に犯した罪の、鮮明さを欠いた記憶だけを抱いて。
本能のまま空腹を満たし、狭い格子の内側でただ眠るだけの毎日を生きている。
遠い過去から、今までずっと、誰にも会わずに生きている。
*
喉の渇きを覚えて獣は湖の縁へ歩いていった。
昔、格子は湖の外にあった。
年を経るにつれ水かさが増したため、今は湖の縁が牢獄の内側にある。
それは、いつからか男にとっての丁度良い水飲み場になっていた。
大きな体の上半身を屈め、前足で体重を支えて肩を低くする。
赤い厚い舌を伸ばしてぴちゃぴちゃと水を舐めた。
不意に、覚えのない匂いを嗅いで男は顔を上げる。
匂いの元のほうに何かがあった。
小さな生き物の影だ。
小さな影は後ずさり、背中の格子にぶつかって、その衝撃にびくっと震える。
思考を忘れた男は何の感慨も抱かず、踵を返して寝床へ戻った。
狩って食べるほど空腹ではなかったのだ。
*
今、何が居ただろう。
テュットは大きく呼吸することで恐怖と動揺を鎮めた。
ふいに、小さな頃に叱られた時、母親が言った言葉を思い出した。
「悪い子は土の下から悪い獣がやってきて食べてしまうよ」
「聞き分けない子は罪の獣に食べてもらうよ」
「罪の獣がやって来ないうちに早く寝なさいな」
母はテュットに忠告した。
「洞窟を見つけても、決して入ってはいけないよ。
そこには人を食べる罪の獣が棲んでいるのだから」
大人の使う他愛ないしつけ文句だとずっと思っていた。
幼い頃に感じたようにテュットは怯えた。
悪の獣が本当にいる。
人を食う罪の獣がここにいる。
これが私への罰なのだ。テュットはそう考えた。
震える足が仕事を放棄して、テュットは冷たい岩の上に座りこむ。
地下洞窟の冷気が急に身に染みて、肩を抱いて温めた。
「お父さん――」
家族の姿を思い浮かべて、体の震えを止めようとする。
「マーニ。メリ、ピエニ。タルヴィ。……小さなユニ」
まだ伸び盛りの仲良しの弟妹たち。
一番下の妹は四歳になったばかり。
「お母さん」
可愛いユニの訪れと共に去ってしまった温かな母親を思い浮かべた。
考えてみれば、テュットもユニを嗜める時、同じように言って聞かせた。
そんな悪いことをする子は罪の獣に食べられるのよ。
あなたみたいな分からず屋は悪い獣に食べてもらいましょう。
そうやって脅かして泣いてしまったユニのことを思い出して、テュットは悲しくなった。
もっと優しくしてやるのだったと今になって悔やむ。
もうこの手で抱きしめてやることもできない。
ユニは暖かかった。
母に似た金の綺麗な髪はふわふわして柔らかかった。
宝物みたいな女の子。
次々に弟妹たちの姿が克明に頭に浮かんでは、触れることもできずに消えていく。
テュットは一人ぼっちだった。
つい先日まで暮らしていた家が天国みたいに思えた。
父親の涙に崩れた顔が最後に思い浮かぶ。
胸の痛みがいっそう強くなってテュットは息を吐いた。
一ヶ月、ここで暮らす。
きっと最後にもう一度だけ家族に会うことができるはずだ。
希望の旗を痛みの上に打ち立てて、テュットは顔を上げる。
視界の向こうに小さな炎が揺れていた。
そこに居るものを思い出してテュットはまた震える。
あの明かりは少女の希望を脅かす炎だった。