その0 開幕の五時間前
――――降り立った先は、またもやあの歩道橋だった。
足元の色褪せた青いグリップが、波打つようにふやけている。
「雨か……」
薄く降りしきる霧雨が、世界を白くかすませる。レンズ越しに見る見慣れた街並みは、深い夜に沈んでいた。歩道橋が跨ぐ狭い二車線の道路に沿って、街灯がぽつぽつと立ち並んでいる。細かい水滴のせいでレンズが若干曇っているが、気になるほどではない。
「――――帰って来た、んだよな?」
『はい。無事帰還いたしました』
あの後、僕は迷いに迷いながらも、結局帰ってくる道を選んだ。
尾張支部に居たあの数日間が、つまらなかったと言えば嘘になる。
薫さんや本道君達に、もう二度と会えないのだと思うと、たまらなく寂しい。思えば、招集される度、怪物との命がけの戦いを強いられ、心が休まる瞬間などほとんど無かったはずだ。
それでもただひたすらに、生きてるって感じがした。
怪物の、あのどす黒い体を躱す度、すれすれの狭間で巻き起こる風が、僕に、巡りゆく血の感覚を、肺に頬張った空気の実感を、そして、胸の奥底にある、心臓の鼓動を教えてくれた。
坂本さんの言う通り、〝記憶の撹乱〟は起きなかった。僕は、あのめまぐるしい数日間を、一生忘れはしないだろう。全ては脳裏に焼き付いている。
でも、それでも、だからと言って。
――――これまで過ごした十六年間が、色褪せることは決してない。
あれこそが、それこそが僕の〝今〟であり、本来の〝現実〟なのだ。
どんな異常に巻き込まれたところで、僕の日常は揺るがない。家族や友人、クラスメイトと他愛もない話で盛り上がり、何でも無いようなことで喧嘩して、怒り、泣き、いつかまた笑う。それこそが僕の日常だ。誰かにとってそれは、代わり映えしない、平凡な毎日なのかもしれないけれど、僕のこの毎日を、つまらないなんて言わせない。
命なんか賭けなくても、誰一人救わなくても、幸せは、幸せだ。
堂々振る舞う父さんが居て、いつも明るい母さんが居て、わがままばかりの妹が居て。
笑い合える、友達が居て。それでいいじゃないか。何が悪い?
この毎日のどこが、いけないっていうんだ。僕には分からない。
だから僕は、ラノベの主人公が嫌いだ。自分が周りに溶け込めないのが悪いのに、溶け込もうと、努力しないのが悪いのに、それを世の中のせいにする。最低だ、大嫌いだ。
……でもちょっぴり、うらやましいと思う。
どこか遠くで雷鳴が轟き、雨がにわかに強くなる。全身に打ち付ける大粒の雫が、連射したおもちゃのBB弾のような音を立てて弾けた。ふと見上げると、レンズに無数の大粒が被弾し、あっという間に視界がふさがった。さすがにこれでは歩けない。一旦はずそうか? とそこまで考えて、自分がまだ白衣に身を包んでいることに気付いた。肌に馴染み過ぎて、まるで違和感がない。これはさすがに、脱いだ方がいいだろうか? けれどこの雨の中なら、頑張れば風変わりなレインコートに見えなくもない。それに、これを着ていれば、いつかまた本道君達と再会できるんじゃないだろうか。その場合、僕が〝現在〟に帰るまで待つことになりそうだけど。
――――ん、待てよ? そういえば、どうなるんだ?
変わってしまった街並みや、引っ越してしまった僕の家、そして、そこに住んでいるかもしれない、もう一人の僕。……そうしたあれこれは、この二年間のうちに残らず修正されたんだろうか。でも、どうやって――――?
そもそも、どうして僕の〝今〟が二年後だと言い切れた? 僕が未来人だと言い切れた?
こうしてタイムマシンが作動したのだから、僕はタイムリーパーだったというのはもはや疑いようのない事実なんだろう。しかし、この保護メガネは拾い物だ。これがあの時代から二年後の未来の物だからと言って、それが〝今〟とは限らない。
――――ひょっとして僕は、何か、大きな勘違いをしているのかもしれない。
雨とはまた異質な、冷やりとした感覚が胸中を襲い、あの、嫌な予感が訪れる。手元に握った保護メガネのレンズを白衣の裾で拭き、慌てて掛け直す。
――――瞬間、僕は強く後悔した。けれどもはや、どうしようもない。
こんな時に脳裏を過ぎったのは、走馬灯ではなく、坂本さんの、何気ない台詞だった。
『回避システムには、致命的な弱点がある。作動前の警告メッセージによって引き起こるタイムラグだ。もしその間に、怪物の攻撃を受ければ、――――一貫の終わりだ』
『ィヒヒヒッ!!』
目前を浮遊する手々悪魔から、四本の腕を絡めた致死の一撃が放たれる。
いつからそこに居たのか。恐らくは、僕が保護メガネを外した、ほんの数秒前からだろう。
『避けて下さい』の警告メッセージが、恐ろしく長く感じられる。
最中、奇妙なほど冴え渡り、場違いなほど冷静な思考が、一つの答えを導き出す。
「……この保護メガネを、落としたのは――――!!」
――――直後、腹部に生暖かい鈍痛が走り、気がつくと、手々悪魔の黒腕が、深々(ふかぶか)と突き刺さっていた。今度こそ僕は、脳裏に過ぎる走馬灯を見た。
――――そうして、本当に今更、全てを思い出したのだった。




