下の名は。
とある総合病院の一角、四○二号室の前で、本道明は緊張した面持ちで立ち尽くしていた。片手には、見舞い用の花束が握られている。
『加賀山 苺様』
入院患者の名前が書かれたプレートには、何度確かめてもそう記されている。
加賀山〝苺〟。
本道明は、この時初めて加賀山の下の名前を知った。
加賀山は、いつも名字の方しか名乗らないのだ。尋ねても、決まって引きつった薄ら笑いではぐらかされてしまう。その理由が、――――たった今判明した。
加賀山苺。確かにこれは、名乗れない。幼初期ならまだしも、なにせもう、年が年だ。これは下手をすると、柴崎や、佐藤京子さえ知らないかもしれなかった。一応、秘密にしておくべきだろう――――
胸中で巻き起こる葛藤を含み笑いで堪え、明は色々な意味で緊張しながら震えた手つきで病室のドアに手を掛けた。
開き切ると、ベッドの上で外を眺めていた人物と窓越しに目が合った。その人物は驚いた様子で振り返り、本道の姿を見止めると、安心したようににっこりと笑った。
「――――なんだか、久しぶりね」
「……一昨日会ったばっかじゃないっすか」
明がそばの椅子に座りながら笑いかけると、加賀山は相変わらずの小麦色の肌を申し訳なさそうに曇らせた。
「……ごめんね、心配かけちゃって。貧血でちょっとよろけちゃっただけなの。今日は検査で入院だけど、明日には退院できるみたいだから」
「そうすっか。――――良かったです」
明が精一杯の笑顔で笑うと、加賀山の顔にもようやくいつもの笑みが戻った。高めの位置に結んだ短めのポニーテールは今はほどかれており、深い色の茶髪は両肩の上に垂れている。そのせいか、普段の溌剌とした雰囲気はなく、落ち着いた大人の女性の空気が漂っている。明にはそのことがどうにも落ち着かず、先程から丸い三脚の上で幾度となく座り直している。
――――決してトイレに行きたいわけではない。居心地が悪いのだ。
さっき自販機で買ったメロンソーダーが膀胱付近でやたらと存在感を主張してくるが、断じてトイレに行きたいわけではない。
「明君の方こそ、もう、大丈夫なの?」
「え?」
「あの後、人ト非と戦闘になったって聞いたけど……」
「あ、あぁ。……大丈夫だったに決まってるじゃないっすか」
「でも、保護メガネ、壊れちゃってたんでしょ? どうやって戦ったの?」
「あぁ、なんか、梯子登ったらすぐ追いつけたんで、後は、なんか気合で」
さぁっと血の気が引く感覚が明を襲った。背筋を、鋭い冷気が伝う。
「……そう。やっぱり、強いのね。明君って」
「――――そんなことないっすよ」
気恥ずかしくなり、明は目深にかぶった野球帽のつばを直した。
「そうしてると、なんだか子供みたいね。ふふっ……」
「そうっすか?」
ぎこちない笑みを浮かべて聞き返しながら、明はまた、目深にかぶった野球帽のつばを直し、深く、深く、かぶり直した。




