その三 人ト非(♀)
北館三階の中ほどに、人ト非は居た。頭上の天井がぽっかりと溶け落ち、ぼんやりと月光がさしている。床を溶かして降り立ったとでも言うのだろうか。そんなはずはない。
現に人ト非が去った後の四階は、窓こそ割れていたものの、それ以外は全て元通りになっていた。へし折れた教室の戸も、散らばっていたはずの木くずも、跡形もなく消え失せていた。
そう、全ては幻覚だ。恐れることなど何もない。人ト非の正体さえ知らなければ。
「薫さん……」
バズーカを抱える薫さんの両手が、小刻みに震えていた。今にも取り落としてしまいそうだ。
「……分かってる、分かってるヨ。あの子は怪物で、危険度五で、一人、殺してるんでしょ?でも、でもさ、もし、もしこれが失敗したら、……私も、ただの人殺しになっちゃう」
「それは――――」
「――――凜土師。俺だって、もう何人斬ってるか分からない。俺のこの蛍光灯じゃ、誰も救えないんだ。だが、お前のバズーカは違う。そうだろ? それにこのままじゃあの子は一生あのままだ。可哀そうだろ。助けてやってくれよ。あの子を救えるのは、お前しかいない」
しばらく、薫さんは思い悩むように俯いたままだったが、やがて小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。
「よし、行くぞ。隼人、お前の弾幕で動きを止められるか?」
「……足止めくらいなら」
「十分だ。凜土師、あとどのくらいでチャージできる?」
「あとちょっと……だと思う」
「そうか。じゃあ、俺達でここまで引きつける。お前はここで待機しててくれ」
蛍光灯に少し控え目な明かりを灯し、柴崎さんはゆっくりと歩き出した。その背中を追いかけ、慌てて呼び止める。
「引きつけるって、どうやるんですか? さっきは一歩も動かなかったじゃないですか」
「ん? いくらなんでも攻撃受けたら動くだろ」
「でも悟郎さん、アイツ、かなり弱ってますよ? 俺の弾幕でも当てるのは数発が限界です」
「いや、隼人のは威力が高いから危ない。基本的には、……お前のレーザーマシンガンをちらつかせる程度に抑えた方がいいだろう」
「僕ですか!?」
「そうだ。悪いが他に適任がいない」
「そんな……」
「心配するな。俺のよりかは安全だ」
仕方がないとはいえ、とんだ重役を任されてしまった。僕なんかに務まるんだろうか。
――――それに僕だって、人殺しなんかしたくない。僕だって、……怖いんだ。人並みには。
『避けて下さい』
「え?」
体が勝手に左側に倒れ、直後に右肩すれすれを黒腕が掠めた。
「何だ今の」
「どっから来た?」
「わかりません。何か、いきなり――――柴崎さん!!」
迫る黒腕に、きわどいタイミングで蛍光灯が振るわれる。しかし、黒腕はそれを左に大きく湾曲して躱し、風間君には目もくれずにこちらに襲いかかって来た。
『避けて下さい』
「うわっ!」
足が勝手に右に跳び、窓側の壁にぶち当たる。直後、黒腕が一、二メートル左の教室の窓を掠めた。……今のは避けなくても良かったんじゃないか?
「……隼人っ!」
「――――武器支援システム、〝モーション・リフレクター〟!!」
『警告 武器支援システム、発動』
風間君は後ろ手にばっと白衣を翻すと、背中から取り出しざま四枚の金属板を下投げで前に放った。びぃんとすぐさま蜂の羽音に似たプロペラが駆動し、人ト非に向けて飛翔する。
『――――ィヒヒッ!!』
「なっ……!?」
数メートル先まで接近し、人ト非の頭上を横切ろうと先行した二枚の金属板が、何かにぶつかったようにひしゃげ、粉々に砕け散った。しかし、その間人ト非は一歩も動いていない。ただ笑っただけだ。
「……武器選択、レーザーマシンガン」
呟きながら、風間君は背中から追加の金属板を取り出した。両手に三枚ずつの、計六枚だ。不意にこちらに振り返る。
「いいか? 合図したら、一気に撃ちまくれ。出し惜しみはするなよ」
「はい!」
……それでレーザーマシンガンにしたのか。でも、弾幕なら風間君一人で十分じゃないか?
今度は両腕を広げて大きく振りかぶり、風間君は二刀流で切り込むサムライの如く力強く踏み出した。風間君の手を離れた六枚の金属板は勢いのまま鋭く飛翔し、小気味の良い駆動音を響かせ廊下を駆ける。
「――――今だ!!」
赤いボタンに指をかけ、フレームごと握り潰す勢いで長押しする。放たれた細切れの弾道が、青い火花の如く瞬いた。風間君の薄緑色の弾道と入り混じり、季節はずれの花火のような様相となって人ト非に襲いかかる。金属板は逆V字型の編隊を組んでその中に突っ込んで行った。
『キャァァアアアァァーーーーーーーーアアアァァアアアーーーーーーーーーァァッッ!!』
混乱した人ト非が半狂乱気味に叫ぶと、呼応するように風が巻き起こり、長い後ろ髪が孔雀の如く逆立つ。やはり毛先まで塗り潰したような黒一色に染まっていた。
人ト非はそれを絵で触れずに操り頭上で五つに束ねると、鞭のようにしならせて前方に放った。それらは濃密な弾幕の中を臆することなくかいくぐり、飛来した三枚の金属板を叩き落し高速で迫る。
「――――来るぞっ!!」
叫びながら、柴崎さんは左前方に踏み込んだ。蛍光灯が弧を描きながら激しく明滅した次の瞬間、ズバァンッ!! と凄まじい斬撃が轟き、三本の触手が切り落とされた。触手は床に落ちる前に煙のように四散する。
柴崎さんの頭上と脇を、残る二本が突っ切った。あっという間にこちらに迫る。
「……仕留め損ねた! 頼んだぞ!!」
二本のどす黒い触手は廊下を駆け抜けながら左右に別れ両端によると、一層速度を増した。
「俺は左、お前は右だ!」
「はいっ!」
武器をレーザービームに切り替え、窓際の触手にのみ集中砲火する。断続的に打ち出されていく青白い弾道は寸分違わず命中するが、効果が薄いのか、触手は全く怯まない。
「このままじゃ……」
その時、風間君が右手を突き出して壁を作り、突っ込んできた触手を寸前ではじき返した。
「そうか、僕もあれで――――」
『避けてください』
「ぐはっ!」
右手を突き出すと同時に体が勝手に動き、背中を壁に打ち付ける。
「……おい! バリアーがあるだろっ!」
『多量のエネルギーを消耗します。推奨できません』
「は? 回避システムよりよっぽど安全じゃないか……」
次の瞬間、視界の端を黒い塊が過ぎった。数秒遅れてぐわりと風が駆け抜ける。かろうじて目で追えたのは、艶のない、真っ黒な後ろ髪だけだった。
「まさか――――」
慌てて振り返ると、その時にはもう、無音で廊下を駆けるどす黒い背中は、遥か先にあった。




