その二 金髪少女
「おい、おーい。どうしたんだよ。薫?」
マントを引き裂いたようにボロボロの羽を広げ、血のように赤く輝く白目の上にどす黒い二つの同心円を携えた一つ目の蝙蝠が、陸橋の天井すれすれで羽ばたいている。少し大きめで、よく通るはずの金髪少女のその声が、今は、酷く遠いものに感じられた。
「……居るの」
「え?」
「居るのよ、そこに。そこに、ほら、そこに、そこに居るじゃない! 一つ目の化け物が!!」
どれほど目を凝らしても、金髪少女には何も見えない。天井の古びた蛍光灯に数匹の羽虫が群がっているだけだ。
「落ち着きなって…… ――――えぇっと、つまりあれか。お前にだけ見えるっていう、あの」
少女は額に手を添えて唸り、顔を顰める。だがその声色には、疑うような素振りは欠片もなかった。
「そう。だから、早く逃げよう?」
金髪少女のジャンパーを急かすように引っ張るも、躊躇いがちに振り払われてしまう。
「ダメだ。お前も知ってるだろ? ここ以外の道は、今頃不良の溜まり場になってる。いいか薫、ホントに怖いのは、幽霊とかそんなんじゃない。……あいつらに捕まったら、どんな目に遭わされるか」
金髪少女は声を落とし、真剣な眼差しで悟す。しかし、薫とてそんなことは分かっていた。だが、今は目の前で羽ばたくこの得体の知れない化け物の方が、数段恐ろしい。人の怖さなど二の次だ。なぜなら薫の隣には、いつも自分を守ってくれる、この不良少女がついている。
だからこの化け物が、自分にしか見えないというならば、
「わたしが、守らなきゃ……」
消え入りそうな声で呟き、薫は今度は振り払われないよう、ジャンパーの袖を腕の付け根からがしりと掴む。
「ねぇ、やっぱり逃げよう。……一生のお願いだから。最悪、朝まで待てばいいじゃん。前にも何度かあったでしょ?」
「ダメだ!」
金髪少女は声を張り上げ、薫の腕を今度こそ力強く、うっとうしげに振り払った。
「どうして?」
「――――ごめん。でもダメなんだ! ……あたしらが、初めて会ったあの日、あたしがどうして一人で居たと思う?」
「え……?」
考えもしなかったその答えを、金髪の少女は自嘲気味に叫ぶ。
「みんな、みんな犯されたんだよっ!! まだ一人も帰って来ない。わたしだけが、みんなを見捨てて逃げたんだ!」
「でも、それは……」
「何だよ、仕方がなかったとでも言いたいのか? あぁ、確かにそうかもしれない。抵抗したところで、きっとどうにもならなかった。でもあたしは、抵抗さえしなかった!! わたしは一人で勝手に諦めて、脇目も振らずに逃げ出したんだ!」
激昂し叫ぶ金髪少女の激情が、剥き出しの壁に染み渡る。少女は自分に怒り狂うとともに、泣きじゃくっていた。薫を正面から見据えたまま、ぼろぼろと、大粒の涙を零し、頬をぐしゃぐしゃに濡らす。しかし、彼女は拭わない。まるで、それが自分への戒めであるかように。惨めな姿を薫の眼前に晒し続ける。
「あたしはさ、あんたが思ってるほど良い奴じゃない。次また襲われたら、きっとわたしは逃げ出す、そうに決まってる! だから今は、おとなしくここを通ってくれよ。頼むからぁ……」
嗚咽を漏らし、赤く充血した瞳で見つめ返してくる。それを見て、ふと、一つ目蝙蝠が気にかかり、薫は金髪少女の肩越しに覗き込んだ。
――――それがいけなかったのだろう。それまで同じ場所で羽ばたき続けていた一つ目の蝙蝠が、突如両の羽をマントの如くばさりと翻して襲い掛かって来た。
「っ!!」
薫のその悲鳴が言葉に成るよりも先に、一つ目蝙蝠が不良少女の腹部を貫いた。直後一つ目蝙蝠はどす黒い煙に姿を変え、少女の腹部へ吸い込まれるように入り込んで行く。
「あ……」
金髪少女は腹部を見下ろすなり間の抜けた声を上げた。
次の瞬間、棒のように真っ直ぐな姿勢のまま、ばったりと倒れ込む。その整った鼻先が舗装の荒いコンクリートに触れるよりも先に、薫がその身を受け止めた。
「嘘……」
空っぽな言葉が吐息のように口をついて零れ、頭がさぁっと白くなる。
「ねぇ、嘘でしょ? 嘘って言って! ねぇ! 冗談だったらわたし、ホントに怒るからね!! ねぇ、お願い、お願いだから、――――死なないでよ!!」
どれほど強く揺さぶろうと、少女の瞳は固く閉ざされ、力なく垂れた首や手足は壊れた人形のようだ。
「……わたしまだ、あなたの名前も知らないのに」
少女の体が鉛のように重くなり、薫はついには膝から崩れ落ちて、冷たいコンクリートの上にへたり込んでしまう。少女の体温は、それとほとんど変わりなく、まだ息をしているのが不思議なくらいだった。
「――――やっと、やっと見えたよ、薫。お前の言う、化け物って奴がさ。あんた今まで、こんなに怖かったんだね。それなのに、信じてやれなくて、ごめんな……」
暗闇にさえ掻き消えてしまいそうなか細い声で、金髪の少女は、ぽつり、ぽつりと、糸を紡ぐように言葉にする。それは母親のように優しい、慈愛に満ちた声色だった。
「そんなのもう、どうでもいいよ!! ……ずっと、一緒に居てよ」
「……ははっ、そいつは無理な相談だな。――――あたしはね、有紀。有紀薫。あんたと、おんなじ名前なの。笑っちゃうだろ? あたしら、全然似てないのに」
「そんなこと、ないよ」
目から雫が垂れる度、有紀薫の鼻筋に落ち、頬を伝って流れ落ちて行く。
「これからもずっと、一緒に入れば、きっとそのうち、見つかるから、だから――――」
悲痛な吐息を漏らし、懇願する薫に、有紀薫は小さく笑いかけ、震える手を伸ばしてその頬を撫でようとする。その時、薫が引っ張ったせいで緩んでいたのか、背からジャンバーが脱げ、コンクリートの上にはらりと覆いかぶさった。そして、有紀薫の病的に白い肩口が露わになる。その薄汚れたぼろぼろの肌は、――――痣だらけだった。
息を呑み、声にならない悲鳴を上げる薫に、有紀薫は、寂しそうな顔で笑った。
「……見られちゃったな。お前にだけは、見られないようにしてたのに」
薫は有紀薫を腕の中にしっかりと抱えたまま、右手を伸ばす。しかし、その指先がジャンバーのナイロンを掠めるよりも先に、背後の入り口から声が響いた。
「今すぐ離れるんだ!! その子はもう人間じゃないっ!」
びくりと肩を震わせ、振り返ると、白衣のような白い薄手のコートに身を包んだ見知らぬ青年が駆け込んで来た。青年は薫を羽交い絞めにすると、不良少女から無理矢理引き離した。非力な薫が青年の腕力に敵うはずもなく、薫はジャンバーを取り返すだけで精一杯だった。
支えを失った有紀薫は、風を受けながら、ゆっくりと、コンクリートの上に沈んで行った。傾斜がみるみる小さくなっていき、やがて、その後ろ髪が地に触れる。
――――刹那、ぴたりと制止した。
「え……?」
思わず漏れ出たその声は、果たしてどちらのものか。いや、どちらでも無い。
『エ? ェエエヘェッェ……ヒィィイイイギャアァーーーーーーーーーーーーーッ!!』
つんざくような甲高い絶叫が、背筋をぞくりと撫でつける。
それは、溢れ出す歓喜だった。
人の体を手にした怪物が、ありあまる知性を、湧き上がる力を、表し切れない高揚を、絶叫として吐き出したのだ。呼応するように、有紀薫の華奢な体が先から黒く塗り潰されていく。やがてその闇は有紀薫の全てを呑み込むと、足首の力だけでがばりと体を起こし、ゆらりと顔を上げた。
薫の目に飛び込んで来たものは、唇が失せ、むき出しになった真っ白な歯と、腫れ上がった赤い歯茎だった。そこから隙間風の如く吐息が漏れ出し、耳障りに揺れる。左の前髪に緑とピンクのメッシュを入れたむらのある長い金髪は、今は肌と同じくどす黒い色に染まり、ぬらりと不快な輝きを纏っている。薫をいつも臆することなく正面から射止めていた薄灰色の瞳は、剥脱して輝きを失い、ほとんど点と等しくなった黒目を、浮かび上がった大小二つの黒い同心円が囲んでいる。
そしてそれらが、奇怪な形に笑みを並べ、有紀薫の整った顔を醜悪に歪めた。
そこにほんの数秒前までの面影は、もはや微塵も残されていない。
「嫌……」
焦点が外れ、視界がぼんやりと霞む。それでも、蛍光灯の真下に谷底のように出来た闇を、そこに佇むかつての親友を、覆い隠してはくれない。
「嫌、嫌、嫌…… いぃやぁーーーーーーーーーーーーーーーーぁぁっ!!」
髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、凜土師薫は絶叫した。
「君は早く逃げろ!!」
言われる前に駆け出していた。背中に突き刺さる甲高い悲鳴を振り払い、陸橋から飛び出す。振り返ることなど、――――もう二度と、できなかった。




