Money
月曜日、それはいつものような一週間の始まりだった。日が昇る前から鉄道やバスはラッシュに向けて動き出し、人々はやや憂欝な表情を浮かべて朝の身支度を始めていた。なかには休日出勤で今日は休みだと喜ぶ人、休みなど無くて疲労の顔を浮かべる人々等々もいた…。だが、大半はこれから一週間の仕事が始まるのを構えている者がほとんどだった。
だが、一大事はすでに、前触れもなくやって来ていたのだった。
アパートの部屋にベルの音が響きわたった。目覚まし時計のベルであった。部屋の住人である青年は、だるそうに布団から手を出すと、枕元で無造作に手を動かして時計のベルを止めた。
しかし、まだベルの音が聞こえていた。青年はベッドから起き上がると音の正体を確かめた。それは電話の音であった。
「月曜日の朝から電話なんて誰かな…」
青年はまだ眠そうにぶつぶつ呟きながら電話を取った。
「おい、テレビ見てるか?大変なことが起きてるぞ!」
友人の聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「一体どうしたんだい?こんな朝早くに電話なんて掛けてきて」
青年は寝起きでぼんやりした様子で答えた。
「なんだ、テレビ見てないのか?いいから、テレビつけてみろよ。大変だぞ」
青年はテレビを持っていなかったのだが友人があまりにせっつくので、代わりにラジオを付けた。普段ならトーク番組をやってるはずだが、臨時ニュースが流れていた。
「突如、世界から貨幣が消失し、経済は大混乱をきたしています。個人のみならず、商店のレジ、ATM、銀行の中までも貨幣が消えてしまいました。国内のみならず世界各地でも…」
アナウンサーはただならぬ様子で喋っていた。青年は試しに局を変えてみた。
「株取引及び為替取引が行えず、今後世界経済は…」
だが、どこも似たようなことを喋っていた。
青年はいったい何が起きているのか理解するまでに時間がかかった。
「おいっ!聞いてるか?」
耳元では、またしても友人の声が聞こえてきた。青年は電話を手に持ったままだった。
「ああ、一体全体何が起きてるんだい?今日は四月一日じゃないよね。」
「だから、現金が消えてなくなっちまったってことよ!現実にな。試しに自分の財布を見てみな」
青年は不審に思いながらも自分の財布を確認してみた。青年はあまり現金は持ち歩かない性格であるため僅かな額しかなかった。だが、確かに入れてあった現金は無くなっていた。
「あらぁ…ほんとだ」
ためしに財布を逆さまにして振ってみたが、小銭まで消えていた。
「信じられないなぁ…」
青年はつぶやいたが、目の前の自体は紛れもない事実であった。
まさしく超常現象であった。紙幣や小銭、いわゆる貨幣と呼べるものはすべて消失していた。人々の財布の中だけではない、銀行や商店の金庫の中も空っぽになっていた。しかも一国だけにとどまらない、全世界で起きているようだった。
だが金銀や宝石の類は消えていなかった。それに加えて口座内に数字としてのお金は残っていて、電子マネーは使える状況であった。しかしながら、この恐慌とでも言える状況によって貨幣そのもの存在価値は危ぶまれる状況であった。また、状況に危機感を覚えたキャッシュカード会社はカード使用を中止させる対応を取った。それから金やプラチナといった貴金属の価格は軒並み上昇していた。
騒ぎが起きた週末の日、青年とその友人はカフェで顔を合わせた。
「まったく今週は仕事どこじゃないぜ」
街中の当初の混乱は幾分収まっていた。だが、休日にもかかわらずカフェは閑散としていたし、街中も人の姿はまばらであった。
「まあまあ、ニュースによると口座そのものが無くなったわけではないから、慌てることはないよ」
「よく言うよ。おまえさんは買い物のときどうしてんだよ」
「電子マネー」
青年はあっさりと答えた。
「そういうことかよ…」
「滅多に現金は使わないな。クレジットカードか電子マネーだもん」
「それより、これから仕事とかどうなるんだろう?会社からはしばらく自宅待機って言われてるんだけど…」
「おいおい、こんな状況で仕事のことか?今は給料がどうなるかだって分かんないのに…。それに、今はお客様だって金持ってないぜ」
「口座にお金があって電子マネーを使っていたら、実際に生活ができなくなるこは無いような気がするけどな」
「世の中はそんな単純なものじゃないぜ」
「でもねえ、実際のところお金って価値の数値化であって、必ずしも形がある必要はないんだけど…」
「そりゃ、そうだけどさ。俺は基本現金で買い物するし、世の中の大半は目に見えないものに対する不信感ってのがあるからねぇ。実際俺は口座から金が出せなくて困っるわけだし…」
「でも、口座自体が消えたわけじゃないし、先日はコンビニの買い物で電子マネー使えたよ」
友人は納得いかないとでもいうような表情を崩さなかった。
「企業だって実際、取引で現金をやり取りしてるわけじゃなくて、口座から口座に移動してるんだし…。なんでここまで活動に支障をきたすか分からないなぁ」
「いっそのこと、この際全部電子マネーにでも置き換えるってか…」
「それはいいアイデアだと思うな。僕はお勧めするよ」
「俺の話じゃない。世間の話だ」
各国政府は急いで紙幣や貨幣を新造しているが、世界経済は取り返しがつかないほど混乱していた。それから市民の間での紙幣に対する信用は、もはや回復不可能なほどに失われてしまった。金本位制を復活させるべきだという声まで聞かれた。世界各地では混乱に乗じてデモや暴動が発生していた。また多くの企業は給料の支払いも仕事の取引も困難をきたし、生産活動はまったく停止してしまっていた。
そもそも貨幣と言うものは単なる価値の可視化であって、貨幣そのものには価値なんて無いのである。だが大半の人々は貨幣そのものに価値があるかのように錯覚していた。そう幻想にすぎなかったのだ。
事態の発生からしばらく経ったが、混乱が落ち着くには相当な時間が必要に思われた。週末、青年は友人とお茶を飲みながら、社会の行く末を思案していた。
「はぁ、現金が幻金になっちまうとはなぁ…」
友人はため息ばかりだった。
「まあまあ、電子マネーにすればいいだけの話じゃないかな。お金自体を失ったわけじゃないし」
「それはそうだけどな…なんか納得がいかん」
友人は不満げであった。
「またまた、とりあえず今日は奢るよ」
「まったくとんでもない世の中だ。一度、価値というものについて考え直す機会なのかもな…」
友人はコーヒーを飲み干すと、小さくつぶやいた。