虎人ラトフ
“ログハウスは返事の代わりに軋む音を立てた。背を向けグリムデリム・レートは始まりの一歩を踏み出す”。
「うん。自伝本を出した時の最初はこれにするかな。生きてたらだけど」
前方の木々が騒めく。レスティンが周囲の結界を解いた余波がレートの身体を駆け抜けた。
「母さんも本気だな」
数える程だが周囲の結界を解いたり変更する事は過去にもあった。どれもレスティンがぶっ飛んだ実験をする時だ。
「未来詩」
半透明の魔術本が宙に浮かんだ。最後の頁を確認すると九十四と頁数だけが書いてある。諦めの眼差しでレートは表紙を見つめた。
昨日の指令の通り内容も記される時間もろくな事を知らせてくれない。ここ数年間酷くなっていく一方だ。しかもそれらをこなした所で頁が増加する事も滅多に無くなっていた。
「もう夜中に洗濯だとか草むしりとかやんねーからな。しかも増えねーし。旅に必要な事を記してくれよ。移動手段とか安全な経路に関する事とか」
無視される思いで軽く魔力を注ぐと珍しく本は捲れた。開かれた一頁。未来詩は言葉を連ねた。
【助けろ】
「誰を?母さんの事か?町の人か?具体的な事を記してくれよ」
もしかしたら家に戻って何かを行う事で間接的にレスティンを助ける事になるのか。それとも町で善行活動か。などと思案していると新たに文字が浮かび上がる。
【う るさ ぃ】
「うるさいって何だよ!俺はお前の術者だぞ!百歩譲って口答えは良いとしても、執事が話す様なそれはそれは丁寧な感じにしろ」
【助けうるさいろ】
「真面目にやれ!」
術者の意思に反して本はゆっくりと閉じ消えていく。
「あぁぁ!漠然とし過ぎてんだよ…」
町の方を目指し背の高い広葉樹が囲う細道に出る。この林の中も今までは広範囲に及ぶレスティンの結界が発動していた。
高魔力者や悪意を持つ者の進入を阻む結界。レスティンが解除した今効果は薄れ始めただろうが。
「うーん。助けろの文字にまだ点滅する気配はない。町についてから何か起こるのか?」
そこを抜け暫く歩くと開けた穏やかな平野に出た。この広い平野を過ぎると近くのメイコウという町に着く。
ピクニックをしている親子を遠くに見つめ町に向かう。その時である。岩陰から顔を出した魔獣がいた。
レートにとっては因縁のある“スライム”だ。数年前、裏山のスライムに情けなく敗れてからレートは魔獣から逃げる様に生きてきた。
それを目視しながら一つ疑問がレートに浮かぶ。この旅は魔獣とはなるべく戦わず安全な進路を考えていた。が、あえて危険に飛び込む事で頁を増やせる場合もあるのではないか、と。意に反する突拍子な偶発的な出来事による因果律の延命。
「…やってみるか」
想像する。豪炎が視界一面を猛々しく覆い山火事の様な荒々しさを。火花の様な鋭さを。灰すら残さない力強さを。
想いを魔術式に込め。ただ強く願う。
体内の魔素はそれらから魔術の基盤を構成する。吸引口が周囲の魔素を吸い込んでいく。含有率を分析し必要な量を体内魔素に混ぜ合わせる。
計算を終えた角度、射出距離、魔圧等が陣に合わさり掌に重なっていく。最後の陣を重ね魔術式の答えが現れる。正しく導かれたそれは火の精霊が作り出した八本の火柱の一つと、過去の武神が生み出したとされる長槍。これらを魔力を持って具現化させる。
掌に陣を構えながら標的にゆっくりと近づいていく。不乱に草を貪り食うレートにスライムが気付く気配はない。
陣に溜まった行き場の無い魔力が放出準備を整えた。心臓の音が聞こえる度に陣は力強く朱色に輝く。スライムにとっては背後からの奇襲になるだろう。しかし卑怯だとか不意打ちだとかそんな甘ったるい考えは無い。
数年前に身ぐるみを剥がされ謎の儀式をされた屈辱もある。その無念を晴らす為に今。
「炎柱槍!」
射程距離に入ると同時に放つ。唸る火柱が目の前のスライム目掛け一直線に飛んで行く。その豪炎の見た目は国お抱えの神託魔術師と比べてもなんら遜色はない。
「スライムなんぞなぁ!猪より弱いんだよ!」
断末魔も聞こえずに一瞬で消しクズになる。そうなる予定であった。しかしレートの思惑に反しスライムはまん丸とした腹部に穴を空けた。輪を潜るように火柱は虚しく突き抜けていく。
「は?」
こちらを向いたスライムの体型が変わる。身体の殆どが水分で出来た身体を自在に膨らますと四方から触手をレートに伸ばした。焦るレートは次点の陣を構える余裕(時間)がない。そう判断しとっさに腹の異次元収納を弄る。
「どこだどこだ!?」
不恰好に剣を取り出し触手を危なげに斬り落とす。
「魔術師として複雑だな!」
レスティンの稽古の項目に剣術もあったとはいえ、魔術師としてのプライドに罅が入る。ぼとぼとと落とされた触手が地面に落ち、スライムは次の一手に出た。またもや四方から飛び出る触手四本。が、それは次々に枝分かれしレートに届く頃には三十六本に増えていた。
「多過ぎるだろっ!」
自分の剣の腕では捌けないと悟り背を向け全速力で距離を取った。スライムの触手が届かない範囲まで移動すると、レートは直ぐに魔術式の計算を始める。
スライムの下に陣が広がった。眩しい程に黄色な魔術陣。次々に計算を終えた陣が重り続ける。そこにありったけの魔力を送り込む。辺りの魔素が割れる音が鳴り、準備は完成する。
スライムは惚けながら周りの煌めく魔素を不思議そうに眺めていた。
「烈烈たるが如く!!雷柱陣!」
魔法陣が爆発したかのように光り、地面から稲妻の柱が天に向かって登る。レートの渾身の魔力を使ったその稲妻は触れる物全てを壊す怒りの鉄槌であった。少なくとも見た目上は。
ふわり。スライムは放出のタイミングに合わせ真上に飛び上がり地面の陣から出る雷を大口を開けて飲み込んだ。スライムの口に眩い光の柱が注ぎ込まれていく。
全ての雷を飲み干すとスライムは優雅に地面に着地し噫気をした。
「うそだろ…」
呆然とするレートの左脚にちくりと刺された痛みが走る。いつの間にか先程千切ったスライムの触手がレートの脛に張り付いていた。そこに魔獣の陣が展開される。
古い魔獣言語は白と紫の造形文字で描かれており中心の紋様には魔女か王妃の紋章が確認出来る。途端に脊柱に電気が走る。膝が折れ声も無くその場に倒れた。頭で魔術式を読み解くより早く麻痺系の魔術だと身体が伝えた。
レートの背中の上に飛び乗ったスライムは満足気に勝利のポーズを決めた。
助けを呼ぼうと叫び声を上げる。しかし息が漏れる様な声しか出ない。
「あっあああ!はっあ!ああはぁ!あああああああああぁ!」
(強すぎるだろ!?なんだこいつは!?本当にスライムか?どっかの魔王じゃないのか!おい!ちょっと!また服を脱がすな!やめろって!)
されるがままに服は剥ぎ取られていく。
「えい!えい!」
ふと先ほど広場にピクニックに来ていた親子の声が聞こえた。その子供は別のスライムを木の棒で追いかけている。スライムは子供の木の棒が当たると泣きながら逃げた。
その一連の行為をレートは絶望の眼差しで見ていた。
「こら!無闇にスライムをいじめちゃいけません!」
「スライムが弱いから悪いんだよーだ」
「めっ!」
母親が諭すと子供は残念そうに追いかけるのをやめた。スライムは作物を荒らす害獣でたまに村人が駆除をしたりするが好き好んで狩る人はいない。純粋で神聖な生き物として崇めている地域もある。
この世界はこうなのだ。年端のいかない子供でも自然とあるべき魔力を木の棒に伝え、子供でもスライムぐらいなら追い払える。
しかしレートの体内で変換された魔力はこの世界において質が違い過ぎるのだ。先程の見た目が激しい雷もスライムにとってはご馳走になっていたのかも知れない。
その様子を見てレートはまた泣いた。力の無さに。最弱の魔獣、スライムに不意打ちした挙句負け這いつくばる姿に。
強く瞑った瞼から溢れる涙。擦りついた雑草が濡れた。
その時オモチャを諦めた子供がレートに気付いた。
「ママー!あの人!裸でスライムに背中を踏ませてるよ!」
「シー!変態よ!見ちゃいけません!」
冷たい母親の視線がレートに突き刺さる。
「……ぐうあ!あああああんんあああ!」
羞恥心を捨ててレートは必死に訴えた。草食なスライムが人や動物を食う事はないだろうが、この生まれたままの姿を他人に晒し続けるのは愚かな事だ。とても。恥を見せる相手は少ない方が良いに決まっている。目撃者が増える前に助けて貰おうとレートは力の限り叫ぶ。
「ママ見て!このお兄ちゃん涙を流してるよ!背中が痛いんじゃないの?」
「スライムに負ける人間なんかいません。坊やだって片手で追い払えるでしょ?さぁ行くわよ」
「ああん!ああんあぁ!んあああ!!」
ーー違う!違うんだ!スライムに変な魔法をかけられて言葉が上手く出ないんだ!ーー
「んあぁああ!んあ!」
ーーこのスライムは何かおかしい!お願いだ!助けてくれよ!!ーー
約一時間後。喉の麻痺が治りつつあるレートは未だ平野に転がっていた。
「重い…寒い…恥ずかしい…重い…寒い…恥ずかしい…重い…寒い…恥ずかしい…」
死んだ顔で呪いの言葉をぶつぶつと吐く。スライムは背中で鼻ちょうちんを膨らまし重圧をかけている。
「何が【助けろ】だ。【助けられろ】の間違いじゃねーのか。ポンコツ未来詩め…」
自分で撒いた種で悪態を吐く。誰も通る事のない平野の隅にて。
「重い…寒い…恥ずかしい……誰でも良い。誰か通ってくれ」
「何してるんだー?」
いつからその少女は背後にいたのだろうか。たてがみのような雄々しく鮮やかな黄色い髪。それが夕焼けに照らされ光沢を浴び、優雅な風に揺られている。黄色と水色の魔素が靡く髪から放たれている。
小刻みに動く頭上の縞模様の耳。機敏に左右に動く長い尻尾。毛皮に覆われた手の甲。どの縞模様も黄色と黒の境界で彩られている。人間とは一線を成す。“獣人の少女”。
「なんで裸でスライム乗っけてるんだ?ぎしきかー?まじゅつなのかー?」
犬歯を覗かせるが愛らしい表情は敵意を全く感じさせ無い。大きな目を爛々とさせ、この裸の行為に興味津々といった表情だ。
「ススス、スライムと仲良く遊んでいるだけだ…です」
レートの口は咄嗟に誤魔化しを選んだ。
「スライムと遊ぶ?」
少女は尻尾を二、三回上下に振り難しい顔をしながら上を見上げている。暫くして少女の脳内は頓珍漢な道程を経て納得した。
「ナゥ!人間は裸でスライムと遊ぶんだな!それは邪魔したゾ!」
鼻をひくひく動かすと後ろを向き飄々と町へ続く道に向かう彼女。少しずつ遠くなっていく後ろ姿を見つめながらレートは葛藤の末叫んだ。
「嘘です!ごめんなさい!襲われたんです!いや、襲って負けてしまいました!助けて下さい!」
「ナ?そうだったのかー?良くわからない奴だゾ?」
歩みを止めた少女は唇に指を当て不思議そうに戻ってきた。
「聞いてくれ!このスライムがおかしいんだよ!いや違う!俺に向かってくるスライムは何故かいつも凶暴凶悪になるんだよ!どっかの魔王並にっ!」
「ナァウ?」
少女はレートの背で居眠りするスライムの鼻ちょうちんを指で弾いた。目覚めたスライムは少女の鋭い爪に怯えながらも頑なにレートの背から離れようせず、威嚇を始める。
「ニンゲンに手をかけちゃいけないんだゾ?」
虫をおいはらう様に平手で退かそうとするがビクつきながらもスライムの威嚇は止まない。
諦めた少女は大きく息を吸う。少女の肩辺りに大気の魔素が吸い寄せられていく。戦闘態勢を悟ったスライムはレートの上で一段と膨らんだ。少女は呼吸を整えると右腕を軽く引いた。小さな魔術陣が一枚現れ、それに腕を通す。腕輪の様にそれを手首に嵌めると陣は高速に回転を始める。
開いていた指を畳み縞皮の拳が完成する。
「ナァァウ!」
風を切る高い音が耳に刺さる。正に吼える拳がスライムに打ち込まれた。
「まさかの物理!?」
スライムの身体が激しく波を打ち、口から大量の吐瀉物が吐き出される。暫くすると天に召されたスライムから中心にある濃青の魔核が転がった。
「無成形魔獣の倒し方絶対間違ってると思うんだけど…」
吐瀉物を漏れなく浴びたレートはドロドロになっていた。麻痺は殆ど治っており脱がされた服を拾い集め少女から隠れるようにいそいそと着ていると、大きな地鳴りのような音が辺りに響く。
「アゥゥ。そんな事より私はお腹が減ったゾ。何か食うモノはないのか?」
少女は腹を押さえながらげっそりと顔を細めた。
「ああ。俺も礼はしたい。干し肉なら今持ってるよ」
レスティンには内緒でこっそりと食べていた“ジュルジュルX”のかかっていない干し肉だ。
「ニク!ニクは好きだゾ!」
言うやいなや、小柄な縞耳の少女はレートの身体中を嗅ぎだした。鼻をヒクヒクと動かしながら、しゃがんだり立ったりする。少女の軽装な胸元からは、中々に育った胸の谷間が見える。
「い、今出すから離れてくれ!」
突き放す両手を機敏な動きでするりと掻い潜る。少女は安易にレートの懐に入り込む。
「お前の腹から匂いがするゾ!ここだな!」
肉を探ろうとレートの腹部に少女の手が当たる。その時。腹部に波紋が広がった。
「ニナァ!?」
驚いた声を出したその瞬間、レートの前から少女は姿を消していた。叫び声が腹から聞こえる。行方は考えずともわかる。腹の異次元収納だ。
「嘘だろ!?」
冷や汗をかくレート。異次元収納の術式を発動させた感覚は無い。それより生き物が入れる仕様にはなっていないと言うレスティンの言葉を思い出していた。空気も魔素もあるかどうかわからない未知の場所だと。
「なんだここは!…なんだここはーー!!」
腹から少女の声が木霊する。
「おいっ!危ないから早く出てこい!」
腹に手を突っ込み手の感触だけで少女を探す。文字通りの手探り。
「なんだー!? 手が追いかけてくるゾ!恐怖だゾー!敵の者かーっ!」
一方、腹の中はというと白い空間の中、少女は迫ってくる手を身軽に躱していた。
「それ俺の手だろ!? 捕まってくれよ!いった!」
手に殴られた衝撃が伝わる。一旦手を抜き叩かれた手の甲をしばし見つめる。
「え?俺なんで叩かれたの?」
次第にジンジンと痛む手を眺めていると、腹部から少女が顔だけを出した。
「んぐっ。んっぐ。呼んだかー?」
獣の耳をピコピコさせながら満足そうにする少女。両手には、礼に差し出そうと思っていた干し肉を握りしめていた。
「あっ、その、もう大丈夫です」
それから腹から顔だけを出した彼女と話をした。互いに自己紹介をし彼女はラトフと名乗った。メイコウの町では見かけた事の無い虎族の獣人と自分で説明した。
年は五歳。五歳といっても身体つきはレートより少し小さいくらいで、普通の人間だと五歳には見えない。早熟種と呼ばれるタイプだ。身体は少女。頭は子供。すぐに自分の身を守れるよう進化を遂げたのだろう。
聞いた事の無いティウルの森の中、ティウル村で両親の許可の元、人間の魔術師に転移魔術をかけられたった今ここに着いたばかりだと言う。
髪から漏れた黄色と水色の混合魔素は、やはり転移魔術使用後特有のものだった。大魔術師レスティンでも単体で他人を移転させるのには身体、精神、移転先への危うさを伴うと言ってた。大人数で転移させるにしても大規模な魔製石と大量の魔力が必要となり、そもそも成功しない場合が多い。
最大の問題はクウェードルの法律では魔術院を経由しない転移魔術は危険指定となっている点だ。レスティンはそんなへまをしないだろうが、見つかれば重罪とされる。他国からクウェードル国内への違法な転移は更に厳しく取り締められている。
「この先にメイコウって言う町があるんだけどわかるか?」
「わかんないゾ?」
「誰かに会う目的があるとか?」
「特にいないゾ?」
「わかった。じゃあ何か目的はあるのか?」
「修行して強くなりたいゾ!」
ラトフは手と耳をピンと伸ばし行儀良く答えた。訂正。腹から顔だけを出した状態なので行儀が良いかどうかは再検討。
対称にレートは頭を抱えた。保護者の確認済みで禁術を行う。このラトフに悪気は無かったとしても尋問や話す内容次第では死刑もありえる。なんらかの事件に巻き込まれた可能性も大いに考えられる。
「…これは俺の手に負える問題じゃ無い。大人しくメイコウの魔術院に行こう」
「マジュツイン?レート!それは食べ物か!?」
指を舐めながら上機嫌のラトフは腹からするりと抜け出て来た。
無知をいい事に騙すような気がして心苦しいレートは、ラトフの真っ直ぐな瞳を見れない。
魔術院を食べ物と勘違いし「マジュツインッ!マジュツインッ!」と喜ぶラトフがふいに町とは反対の方向、自宅がある裏山の方を見つめた。
「ナゥ?」
ラトフの目が開き次第に獣の目つきに変わる。それは森の奥を睨みつけている様子だった。手をついて体制を四つん這いにし、獣人と呼ぶに相応しく感じる。
「町の獣人族よりかなり野生的だな。かなり遠くの地域から来た可能性が高いのか?」
「ガオオオオオッ!」
突如ラトフは咆哮。裏山に向かって駆け出した。
「おい!どこ行くんだよ!」