レートとレスティン
「やっぱいつもの方がいいか」
新調された真新しい法衣を腹に仕舞い、代わりに随所に泥が染み込んだ赤銅色の法衣に袖を通す。
見た目の傷の割に綻びは見えなく、裾に小さく刻んである術式が防具としての機能をきちんと発動している事がわかる。
丈は通常よりも短い。小隊における前衛・後衛を担う魔術師や、本格的なレスティンの法衣とは違い、裾が地面を引きずる事もなく動きやすい様に設計されている。マントや羽織に近い。魔術剣士という半端者が何処かに居るならばそれに適した構造だろう。
実質レートもこれを法衣と呼んだことはない。いつも上着呼ばわりしている。レスティンが取り付けた内側にあるいくつもの隠し袋。
そこに小さな魔製石を転がした。
旅に必要な物を腹に詰め込む。魔術本、地図や経済の各書物、野営の道具、入手不明のレスティンから貰った単剣、大工仕事をする時の手の油が沁みた工具、隠し作っておいた干し肉。目に付く物を片っ端から放り込んでいく。ふと腹は痛くならないよな?とレートに不安が過ぎる。来るもの拒まずの精神を持った腹の異次元収納は限界を知らない様だ。
辛うじて良かった事は、術者の許可なく何でも吸い込む“かの魔獣”のようにならなかった事。
ベッドから腰を上げ見た目より重い上着の重量が肩に乗る。それにレートが慣れたのはいくつの時だったか。
レートは地下の書物庫に置いてある嘘臭い冒険譚や、史実を元にした英雄伝を思い出していた。
英雄に限らずこの世界では旅人や冒険者などは比較的珍しくはない。年端もいかない者が奉公がてらクウェードル国の騎士団の門を叩いたり、人間より成長の早い他の早熟種はたった三歳で一人旅に奮起する者もいる。最も冒険者と言っても日雇いの魔獣討伐や警護で稼ぐ者が多い。腕の立つ者で町の護衛や貴族に仕えるくらいか。
粗方の支度を整え玄関に向かうと、レスティンが玄関で待っていた。上部を麻布で包んだ大きめのランチボックスを腕に通している。中からペロが甘えた声で鳴いた。
「ペロの体調は大丈夫なの?」
麻布を捲ると上目がちなペロが申し訳なさそうに顔を覗かせた。黒針の金属音は聞こえないが、円な瞳の殆どがまだ底を見せる事のない黒のままだ。
「今は現状維持にしかならないけど虚無用の治癒魔術はかけてあるの。この遥々(はろばろ)に任せなさーい。それに獣ってね。私達が考えてる以上に強いのよ?」
確証のある顔でレスティンは胸を叩いた。
「レートちゃんはとりあえずクウェードル本国に向かうんだっけ?観光しに」
「観光言うな。母さんと違って未来詩に場所も先の未来も書かれてないんだよ。それにクウェードル本国には行った事ないし」
レスティンはそう、と伏し目がちに返事をし言葉を続けた。
「じゃあお使い…頼まれてくれないかしら?ホワイトフォレストで渡して欲しいの」
レスティンは異空間収納に手を入れると封筒を一つ取り出した。グリムデリム家の封蝋印がベロに押してある。封蝋印の周りには術式が描いてあり、受け取り主以外の開封を拒む。最もグリムデリム家の紋章は中央にレスティンが舌を出したふざけた顔になっている。
「レートには馴染みのない国名だけど、クウェードル本国から東南ね。元は獣人の領地だった所よ」
頭の中で世界地図を広げながら首を傾げる。ここから遥か西。クウェードルの本国から南側は人間と魔族と獣族、三種族の睨み合いが続き領地問題がやや複雑になっている。今も土地の奪い合いが続いていると専らの噂だ。
「そこで誰に渡すんだよ?」
「行けばわかるわ」
「アバウト過ぎんだろ…」
封筒を腹に仕舞い互いのつま先が扉を向く。二人は玄関を後にした。
「さて、家には結界施錠の魔術をかけておくわね。解除名は“ママ愛してるよ”にしておくから忘れちゃダメよ?」
「恥ずかしくて二度と帰れねーよ!!」
レスティンがドアに片方の小指を当て承認を要求する。
「グリムデリム・レスティンの名を持って契約の変更許可をお願いしたいの」
返事代わりに紐帯契約を結ぶ家が軋む音を立てた。
「ありがとう。虫や害獣防止も何重にかけておいたから安心してね。施錠開始ーーこの世で一番大好きだ。ママ愛してるよーー施錠完了」
「言葉が増えてるよ!」
突っ込み疲れたレートは、はっと思い出したように次の口を開く。
「…母さん聞いてくれ。もう会えないかも知れない。別れの挨拶」
「歯ブラシとー、コップとー、変えの下着とパジャマもちゃんと持ちましたかー?」
遠足の子供の様にレスティンは言葉を遮り、精一杯の笑顔を繕った。
「台無しにするなよ!旅の最初が肝心なんだから!最後かも知れないんだから…ちゃんと聞いてくれよ」
レートに残された頁数が頭を過ぎる。
「最後なんて言わないで!」
堪えていたレスティンの瞳に涙が溜まっていく。
「グリムデリム家の紐帯契約はどれだけ離れても伝わるの!私の先知先覚の未来詩にも絶対!ぜーったいに!レートに危機が迫ったら記載されるんだから!嘘じゃ無いんだから!」
そう言いながら涙は頬を伝った。必死に目を強張らせその涙を止めようとするレスティン。胸元にある小さな本を模した開閉式の首飾りが昂った感情に呼応し淡い光が漏れた。
「…泣くなよ」
「だって…勝手に決めちゃって」
「気にしてないよ。あれだろ?母さんの未来詩に変更があったんだろ?実験も研究も突拍子な行動も未来詩にちゃんと従ってるせいなんだろ」
レスティンは短めのローブの裾をキュッと摘んだ。十四年レートが見てきた知っている仕草。言わずの答えがそこにあった。
過去に毒煙龍の群れの飛行進路がこの家に被った時。
ならず者達が結界付近に来た時。
レートが魔獣に襲われた時。
町で憲兵に捕まった時。
そこに未来詩が本当に噛んでたかどうかはわからないが、レスティンは誰よりも早く駆けつけレートを守っていた。
だからレートは文句を言いながらもレスティンの言う事を胸に納める。
旅を進めた事。
あえて虚無にかかったペロを見せた事。
レスティンが長い旅に出る事。
これらを大切な意味のある行為と捉え、全てを胸に納める。
「理由が言えないのも口外すると内容が変わる恐れがあるからだろ。そんな事、産まれた時からわかってんだよ」
冗談のつもりで答えたが、その言葉に耐え切れなくなったレスティンは子供の胸に飛び込みわんわんと泣き散らした。レートは照れ臭そうにするも優しく抱き返した。
レートは考えていた。自分の死期が目に見えて迫っている事にとてつもない恐怖感や焦りを感じ、一時期塞ぎ込んだ時期もあった。しかしやけを起こさず立ち直れたのはいつだって母親が自分の為に行動を起こしていたからだ。
レートの為にレスティンはいつだって一生懸命で。いつだって騒がしい。その姿に救われ良い意味で楽観視出来ている自分がいる。と。
一際泣くとレスティンは覚悟を決め、転移魔術を使った。去り際ランチボックスの中のペロが小さく喉を鳴らす。消えた場所には黄色と水色の魔素が煌めている。その特有の軌跡は暫く続くのだろう。
振り返り玄関を撫でると正常に発動した施錠魔術が白く光る。
「よし。行ってきます!」
ログハウスは返事の代わりに軋む音を出した。
背を向けグリムデリム・レートは始まりの一歩を踏み出す。