生存可能日数、九十五日の少年
誰かがレートのこめかみに触れた。女の様にか細い指から冷えた温度を感じさせる。押したり撫でたりしながら、進路を頭部に切り替えレートの朱殷を秘めた黒い髪を遊んだ。
寝言を言いながら眉を寄せレートは居心地の良い布団に頭を潜り込ませた。だからと言って実態を持たない指は遊びを止める事はない。
一方のレートもそんな柔な起こし方で目覚められる程、十分な睡眠をとっている訳でも無かった。
浮上しかけた意識は再び泥沼へとどっぷり沈んでいくのである。
痺れを切らした冷えたのは冷えた指の主人。輪郭をひと撫でし、こめかみを鷲掴みにする。
これでもか。これでも起きないのか。と、圧力を徐々に強めていく。
「いた…いたいたただだだ痛だだだだっ!」
レートは本日も不愉快な朝を迎えた。
実態の無い冷えた指の正体。それは宙に浮かぶ半透明の魔術本。魔術式名を“未来詩”という。
それが術者グリムデリム・レートに正しき導を知らす。
少年のぼやける視界に映る未来詩は、最初の頁をゆっくりと広げた。
【野生動物を魔術のみで狩れ】
「わかった、わかったよ。ちゃんとやるから。っていうか昨日の時にまとめて書いてくれよ」
目を擦りながら愚痴を漏らす。重い瞼を支えながらその憎たらしい文字を眺めていたが、文字が点滅を始めた瞬間。レートの目は大きく見開いた。
寝惚けた脳は無理やり覚醒を始め、気だるい身体を急いで起こす。
毎度毎度、無作法な未来詩の起こし方にイラつきながらベッドから飛び降り、着の身着のまま階段を転がるように降りた。
リビングのソファに寝そべっている母親に目もくれず、勝手口に手をかけ、ぶつかる勢いでドアを開く。置き去りにされた扉が風に揺られ古めかしい音を立てている。
「レートちゃんー?パジャマでどこいくのー?」
「おおおおおおおおぉぉぉ!」
後方で母親の声が聞こえる。それに見向きもせずレートは遊び慣れた裏山の奥へ奥へと駆け抜けて行くのであった。
息を殺し到着したのは裏山の中腹。木々の隙間から陽光が差し、小さな池に光の橋を渡している。水面に浮かぶ葉が怯えることもない静かで穏やかな池。
そこは草食動物達の通り道になっている。
太い幹の影にレートは身を潜め一匹の獲物、猪に狙いを定めた。
多くを想像する。何物も溶かす煮えたぎる溶岩の様な熱。大嵐の日、山の頂上から流れてきた土砂が大木を薙ぎ倒す勢い。熱風が通った後の灰にする様。
後は今朝の不愉快な起こされ方と昨日の夜中にやらされた草むしり。様々な積年の恨み。
その想いの丈をレートは圧縮する。
音も無く小規模の魔術陣が手の先に展開を始める。放出型の炎の術式を刻み外気から取り込んだ魔素と体内魔素を練り合わせる。それを掌に送るとじんわりと熱を持ち魔力圧が帯びていく。
辺りの魔素を分析、空気の抵抗から射出角度、射程距離を計算。その列式が描かれた陣が既存の陣と重なり、新たに組み込まれる。
必要な列式を重ねた四つの魔術陣は一つに溶け合い次第に不安定な回転の淀みも無くなる。
逸る鼓動を深い呼吸で落ち着かせ、掌に集まる魔力に集中する。
やがて木々や葉の擦れる音。芽吹いた若草と土の湿気た匂い。頬に当たる微弱な風。様々な感覚は消え、レートの感覚は視覚と掌にこもる熱のみに研ぎ澄まされる。最後の式を一つ重ね、魔術の準備は整った。
魔術式名“火吹き蜥蜴と捻れた角”。
隆々しい猪は喉を潤し天を向き、また水を飲み始める。よほど喉が乾いていたらしい。
次に水面に口を付けた時、炎を撃つ。そう心に決めレートは息を止めた。
しかし濃赤色に光る陣から漏れた魔素の煌めきに気付いたか、はたまた野生の勘か。
天を仰ぐ猪がレートの方向に首を捻った。
視線が交わるその刹那。
「おらあああぁぁぁぁ!!」
開いた掌から硬く握った拳へ。
それと同時に火柱は陣から暴発気味に放たれた。人間大の猛る炎が畝りを描きながら猪を襲う。
咄嗟に反応した猪の背に炎の渦は直撃。猪はよろめいた。だが体制を立て直し身震いすると山の奥へ一目散に駆けだした。
舌打ちをぐっと我慢しながらすかさずレートも追う。掌に陣を展開させながら駆ける獲物に標準を合わせる。
展開式はレートの使える魔術で最も速く、そして最も低い炎の矢。
「待ってくれって!待ってください!燕火!」
握る拳と同時に炎の燕が陣から解き放たれる。盛り上がる土や石を這う様に躱し、猪に迫る。
猪は不敵に鼻を鳴らすと進路を急転換させ巧みに木で背面を隠し追撃を逃れた。
「今絶対笑っただろ!」
苦虫を噛み砕きレートは前の宙を撫でる様に手を振る。そこには拳大の陣が四つ浮かび上がり、また幾重に重なり術式が組み合わさっていく。
「燕火!燕火!燕火!燕火!」
翳した両手を強く握り燕の炎が列を成して羽ばたいた。その内の一つが猪の脚に直撃する。しかし猪は気にする素振りも無い。むしろ駆ける速度は上がっていく一方だ。
次第に開いていく双方の距離。猪がまたもや進路を変える。ふとレートにある考えが浮かんだ。
猪がこのまま走る方向は短い雑木林。それを抜けた後はゆるやかな斜面が続く開けた場所になる。障害物は少なく標的は捉えやすい。
走りながら肩で頰の汗を拭い掌を構える。
「未来詩!」
レートの目線の右上に召喚された魔術本。開かれた未来詩の文字は先よりも点滅を早めている。
これをレートは最後の好機と判断した。
術式を計算しありったけの魔力を陣に込め準備を急ぐ。
後二十歩。後十歩。草木を飛び超え思った通りの場所に出た。同時に力強く跳躍し目を閉じる。
無駄な感覚を全て閉ざし魔力を陣に注ぐ。今から放たれる魔術は角度や距離を術式に刻んでいない。ただ前の視界全てを焼き尽くす。その想像だけを式に込めた。
陣は一重。想いのままの炎。
「龍の心火の如く。炎あだっ!」
掌を握る前、鈍い激突音が辺りに響く。
レートは見えない壁にへばりついていた。ゆっくりと仰向けに倒れるレートの鼻からは一筋の血が流れた。
猪は仕切りなどなかった様に前を走っていく。不発に終わった陣は昇華され、虚しく空に溶けた。
注意深く見なければわからない透明の壁(結界)がそこにはあったのだ。母が作った、レートを守る為の特別製の結界。高魔力を持つ者は母の許可無しに裏山に出入り出来ない。
普段はレートの家から山一つ以上の距離、今よりずっと向こうを囲っているはずだったが。 何の気まぐれか今日に限ってやたら範囲が狭まっている。
ぶつかった衝撃の余波は結界の壁に白い波紋を作った。
仰向けに倒れたままレートは空を見ていた。浮かぶ未来詩の指令は消えており、最後の五頁が散り散りに破れ消えていく。
視界の端でそれを見送りながら真上の雲の動きを眺めた。大きくも有り小さくも有り。そこにあってそこにない。自由に空を旅し雄々しく気高い雲。
対比した虚しさが胸に込み上げる。
不意に底から溢れてくる何かを感じ、それを隠すように腕で覆う。
「俺は弱いんだから…こんな未来詩はやめてくれよ…」
最初の一撃で何故猪は絶命しなかったのか。描いた魔術式は仮にも上級魔術。偉大な魔術師の母親の教えの通り。何も間違っていない。見た目も遜色無い。ただ威力(魔力)だけが弱すぎた。
何年もレートが悩んだ問いの答えは、今だに見つかっていない。
平野を撫でる風がレートの髪を笑い、黒色の中に芯を持った赤を魅せた。
暫くこのままふて寝しようと草の揺りかごに身を任せた時、風とは違う肌にひりつく魔素をレートは感じる。何処かで高魔力を放出した魔圧の余波だ。
目線を変えると最寄りの町“メイコウ”の上空。その上にクウェードル国の循環飛行艦が現れていた。
船首には各部隊を加護する巫女の像が有り、赤と銀の色を主体に装甲は染められている。町の人々は皮肉を込めて“非情の鉄槌”と呼んでいる。
それがこの所、毎日の様にメイコウ上空に待機し監視を行っている。クウェードル国では五機も持ち合わせて無いだろう内の一機。莫大な魔製石や経費も馬鹿にはならないだろう。
そして非情の鉄槌の乗組員はクウェードルの騎士団の中でも王や貴族、民を守護する中央騎士団には属していない。対魔獣・対虚無に特化編成されたあらくれ部隊。焦がす者達と呼ばれる部隊だ。
レートは虚ろな眼差しで飛行艦に手を翳し陣を展開した。
「炎柱槍」
手をぐっと握ると真っ直ぐな炎の槍が放たれた。
やる気の無いそれは次第に弱々しくなり、空中で燃え尽きる。
飛行艦には遥か届くはずも無い炎。誰にも認識されない魔術。
レートは握った拳をただ見つめた。
今回の失敗で未来詩が五頁失われた。頁の枚数が因果律を解し予見された寿命日数となっている。達成されなかった場合は何枚かの減算が行われる。今回は、いや今回もというべきだろう。
【残り生存可能日数、九十五日】
生きる為。グリムデリム・レートの命をかけた渾身の足掻きが始まる。