くまさん
掌編小説たちの群。少しシュールレアリスム混じる。
シリーズではない作品、短いもの。詩のようなものも。「私」は男性視点。
病床について暫く経った。半ば気力が奪われていたために、それのせいで体調不良がまだ続いているらしかった。もう太陽が昇ってしまって、部屋に明かりが差し込んでいる。それに気付いて一度目、携帯を覗くとまだ九時だった。もう一度携帯を覗いたときは十二時だった。そろそろ起き上がらなければ、今度は眠りすぎで頭痛が酷くなるだろう。そう思ったが結局布団から出ることが出来ずに、むしろ掛け布団を頭の上まで引き上げてしまった。
そこからぼんやりとした記憶に変わったが、俺にとってそれが最も幸福な時間であることは確実だった。
隣にいる男が誰なのかは分からない。しかし、それが随分と長い間想いつづけてきた相手であることはすぐに分かった。そのときは違和感などなく、彼が自分の想い人であることを何ら疑わずに理解していた。胸が躍るとはこのようなことを言うのか、俺は何気ないふりをして彼に甘えてみた。彼は大層な美人で、しかし男らしかった。もしかするとテレヴィで見た顔だったかもしれない。そう、彼の職業は恐らく俳優。くしゃくしゃに草臥れたような黒髪は少しだけ長く、優しく微笑する目が少し眠たげだった。彼は若く、正に今の人だった。甘える俺に彼は少しだけ頭を撫でるだけだったが、寄り添えばそっと抱き寄せてくれた。そこからはまるで恋人がじゃれあうかのような緩やかな時間と、駆け引きのようなものが始まった。俺は早く彼に抱いて欲しかったのだ。そう願うことが決して罪ではないような気持ちだった。病床にいる俺は、病人だ。だからこうまで素直になれるのだろう。彼の胸元に頬を寄せ、腋の下に鼻先を埋めると、視界は暗くなり、そしてほんのりと彼の甘い香りが流れ込んできた。大きな手の平が俺の頭を包んだ。そして俺の名を呼んだ。遠くの外で工事をしている音と、何かわからない秋の空の音、そして小さく鳴っているテレヴィの音。何よりも大きかったのは近くにある彼の呼吸と、脈の音。そうして俺は上向いて、彼は漸くくちづけをした。そのまま下に横たわるように身体を倒され、彼が上にのぼった。くちづけをしたまま、俺は彼の背に手を回した。
そのとき俺は自分の性別を疑った。もしかして、俺は女だったのだろうか? しかし朦朧と沈む意識の中で、もはやそんなことはどうでもよかった。彼に流される快楽のほうが、先決だった。
「あんた、誰と寝てんの」
ふと冷たい声が聞こえた。それは酷く俺を軽蔑する声だった。はっとして視線だけをそちらに向けると、母が扉の向こうで、ごつごつに膨れ上がった買い物袋を持ったまま硬直していた。俺は青ざめた。だが精一杯、この状況に抵抗をしようと無駄に足掻いたのだった。
「クマ……」
なんと苦しい言い訳だろうか。俺はもう圧し掛かる彼の背に腕を回し、唇を尖らせてくちづけに応えているのに。しかしそう言って正面の彼の顔を見ると、それはいつも俺が抱いて眠る、クマの形をした大きな抱き枕だった。俺はクマとくちづけをしていた。
ではあの腕は? あの温かい腋下は? 彼の黒い髪は? 唇は? ほんのわずかにだけ痛い無精髭は?
母親は溜息を漏らし、胸を撫で下ろして扉をむこうに歩いていった。枕を抱き締めた腕が硬くなっていた。彼はどこに行ったのだろうか。絶望した。そんなはずはない。彼が俺を見捨てるはずなどないのだ。
秋の心地良い風が、するりと頬を撫でた。そうか。彼は俺を守るために、姿を消したのだ。彼と俺だけの秘密なのだ。次は必ず彼に抱いてもらおう。