愛しい太陽
「アリー、頼むぞ」
『畏まりました、殿下』
アズィールは電話先の侍従アリーに依頼すると、深く椅子に身を預けた。
陽に焼けた肌にアラブ特有の彫りの深い造形、黒髪と同じく瞳は鋭くあるが、纏う雰囲気は穏やかで柔らかい。
アラブの小国シャーラムの、誉れある王位継承権第一位の王太子だ。今は穏やかさの欠片もなく、眉間に皺さえ寄せている。無意識の溜息が重い。アズィールは手元の書類に目を通す気力もない様子で、別の事を考えていた。
弟王子であるサイードがついに妻を迎えた。その妻はアズィールが出資元ともなり、自身が先日社長に就任したS&J社の常務秘書だった。現在はアズィールの秘書でもある。
いずれ自国に支社を新設する事を想定し、秘書がもう一人付けられた。元副社長秘書の三島陽菜だ。サイードの妻、美月と共にS&J秘書課の美女筆頭と言われている。
経営者として社内に入ってわかったが、S&Jの秘書は非常に優秀な人材が多い。そんな中にも目を見張る働きをするのが、やはり陽菜と美月だ。
美月が影からそっと支える存在ならば、陽菜は明るく照らし導く存在だ。正に二人は太陽と月。
陽菜の第一印象はツンと澄まして気位が高い、というものだった。美月と同期にヘッドハンティングされて秘書となった陽菜は、美月とは非常に仲がよく、入社三年目にして共に重役秘書に就いている。
だがあくまで第一印象…実際に数回、仮の秘書として付かせてみたが、手際もよく時間にも正確だ。分刻みのスケジュールをこなす事のあるアズィールには、秒単位まで催促してくる陽菜はありがたい存在でもある。だが急遽、陽菜をシャーラムに呼び寄せた理由はそれだけではない。
それはまだ、サイードと美月の関係が良好とは言えない中、美月の休暇中の事――。
陽菜は美月の代わりにアズィールの秘書をしていた。日本の会議や取引先との打ち合わせに接待…シャーラムでこなして来たものとは勝手が違う。シャーラム人では時間の予測が立たないのだ。
それに一役買ったのが陽菜だ。予定時間になると、やんわりと失礼のない程度に先方を促し、退散する。
『殿下、お時間ですよ。のんびりしてる暇はありません、ちゃかちゃかお願いします』
他社関係者から離れてしまうと、陽菜は口調を変える。次への移動や時間を知らせる際も、陽菜は歯に衣着せぬ物言いで、アズィールを促すのだ。
日本人は兎角時間に煩い。陽菜のモットーは「最低でも五分前着」らしく、そう出来るようにアズィールのスケジュールを組む。全く無駄や隙のないそれは、パズルゲームのようだ。
移動時間も無駄にせず、途中で食事が出来るようにと陽菜が弁当を作ってくる。シェフの作り立てを待つ時間などないのだ。
その代わり、定時後には相当の事がない限り、アズィールにも残業をさせないと言う徹底したそれに、侍従も感心するしかない。更には秘書の後輩指導もこなす。
多忙ながら愚痴も言わず、嫌な顔すらせずに美月不在の穴も問題なく埋めている。
「三島、休日出勤を振り替えて休んでくれよ」
「休めませんよ。私休んだら誰が社長に付くんですか?」
「…う…だがなぁ…」
秘書課長は陽菜の勤怠に頭を悩ませているのだ。陽菜の振り替え必須な休日は三日。秘書課内では誰もが『シャーラムの次期国王』に恐れをなして敬遠してしまう。代わりを務められそうな美月はまだ不在で。
「社長がお休みなさって下さるなら問題ないと思うんですよね」
「…調整は?」
「今なら出来なくはないですよ」
「よし!私から副社長に依頼してくる!」
秘書課長は意気込んで秘書課フロアを出た。すぐに戻った秘書課長は、満面の笑みで陽菜に三日の休みを言い渡した。ちょうど土日を挟むので、五日間の思いがけない連休だ。
『…と言うわけで…大変申し訳ございませんが、社長にもお休みして頂きます』
『そうか…私に付き合わせて済まなかったね』
『いえ、仕事ですから』
『予定はあるのかい?』
『それなりに』
『恋人は?』
『まぁ、それなりに』
陽菜の言い回しははっきりしない。予定があるならあると、恋人がいるならいると言えばいいだけなのだが、そうしない。
『それなら私に付き合ってもらえないか?』
『私が…ですか?』
『君以外に誰かここにいるかい?予定のない時でいい。私が泊まっているホテルを訪ねてくれ。外出の予定もないんだ』
『…わかりました』
陽菜は陰ながら溜息を付いて退社した――。
「もういいわ」
「陽菜っ!ちょっと待てよ!」
「鬱陶しいの」
翌日の振替連休初日。陽菜は午前中から付き合いのある男と待ち合わせて会っていた。実に二十日ぶりの事。気安い躯だけの関係だった。
それが二十日ぶりの逢瀬に焦れてしまい、相手の男が陽菜を責めた。他にも躯だけの男がいるのだろう、と。
「スーツ姿の外国人と二人で会社の外歩いてるのを見たぞ!」
「それが何?」
「陽菜!」
「私、彼女じゃないわ」
「っ…」
「じゃあね」
カフェを出た陽菜は、暇潰しにデパートに向かう。コスメの売場で愛用のファンデーションのリフィルを購入した。そろそろ新しい別の香水が必要になるだろう、などと思いながら、あちこちの売り場を見て回るのが、こうなった時の習慣のようになっている。
気分転換に新しいスーツでもと思い、売り場に向かっている時だった。
『失礼、あなたは…ミズミシマでは?』
『…アリーさん?』
アズィールの侍従アリーとスーツ売場で出会した。
『ショッピングですか』
『新しいスーツを新調しようと思って』
『お一人でいらっしゃいますか?』
『えぇ。美月はイギリスで、買い物に付き合ってもらえませんから』
『ではこの後、我が殿下とお食事など如何でしょう?』
陽菜はついつい正直に答えた事を、貼付けた営業用スマイルの下で悔いていた。
『いえ…買い物が長いのでお待たせするわけにはいきません』
『それでしたらディナーに致しましょう。夕刻、ご自宅まで迎えに参ります』
『え!?』
『では』
『ア、アリーさん!?』
陽菜が断る間もなく、アリーは背を向けて消えた。
「…マジ!?」
重い溜息を付き、陽菜は売場を後にする。買い物をする気力も、見て回る気力も削がれたのだ。昼過ぎには収穫のないまま自宅に着いた。
陽菜はラップトップを開き、シャーラムやその周辺諸国の文化を調べていた。異文化の相手である事がわかっているのだから、それは陽菜としては当然だ。
迎えが来るだろう時間を逆算し、適当に切り上げてシャワーを浴びた。光沢のある紺色のワンピースとショールに着替え、化粧をしてバッグには最低限の貴重品を詰めたところで、タイミングよくインターホンが鳴る。玄関にはアリーがいた。
『殿下がお車でお待ちです』
エントランスから少し離れたところに、場違いな黒塗りの高級車が停まっていた。リムジンでなくてよかったと安堵したのも束の間、視界では車からアズィールが降りて陽菜を待っていた。気を引き締めて歩き出そうとしたが、思いもよらないところから呼ぶ声がする。
「陽菜!」
エントランスの隅から出てきたのは、午前中に別れたはずの男。
「やっぱりその男とデキてたんだろ!」
「…関係ないでしょ」
「俺は別れない!」
「元々付き合ってたわけじゃないわ」
『ミズミシマ?』
『気にしないで下さい、行きましょう』
「陽菜!」
気遣わしげなアリーを促したが、男は陽菜の腕を力任せに掴んだ。
「っ」
「許さない!」
「許してもらうような事なんてな…っ」
捻り上げられて、関節が軋んで呻いた。その痛みが消えたかと思えば、陽菜は嗅ぎ慣れない匂いに包まれた。
『感心しないな…力任せに女性を扱うとは』
「っ、離せ!…痛っ!」
いつの間にかそこまで来ていたアズィールが陽菜を腕の中に庇い、逆に男の腕を捻り上げていた。
『彼女とどんな関係があるかは知らないが、どうあれその行いは許されるものではない』
「は、なせ!」
腕を振り払って距離を取ると、男はアズィールにきつく睨みつけられた。
「陽菜!コイツ…一体何なんだよ!」
「…某国の王太子殿下よ…次期国王様」
「…こ、国王!?」
「護衛も見えないところからこっちを見張ってるわ…アンタ、目付けられたわね」
「っ!?」
「下手な事すると…知らないわよ」
『大丈夫か?』
アズィールが掴まれていた腕を気遣わしげに取り、ショールをそっと捲り上げて目を向けると、しっかり手の痕が残っていた。
『お気遣いありがとうございます、平気です』
『莫迦な事を言うんじゃない、痕が残ったら事だ…アリー、レストランをキャンセルしてホテルに戻る。医者を手配してくれ』
『御意に』
『殿下、そんな大袈裟ですから…』
『本来なら…これは暴行だ。私としては警察に突き出してやりたいくらいだがね』
陽菜を車に促し、後部座席に乗り込ませると、自身は逆から乗り込んだ。アリーがドアを閉めて助手席に乗り込むと、高級車は静かにその場を走り去る。
『色が白いから目立つな…こんな事を…何て男なんだ』
珍しく憤りを感じさせる台詞…それにさっきは男を睨み付けてもいた。立場上近寄り難いオーラを纏ってはいるが、口調や声色は穏やかなアズィールだ。気遣うように陽菜の腕を撫でる手つきは、至極優しいもの。
『あれが…恋人か?』
『いえ…』
後部座席は仕切られているので密室になる。社長室も密室ではあるが、この狭さに二人きりになったのは初めてだ。
『君を危険に晒すような男と、一体何の関係があるんだ』
『…ただの…知り合いです』
『そうは見えなかった。正直に言いなさい。恋人か、または恋人だった、なのか』
口調が厳しさを帯びる。仕事以外の話をここまで追及された事がなかったせいか、酷く緊張した。
『恋人だった事は一度もありません』
『では何だ』
『…言いたく、ありません』
『言いなさい』
追及を止めるつもりがないようで、陽菜は諦めるしかなかった。
『…躯だけ、です』
『っ…恋人にされなかったのか!?そんな扱いを…』
『合意の上です』
『まさか!?あの男に脅されているわけでは…』
『違います。私も納得の上での事ですから』
驚愕の告白に、アズィールは陽菜が無理を強いられている可能性を探し続けていた。
『互いに…躯だけ求めた関係でした』
『…何故…君が…』
信じられないと、その目が訴えた。
『私は…殿下が思ってらっしゃるような、優秀な人間ではありません。私生活は乱れ切っているんですから』
シニカルな笑みは、どこか諦めたように見える。
『汚い、でしょう?』
必死に陽菜を慰める言葉を探すが、こんな時に限って適したものが見つからない。
『本当なら…殿下の秘書を務めるには私不適なんです』
『君はきちんと仕事をこなしてくれている…私生活は…本来なら私の与り知らぬ事だ』
『一人や二人じゃありませんよ』
『な…!?』
『気分で行きずりの相手と寝たりもしました。数なんてもう覚えていません』
ちょうどホテルに到着した車。アリーがまずアズィール側のドアを開ける。それから陽菜の側を開ければ、一人で車から降りた陽菜は、目についたタクシー乗り場に足を向けた。
『来なさい』
しかしアズィールの腕に阻まれ、腰を抱かれてホテルへ連れ込まれた。更に周囲は護衛に囲まれて、どう足掻いても逃げられそうもない。
『離して下さいっ』
『黙ってこのまま付いて来るんだ』
抵抗したが、きつく言い捨てられ、俯いて唇を噛んだ。アズィールの宿泊するロイヤルスイートは、ドアの前にも物々しい護衛が立っている。そのままリビングのソファに座らされると、見計らったように医者らしきが現れた。
まるで高貴な身分を相手にするように、跪いて一礼してから陽菜の腕に湿布と包帯を巻き、また一礼して立ち去った。
「このままなら痕は残らないそうです。三日もすれば引くだろうと」
「わかった。アリー、暫く外してくれ」
「畏まりました」
アリーにアラビア語で人払いをさせる。二人きりになると、ゆっくり陽菜に向き直る。
『…帰らせて下さい。私みたいな女がいていい場所じゃありません』
『それは許可出来ない』
『今夜は…殿下が私のお相手をして下さるって事ですか?』
『そう言う言い方をやめなさい』
『でしたら帰ります。手当…ありがとうございました』
立ち上がった陽菜だが、アズィールは肩を押さえ付けてまた座らせた。
『…君が望むなら抱いてやる』
『っ…』
『だが私は君が思うような男ではない…覚悟するんだな』
言うが早いか、想像も付かない程の強引さで、奥にある主寝室に引き込まれた――。
広い主寝室の中央には、天蓋付きのベッドが鎮座し、アズィールは陽菜のショールを奪い捨て、ワンピースの背にあるチャックを引き下ろす。
『っ、殿下っ』
『ヒナ』
呼ばれた事のないトーンで背後から耳元に囁かれる。普段穏やかなバリトンが、今は違う響きをしている。ワンピースが足元へ落ちると同時に、俯せで手荒くベッドに押さえ付けられた。
頭の中で警鐘が鳴り響く…忘れようと自棄になって塗り潰して来た過去がスライドショーのように流れ始めていた。
「ゃ…やだ…っ」
『抵抗しても無駄だ…逃がしはしない』
【抵抗しても無駄だ…逃がしはしない】
背後から押さえ付けられて、スカートをたくし上げられた。
「やめてっ、嫌!」
『君が望んだ事だ…助けは来ない、もう諦めるんだな』
【助けは来ない、もう諦めるんだな】
下着も無理矢理下ろされて、腹に腕が回り、腰が上がると、何かが足の間に押し付けられていた。
「いやぁぁぁぁぁ!」
突然の悲鳴に、アズィールが陽菜を抱き起こす。
『ヒナ?ヒナ!』
焦点の合わない瞳には涙が溢れ、恐怖を色濃くしている。小刻みに震える躯をきつく抱き締め、何度も何度も名前を呼んでやった。暫くそうしていると、陽菜の瞳がアズィールを映した。
『…殿、下……?』
『ヒナ…すまない…落ち着いたか?』
『っ、あ…』
収まりかけていた震えが戻ってきた。
『…もう手荒な真似はしない…安心してくれていい』
想像していたより力強い腕は、次第に陽菜の震えを消してくれる。
『も、申し訳ありませ…っ、私……』
『君は悪くない…私がトラウマに触れるような言動を…』
『っ』
【トラウマ】…陽菜がびくついた事で確信した。陽菜には行為に関わるトラウマがある。だがトラウマがあるにも関わらず、不特定多数と躯だけの関係を続ける理由が解せない。アズィールの知る限り、その行為が原因ならばそこからは遠ざかるはずだ。
『ヒナ…もう大丈夫だ…君が嫌がるような事はしないと誓う。震えが収まるまで…ずっとこうしていよう』
陽菜を抱き締める腕も胸も温かく、アズィールの纏う微かな香りで混乱していた意識や激しい動悸が凪いでいく。
『…ヒナ?』
ふわりと陽菜の躯から強張りが消え、完全にアズィールに預けて来た。名を呼びながら様子を窺うと、瞼を閉ざし、深く穏やかな呼吸を繰り返すだけだ。
「…落ち着いたか」
そうして自身も深く息を吐いた。陽菜に告げられた一言一言は、アズィールを激しく動揺させていた。天衣無縫…陽菜は第一印象を打ち消した後はまさにそれだと思っていた。今日、それに隠した片鱗を知るまでは。勤務中は隙のない優秀な秘書だ。明け透けな物言いをする事もあるが、出過ぎた真似をする事はない。
アリーがデパートのブランドショップにスーツを受け取りに行った先で、陽菜に少々強引な誘いをしなければ、陽菜は今頃ここにはいなかっただろう。もしかしたら陽菜の腕を酷く掴んだあの男と、ベッドの上で裸で過ごしていたかもしれない。
「…殿下」
ドアの向こうからアリーの声がした。
「ミズミシマは…」
「あぁ…もう大丈夫だ。ヒナは眠っている」
場凌ぎにベッドカバーで陽菜の下着姿を覆い隠してから、アリーに入室を許す。
「…殿下、空いている寝室を整えました。ミズミシマをそちらに…」
「いや…このまま抱いていてやりたい。それに眠っているとは言え、もう暫くすれば目覚めるはずだ」
執着しないアズィールが、出会って一週間にも満たない陽菜に執着しているのを察した。ハレムにいる女たちですら、一度抱いたきりでもいいならば…と、希望すればハレムに入れてやった。どんなに高貴な出の女であれ、アズィールは次期国王として安易には妻を選べない。
「…畏まりました。お食事の用意はいつでもお申し付け下さい」
「アリー」
「は」
退室しようとしたところに名を呼ばれた。
「…お前の機転に感謝している」
「光栄です」
今度こそ退室する。静かにドアを閉めると、脳内では数々の手順が反芻されていた。アズィールは陽菜を手放さないだろう。ならばまずハレムの手配はしておいて間違いない。
アリーはアズィールの一番の侍従ではあるが、アズィールに誠心誠意仕えているつもりはない。気持ちは現シャーラム国王に仕えているのだ。王太子は国を率いるに相応しい統率を持ってはいるが、人間としての彼を好きになれずにいる。アズィールのハレムの女たちの扱いは、相手が望んだとしても行きずり扱いに変わりない。
一度抱いた女を抱かないのだ。宛がわれたから抱いた。今後二度と抱く事はないが、それでも希望するならハレムに部屋を用意してやる。ハレムに入らなかった女には、手切れ金として莫大な金が支払われる。ハレムの女たちはハレムにいる限り、その生活が保障されている。ハレムを出た女にも恩情を掛けてはやる。だがそれだけだ。
情事も女と二人で一室に篭り、一時間と掛からずにアズィールだけが出て来たかと思えば、そのまま一人で湯浴み。それ以上、女に会う事はない。それに中の様子を窺う限り、前戯も愛撫もほぼない。事前に媚薬を混ぜ込んだ茶を飲ませておき、女が潤った頃に篭って、すぐに事に及ぶ。しかし先程の陽菜への態度は違う。
「…シャーラム王家は日本人秘書の女性に弱いのか?」
弟王子サイードも日本人で秘書、陽菜の同僚である美月に夢中だと言う。疑いようもない。アリーはサイードの侍従、カシムに連絡を取る事を思い付きながら、すぐに食事が出来るよう手配を済ませる事にした――。
腕の中で寝息を立てる陽菜を、アズィールは穏やかな気分で見つめていた。抱いた女たちでさえ、こんな風に抱き締めた事はない。脱いで待たせ、背後から突き上げて、果てるなら外に。
しかし物腰の柔らかい印象とは違い、アズィールの情欲は深く激しい。時間に余裕があれば、何人でも相手にしただろうが、性交を覚える頃には多忙な日々だった。それは自身も理解しているが、性交自体に興奮を覚えたことはない。「公務の一環」でしかないのだ。
「サイードは…永遠を見初めた。私にも、あるのだろうか…」
胸に頬寄せる陽菜は香水をしていた。有名ブランドのものだと思われるが、陽菜には全く似合わない。その先を思ってアズィールが息を飲んだ。【ヒナに付けさせるのなら…】それは妻とする相手にするものだ。過去にどれ程似合わない香水を付けた女であろうと、その香りをイメージする事はなかった。
「…我々兄弟は日本人女性に弱かったのか」
苦笑すると、陽菜が小さく身じろいだ。フッと笑みを零し、優しく呼び掛ける。
『ヒナ』
応えるように瞼が開かれる。茶に近い黒の瞳が、ぼんやりとアズィールを映した。
『で…、…か?』
『気分は?』
『…お手数を…』
『構わない。もう少し落ち着いたら、一緒に食事でもしよう』
身を小さくする陽菜を、抱き締め直す。
『私はヒナと食事がしたいんだ。付き合ってもらえるね?』
声色は優しくはあるが、強引な台詞。
『受けにくいと言うならば、こうして抱えていた詫びとして同席してもらおう。一人の食事は味気ないからね』
陽菜に理由を与えると、不承不承頷いた。
「アリー」
ドアに向かって呼び掛ければ、外から返事があった。
「ヒナの為に着替えを用意してくれ。食事はそれからだ」
「御意に」
入室する事なく、指示だけする。
『着替えを用意させている。暫くこのまま我慢してくれ』
そっと髪を撫でられて囁かれると、どこか落ち着いた。恋人でもない男と寝るのはそれが暴行ではなく、望んだ上である事をその身に刻み、過去を上塗りする為だった。忘れようと何度も努力した。だが無駄な事…忘れられないなら、混濁させてしまえ。
そうして陽菜は数多の男と躯だけの付き合いを重ねて来た。その策はうまくいっていた…今日まで。 アズィールの言葉は英語であったにも関わらず、翻訳されてみればあの記憶の中とぴったり一致した。
『ヒナ…まだ、私が怖いか?』
『…ぇ?』
『まだ震えている…知らぬうちに抉り煽ってしまったようだ』
落ち着いたと自身では思っていたはずが、アズィールに言われて気付いた。
『私とした事が…君を苦しめてしまったね。許してくれるかい?』
『殿下…原因は私に…』
『いや…君に非はない。紳士的な振る舞いに欠けていた私にあるものだから』
その声音に宥められて、次第に震えは収まっていく。
『震えは収まりつつあるようだね…気分は落ち着いたか?』
『はぃ…ありがとうございます、殿下』
『ヒナ…今はその呼び方を控えてくれまいか?私には【社長】と【殿下】以外に名があるんだよ』
『え…あ……』
頬に添えられた男らしい掌。その親指が唇を撫でて促す。
『アズィール…様』
『ヒナ』
咎めるような口調に、陽菜は困り果てたように口を開く。
『…アズィール』
『ヒナ、いい子だ』
あやす優しさで額にキスされた。ふとドアがノックされ、アズィールは陽菜の露出がないかを確認してから許可をする。目を伏せたアリーはアズィールに衣装を差し出し、そのまま部屋を出る。
『着替えよう、ヒナ』
そっと解放するが、腕は消えていく温もりを名残惜しんでいた。着替えは女性用の民族衣装で、アズィールは一つ一つを手に取り、着方を教えてやる。そうして主寝室の外で待つつもりだった。だが…。
『…ヒナ』
その足元に、陽菜を包んでいたカバーが落ちた。シャーラムにない肌色の姿が晒される。不躾なまでに目を奪われている事すら忘れ、視線が陽菜を撫でていく。
首筋から鎖骨、豊かな胸の谷間。鳩尾を過ぎ、臍と卑猥に括れた腰。太腿に膝、足首。そうして脳内を支配したのは、それらを手や舌で愛しげに愛撫する自身と、身悶える陽菜の姿だ――。
陽菜が着衣する事で遮られるが、欲を抑える為の自国の衣装にも拘らず、陽菜がその衣装の下に強い淫靡を誘う肢体を隠しているのかと思うと、余計にアズィールを煽った。禁欲を自身に課した事はない。多忙故に時間がなかっただけだ。
今、初めて味わう禁欲は、陽菜の為のもの。そして同時に陽菜を欲しいと強く願ってしまっている自身にも驚いた。特定個人を求めた事のないアズィールが、初めて陽菜ただ一人を求めてしまったのだから。
『…よく、似合っているよ…ヒナ』
溜息の出るようなその姿…スーツ姿以外をもっと目にしたい。
『さぁ…おいで、ヒナ』
差し出した手に重ねられた華奢な指先をしっかり握り、衣装越しにその卑猥な腰に手を添えた。ダイニングテーブルには二人分の食事とは思えない量が並べられていた。
「アリー、配置を変えてくれ。こちらにヒナを」
向き合った配置からテーブルのコーナーを挟んだ配置へ。隣に陽菜を座らせる。
「給仕は私がする。後はカートごと置いてくれ」
「…殿下?」
「アリー…私がヒナを甘やかしたいんだ」
さすがのアリーも驚いた…王太子自ら、外国人の…しかも一庶民に給仕をするなど、聞いた事もない。
「殿下…ですが…」
「アリー、私では出来ないと?」
「いえ…そうでは…」
「ならば私の言う様にさせてくれ」
渋々引き下がったアリーは、テーブルのカトラリーの配置を変え、これから給仕する予定だった料理をカートに乗せたまま、その場から離れた。
『さぁ、ヒナ』
椅子を引いて座らせ、給仕をすると自分も席に着く。
『シャンパンは?』
『はい』
グラスを掲げたアズィールが陽菜を見つめる。
『ヒナに』
『アズィール、に…』
返すように答えた陽菜とグラスを合わせて乾杯する。緊張しているのか、陽菜の表情は強張って見えた。それに気付くと、アズィールはいろいろと世話を焼きながら、料理や自国の話をしてやった。
また美月を話題に出せば、陽菜は表情を和らげる。終盤には小さく笑みを浮かべもした。
そんな事に一つ満足を得てしまうと、次から次へと欲しくなる。もっとたくさんの笑みを見たい、触れたい…。
『ヒナ、シャーラムの料理はどうだ?』
『驚きました…美味しかったです』
デザートを終え、ゆっくりとシャンパンを味わいながら話をしていると、今日一番の笑みを見た。
『ヒナ、もう暫く一緒にいてもらえるか?』
『ぁ…はい』
アズィールは食事の前から続く躯の疼きが加速するのを感じた――。
リビングに移動した二人は、ワインを飲みながら言葉少なでいた。十四も年上のアラブの王太子は、理解もある大人な男だ。陽菜はもっと年上の男に抱かれた事もあったが、精神的な余裕なのか、アズィール以上の包容力はなかった。
今も…隣に座るアズィールは、そっと肩を引き寄せて、甘やかすように髪を梳いてくれている。引き寄せる腕や頭を預ける肩は硬く頼り甲斐のあるものだ。
数多の女たちは、こうされてハレムに入ったのだろうか…そう考えて僅かばかり理解出来る気がした。密着していて感じるのはそれだけではない。アズィールの纏う香りは、香水とはまた違う気がした。
『…香水、ですか?』
『いや…今はしていないが、本国に帰れば欠かさない。気になるか?』
『不思議な香り…』
『香水とは少し違うからな、香油だ。湯浴みの後、塗り込めるんだ』
『じゃあ…アズィール、の…香り?』
『体臭かもしれないな』
首を捻って見上げれば、苦笑いしたアズィールがいる。
『嫌か?』
『…香水より…ずっといい』
アズィールの首筋に鼻先が触れた。
『そうか…乳香を使っているせいで、熱が加わると香りが強くなる』
『…シャーラムではオーソドックス?』
『そう、ではない…これは私の為のものだ。サイードにもサイードの為のものがある』
陽菜が喋ると、首筋に息が掛かる。耳元が弱いと言うのを一般論として聞いた事はあったが、首もそうとは知らなかった。
『…ヒナも香水をしていたな』
『…もう変えます』
俯いて肩に凭れた陽菜。
『…理由を…訊いても構わないか?』
『関係が終わるたびに変えるんです』
『っ…』
『毎回、使い切る事はないですが…』
肩を抱く腕に力が込められた。
『…ごめんなさい…こんな話…』
『謝る事はない、訊いたのは私だろう?私が訊きたかったんだ』
『…綺麗な話じゃないから…アズィール、の…耳には入れるべきじゃ…』
『そんな事はない。私はヒナの話を訊きたいんだよ…隠したがる事ですら、暴いてやりたくなるくらいにね』
身を小さくする陽菜をしっかりと抱く。ローテーブルにグラスを戻し、陽菜からも取り上げる。
『ヒナ…君を私に教えてくれないか?』
『…私の事なんて…』
『君の全てを暴きたい』
向き合ったアズィールは、頑なな陽菜が折れるまで選びに選んだ言葉を重ねた。
そうして引き出した陰惨な過去――。
母は陽菜を一人で育てたが、その為だと言い訳して男を転々としていた。男に媚びて養ってもらう母を、陽菜は嫌悪した。
働かない母のような女にはならないと誓い、バイト三昧の中、自力で短大を卒業した陽菜だが、その人生を変えた原因はやはり母だった。
当時、十九だった陽菜と母が一緒に暮らしていた男は、母から聞いたが実の父だった。ヨリが戻ったらしかったが、父は陽菜が我が子だとも知らず、ろくな男ではなかった。
働かない父だったので、母は水商売に出ていたが、母不在の夜――その実父に性的暴行を働かれのだ。逃げるように家を飛び出し、傷付いた心身を抱えたまま、陽菜は一人で生きる為に自身の可能性を探り続けた。そして漸く辿り着いた職業が秘書で。
美月同様に他社で大成しつつあった陽菜を、常務がヘッドハンティングし、今や親友とも呼べる美月に出会った。
アズィールは腸が千切れそうな思いだ。だが不思議に思うのは、それで男に恐怖心を抱いていない事だ。
『…男が怖くならなかったのか?』
『暫くは…ありました。でもどんな仕事をするにもそれでは勤まらなくて。だから躯だけの相手を作ったんです…合意での接触を増やして、あの時の事に塗り重ねて…』
それが今も続いているだけ…そう締め括られた。アズィールにすれば、【だけ】ではない。いつまでも終わる事のない、悲しい連鎖だ。
『…やめるんだ、ヒナ』
『…そんな簡単じゃないんです』
『君なら恋人も…』
『…長く続きませんでした』
陽菜はアズィールと目を合わせようとしない。その目は虚ろに見えて、苛立ちとも悲しみとも取れない感情を呼び起こす。そうして沸き上がったのは庇護欲だ。傍で守りたいと…陽菜を包みたいと感じてすぐ、胸に引き付けた。抵抗されても許さず、ただ抱き締める。
『…ヒナ…私に愛されてみるか?』
『な、何を…』
『私が愛してやる…』
陽菜を腕に抱き上げて、また主寝室へ向かった。中央に降ろして覆い被さると、顔を背けられた。
『…キスは…しないで』
『…わかった』
アズィールは脳内に描いていた陽菜への愛撫に夢中になっていた。女を抱くに愛撫など考えた事もないが、陽菜は触れればあえかに悶え、必死に縋り付いて来る。
欲情を恐ろしいと感じたのも初めてだ。時間をかけて溶けていく陽菜を見たくもあるが、すぐに繋がりたいとも思える。一糸纏わぬ姿は、アズィールから余裕を奪う。手荒くなりそうな自身を抑えながら、素肌で接した陽菜は、アズィールをただの雄に変えた。
『っ、ふ…』
『ヒナ…もっとだ、もっと乱れてしまえ』
一寸たりとも離れたくなくて、断りもせず陽菜の中で果てた。だが雄は収まりもしない。陽菜に求められると収まるどころか、煽られて情欲の焔は激しく燃え盛るばかりだった――。
幾度果てたか、もう覚えがない。この行為でここまで疲弊したのは初めてだ。陽菜もすっかり疲れた様子で、アズィールの腕で寝息を立てている。
このままでいたい…そう強く思ったアズィールは、事後のまま…陽菜を抱き寄せて瞼を閉じる
ふと日本に来てから使っていないはずの自身の香を強く感じた。陽菜には甘い花の香りもいいが、やはり柑橘のような爽やかな甘さがいい…とろとろと溢れ始めた眠気に身を任せながら、アズィールは深く眠りついた――。
意識が浮上して、明るさが瞼を刺す。視界は見慣れない色に占拠されている。
『おはよう、ヒナ』
『…アズィール…』
『よく眠っていたね、気分は?』
視界を占拠していたのはアズィールの胸だ。
『湯浴みに行こう』
全裸のアズィールが同じく陽菜を腕に抱いて、主寝室のバスルームに向かう。広い浴槽には並々と湯が張り、不思議な香りがする。
『ここも…香油?』
『バスオイルだ。これは嫌いか?』
抱えたままで浴槽に入ると、陽菜を背後から抱えるように浸かる。まるで陽菜の椅子だ。自らの手で陽菜の躯を洗うように撫でていく。
『…好き』
『そうか、よかった』
凭れる陽菜がリラックスしているのを感じ、アズィールも安堵した。
『ヒナ、髪を洗おう』
また抱き上げられ、丁寧に髪を洗われた。世話好きなのかと思いながらも、陽菜はされるがまま。子供でも甘やかすように、甲斐甲斐しくされた経験はない。だが居た堪れない気分ではなく、寧ろ心地いい。
『じゃあ、私も』
今度は陽菜がアズィールの髪を洗ってやる。アズィールもこの甘い雰囲気が嫌ではなかった。陽菜の穏やかな笑みは、向けられた事のないものだ。
秘書である時の陽菜の笑みが、正しく営業スマイルである事も理解し、今の笑みの方がずっと美しいと感じた。
そうして二人がアリーに会ったのは昼にも近い時間だ。用意された食事を済ませると、リネンの交換が終わっていた主寝室に逆戻り。行為に及ぶわけではないが、二人で横になり、アズィールは陽菜に腕枕してやると、髪を梳き、頬を撫で、額にキスをする。それが心地いい陽菜もアズィールに擦り寄り、背に腕を回す。暫くすると、陽菜はまたうつらうつらし始めた。
『眠っても構わないよ、ヒナ?私もこのまま眠れそうだ』
『ん…アズィール…』
陽菜を撫でていた手を絡めて繋げば、陽菜の胸元に引き寄せられた。次第に深くなる息遣いに、アズィールも誘われて眠っていた。
この五日――まるで蜜月だったと、アズィールは反芻する。互いに気が向けば時間も気にせず繋がり、夜は深く抱き合う。
複数回に渡り繋げたのは陽菜が初めてだ。だがまだ足りない。大切なものが足りない。欲深になっている自身に、弟に偉そうな事を言った過去を悔いた――。
美月の休暇明け、アズィールの元に本国に帰ったサイードから連絡があった。ホテル誘致の関係でオーナーの結婚式に招待され、出席した先で新婦の親族だった美月に再会し、プロポーズを受けてもらえた、と。
出社した美月に声を掛ければ、休暇前が嘘のような晴々とした笑みだった。陽菜は自分の事のように喜んでいる。そこで常務から、美月をアズィール付きにとの話があった。
いずれ陽菜もシャーラムへ…浮足立つ気持ちを抑える。出社すると休暇が嘘だったかのような、秘書の顔に戻ってしまった。
「じゃあこれね」
アズィールが帰国する事になった。サイードと美月の婚儀の為でもあるのだが、本国にもそれなりに公務を抱えているのだ。これからアズィールに付くのは美月だ。久々の再会もそこそこに、二人は休暇の間の引継をしている。
「うん」
「また暫く美月に会えないなんて寂しい…」
「陽菜…陽菜にも来てもらえたらいいのに…」
「けど支社が出来たら私も転勤だし、また一緒」
「待ってる、ね」
「うん、いってらっしゃい、美月」
帰国前夜、アズィールはまた陽菜をホテルへ連れ帰った。日本では最後の逢瀬だ。翌日のチェックアウト前に、陽菜がアズィールを呼び止めた。
『美月をお願いします』
『あぁ、勿論だ。私の義妹だからね』
あっさりした陽菜とは対照的に、アズィールには気掛かりがあった。
『ヒナ、次に私に会うまで、決して誰にも抱かれてはならないよ』
『何を急に…』
『君は私に愛されているんだ、私以外がこの躯に触れる事は許さない』
『私はアズィール、の愛妾になったつもりはないわ』
顔を背ける陽菜の頤を掬い、目を合わせる。
『そうするつもりは一切ない。ヒナはハレムに入れない』
『当たり前です、私なんか…』
『私のヒナを勝手に卑下する事も禁ずる』
『っ!?』
『天に輝く灼熱の太陽より私を熱くさせてくれる…ヒナ、私の愛しい太陽』
【私のヒナ】【私の愛しい太陽】…気障すぎるそれらが妙に似合うと思えるのは、アズィールのお国柄だと言い聞かせる。
『よく覚えておきなさい…サイードも強引だが、私程ではないんだよ。ありとあらゆる権限を駆使して、必ず君を手に入れる』
『…王太子殿下だもの…全て言い成りになるんでしょう?』
『確かにそうだ。だが私はそれすら厭わない…ヒナ、必ず君を手に入れるよ。忘れてはならない、いいね?』
頰に触れて額にキスを贈る。名残惜しいが今暫し堪えるだけだ。
空港で美月と合流し、専用機で本国に向かう。機内では緊張気味の美月を気遣い、本国の話をしてやりながら、美月からは陽菜についての話を訊く事が出来た。
『…そうでしたか…でも陽菜が自分から話すなんて…珍しいです』
『そう、なのか…?』
『はい…特にその話に関しては。私と殿下しか知らないと思いますし。それに陽菜は、不安になると温もりを求めたくなるみたいで…』
『心配だな…』
『…はぃ』
陽菜に思いを馳せる。だがもう動き始めた。アズィールが陽菜の全てを手に入れる為――。
「は!?今からですか!?ちょっと急すぎます!」
「社長の侍従の方もお待ちだ。とりあえずパスポートだけあればいい」
専用機が日本を離れてからまだ二時間にもならない。秘書課長が陽菜に、シャーラム行きを伝えたのだ…副社長命令で。
『ヒナ様』
『アリーさん…計画的犯行は罪が重いの知ってますか?』
『存じ上げません。サイード殿下妃ミツキ様は婚儀の日取りも決まり、これからは準備などで我が殿下に付いていられる時間がございません。代わりを務めて頂けるのは、ヒナ様だけです』
『そうじゃなくて…』
『ご自宅へパスポートを取りに参りましょう』
押し込まれるように乗せられ、滑り出した高級車。陽菜の自宅前で停まり、陽菜を降ろしてアリーも後に付いて行く。
『パスポートと普段の手荷物だけで結構ですよ』
『わかってますよ、わざわざ付いて来て下さらなくても』
『アズィール様の大切な方に何か遭っては困りますから』
『心配しすぎじゃありませんか?』
『おかしな輩に触らせるわけにはいきません』
アリーは以前の事を言っているらしい。アズィールにするように、ヒナの斜め左側を一歩後ろから付いて行く。
『ヒナ様の身を守る事が至上命題ですので』
『他に仕事もらえないんですか、アリーさんは』
『今、私は侍従に付いて以来、初めて…最も重大な役目を任されているんですよ』
そう言ったアリーは口元が緩んでいるように見える。
『入ってもいいですよ』
アリーに声を掛けて部屋に上がる。パスポートを手にすると、それをアリーが預かるらしく、手を差し出されたので渋々預ける。ふとドレッサーが目に入り、つい先日まで使っていた香水が目についた。迷わずごみ箱に放り込むと、バニティバッグに化粧品類を詰める。
『必要な物は本国でご用意致しますから』
『駄目駄目。使いやすいものとか、気に入ってるものとかあるんですから』
結局、スーツケースに荷物を詰める事になった。
『ついでに寄りたいところがあるんです』
『仰って頂ければ参ります』
スーツケースを車に積み込んで、陽菜の案内で向かうのはチェリーポールだ。陽菜も美月も愛用のブランドで、結婚祝いはここにすると決めていた。まだシャーラムに出店はないので、あちらでの生活に不便だろう。
美月のサイズの下着を一週間分と夜の営みに刺激を与えるベビードール、夏でも蒸れないストッキングや制汗対策の小物など、両手で抱える程の量をラッピングさせている間に、自分用の下着やストッキングなどを買い込む。
アリーは女性客だらけの店内で何の抵抗もなく、陽菜の荷物持ちをしていたが、どうやら日本人が慎み深いのは外側だけで、その内側はとんでもないのだと知る。四方やこんな経験をする事になるとは思いもしなかったが、これからを考えれば必要な事だ。
空港には専用機が待っていた。
『あの鷹の印はシャーラム王家の?』
『あれはアズィール殿下のものです』
鷹が獲物を狩るが如く大きく両翼を広げ、嘴には半月刀を銜えている。その脚も鋭い鉤爪で獲物を掴もうとしているようだ。
『香り以外にも個人のものがあるのね』
『継承権第一位ともなられると、何にしても特別です』
『大変ね』
他人事に呟いて、陽菜は専用機に乗り込んだ――。
『うっわぁ~…砂、砂、砂!砂まみれ!』
『砂漠ですので』
『砂漠なんて実物初めてだもん。精々映画よ』
専用機内では十数時間、まともに眠れずでナチュラルハイに近い状態だった。SUV車に乗り換えて、道どころか案内板もない砂漠をひた走る。
漸く辿り着いた王太子宮には専用機と同じ印が見えた。銃器を構えた兵が立つ巨大な門を潜り、車を降りる。空港よりは高い塀のせいか若干熱風は緩んだが、ジリジリと照り付ける太陽は容赦がない。
『ヒナ様、中へお早く』
急かされて宮殿内に踏み込むと、風は一変。熱の感じられない涼やかなものに変わる。
『アズィール殿下がお待ちです』
その名に胸が騒ぐ。彼が日本で別れてから一日も経っていない。機内ではうつらうつらするたびに、居もしない優しげなバリトンが陽菜を呼ぶせいで、全く眠れていない。しかもここは焼けた砂の匂いに混じって、アズィールの香りがする。
先導するアリーに付いて奥へと進むと、途中に見慣れない印を見た。アズィールの鷹の印…その鷹の鉤爪が金の棘で雁字搦めにされた円を掴んでいる。部屋の用途によって様々なデザインになるのだろうか…そんな認識でしかなかった。
王太子宮の使用人たちは一様に陽菜を見るや跪いたり、深く深く頭を下げる。秘書如きに周囲からそうされるのはさすがに居た堪れない。漸く着いた扉にも、先程見た印がある。
『アリーさん、この印何て言うの?』
『アズィール殿下の新たに出来たばかりの印で、鷹に金棘搦めの太陽です』
『この丸は太陽だったんだ?』
『さ、左様です…』
アリーはすっかり呆れ返っていた。天衣無縫とは聞いていたが、これを見ても何も感じないのかと。
「アズィール殿下、只今戻りました」
「入りなさい」
聞こえたアラビア語は柔らかなバリトンで、間違いなくアズィールのものだ。
『よく来たね、ヒナ』
中には数人の民族衣装の男たちとアズィール。人目も気にせず腕を広げて陽菜を包むと、その場にいた男たちがまた、陽菜に深々と頭を下げた。
『白々しい…計画的犯行は罪が重い事を知るべきだわ』
『また手厳しいな、私のヒナは』
『出張なら最低一週間前に言って頂けませんと、対応致しかねます』
ふと秘書の顔をした陽菜だが、急な出張が不満なのか営業スマイルすらない。
『だが私のヒナは来てくれただろう?』
『だから計画的犯行なのよ、アリーさん残して行ったくせに』
『アリーにはいろいろ用を頼んでいたからね』
『重大な罪だわ』
『それならヒナも罪人だよ。私の心を鷲掴みにして奪ってしまったんだから』
甘く気障な台詞に蟀谷が痛い。どうしてこうも平気なのか。
『アズィール王子殿下…仕事をなさいませ』
陽菜はアズィールに抱き締められたままで、整然と答えている。
『再会を喜ぶ隙もくれないのか、ヒナ?』
『再会を喜ぶも何もまだ一晩も経ってません』
ぴしゃりと言い捨てる陽菜に、周囲は唖然。アズィールが陽菜に執心しているのは見てわかるが、陽菜の王太子に対する無礼とも取れる発言を、諌めるはずの侍従アリーが静観している。
アズィール本人も気を悪くした風もなく、彼らから見れば珍しく穏やかにしている。寧ろ嬉しそうだ。
『仕事して下さい、仕事を。私はその為に呼ばれたんですし。仕事しないなら美月に会いに行きます』
『生憎、今はサイードとの蜜月でね。王ですら会えないんだ』
『いつまでですか』
『婚儀の式典の朝までだから…アリーいつだったかな?』
『三日か四日後、だったかと』
『そんなに!?』
アズィールを突き飛ばすのだが、大して距離は取れない。
『そう言うわけだ。さぁヒナ、私たちも蜜月を過ごそう』
『はぁ!?関係ないじゃない!』
『…香水はやめたようだね…ちょうどヒナの為に調香させた香油が出来たんだよ』
腰を引き寄せて別室へ移る。そこにも新しい印があった。
『ヒナ…始めから君も一緒に連れてこればよかったと後悔したよ』
入った途端に抱き締められて、アズィールの香りが強くなる。
『支社が出来るまではシャーラムに用はありませんから』
『ヒナはドライだな』
『普通です』
『ほんの暫く我慢すれば会えるのはわかっていたが…逸る気持ちが抑えられなかった』
『こちらに戻ると暇なんですね』
『ヒナとの蜜月の為に終わらせたんだ』
頰を撫でて、愛しげに額にキスする。
『さぁヒナ、これが君の為の香だ』
差し出された小瓶にはアズィールの印がある。シンプルな小瓶を手に取り、蓋を開けてみる。
『私の香りをベースにさせ、爽やかな柑橘を加えた』
嗅ぎ慣れないが、アズィールの香りを感じた。不思議とどんな香水よりも好ましいものだった。
『こんな…専用の香りは王族だけの事なんじゃないんですか?』
『私のヒナ、だからね。そうでなければ作らせはしない』
指先にごく少量の香油を取り、ヒナの耳の後ろに丁寧に塗り込める。まるで愛撫するかのように。
『やはり…よく似合っている。ヒナにはこの香りがいい』
腕に包んで香りを確かめる。
『おいで、ヒナ…確認させてくれないか?君が他の男に触れられていないかどうか…』
『最後に会ってからまだ時間…』
『確かめたいんだ。私のヒナの全てをね』
誘われたのは何人寝るのかと思える程のベッドだ。花弁がふんだんに散らされたベッドカバーをめくり、陽菜を座らせる。
『ヒナ…ここへ来たからには私からは逃がさない。私のヒナ…もう誰にも触れさせはしない』
スーツを脱がせ、柔肌に触れた。一日余り見ていなかっただけで、陽菜が恋しくてならなかった。
『これからは私にだけ愛されていればいい。私の傍らで、私の全てを理解して受け止めてくれ』
アズィールの熱情は、陽菜が知る誰のものよりも激しい。送られる視線も交わす熱も、その言葉一つ一つもだ。溢れんばかりに注がれる熱も、丁寧で執拗な愛撫も陽菜にだけだ。
抵抗もせずに素直にアズィールを受け入れる陽菜だが、アズィールには気になって仕方のない事があった。
【キスはしないで】――唇へのキスを拒む陽菜…何故なのか。
『ヒナ、口付けをさせてくれ』
『だ、駄目!』
『何故?ヒナの全てを愛したい』
『駄目なの!』
『理由を知りたい。でなければ強引にでもする』
頤を押さえられ、見下ろされると鼻先が触れた。
『っ…無理、矢理…口の中…』
拙い言葉が漸く告げたのは、トラウマの一部だ。口腔に捩込まれた…だからキスは出来ない、と。
アズィールは構わず唇を重ね、口腔に舌を滑り込ませた。
『っ!?』
陽菜が初めて胸を叩いて激しく抵抗したが、構いもせずに奪い続けた。
『嫌って言ったでしょ!どうして…っ』
『私はヒナの全てを手に入れたい。躯も心も…ヒナに私の愛し方を刻んでいく』
『だからって…』
『だからだよ。私がヒナを愛するように、ヒナにも愛されたいんだ』
『っ…何を莫迦な…』
『私は本気だよ、ヒナ。サイードたちのハネムーンが終わり次第、私は君を妻に迎える』
衝撃的なそれに、陽菜は絶句した。美月のように王族の妻に…しかも陽菜の相手は次期国王の王太子だ。
『嫌』
『ヒナ』
『絶対に嫌!ハレムになんて…』
『ヒナは入れない。美月のようにヒナは私と暮らすんだよ。日本では夫婦は同じ家に暮らす、一夫一妻なんだろう?』
『…日本では法で決められているのよ』
『だからそれに倣うんだよ。こちらでは四人まで許可されているが、ヒナはその理由を知っているかい?』
アズィールは陽菜をあやしながら、そう問うた。
『…未亡人保護?』
『諸説あるがね、それが一番有力だろう。戦争で夫を失った女性を守る為に続く事だ。だが今は戦争もない。王太子だからと妻を増やす必要はない。世継ぎが生まれないならば考えるべきかもしれんが、サイードがいて美月もいる…王もまだまだ健勝だ。私に世継ぎが出来なくても、問題はない』
だから一人でいいのだとアズィールは言う。
『こちらの文化のそんな事まで知っていてくれたのかい、ヒナ?』
『秘書だから』
『…そこで愛しているからとは、言ってくれないんだな』
『っ…私は秘書として来たんだから、こんな事にかまけているわけにはいかないの』
『美月は秘書として訪国しているんだが?』
『っ…』
『職務怠慢で懲罰ものだな』
『美月はいいの!』
『それならヒナも、それでいいんだ。君は私の妻となる…それまでに私を愛してもらいたい』
『…無理に決まって…』
『いや、ヒナは必ず私を愛するようになる。そうさせてみせる』
『…傲慢』
普段の穏やかな口調が驚く程に不遜に響く。
『私をこんな男にしたのは君だ、ヒナ…しっかり責任を取ってもらわねばな』
それから二日――二人は姿を見せなかった――――。
二日後に姿を見せた陽菜はアズィールと共に迎賓館に向かっていた。
「あら、陽菜ちゃん」
「おば様、おめでとうございます」
美月の両親がシャーラムに到着したとの知らせを受け、陽菜が接待すると言い出したのだ。
「おじ様たちが退屈するんじゃないかと思って」
「すまないね、陽菜ちゃん」
「いいんですよ」
「陽菜さん、後ろの人…偉い人?」
美月の弟、陽輝がアズィールに気付く。
「美月の旦那様になるサイード殿下の兄で、継承権第一位のアズィール=シュラフ=ジーン=アル=シャーラム王子殿下…美月の義兄になる方よ」
呉原一家に紹介してすぐにアズィールに向き直る。
『美月のお父様、お母様と弟の陽輝。英語は出来る一家だから』
『ご挨拶が遅れました。サイードの兄、アズィールと申します』
王太子自らが陽菜と共に呉原一家を接待した。一家希望の砂漠ツアーに出て、オアシスの街で駱駝に乗り、迎賓館で晩餐会が開かれた。そこでアズィールから婚儀の式典の式次が簡単に説明される。
陽菜は呉原一家と懇意にしているらしく、まるで家族のような扱いだ。陽菜には温かな家庭の思い出がない。それを知っているのか、一家はそこにいて当たり前であるかのように陽菜と接していた。
翌朝、漸く蜜月が明け、陽菜は朝から行くと聞かず…仕方なく月離宮へと車を走らせた。アズィールは準備の為に先に王宮に向かうのだ。
月の輝く夜、親族だけの式典が始まる。アラビア語の誓いも一家に通訳してやり、感激のまま式典を終えた。
その翌日には国民向けの式典だ。その後にはアズィール主催のランチがある。アリーはアズィールの依頼で外している為、陽菜は侍従の如く働かされている。
「え~…と、配置、配置…っと」
テーブル上の配置やら手順やら…すべき事はかなりある。
「アリーさんてすごいのね…侍従って大変」
溜息混じりに王太子宮を駆け回る陽菜は、宮殿内でもアズィールの妻となる人物である事がすでに知れている。
だのにスーツ姿であちこち確認したり、指示して回るのだ。ランチが日本食である事もあり、料理人や給仕たちが陽菜に教えを乞う。にこやかに且つ丁寧に答えてくれる陽菜は、王太子宮でアズィールに仕える者たちからも好印象だ。
「それは左側からお願いします。右で箸を持つので、ご飯茶碗や汁椀のように手に持つ器は、左側に配置するとスマートに食事をして頂けるんですよ」
「申し訳ございません、ヒナ様」
「いえ、私が逆の立場なら同じ事ですから、そんなに謝らないで下さい」
アラビア語が話せると、サイード妃の美月から聞いていた。実際に話が出来た事で陽菜の好感度も急上昇していた。王太子宮ではハレムの世話も賄うのだが、すでにアズィールの寵愛が得られていない女たちの中には、まるで王太子妃のような贅沢をする者もいる。ツンと澄まして命じる様は哀れだ。
だからこそ陽菜の一挙手一投足に注目が集まり、本人の与り知らぬうちに好感度が上がる。
「ご苦労様です」
擦れ違う侍女や兵にも、誰彼構わず会釈して、笑みを浮かべて声を掛ける。一度話した相手は根っからの秘書であるせいかすぐ覚えてしまう。
「先程はありがとうございました、とても助かりました」
目上も目下も関係なく挨拶し、労い、話す。
「お願いしたい事があるんですが…」
必要な事も命じるのではなく、丁寧に頼む。陽菜にとっては当たり前の事が、ここでは非常に珍しく、勤める者たちに覇気を与える。
「アズィール殿下…妃殿下が宮殿を駆け回っておられますが…」
「あぁ、仕方ない。ヒナは根っからの秘書だからな」
「ですが妃殿下になろうと言う方が…」
「あれでいい…ヒナには王太子妃と言う堅苦しい地位を気にする事なく、自然に馴染んでもらわねばならん。それに…随分評判がいいそうだな」
「それは…妃殿下からお声を掛けて頂けるのですから」
大臣は陽菜が宮内を駆け回っているのを良しとしないようだ。
「我々も見習うべきだな…自然に他を敬い、地位も問わず一個人を大切にする…ヒナは人を惹きつける…私を含めて、だが」
アズィールは穏やかに笑みを浮かべている。
「それにミツキはヒナの最も親しい友人だ。ヒナに任せておいて問題はないだろう?何かあれば責任は私にある。それでいいはずだ。異論は?」
「ぎ、御意…」
給仕の方法を教え、厨房に呼ばれ、ホールを確認し、初の日本食となる重臣にも作法などを教える。後輩指導にも当たる為、ものを教える事には慣れている。手際の良さは美月に近いものを垣間見た。
「よくお出で下さいました、陛下」
予定時刻より少し早めに父である国王が王太子宮に到着した。
「誰か作法に詳しい者はいるか?誰に訊いてもはっきりせん」
急遽、日本食になる事が決まったせいで、国王に作法を伝えられる者が王宮にいなかったらしい。
「ではヒナを呼びましょう」
「お前の妻か…ミツキの同僚の娘だな」
「はい。今日は全てヒナに任せてありますので」
突然呼ばれた陽菜だが、国王に作法をと言われ、戸惑う素振りさえなかった。作法に関する習わしや理由を交えながら、実際に見せて教える。時折感嘆の声を上げる国王に微笑みながらも、一通りの作法を説明し終えた。
「殿下、そろそろサイード殿下がお着きになるお時間です。呉原ご一家はすでに控室へお通ししました」
時計を確認した陽菜は、秘書の顔でそう告げる。
「あぁ」
ランチは和やかに進んでいる。陽菜は裏方に徹して、緊張する給仕を励まし褒めながら進行を見守った。最後のデザートを出して、給仕が全てホールを出ると、一人一人とハイタッチを交わし、労いの言葉と共に一緒になって成功を喜んだ。その足で厨房にも向かうと、同じくシェフらを労い、平らげられて下げられた皿を目にして喜ぶ。喜々とした表情はどこか無邪気にも見え、親しみが湧いた。
ランチを終えたサイードや美月、呉原一家はアズィールと国王に伴われ、中庭のテラスで穏やかな時間を過ごしていた。美月が陽菜に会いたいと言い出した為、片付けを指示していた陽菜は、周囲に勧められて中庭に向かった。
「陽菜!」
「美月!」
立ち上がった美月は陽菜とハイタッチを交わす。
「アズィール殿下から聞いたの、陽菜が取り仕切ったって」
「美月の為だもん」
「ありがと、陽菜」
「うん」
二人の様子を見ていた国王が、アズィールに声を掛ける。
「…よき日を」
「ありがとうございます…父上」
「日本の食事は初めてだが…まるで芸術だな」
「今日はまだ本格的なものとは言い難いところもありますが、およそあのような雰囲気です」
「あぁ…S&Jの常務の招待で行った店は確かに素晴らしかった」
サイードも満足したようで、国王は興味を持ったようだ。
「ほう…目にも舌にも楽しませてもらった。ヒナに聞いたが…実に躯にはいいらしいな。数多の配慮が隠されているのも、所作が美しいのもいい。またお目に掛かりたいものだ」
歳を重ねた国王は、この頃健康に特に気を配っており、食事による胃もたれに悩み、健康の為と薄味にしてみれば、イマイチ満足出来ずにいた。
しかし今日は普段より量も食べたが、胃もたれもなく、薄味だが満足出来た。陽菜から簡単にだが日本食について聞いていた事も手伝って、その良さを気に入ったらしい。
「ヒナ」
「はい、陛下」
「実に満足の行く食事だったぞ。よくやった」
「光栄ですが…そのお言葉は私にではなく、給仕や厨房を担当した人々にお与え下さい。彼らの努力の賜物です」
「そうか…アズィール、よきに」
「ありがとうございます陛下」
陽菜の言葉に感心して目を細めた国王は、アズィールに後を托す。
「次の機会には、ヒナとミツキを両手に日本食を楽しみたいものだ」
父の言葉に二人の息子は目配せて肩を竦める。和やかに過ごした後、サイードと美月は一家を連れて月離宮に戻った。翌日からはサイードと美月は一週間のハネムーンで日本だ。日本へは一家と共に向かい、そこから別行動となる。国王は満足のまま王宮へと戻った。
「ヒナ、お疲れ様」
国王を見送ったアズィールと陽菜は、執務室に移った。二人きりである事を確認した陽菜が、アズィールの労いをきっかけにフラフラと椅子に座った。
「ヒナ!?」
「熱中症、みたいなものだから…」
「水は…飲んでいなかったのか!?」
「…気にしてなかったし…日本じゃないの、忘れてた」
陽菜を椅子から抱き上げたアズィールは、足で扉を開けると言う、あるまじき行動に出ていた。慌てるアズィールが抱える陽菜に、王太子妃に何かあったのだと、宮中は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
寝室で水分を取らされた陽菜は、眩暈と吐き気を訴え、氷嚢を使わされて横になっている。ここは日本でもなく、また陽菜が普段から忙しなく働く社内のように空調が整っているわけでもない。
それをすっかり失念し、普段同様にこの数日は秘書としての仕事もこなしていた。元々、美月にも言える事だが、多忙な人間に付くにあたり、水分は取りすぎないようにしていた。少しでも円滑に仕事をする為の習慣は仇となったのだ。
タイミングよく戻ったアリーに事情を話し、これから全ての予定をキャンセルして陽菜に付いていると言い出したアズィールだが…。
「そんな腑抜けた人に付いていられると、頭痛が酷くなるし、鬱陶しい」
侍医や他の者が飛び上がって驚く程の暴言が陽菜からさらりと告げられ、寝室は一瞬静まり返った。寝返りを打って、アズィールに背を向けた陽菜…陽菜を心配してのアズィールの愛故の厚意を、素気無く突き放す。何て不遜だと、それを聞いた者たちに思わせた。
「殿下、今はゆっくりお休み頂くべきでしょう。ヒナ様、ご用はこちらのベルで」
「ありがとう、アリーさん」
背を向けたまま答えた陽菜に、アリーは寝室から誰彼構わず人払いする。
「アリー、全てキャンセルだ」
「ヒナ様のお気持ちを無駄になさいますな。殿下にきちんと公務を果して頂きたいのですよ」
「キャンセルしろ!」
「ヒナ様はご自身のせいで方々に皺寄せが行くのは、我慢ならないタイプの方でしょう?その為なら誰に何と言われようと、殿下に務めを果して頂く為の策を講じるはず」
「…慣れぬこの国に一人は心細いはずだ。それではよくなるものもなりはしない」
「ならば尚、ヒナ様の憂いをお早くなくして差し上げる事です」
アズィールとアリーのやり取りで、周囲はあの言動が逆にアズィールを想うが故である事を知る。
「これからは大切な会合も組まれております。ヒナ様が立てたプランですから、ご存知のはず。きっちりこなして早くお帰りになられればよいのです」
柄にもなく慌てていて、アズィールは今更気付く。
「…わかった」
踵を返したアズィールには他の侍従が付いて、王太子宮を出た。
「さぁ、ヒナ様に冷たいフルーツを用意して、氷嚢も取り替えて差し上げなければ」
アリーの言葉に動けず残った者がぱたぱたと動き出す。
「全く…王太子殿下も十四年下のヒナ様の前には形無しだな」
呆れたような口ぶりのアリーだが、表情は穏やかだ。このところ陽菜を慮る事が増えた。先程の陽菜の暴言も、アズィールを諭すついでに周囲に聞かせた。
初めてアズィールが執心した女、妻に迎える準備は恙無く進んでいる。驕る事を知らない陽菜は、どんな高貴な家の娘よりも王太子妃に相応しいだろう。アリーの中のアズィールへの心象も変わりつつある。
「さて…今日はいつお戻りになるか」
アリーはアズィールが戻り次第、食事が出来るように動き出した――。
静かになった寝室で、陽菜は氷嚢の冷たさを感じながら、小さく丸くなっていた。本音を言えば、思わぬ体調不良で妙に心細くあった。アズィールが即座に予定を全てキャンセルすると言った時、自分が立てたスケジュールに幾つかの重要な案件がある事も思い出した。
それよりも陽菜を選んでくれた事に、甘く胸が疼いた。体調さえよければ、抱き着いていたかもしれない程に。しかしそれを受け入れるわけにはいかない。アズィールにはそれらをこなしてもらわねばならないのだ。
社長秘書としての矜持が理性を強く後押しした。眩暈に誘われて顔を出し始めていた頭痛にも苛まれたその結果、無礼とも取られる物言いで退ける事になったのだが。
秘書として付く相手を支えはしても、その逆に手を掛けさせてはならない…陽菜の鉄則のうちの一つだ。日本ではなく本国での仕事なら、こちらの侍従は十分に付いていける。ならば陽菜はそうしてもらうまで。
どうやらアリーは陽菜の言葉の裏を読み取れたらしく、アズィールを公務へ促してくれた。アリーがいるなら心配はない。
「ヒナ様、よろしいですか?」
「…アリー、さん?」
姿を見せたのはアリーだった。
「オレンジをお持ちしました。少し凍っていますので、さっぱり召し上がって頂けますよ」
「ごめんなさい、アリーさん」
「いえ、こちらも配慮が足らず」
「自己管理が出来ないなんて…秘書失格です」
起き上がってみると、眩暈は随分収まっていた。
「少しでも召し上がって下さい。殿下もあと数時間で戻られる予定ですから」
「ぇ…?かなり早くないですか?スケジュール通りならまだ…」
オレンジを口にしようとした手が止まる。心なしか眩暈が戻って来たような気もした。
「きちんとこなしておいでですよ」
「実はどこか端折ってるんじゃ…」
「間違いなく、スケジュール通りです」
「その割には時間が…」
「そこは愛の力とでも申しておきましょうか」
違和感ばっちりの一言がアリーから放たれた。
「……は?」
「愛の力です」
「…いや、だからアリーさん」
「アズィール殿下のヒナ様を想う愛の力です」
「そ、そうではなくてですね…」
「ヒナ様を心配するが故に早く戻りたくて、公務も必死にこなされております。偏に愛の力です」
「…ア、アリーさん?」
「はい、愛の力です」
「……あの…」
「愛の力ですが、どうかなさいましたか?」
「いえ…何かそれ以上訊いても変わらない事がわかったからいいです」
何を言うにもアリーの口からは【愛の力】との返答で、陽菜は蟀谷を押さえた。
「さぁ、ヒナ様。召し上がられましたら、殿下が戻られるまでもう暫くお休み下さい。殿下が戻られれば、立ち所にお躯の不調もよくなりましょう」
「あ」
すっかりオレンジの存在を忘れていた陽菜は、漸く小袋も綺麗に処理されたオレンジの果実を口に運ぶ。まだ一部が凍っていて、噛めばシャリッとする部分も果実が弾ける部分もあり甘みも十分だ。完食するまでに氷嚢が取り替えられ、また横になるよう促された。
「香を焚いておきましょう、精神的に落ち着けるはずですから、ゆっくりお休み頂けます」
アリーは香を焚くと静かに寝室を出た。くゆる香りはどこかで嗅いだ覚えがある。胸が疼いて仕方ないので思い出そうとするのだが、霞み掛かった思考ではそれが何だかわからない。
部屋に香りが満ちてくると、まるで抱き締められているような錯覚を覚えた。ふと浮かんで来たのは人影だ。誰かの纏う香り――。
「……、…」
無意識に誰かを呼んでいた。訳もなく不安になって自身抱き締めて慰める。早く眠りの底に沈んでしまいたいのに、ゆらゆらと水面を漂っている状態だ。いっそ起きてしまえばよいのだが、香の香りは眠りを誘う。どっちつかずは苦しくて、でも選ぶのは怖い。
【私の愛しい太陽】
耳に心地好い音域で、そう陽菜を形容するのはこの世に一人だけだ。無性にそれを聞きたいと感じるのは、やはり恋しいからだろうか?じわじわと躯が水面を離れていく。明るさを感じなくなってきた。これで堂々巡りな思考から解放されるのだと安堵したまま、陽菜は深い寝息を立て始めた――。
「ヒナは?」
「二時間程前にオレンジを召し上がった後、また眠られたようです」
予定より三時間早く戻ったアズィールは、開口一番陽菜の安否を問う。アリーの返事を聞きながら足早に向かうのは、陽菜が眠っている寝室だ。
すでに日も落ちて、肌寒い風が砂漠から吹き付ける。アズィールの香が焚かれた寝室は、アリーの配慮で暑くもなく涼しくもない状態ではあるが、陽菜とこちらで暮らしている人間とでは体感温度も違うはずだ。
そっと寝台に近付くと、陽菜は身を小さくして猫が丸くなるように眠っていた。それは微笑ましい姿にも映るが、寒いのか不安なのか…陽菜は自身を抱き締めるように寝息を立てる。アズィールは思わず陽菜の頬に手を伸ばしていた。
「ヒナ?」
ふと身じろいだ陽菜が、何事か呟いた。聞き取れず、耳を澄ませて顔を寄せる。
「……ズ…、…」
囁く唇に呼ばれ、安堵の息が漏れる。愛しい名は公務の最中にも何度口にしたかわからない。アズィールは行く先々でどうしたのかと問われた。
何故だかまで考えず、陽菜の件に触れて心配だと言えば、どこもが早く切り上げてくれる。 珍しく落ち着きのない自身を、アズィールが無自覚であったのも手伝っていたのだが。
その話は勝手に広まり、行く前に今日は…と、遠慮してくれる相手もいた程だ。きっと陽菜に知れればまた手厳しい一言が待っているだろうかと、苦笑いしてしまうが、心配してしまうのは仕方がない。逆に自己管理をしっかりするよう言い返してやろうとも思った。
「……、…ル?」
ささやかな呼び声に、アズィールは無言で唇にキスをする。
「…ちゃ、んと…」
「勿論だ。行って来たが…どこでも早く帰れと追い返されてしまった。行く前に次の機会にと言ってくる相手もいたな」
「……ごめん、なさい」
慰めるようにキスを繰り返す。体調不良で精神的にも参っているのかもしれない。
「気にする事はないよ。私とした事が…どうやら心配が表に出ていたようだ」
繰り返されるキスで贈られるささやかな温もりを、陽菜は引き寄せていた。首に腕を伸ばして来た陽菜に応えるようにベッドに乗り上げると、華奢な腕は求めるようにアズィールを引き寄せる。ベッドに腕と膝を付いてされるがままでいてやれば、首元で深く長い息を感じ、陽菜の躯が弛緩した。
「ゆっくり休めたか?」
「………」
頷きながら擦り寄る陽菜に、愛しさが募る。
「気分は?」
「……、…た…」
陽菜を腕に包む為、首に絡まる腕を緩めるよう軽く叩いて要求するも、幼い子供が嫌々をするように小さく首を振って、緩むどころか更に力が篭る。
「ヒナ、すまない…聞こえなかった」
甘えた仕種が堪らず、しっかりと腕に抱き締めたかったのだが、陽菜が離れたがらないようでそれも嬉しくあった。
「さ…みし、かった…」
まさかそんな事だとは思わず、アズィール瞠目したまま硬直した。
「…ヒナ、腕を離してごらん?すぐに私が抱き締めるから」
何度も嫌々をする陽菜に同じだけ腕を離すよう諭すと、陽菜は腕を離してくれた。隣で横になり、陽菜に腕枕をしながらきつく抱き締めて、擦り寄る陽菜を何度も呼ぶ。
「もう置いては行かないよ、ヒナ?これからは必ず一緒だ。だから…早く良くなってくれ」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていい。これからはお互いにお互いを気遣っていこう。私の監視は生易しくないから、覚悟が必要だよ?」
「うん…」
「いい子だね、ヒナ。もう少し眠るかい?それとも湯浴みをしてから軽く食事にしようか?」
また嫌々をされて浮足立つ自身を抑止しながら、最後とも言える一つを提案する。
「それじゃあ…このままでいよう」
それに小さく頷かれて、アズィールは嫌でも浮かれてしまう。普段の陽菜はオンもオフも口調や表情が変わるだけで、アズィールに甘えたりする事など皆無だ。
陽菜が育ってきた環境を考えれば、当然の結果とも言える事だが、アズィールはそれで済ませるつもりはない。アズィール自身にだけは幾ら甘えても大丈夫なのだと理解させたかった。陽菜の全てを受け入れて、愛していきたい。だから陽菜にもいずれで構わない、そうされたい。
「肌寒くはない?」
「…少し」
「ならばもっとこちらへおいで。私が温めてあげるから」
擦り寄る陽菜を更にしっかりと抱き包んで、髪に鼻先を埋める。自身の香りが陽菜から香るのに頬が緩む。
「私の香を焚いていたんだね…陽菜から私の香りがするよ」
「…アズィール、の…だったの?」
「早く私の香りをヒナに覚えてもらいたくて、香木を作らせたんだ。気に入らなかったかい?」
「…ううん…好き…」
「よかった。ヒナのものも作らせようか」
陽菜が気に入ったと言うだけで、褒められた子供のような気分だ。無性に嬉しい。
「…いらない…これ、あるから…」
「…あぁ…ヒナ」
歓喜の余り抱きしめる腕に力が篭る。
「ん…」
「苦しいか?」
「…平気」
「もっと抱き締めても構わないか?」
「ん」
歓喜が止まらない。陽菜が素直に受け止めてしまうから。
「ヒナ…君からキスしてくれ」
今度こそ外方向かれると思ったのだが、陽菜は顔を上げて下唇に触れてくれる。
「愛してる、ヒナ」
「…うん…」
「ヒナ…!」
はっきり言葉にされたわけではないが、陽菜から同意を得られた。
「ヒナ、愛してるよ…愛してる。まだゆっくり時間を掛けていこうと思っていたが…どうも待てそうにない。サイードたちがハネムーンから戻り次第、私の妻に…なって欲しい。君だけだ、どうか信じてくれないか?」
気が急いてしまう…陽菜の気持ちが少しでも見えるうちに、完璧な答えが欲しい。妻になると…合意が欲しい。今は合意なしに準備を進めている状態だ。だから陽菜は逃げてしまうかもしれない。
「ヒナ…私の愛しい太陽…君がいなければ私は光のない道を歩む事になる…私は君に希う。どうか…私だけのヒナに、我が太陽に、唯一の妻に…なって欲しい」
熱心な愛の言葉。紡ぐ程に陽菜は身を固くしていく。
「ヒナ…愛している」
強張りを解すように、アズィールが背を撫でる。重荷を課してしまったかもしれないと後悔したが、すでに遅い。
「すまない、ヒナ…君に無用な責任を課すつもりはないが…私はこの国の王太子としての地位から逃れる事は出来ない。だが君はそれに縛られる必要のない人だ」
「……うん」
「憂う事があるのなら…何でも言ってくれ。君の素直な気持ちが知りたい。私の言葉がヒナを苦しめているのなら…はっきりとそう言って欲しい」
包む腕の力を緩め、顔を覗き込む。今にも泣きそうな陽菜に、気分は沈み切り、別れすら覚悟せねばならないと…。
「…私、には…王太子の妻、なんて…務まらないし…文化も違う…」
「あぁ」
「それに…過去だって…もし露見したら…アズィールが…」
「…それで?」
「秘書でいられても…ハレムの女にはなれても…妻にはなれない」
「…そうか」
「ごめん、なさい…すぐ日本に戻って…一週間以内に私の後任を育てるから…」
腕を突っ張って距離を取ろうとするが、陽菜の背中に回った手がそれを許してくれなかった。
「言いたい事はそれだけか、ヒナ」
「っ!?」
ゾッとする低さで囁かれた。それが出来るのはこの場にたった一人だが、その相手からは今までただの一度も聞いた事がない。
「言ったはずだな、ヒナ…俺は…サイードの比ではない、と」
「ア、ズ……?」
「それがお前の素直な意見だとするなら…俺も全て晒さねばなるまい?」
物腰の柔らかさは欠片もなく、独裁的な雰囲気を醸す。目の前にいる男があのアズィールだとは思えない。
「俺はお前を妻にする。それはお前がどれだけ拒もうが変わらん。その手筈も全てアリーが整えた、お前は俺の腕から逃げられん」
「っ…」
「お前を逃がさぬ為に…俺がどれだけ苦心して紳士でいたか…だが本国に一歩踏み込みさえすれば、お前を閉じ込める事など容易い」
傲慢不遜…今のアズィールは正にそれだと思えた。
「日本での手続きは外務省に連絡を一本入れて、全てやらせればいい。簡単な事だ」
酷薄にも見える笑みに身震いしてしまう。
「俺が怖いか、ヒナ?だが今更だぞ。俺は逃がさない…紳士の振りはしていたが、お前を愛しているのは真実だからな」
「ア…ズィ、ル…?」
「…ヒナ、俺の愛しい太陽。俺の愛に応えろ、お前は俺に愛される運命にある。お前の憂いなど、俺が全て握り潰してやる。俺の腕の中で俺の愛に溺れてしまえ」
困惑したままで深く口付けられ、アズィールは戸惑いごと懐柔する為に愛撫に走る。
「どちらも俺で私だ。すぐ慣れる」
「ぁ…」
「俺の熱で溶けてしまえ…お前は…我が妻だ」
不遜な物言いをしながらも、陽菜を愛撫する手や舌は陽菜の戸惑いを溶かしていく。
「ヒナ…俺の愛しい太陽…俺の愛を知り、俺の愛に溺れろ」
豹変したアズィールの激しさに、陽菜はアズィールに所有されている事を知る。何度も繰り返される占有宣言と愛。紳士的に振る舞っていたあの男は、身の内にこれ程の激情を隠していたのだ。
「サイードは嫉妬の余りミツキに触れた男を攫い、砂漠に捨てろと言ったらしい」
「っ、ふ……」
「当然止められたらしいが…俺はやるとするか。訳を聞けば、泣いて命乞いをするだろう…見物だと思わないか、ヒナ?」
「そ…っ、んな……」
「そうすればお前の憂いは一つ、確実に握り潰せる。砂漠に捨てるだけだ…造作もない」
御印の如く猛禽の瞳は、激しい怒りを帯びて鈍く光る。
「俺に掛かれば造作もないのだ、ヒナ…よく覚えておけよ?俺の元から逃げたところで、俺は地獄まで追うぞ。どこまででも、ただお前だけをな」
「っ…」
何度も放たれて熱さの感覚が麻痺した陽菜に、尽きる事を知らぬかのようにアズィールは注ぐ。
「ヒナ…俺でこんなに満たされて、溢れてるな」
「っ…」
「もっと欲しいだろう…?ここに…」
「も…無、理ぃ…」
刺激するように最奥を突つく。
「ならば湯浴みだ。暫く休んだら、また飲ませてやる」
解放された途端、溢れた熱が流れ落ちる感覚に身を震わせる。
「…少し無茶をさせたようだな」
「…ぁ…」
指一本動かせないような疲労を見せる陽菜に、アズィールが苦笑いした。それはこれまでに何度か目にした表情だ。
「ゆっくり湯浴みをしたら、何か胃に入れて眠るか…ヒナはまだ病み上がりだからな」
キスが優しくて、陽菜はぼんやりとアズィールを見上げた。
な
「…こんな私では嫌か、ヒナ?」
「ア…ズィ、ル…」
「本当の私はこんな紳士ではない…こんな私は嫌いか?」
悲しみに歪んだ苦笑いが陽菜の胸をも苦しくさせる。驚きはしたが、嫌悪はない。そもそも陽菜の為に隠してきたものらしい。それを聞いた陽菜が嫌な気になるわけがない。それは陽菜がアズィールに傾いている証でもある。
「…、………ぃ…」
声が掠れるせいで鮮明さを欠いていた。陽菜が答えたのに、アズィールはうまく聞き取れなかった。
「…ヒナ?」
「い、や……」
「っ」
息が止まるかと思った。
「…じゃ…な……」
続いたそれに今度こそ安堵出来た。だがそれはアズィールの抑止をやめさせる事にも繋がる。アズィールは自身の激情をよく理解している。だからこそ陽菜に関わる場では、物腰柔らかで穏やかな王太子を演じてきた。
どこからか陽菜に知れるのを恐れたからだ。抑止の必要性を失った自分がどう暴走するのかもわからない。本性を晒して理解されたいと思った女に出会った事がないからだ。陽菜がどこまでに理解を示すのかも推測出来ないなら、暫くは紳士の振りも続けてやるべきか。
「私の愛しい太陽…湯浴みに行こうか」
そっと抱き上げ、バスルームに向かえば、湯には鮮やかな花弁が浮かべられている。六畳はあろう浴槽を埋め尽くす程だ。アズィールの膝の上に横抱きのまま座らされた。
「どこか痛むところはないか?」
「…平気」
口調が紳士に戻っているように感じた。
「…アズィール、は…」
「どうした、ヒナ?」
「私がいない公務の時、どっちでいたの?」
「ヒナ以外に紳士である必要はないだろう?私の言動に抑止効果を発揮したのはヒナだけだ」
掌に湯を掬い、陽菜の肩や腕、背中に掛けながら労るように撫でる。
「サイード殿下みたい」
「サイードは私を見ていたからね…歴代の王族には珍しく、私とサイードは実の兄弟だ。大抵、継承権を持つ兄弟の母は違ってきたが、我々は偶然にも同じ母から生まれているし、同じ環境で育った。父にも愛妾はいるし、私たちの下に腹違いの弟妹はいる…だが妻との子ではないから、私やサイードに何かない限り、継承権は与えられない」
「弟や妹がいるの?」
「あぁ。私たちの母は病で亡くなった。父は情が広くはある、だが妻を亡くして十年以上になるが、次の妻を娶る事もしない」
「…どうして?」
「私たちの母を、誰より愛していたからだ。第二夫人はいたが母の妹で、娼館に売られそうだったところを、母の為に形だけ妻にしたらしい。第二夫人には一切触れなかった」
「そう、なんだ…」
それを聞くに、アラブの男が多情であると言う認識は間違いらしい。
「…どうした?何か気になったのか?」
「アラブの男の人って、複数妻が持てるでしょ?」
「あぁ」
「それにハレムとか…基本的に多情な民族なんだと思ってたから」
「そ、その認識は…改めてもらえるとありがたいがな」
陽菜からは見えないところで、アズィールが眉間に皺を寄せた。自身が王になった暁には、陽菜曰く【多情】なそれから変えてやろうかとも考えた。まだ二人には互いの知識面に相違があるらしい。
「インド周辺国やアフリカ・アラブ系国家は多情仏心な男か、妻の数で豊富な財を主張したがる見栄っ張りが多いって思ってた」
「…そう言う輩もいるだろうが…俺はそんなつもりはない」
陽菜の認識は間違いなくアズィールにも適用されている。つまり、陽菜のアズィールに対する評価には、明らかに【多情】なる不名誉なものが含まれている事がわかって、無意識のうちに地が出ていた。
「俺のハレムにいる女、確かに一度関わりを持った。だがそれきりだ。二度と抱く事がなくてもよければ、入りたいなら入れてやる。生活の保証はあるが、俺の寵愛はない。入らない女には平民なら一生分に相当する金だ」
「……え?」
「もう二度と必要はないが、俺が抱く女たちにさせる決まりがある。部屋に入る前に媚薬入りの茶を飲ませておき、潤った頃に俺が部屋に入る。事前に脱衣はさせておいて、すぐに背後から事に及ぶ。中には出してやらん。所要時間は長くても精々三十分だ。その後は侍女に命じてすぐに湯浴みをさせる。残滓も残さず洗わせる。俺は別にまた湯浴みだ」
「…女嫌いなの?」
「どれだけ美しいと噂の女も、真正面からは萎えた。俺自身、男色を疑いもしたが、ノーマルである事はわかっている」
「大変、なんだ…」
「他人事か、ヒナ?」
これだけぶちまけても、陽菜がどれだけアズィールにとって【特別】であるかが理解されていないような気がして、その声色が低くなる。
「え?あ…何か、苦労して来たんだなぁって」
同情されているのだと察して、アズィールはふいに頭痛がしているような錯覚をおこす。だがいっそここまでぶちまけたなら、全て暴露してやろうかと、半ば自棄を起こしてもいた。
「…初めてお前を見たのは初来日の晩餐会ではない。幾つか株主をやっている企業はあるが、S&Jはお前を見掛けてから株を買い足したんだ」
「…え?」
「副社長に付いてアメリカに出張した事があるはずだ」
「あ…去年の…冬に一度だけ」
「ホテルの晩餐会…偶然俺は他社の晩餐会に招かれて、同じホテルにいた。ホールの外で副社長と共に自己紹介しているのを聞いた。S&Jの副社長秘書…ならば経営権を手に入れれば、お前を…手中にする機会を得られると思った」
「…そんな理由で…株の買い足し?」
「俺にはそれしかなかった…あの時点での持ち株では出資元にはなれても、経営権はない。筆頭経営権がなければ意味がない。買い足した株で、ヒナに会う為の見合い券を買ったのだと考えても、これ程の幸運が世にあるはずがない」
「…見合い券…」
その表現に陽菜は絶句。
「その機会にさえ恵まれれば、逃がしはしないと…あの頃なら自信に溢れていたんだが…」
「………?」
アズィールが苦い気分を誤魔化すように、陽菜にキスをした。
「自信、ないの?アズィールが?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「唯我独尊、融通無碍、傲慢、不遜…あと…」
「…もういい」
「手口の早さの割に優柔不断」
「…お前の意志を尊重してやっているんだ」
「そこが傲慢」
「お前って奴は……そこまで俺の妻になるのが嫌なのか!?」
何故か言い負かされてしまうアズィールは、腕には収まる癖に思い通りにならない陽菜に苛立ちをぶつけてしまう。躯は許しても心は明け渡さないつもりか。
「…嫌なんて、一度も言ってない」
「………な…!?」
「向いてないし、相応しくない。でもアズィール個人は好き」
「………」
予想し得ない陽菜の言葉は、毎回アズィールを思考をストップさせる。
「何か…いろいろなければ奥さんになってもいいかなって…思うくらいには」
「………」
陽菜が絡む件には、珍しく下手に出てしまうからだろうか。強引に事を進めたり言ったりする割に、陽菜を気遣ってしまう。惚れた弱みと言う以外にない状態だ。
「アズィール…?」
言うべき言葉も紡げない程に、アズィールは混乱している。自身に対して好きだと言われた事はない。香りや香木に対してだけだった。
「…出るぞ」
漸くそれだけ言って浴槽を出ると、陽菜を柔らかい大判のタオルで包み、寝台に戻る。寝乱れていた寝台は、すでに整えられていた。
「アズィール?」
そのまま寝台に降ろされた陽菜は、難しい顔をしてバスローブを身に付けるアズィールを見上げていた。何か…知らぬうちに不味い事を言っただろうか?無意識のうちに、陽菜は謝罪を口にしていた。
「ごめん、なさい」
「…今更…なかった事にはしてやらない」
「っ……ごめ…、…っ」
「い、いや…ヒナ…お前が悪いわけではない」
もうアズィールもいっぱいいっぱいで、処理許容を超えていた。陽菜が絡むとこれだから困る。だが陽菜でなければ駄目なのだ。
これからこんな事が続くのかと、先が思いやられても、それは陽菜がいてこその自らが熱望し続けた未来だ。陽菜の前に跪く。敵わないと、万感の想いと共に――。
寝台に座る陽菜、寝台の下に跪くアズィール。陽菜はきょとんとアズィールを見下ろしている。
「ヒナ、何に変えても守ると誓う。我は希う…ヒナ、どうか俺の妻に…」
素足を手に取り、足の甲に口付ける。
「アっ…アズィール!?」
「俺の愛は…お前だけのものだ」
「っ」
「返事は一つだ。はいと言え」
伸び上がって膝頭にキスを贈り、そのまま胸元にもキスをした。
「ヒナ、返事がない」
催促しながら唇を啄む。
「…はぃ」
「………は?…い、いいのか?」
「…駄目?」
首を傾げられて、アズィールは脱力するように陽菜の膝に額を頭を預けた。
「アズィール…どうし…」
「ヒナ!」
「え!?な、何…?」
「もう一度…もう一度聞かせてくれないか?」
「…あ…うん?」
気遣って頭を撫でようとしたが、勢いよく顔が上げられて手が宙に残る。その手を取ったアズィールが、見た事もない程に目を輝かせた。まるで子供だ。
「俺の妻になってくれ」
「はい」
はっきりと即答されて胸が熱くなる。
「ヒナ、ヒナ!もう俺の妻だ!」
こんなにテンションの高いアズィールを見たのは初めてだ。寧ろ、ここまで喜べるのかと感心してしまう。陽菜をきつく抱き締め、キスの雨を降らせる。
「ヒナ!婚儀だ!サイードが戻った翌日にはすぐに婚儀を執り行うぞ!」
ハイテンションに付いて行けず、陽菜はきょとんとしていた。喜びを躯でも表現しているアズィールは、やはり大きな子供にしか見えない。
「すぐドレスを用意させよう。白もいいが、やはりクリームゴールドのドレスだな…美しい装飾をふんだんに施して、太陽を模したティアラでお前を飾ろう。サイードとミツキの式典の式次は知っているだろうが、俺の場合の式典には手順が増える…お前ならすぐに覚えられる」
「ぁ、あの、アズ…」
「アリー!聞こえたな!?すぐに手配だ!」
アズィールが声を張り上げると、外からはアリーの返事があった。昂奮が収まらないアズィールは最早別人格だ。紳士で、暴君にもなり、また子供にもなる。陽菜にしてみれば未知との遭遇だ。
「ヒナ!ヒナ!」
何度も名を呼び、抱き締めてキスを繰り返す。だが嫌な気はしない。
「アズィール」
「ヒナ」
頬を両手で包み、自らキスをすると、アズィールが硬直した。
「…愛してあげる」
妙に素直になるのが癪な気がして、そんな言い方しか出来なかった。それでもアズィールが破顔する。
「あぁ、ヒナ…俺を、愛せ」
こうして王太子宮では本格的に王太子妃を迎える準備が始まった――。
同じ月のうちに、王位継承権を持つ王子の婚儀が執り行われたのは初めてだ。そのどちらもが、唯一の妃として日本人を迎えた事も、世界を騒がせるニュースとなった。
そうなる事を恐れていたのは陽菜だ。ゴシップ誌に自身の過去が暴かれて、アズィールに迷惑が掛かるのではないかと。しかし母はすでに病で他界、陽菜を暴行した父も事故で他界していた為、陽菜と付き合った男のみとなった。それも心配には及ばない事だ。
躯だけなら数多いる男だが、陽菜は深く係わり合ったり、写真などの証拠に残るものは許さずだった。例え証拠があったところで、アズィールの本気の前ではそれを晒す気も失せるだろう。
【我が妻と過去の関わりを持つ男を見つけ次第、砂漠に捨てようと思う。過去があるから私に相応しくないと身を引こうとまでした…ならばその過去は私が握り潰してやろう、我が最愛の太陽の為に】
周辺諸国はアズィールの地の姿しか知らず、密かに恐れられている。妻次第では危険な存在になりかねないと言われていたのだ。それが兄弟揃って日本人女性を唯一の妻として迎えると言う。
アラブ周辺諸国でもシャーラムでも初の事に、日本は非常に友好的らしい。日本メディアは陽菜と美月を絡め、シャーラムの特集を組む程で、日本人旅行者もこれまでは限りなくゼロに等しいものだったが、二人が嫁いだ事で急増した。
国王も今や親日家。古くからあるしきたりは大切にしながらも、新しい文化や先進国では一般的とされる事も少しずつ取り入れる事を決めていた。
一番の変事は、女性の社会進出だ。アラブ周辺諸国では、未だ働く女性はふしだらだとの認識が強い。始めは陽菜や美月の侍従に近しい仕事を批難する声もあった。それを突っぱねたのは、国王でもアズィールでもサイードでもなく、陽菜と美月だった。
二人は改めて民の前に立ち、女が仕事をする必要性やその利点を古くからのしきたりを卑下する事なく語った。アラビア語ではっきりと語られるそれは、聡明な女性である認識を広めた。二人の言葉も世界でニュースとなり、先進国ではその意見に多くの著名人や女性たちの賛同を得、途上国も一部それを認める動きを見せもし始めている。
シャーラムの太陽と月…二人はその名で世界的に名の知れた妃殿下となった。夫だけではなく、民からも愛される妃殿下だ。
二人が嫁いで半年――日本の全国ネット局がシャーラムの特集を組みたいと、インタビューを申し入れて来た。再三に渡り、アズィールとサイードは却下を繰り返してきたのだが、シャーラムの情報は余りに少なすぎた。十数日の会合の結果、ついに国王が許可をした。
二十名のスタッフとリポーターとして有名芸人と評論家がシャーラムに招かれた。迎賓館で出迎えたのは陽菜と美月だった。
「遠路をよくお出で下さいました」
「お疲れでしょうから、まずはお部屋へ案内しますね」
女性スタッフにも配慮しつつ、迎賓館の一角に一行を割り振る。
「時差もありますから、今日はゆっくり休んで下さい。こちらは皆、英語が通じます。何かあれば彼らにお願いします」
「私たちは明日の朝、改めて参ります。朝食をご一緒しましょう」
遠く砂漠の地で聞いた日本語に、一行は安心感を得たらしい。
翌日、迎賓館には陽菜と美月だけではなく、アズィールとサイードも顔を出した。王位継承権を持つ王子二人の登場に、一行は恐縮しながら、本邦初の四ショットをカメラに納める事に成功した。王子二人は朝食の後、迎賓館を出て、それぞれがすべき事に向かう。
陽菜と美月は国内を数日に分けて案内していく。王族の正妃自らの案内は、異国出身にも関わらず、歴史なども話に盛り込まれた完璧なものだ。互いの居住区も一部撮影させ、最後は王宮だ。国王への謁見は音声のみが許可され、親日家の国王は友好的に応じていた。
「陽菜妃殿下、美月妃殿下。ありがとうございました。シャーラムはまだまだ日本での認知度が低くありましたから、これで国内でも広く知られて行くでしょう」
「お二人がいらっしゃったからこそ実現した企画ですからね」
評論家はこの数日の取材で、旅行記のようなものを出版したいと言っていて、リポーターだった芸人は是非また訪れたいと言った。
「私と美月がそれに一役買えたなら光栄です。基本的に文化の違いは大きいですから、旅行などで足を運んで頂く前に知っておいて頂きたい事も多いですし」
「陽菜も私も、実はかなり戸惑いましたしね」
インタビューにも、陽菜と美月は穏やかに話す。
「え~…旦那様、とお呼びしていいのか迷いますが…殿下方は妃殿下たちから見てどのような方ですか?」
「アズィール義兄上は正に王子様ね。とても国を思っていらして、女性の社会進出にも一番に賛同して下さったし」
美月はまずアズィールを例えた。義兄としても王太子としても、アズィールは優秀だ。
「正に王子様、は…振りだったでしょ?日本人の私たちだけが知らなくて、周辺諸国ではそんなではなかったらしいんだけど…アズィールは紳士で強引で子供っぽいところもあって…愛すべき旦那様、かな?私、サイード殿下とは…いつも美月の取り合いをしているの」
陽菜が思い出して肩を竦める。サイードとの相性がとにかく悪いのだが、子供の喧嘩に近いいがみ合いだ。
「陽菜ったらサイードを苛々させる天才なんだもん。普段から強引だけど不器用で、日本人が驚く程気障なのに言葉足らずな時もあったり…でも私に永遠の愛をくれる人ですね」
「妃殿下たちはラブラブなんですね、羨ましい」
芸人が茶化すように言うが、二人は顔を見合わせて笑うだけだ。
「ところでお二人はまだ秘書をされているんですか?」
「私は夫…アズィールの秘書を続けていますよ。私たちは英語とドイツ語、アラビア語以外は話せる言葉が違うので、お相手の使う公用語に応じて通訳にも付きますから」
「私も陽菜も陛下に付かせて頂く事もありますし、私は普段はこちらで秘書育成の講師もしています。陽菜も週二日講師に」
「妃殿下たちが講師を務める秘書学校があるんですか!?」
今や【妃殿下】である二人が講師を務めていると聞き、評論家も驚いた。
「学校、ではないです。こう見えて私も陽菜もまだ会社員ですから。自社のシャーラム支社が来年の今頃から就業開始になるので、その為の秘書育成ですね」
「妃殿下が会社員…何だか見当が付きません」
「感覚としては共働きの夫婦と変わりませんよ。私たちの会社は、アズィールが社長を務めていますから。元々、話せる事もあって秘書育成の為に転勤予定だったので」
「それがいつしか永住する事に?」
単位が家庭なのか国なのか、名称の違いでしかないと告げた陽菜に、美月は同意している。
「だけど二人揃ってなんて…驚きでしたよ。私とサイードが新婚旅行から戻ってすぐ、陽菜がアズィール義兄上と結婚って」
「史上初の王子二人が一月で立て続けに婚儀で、相手はどちらも日本人だしね?」
「電撃結婚と言われる程に短期間で決められたんでしたね」
「私は二週間くらいですよ。美月はもっと早いけど」
「プロポーズを受けるまで、日数でなら一週間…かな?最初のプロポーズは実質二日でした」
「不安なんかはありましたか?」
その問いに二人は再び顔を見合わせた。
「私も美月も当然、不安だらけで安心出来る要素なんてありませんよ。文化や一般常識が違うだけでも戸惑うのに、相手は王子様…だし?」
「そうだったね。プレゼントされた香油の意味や御印の意味とか…固有の伝統も。でもサイードもアズィール義兄上も、私たちの為に日本について学んでくれて」
「理解して受け止めてくれるのをきちんと見せてくれたり、言葉にしてくれたから…付いて行こうかなって想えた事は否定しないけど」
「お二人の話はドラマや小説になりそうですね」
「確かにロマンスではあるわね。一生に一度って感じ」
あっさりそう告げた陽菜に、美月は肩を揺らす。
「陽菜、アズィール義兄上にそう言って差し上げたらいいのに…」
「駄目」
「おや、陽菜妃殿下はアズィール殿下と愛を語らったりは?」
「アズィールは毎日毎時愛してるって言ってくれるけど、私からは余り。アラビア語では言えないけど、日本語なら平気。アズィール、愛してるからね」
「照れですか」
「調子に乗せると仕事にならないの。忙しい人だから、分刻みの予定こなさなければいけなかったり…だから奥の手にキープしておかなきゃね」
「陽菜がいないと仕事が早いのよね、早く会いたいから」
「アリーさんからもよく言われるわ、それ」
和やかに夫である王子の話をしながら、取材は終了した。特番として四時間の枠は極限までカットを押さえ、シャーラムの歴史などはしっかり盛り込まれていた。
取材から数日後、陽菜と美月の二人同時に妊娠が発覚。予定日はほぼ同日だ。およそ十ヶ月後、陽菜は男児、美月も二日後に女児を出産。
シャーラム国内は大いに沸き返って、一週間に及ぶフェスティバルが続いた。国王も頬を緩める孫の誕生に、誰よりアズィールとサイードが歓喜した。互いの愛が形を成したからだ。
「ヒナ、疲れただろう?少し眠れ」
連日のお披露目や我が子の世話で、陽菜は寝不足気味だ。それは美月にも言えるだろう。乳母は付けず、陽菜や美月が自ら我が子の世話をするのは、アズィールやサイードも賛成だ。
「ん…」
ふわりふわりと微睡み始めた陽菜を腕に包み、共に横たわる。我が子は授乳が済み、襁褓も変えた。暫く眠れるはずだ。
「俺の愛しい太陽」
「…アズィール…」
「さぁ、眠れ」
「ん…愛、してる」
何とかそれだけ呟いて、眠り落ちた陽菜。アズィールは陽菜からの不意打ちに、いつも驚きの余り硬直してしまう。
「……全くお前は…」
微苦笑し、揺り篭の我が子に目を向ける。アズィールによく似た男児…これでサイードは継承権から解放された。
「これからが大変だな」
しっかり陽菜を抱き寄せて、親子は珍しく穏やかな昼下がり、揃って微睡んだ――――。
――END――