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~80P

「他にすることがないからな」

 今日だけで五度目の《チューニング》を冬臣は施す。検査機に示された文字列や数列に問題がないことを再三に渡り確認すると、検査機を閉じた。

「問題無し! ですよね?」

 からかうような顔を見せた雪奈に頷いて返すと、華奈がちょうど控室に戻ってきた。

「遅かったな、何か問題でもあったのか?」

「え、ううん。控室が個室なの初めてだから道に迷っちゃって」

 すんなり戻れず慌てたのか、華奈は少し頬を赤く染めた顔で言う。

「本番前に一人にしてすまなかった。次からは俺も同行しよう」

「駄目ですよ《プロデューサー》さん、女の子のお花詰みに付いて行くなんて」

「む、そうか」

 本番を前に、実に緊張感のない会話だった。そしてそれは、会場スタッフが華奈を呼びに来るまで続いた。会場スタッフの案内に従い、華奈が移動を始めた所で、冬臣は初めて異変に気づく。華奈を呼び止めると彼女は悪戯を咎められる子供のように身体を硬くする。

「大丈夫だ。行って来い」

 自分の耳を信じられないのか、華奈は目を見開いていた。しかし、一転してはっきりと頷きを返し、控室を後にする。

「雪奈は気付いていたのか?」

「《プロデューサー》さんとほとんど同じタイミングです」

「舞台袖まで行って来る」

 華奈の《パフォーマンス》時間約十分。決して目を離さない決意をして冬臣は行く。

 控室を後にし、会場入りした観客のざわめきが耳に入る。警備スタッフにパスを提示し、A会場の舞台袖に辿り着く。いつでも飛び出せるように意識しながら待機を始めた。

《プレフェスタ》一組目が始まる。

 何の前振りもなく演奏が始まり、観客の声援が上がる。華奈に一斉にスポットライトが当たり始め、《雪珠》が輝く。華奈のダンスに合わせて《IL》の光が舞い散り、華を添える。そして歌が始まった。

 やはり本調子ではない。ダンスでは時折膝が折れ、歌はいつもより音が伸びず、《雪珠》から放出される光も途切れ途切れだ。だが華奈は大汗を掻きながらも決して不調を顔に出さないよう笑顔を見せ続けた。

「頑張れ、華奈。後半分だ」

 歌が終わり、後奏部分で華奈の見せ場がやってくる。激しく《ステージ》を打ち鳴らすようにブーツが運ばれ、高速で踊る。

 やり切った。華奈の決めポーズと共に、曲が終わる。疲労と不調で荒い息を吐きながらも、司会から簡単な紹介を受けて、ファンへと一言述べた。そして、冬臣の待つ舞台袖へと戻る。

 足がもつれそうになりながらやってくる華奈を支えてやると、彼女は冬臣の胸で涙を流す。

「ごめんなさい、ごめんなさい。お兄がせっかく完璧に送り出してくれたのに」

「いいステージだった」

「あんなにボロボロだったのに?」

「ボロボロ何かじゃなかった。今ある力を限界まで出し切った《アイドル》のステージがボロボロなものか」

 冬臣の柔らかな声に、華奈は落ち着きを取り戻したのか、意識を手放す。背負った彼女はしっかりとした重みがあり、それが冬臣にとっては喜ばしい。そのまま医務室まで運ぶと、冬臣は控室へと戻った。

「お帰りなさい。華奈は医務室ですか?」

「ああ。寝入ってしまった。本来なら帰宅したいところだが、結果を見届けなくてはならん」

「私が見ておきますよ?」

「いや、凜のステージも見ておきたい」

「そうですか。大変ですね、離れた《アイドル》を二人も面倒見て」

「自分で決めたことだ。何の負担にもならん」

 視線を感じ、その先を追うと雪奈の静かな瞳に当たった。

「《プロデューサー》さんは優しいですよね」

 真意を図りかねるその言葉に、無言でいると、雪奈は言う。

「《アイドル》を自分の思い通りにさせようとはしないじゃないですか。向こうで華奈に付いていた《スタッフ》さんたちは自分の価値観に絶対の重きを置いていましたよ?」

「自分を信じていないだけだ」

「現役の《S級プロデューサー》は世界で《プロデューサー》さんただ一人なのにですか?」

「たまたま最初に着いた天才アイドルのお零れだ。実際他の専任《S級》の奴らは俺とは比べ物にならないほどの最高の仕事をしてみせる。してはならない失敗をした俺とは違う」

「……そう、ですか。でも私たちはあなたに会えて良かったです」

 果たしてそれは記憶を失う以前の雪奈でもそう言えただろうか。冬臣はそう考えた。

「のびのびと華奈を成長させてくれて、折れてしまいそうなほど強がっていたあの子の強がりを取り除いてくれて、私も、そんなあの子を見られて幸せに思います」

「急にどうした?」

「いいえ、何でも。ただ、お礼を言いたくなっただけです」

 そうか。冬臣は短くそう言った。かゆい所に手が届かない。何か見逃してはならない物を見逃してしまっている。そう感じながらもその正体を掴めない。

「そろそろ凜さんの出番ですよ」

 雪奈の促しに、控室に備え付けられたモニタへ視線を向けることで答える。凜の前の演者がちょうど退場したところだった。

 凜が《ステージ》に登場する。黒いワンピースドレスに《凜音》の水色が映え、青い光のスポットライトがまたそれを引き立てた。雪奈に劣らず美しい肌も、顔立ちも引き締まり、それだけで観客の《ボルテージ》が上昇するのを感じる。

「綺麗な子ですよね。少し嫉妬してしまいます」

 その発言は間違いなく《ステージ》に立つのが雪奈で、観客が凜だとしたら凜が口にするだろう発言のはずだった。

「お前は、《アイドル》にはならないのか?」

 戻らないのか? とは言えなかった。

「そうですね、今であれば華奈も笑って送り出してくれますかね~。その時は《プロデューサー》さん《ドレス》作って下さいますか?」

「いつでも言え」

 いつでも手渡すつもりでいる。言いはしないが背広には今も《スノウドロップ》がある。

 モニタの中で、凜の歌が始まった。映った観客席が青の光で埋め尽くされ、とても美しい。青の光はゆっくりと左右に振られているが、観客の《ボルテージ》は加速度的に上昇しているに違いなかった。

 凜の《IL》が《ステージ》外の控室まで影響を与えることはない。しかし彼女の歌声が、所作が高い《パフォーマンス》を示す。《B級》で彼女に匹敵しうる者はなかった。

 圧倒的な《パフォーマンス力》で会場の空気を掌握した凜は《プレフェスタ》を制覇し、《フェスタ》出場権獲得者十人目で華奈の名前は挙がった。その翌日、冬臣と華奈は黒井の部屋に呼び出された。



 先日の呼出しに応じ、冬臣と華奈が黒井の部屋を訪れると入れ替わりで《season》が退出するところだった。冬臣たちに気が付いた彼女たちは目に涙を浮かべたまま、華奈を睨む。

「あなた程度が《魔法使い》を独占するから」

 消え入るような声でそう告げたが、冬臣が間に立つと、彼女たちは直ぐにその場を後にした。

 冬臣が真意を図りかね、首を捻りながら黒井を見ると、彼の隣には豪奢な装いをした少女が立っていた。冬臣の視線にきづくと、彼女は目をいやらしく弓なりにし、色の付いたリップを塗った唇を動かす。

「お会い出来て光栄ですぅ、《魔法使い》殿」

 冬臣の口端が引きつる。お前とは会話をしたくない。思わず口から出そうになった言葉を飲み込むと、黒井は気にした様子もなく鼻から息を吐いた。

「《水無月》財閥次子、水無月さよだ。私の姪でもある」

「《水無月》と血縁関係にあったのか」

「ふん、隠し立てしたことはないのだがな。話が脱線した。《魔法使い》、お前にはさよの《プロデュース》を命じる」

 一人の《スタッフ》が複数の《アイドル》の担当をすることは珍しくはない。しかし全パートを一手に引き受ける冬臣だと話は変わる。

「《小雪》とユニットを組んで《フェスタ》に出場させるつもりか?」

 前例がない訳ではなかった。しかし黒井は首を横に振る。

「ソレはもう不要だ。《アイドルマスター》に最も近い者と呼ばれた姉のようにはなれそうもないのでな。正直、大損だ。わざわざあんな辺境にまで赴き拾ったというのにまるで役に立たん」

 冬臣は努めて言う。華奈の顔を見たら黒井に殴りかかってしまいそうで、彼女からは顔を背けている。出だしの声が怒りで震え、一度口を閉じた。

「《フェスタ》はどうするつもりだ? 《アイドル》の出場権は移譲出来ないはずだ」

「通常はな。だが我が事務所には出場枠が二枠ある。減枠の代わりに認めさせる」

 それも、前例があった。そして、そこで先ほどの《season》の姿が思い浮かぶ。

「稼ぎ頭だと思っていたがな」

「そうだな、小金は稼いでくる駒だ。ソレよりは役立つ。しかし白井に劣る結果しか出せないことは明白だろう?」

 黒井の視線に、さよは下唇で上唇を押し上げて答える。

「さよは《大陸フェスタ》において《トップアイドル》を獲得している。貴様も《プロデュース》のし甲斐があろう?」

「嫌ですわおじ様、一番レベルの低い《フェスタ》でのことですから恥ずかしいですぅ」

 そう口にはしているが、その顔には恍惚が浮かんでいる。

「なるほどな。わかった、それならもう俺がここに居る必要もない。霜月姉妹共々俺はここを出ることにしよう」

「お兄……」

 華奈が弱々しく呟いた。

『あなたに社長の何がわかるの? あの人は向こうで《アイドル》になることすら出来なかった私のために《ステージ》も、《ドレス》も用意してくれたわ』

『あなたに捨てられて、姉さんの資産がかすめ取られていく中で、社長が守ってくれた。社長だけが本当のことを教えてくれた。厳しいことも多いけど、でも本質的には優しい』

 華奈はそう言っていた。見る目が、無さ過ぎると言いたいところだ。

「悪いが、それは出来ない相談だ」

「従う必要がない」

「貴様はな。ふん、忌々しいが《S級》を制する権限は私にもない。たが私と《水無月》を敵に回して枕を高くして寝られると思わんことだ」

「好きにしろ。……貴様は?」

「姉の方を手放すつもりは私にはない。アレは本日付で《A級プロデューサー》の資格を得た」

 冬臣の身体は、さび付いた機械人形のようにうまく動かない。

「知らなかったのか? アレは優秀な駒だ。動いて見せることは出来ないが的確に《トレーナー》として指示を出し、《ドレス》の《チューニング》もして見せる。アレは駒すら脱却し、パートナーになるだけの才覚を持つ。手放す訳には行かんな」

 向こうで華奈を《B級》にまで押し上げた存在を、今更ながら冬臣は知った。確認のために向けた目は、未だショックから立ち直れない華奈を捉えるだけだ。

「貴様は惜しいが、ソレがいるとさよを出場させることが難しい。どこへなりとも行け」

「え~、あたし困るぅ。ねえ《魔法使い》さん、そんなチンチクリンは捨ててあたしを《プロデュース》しなぁい? あたし優秀な人って好き、うまく行ったらあなたも《水無月》にしてあげられるしぃ」

「少し、時間をくれ」

 冬臣の言葉に、黒井は眉を上げた。そして冬臣の内心を見透かそうとするようにその目へと注意を注ぐ。掴みきれなかったのか、黒井は言う。

「何を企んでいるかは知らんが、いいだろう。昼まで時間をやる、出て行くと言うのならその顔を見せる必要はないぞ」

 黒井のその言葉を最後に、冬臣は華奈とその場を後にした。嘲笑するような笑みを湛え、さよは手を振り見送った。

 冬臣が掛けるべき言葉を探していると、華奈が言った。

「わかってたから大丈夫だよ。社長が本当はお姉のおまけで私を拾ったって。だから、本当は社長がどんな人かも知ってたよ。でも、あれだね。いざ言われると少しだけ傷つくね。でも大丈夫だから、お兄」

 冬臣の目には、華奈の表情に強がりや嘘は見えなかった。だから短く返事をする。そして、華奈は続ける。

「お兄、お姉をお願いね」

 華奈は、冬臣の葛藤も見抜いていた。どちらかの側にしかいられなくなった今、どちらの傍に居るべきか、冬臣は量りかねている。能力的に自分を必要としているのは華奈に違いない。しかし、まだ冬臣は雪奈への贖罪を終えていなかった。例え被害者が記憶を失っていようと、加害者である自分がそれを諦めることだけはあり得ない。

「いいのか?」

「うん。お金ならあるし一人でも大丈夫」

「……凜の事務所に行け。雪奈を《S級》にし終えたら俺達も行く。水無月の実力はまだよく知らないが《大陸フェスタ》を制覇したのならそれなりにあるのだろう、数年の内に《トップアイドル》にすることが出来るはずだ。だから、そうしたら雪奈は《S級》になれる」

 冬臣は雪奈をサポートし、水無月さよを《トップアイドル》に押し上げる。通常二カ国の《トップアイドル》の《スタッフ》というだけでは《S級》にまではなれないがそこは本場である日本の《トップアイドル》という箔がある。

 そして《S級》の特権には自由な事務所移籍が含まれる。それを使うと冬臣は言う。

「しばらくはお兄たちがライバルに回るんだね。頑張らなくっちゃ」

 華奈の顔に無理は浮かんでいなかった。だから冬臣は頭を下げた。

「すまない。また、お前を一人にしてしまう」

「い、いやだなお兄、大げさだよ。今度は大丈夫。だってお姉の無事も、お兄の居場所もわかってるんだもん。あの頃とは、違う。それにお兄がお姉を見捨てたりしたらそっちこそ許せない! だから、嬉しくもあるよ。それにそれに、凜ちゃんも居て、一人じゃないよ」

「そうか……すぐ赤鳥に連絡を取る」

 繋がった電話で、話はとんとん拍子に進む。すぐに華奈は白井プロに受け入れられることが決まり、都合よく凜の隣室が空いているとの事で住居も決まった。それから二人が黒井事務所での居住地へと戻ると、雪奈の姿はなかった。

「社長の所かな? 赤鳥さんたちすぐ準備してくれるって言ってたし私、もう行くね?」

「雪奈に会ってからでも、いいだろう」

「大げさだよ、今回はいつでも会えるんだもん」

 気の利いた言葉の出てこない自分の愚かさに舌打ちする気分で、冬臣は俯く。その冬臣を華奈は見上げるようにし、それから頬に口付けた。

「心配より信頼して」

 華奈はそう言い残し、その場を後にする。残された冬臣は口づけされた頬を擦ると、華奈に続いてその部屋から出ようとし、外側から開かれたドアに顔面をぶつけた。

「ご、ごめんなさい《プロデューサー》さん。今社長から話を聞いてもしかしたらと思って慌ててて」

 平生の雪奈からは想像もつかない慌て振りに、冬臣は逆に冷静になる。

「今しがた白井プロへと出向いたところだ。あそこには信用出来る奴らがいる」

「一人で行かせたんですか!? 何で!?」

 雪奈はご立腹のようだった。しかしここでお前を一人にしておけないだろうとは、冬臣は言えない。そんなことを言えば余計に彼女は怒っただろう。

「黒井社長から水無月さよの《プロデュース》を依頼されたからだ。俺の夢は《アイドルマスター》を育てることだ。あいつとなら、その夢が叶う、そう思った」

 嘘だ。と雪奈は言い、冬臣は本当だと返す。しばらく無言が空間を支配した。

「私の所為でしょうか。私が一人では何も出来ない身体だから」

「それは違う。お前のことは関係ない。水無月さよだと言っているだろう」

 そしてまたしばらく空白の時間が流れ、そして、雪奈は纏う空気を一変させた。

「あなたがどういうつもりなのかは知らないわ。でも、華奈を追いなさい」

 その声調に、冬臣の背筋に電撃が走った。思わず、彼女の名前を呟く。

「わかるでしょう? あの子にはまだ傍に居る大人が必要よ。多感な時期に私とあなた同時に失ったあの子の傷はまだ癒えていない。精神的にまだ成長出来てないの。だからこれからゆっくり普通に戻してあげたい」

「待て、雪奈。お前、お前は、誰、だ?」

 眉間に一瞬皺を刻むと、雪奈は一息で言い切る。

「元《S級アイドル》《スノウ》こと霜月雪奈よ」


――現在18


「記憶が、ないんじゃ、なかったの、か」

「今それがどれ程重要なのかしら? 早く華奈を追って」

 雪奈の眼光は鋭く、口元は引き締まっている。

 真直ぐに冬臣の目を捉え、背筋を伸ばし、有無を言わさぬ迫力を持つ。

「それは、出来ない」

 冬臣は、それでも引かない。

「お願いよ。だから、華奈を助けて」

〝お願い〟その言葉に冬臣は大きく揺さぶられた。他ならぬ雪奈のその言葉には、それだけのものがある。けれども、すぐには答えられない。

「何故、そんな事を言う?」

 自分の存在は、そんなにも雪奈にとって重荷になるのだろうか? そんな風にも考えられた。

「言ったでしょう? 今のあの子は危ういわ。私もいない、あなたもいない。そんな環境にあの子を置いておけないわ」

「華奈をいつまでも子供扱いしている方が華奈のためにならん。あの子は、強い」

 雪奈が押し黙る。その理由は、わからなかった。いつもの彼女なら冬臣が考え付かないような言葉を持って納得させただろう。いつもの彼女なら、劣勢でも決して攻め手を休めることはないはずだ。しかし彼女は口を閉じていた。

「駄目ね、妹を出しに使うなんて、最低の姉……」

 雪奈は、艶やかな前髪を掻き上げた仕草のまま、動きを止めた。

 冬臣が彼女の名を呼ぶと、諦観のため息をつく。

「私には、あなたの傍に居る資格がないの」

「何を、言っている?」

 耳を疑う気持ちでいっぱいだ。聞き違いだとも思う。しかし雪奈の悲しそうに眉を寄せる表情、顔を隠すように前髪を掴む仕草が、冬臣の考えを否定する。

「睦月凜から、彼女とあなたが出会った頃の話を聞いたわ」

 冬臣の喉が、大きく鳴った。

「あなたのことだもの、私が飛び降りた理由について誤解したのでしょう? 浅はかだったわ。私が絶望して飛び降りたのだとあなたなら勘違いする可能性があったことは、計算出来たはずだったでしょうに」

 それから雪奈は膝を何度か掴み、拳を作ってはまた膝を掴む。視線をさ迷わせ、口を開いては閉じた。その顔は、耳まで真赤になっている。

「わた、私は、あの時……愛する男の重荷になりたくなかっただけよ――彼なら華奈の面倒を文句も言わず見てくれただろうし遵法精神もあるから華奈に手出しもしないだろうしお金も地位もあったから彼が華奈を迷惑に思うようなら里子にだって出せただろうし」

 冬臣が初めて見る雪奈だった。虹彩は渦巻きを描いているようになっていて、顔は真紅に染まり、やたらと早口だ。

「そうか……微塵も、気が付けなかった」

「でしょうね」

 雪奈は半眼になり、顔を背け、唇を尖らす。

「そんな男が居たのか」

 相手を尋ねようとした次の瞬間、冬臣は死を覚悟する。

 記憶を失った振りをしていた雪奈の演技は完璧だったと言えよう。完全に柔和な顔つきを浮かべ、元よりそういう内面を持っているかのようだった。しかし、冬臣は思い出す。思い出させられたという方が正しいか。

 初めて出会った頃の雪奈は、道を踏み外した男たちすら圧倒するだけの眼光を持っていた。

 その眼光を、冬臣は前にしている。何年か越しに、あの頃遭遇したアウトローたちの気持ちがわかった。


「すまない」

 雪奈からの返事はない。ひたすら頭を下げることで死は回避出来たが、どうにもしようがない空気が漂う。

「俺に、そんな幸福が訪れることがあるとは、想像したことがなかった。すまない」

 卑屈になっているのではない。冬臣は、誰かに愛されようと行動したことはなかった。ただひたすら自分のためだけに生きてきたという自覚がある。

「……もういいわ。私も悟られないように振舞ってきたつもりよ。それに、幸福なことだという感想も聞けたことで私は満足よ」

 その表情に、先ほどの雪奈の姿はない。呆れられ、覚めたのかもしれない。冬臣は、そうされても仕方がないと思う。

「だから、あなたにも白井プロへ行って欲しい」

 雪奈の思考は、元々冬臣には読むことが出来なかった。それは、今でも変わらない。だから尋ねるしかなかった。かつての、白井プロの面々のように。

「『聞かれなくても話した方がいいことも、話したくなくとも聞かれた方がいいことも世の中にはある』のだそうだ」

「随分と、あなたらしくない言葉ね」

 微笑というのだろうか、軽く、本当に軽く雪奈は表情を和らげる。

「あなたの夢は何だったかしら?」

「雪奈を《アイドルマスター》にすることだ」

 雪奈は目を丸くし、口を半開きにした。そんなあっけに取られたと言わんばかりの顔は、冬臣の記憶の中にはなかったし、これからも見られる物だとは思っていなかった。

「そう。そうなのね……。《スノウドロップ》は今どこに?」

 冬臣は黙って背広を脱ぐと、裏地を引裂く。そして新雪のように純白の《ドレス》がそこから姿を現す。白に浮かぶ金糸の模様が、芸術作品のような存在感を持つ。

「バカね。あなたがそんな重荷を背負う必要何てなかったのに」

 雪奈は、《スノウドロップ》を受け取るとそれぞれを一度擦り、首、両手首に巻きつけた。《スノウドロップ》が発光を始める。首、両手首に嵌められた《ドレス》が日向の水晶もしくは湖畔の水のように輝く。

 しかし、《IL》の残滓である光の粒はどこからも放出されていない。

 冬臣が最悪の想像をした。雪奈は《IL》を失ったのかもしれない。そう、思った。

《スノウドロップ》の輝きが強く、薄く、交互になっていく。

 思わず零した彼女の名前を呼ぶ声に、彼女が答える。

「黙って見ていなさい」

 滝のように汗が流れていた。

 いつもすまし顔や笑顔で《パフォーマンス》をしていた《スノウ》の見る影もない。

《スノウドロップ》の輝きが一定となった。

 そして、雪奈は言う。

「あなたが言うから信じたのよ」

 車椅子の肘掛に手を添える。

「私は、天才だって」

 添えた手に力が籠り、腰が上がる。足は地面に投げ出され、そして身体を支える。

 下半身不随のはずの雪奈が、立ち上がった瞬間だった。

「見ての通りよ」

 自慢げに胸を張った雪奈の顔には、晴々としたものがあった。

 冬臣の視界で、その顔が歪む。

 理由のわからない涙を隠す冬臣の顔を、雪奈は両手で挟み、優しく額を合わせる。

「昔の私はこの程度のことにも気づけないほど視野が狭くなっていたのよ、バカみたいでしょう? そして、大事な人を二人も傷つけた」

 力の入った冬臣の拳を、雪奈の暖かな指が解く。

「だけど、そんな私を、私は許すわ。大事な人を傷つけた私を、私は許す」

 冬臣が思わず上げた顔は、幸いにして雪奈と接触することはなかった。しかし刺すような痛みが、心臓を襲う。

「全ては過去だもの。勝手なことを言う女だと蔑まれてもいい、あなたを失ってもいいわ。私は今この瞬間から未来に生きるの。そこにあなたが居ても居なくてもいいわ、あなたはどうするの?」

 冬臣が見上げた天井には、無数の灯りがあった。

「俺も、俺を許そう。勝手なことを言う、お前も許す。俺も、勝手なことを言っているだろうか?」

「そうかもしれないわね」

「なら、もう一つだけ勝手なことを言おう。一緒に、白井プロへ行かないか?」

 雪奈は静かに首を横に振り、表情を一変させ、片頬を上げる。

「ここでやり残したことがあるのよ」

 いつもの雪奈がそこにはいた。

 だからか、冬臣も普段の姿を思い出す。

「そうか……そこに俺の出る幕は――」

「――ないわ。シンデレラだって魔法が解けた後に幸せになったでしょう? 私には《魔法使い》はもういらないの。舞踏会はもう終わって、ガラスの靴も落としてきた。最も私は王子の従者がそれを届けに来る前に拾いに行くのだけれど」

「悲しいな。《S級》であっても、《魔法使い》と呼ばれようと、お前の力になれない、その事実がただ悲しいと思う」

 雪奈は、そこで少し表情を曇らせると、また慈愛に満ちた顔を浮かべる。

「バカね」

「お前と比べたら大抵の者が愚かだ。俺に限った話ではない」


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