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冬臣が首を縦に振ると、雪奈は目を弓なりにし、口端を上げ、言う。
「おつとめ品何ですけどね、美味しそうだったので買いました」
「金が足りなかったか?」
「美味しそうだったので買いました」
得も言われぬ迫力を前に、冬臣は言葉を失い、視線をさ迷わせたところで救いの手が差し伸べられた。華奈が上下共に薄緑色のパジャマを着たまま姿を現す。
「おはよ~」
三者三様の挨拶を交わすと、まだ寝ぼけ眼なのか華奈が目を擦りながら冷蔵庫から取り出したペットボトルを直飲みし始める。雪奈の時同様冬臣がそれを窘めると、少し唇を尖らせながらも素直にコップを取り出し、注ぎ込んだ。
「相変わらずお兄は細かいんだから」
「その癖細かい所に気付かないんですよね~」
ね~? などと姉妹は顔を見合わせ、首を傾け合っていた。
「努力はしよう。それで今日は街に出る訳だが水族館以外に行きたい施設はあるのか?」
「私は街ぶらぶらーって出来ればいいかな。お姉は?」
「私も同じだよ」
遊び下手が三人寄っても文殊には近づけないものだなと冬臣は独り語ちる。すると、冬臣の携帯端末が着信を報せた。発信者の名前が表示され、冬臣は手に取ると部屋を後にする。
「どうした? 何かトラブルでも生じたか?」
「ううん、大丈夫」
スピーカーからは凜の声がしている。
「華奈から聞いてさ、今日遊びに行くんでしょ?」
「ああ、そうだ。凜も行くか?」
「……そんなこと言ってると多分華奈怒るよ? それにあたし今日仕事だし」
自分がいなくても凜に仕事があるという現実を、冬臣は嬉しく思う。ほんのわずかでも自分を業界に連れ戻してくれた恩が返せただろうか。そうも思った。
「そうか、いいことだ。それでは今日はどうした?」
「うん、いや、そのさ。えっと、華奈たちと出かけるんだよね?」
この問答は先ほど済ませたはずだが。冬臣は首を捻る。携帯端末越しに聞こえる凜の声は、どこか落ち着きがない。
「あー、あしもどこか遊びに行きたいすねー」
遠くから、赤鳥のそんな声が響く。そしてその声は微塵も感情が籠っていなかった。
「仕事なのだろう?」
「うん。今日はね」
意味がわからないというように冬臣は空いた手で後頭部を掻いている。
「息抜きをする間もないほど仕事が詰まっているのか? 赤鳥に言い難いのなら俺から一言言ってやるが」
「…………バカ」
何の前兆もなく、通話が途切れた。結局何のための電話だったのかわからないまま冬臣は携帯端末を閉じ、部屋に戻ると華奈と雪奈の二人は出かける準備をしているところだった。そして、すぐに冬臣も支度を始め、三人の出かける用意が整った。
雪奈は膝下までの長さがある白のワンピースに水色の薄手カーディガンに麦わら帽子。華奈は七分丈のモスグリーンのパンツに黄色のキャミソール、白の薄手カーディガンを羽織り、キャスケット。冬臣はいつも通りスーツだった。
「お兄何でいつもと同じ格好?」
「《アイドル》と《スタッフ》なら世間体を保てるだろう」
華奈の文句を聞き流すと、冬臣は雪奈の背に回る。雪奈の肩と背がとても小さく見えた。
「それじゃ行こっか、まずは朝ご飯だ!」
そう言って華奈は、雪奈と並ぶようにして黒井事務所を出た。晴天に恵まれ、昼に掛けて気温があがるだろうことは誰もが用意に想像がついた。冬臣はジャケットを即座に脱ぎ、雪奈の車椅子のポケットに仕舞う。
「食べたい物はあるのか?」
冬臣が訊ねると、二人は目配せをした。そして先日言っていた屋台、正確には移動販売車に意識が行ったようだ。
「クレープっていうやつ、そう言えば食べたことありませんね~」
雪奈の言葉に、華奈は複数回頷いたが、冬臣は渋面を作る。
「たまにはいいじゃないですか」
雪奈は正しく冬臣の内面を読み取ったが、我を通そうとする。そうなると、もう冬臣にはそれを受け入れるしかなくなった。間近に在ったクレープの販売車に近づくにつれ、二人は顔を引き締め、食い入るようにしてメニューを見つめている。
「全然味の想像がつかないよ、お兄。何が良いと思う!?」
「俺がこういった類の物に詳しいと思うか?」
華奈と冬臣のやりとりを見ていた店主は、豪快に笑ったかと思うと見本だ。とシンプルに生クリームとカスタードクリームの入ったクレープを作り、三人に差し出す。
「おっちゃん、ありがとう」
華奈は目を輝かせ、齧り付くと満足気に笑顔を浮かべて見せた。冬臣が頬についたクリームをハンカチで拭ってやると、華奈は身体を捩じらせながら言う。
「ナプキン貰えるみたいだしいいよー」
「《アイドル》の顔に傷をつける訳にはいかないだろう。もう少し気遣え」
返す言葉もないのか、華奈は短く「むぐ」とだけ呟き、されるがままになった。
「はい、お姉」
華奈が雪奈にクレープを差し出したところで冬臣は一つ思い出す。しかし止める間もなく雪奈は華奈の差し出したクレープに歯形を残し、そして固まった。
しばらくそのまま停止していたかと思うと、もの凄い早口で、かつ小さな声で呟き始める。
「なにこれあまいあまいなんてもんじゃないわなんで生地あまいのにさらにあまいクリームになにこれカスタード正気の沙汰とは思えないあまいあまい」
顔を真っ青にしながら小刻みに震え、嚥下することも吐き出すことも出来ず身を硬くしていた。二年前、華奈に買ってやった駄菓子を彼女に食べさせられた時の雪奈と同じだ。
冬臣が黙って雪奈にペットボトルの水を手渡すと、彼女はクレープごと飲み込み、一息を吐く。
「ありがとう、華奈。私はもういいわ。思ったよりもお腹空いていたみたい。サラダや食事になりそうな具材のクレープというのはあるのかしら?」
「普通のクレープ屋にはあるんだけど、うちは甘味だけだねえ」
「ならフルーツ――」
「――うちの自慢の自家製ジャムだ、どれも美味いぜ」
な、ん、と、か、し、て。冬臣の目には雪奈の口がそう動いたように見えた。
水族館はそれらしい装飾で一杯だった。建物は海や川などをイメージした色使いに、ペンギンなどの、施設が保有しているのだろう動物たちのイラストが張り付けられている。平日だからか人はまばらで、車椅子に乗った雪奈へ好奇の目を向ける者はいなかった。
「地元には海がなかったから楽しみです」
「そう言えばそうだったな」
そして、海のある国へ赴いた時も海を見せたことなどなかったことに思い当たる。それどころか《スノウ》時代の雪奈に休みを与えた覚えもなく、やはり事故の原因は蓄積された疲労だったのではないだろうかと一瞬頭を過った。
「行きましょう?」
顔に陰りでも浮かんでいたのだろうか、雪奈はわずかに揺れる瞳で上目遣いになっていた。
「すまない、行こう」
「ほらほらお兄、まずは小さな魚コーナーだよ!」
入口に近いからか派手さはなく、薄暗い空間に淡い照明の当たる水槽が壁に埋め込まれたように無数に並んでいる。ヒレが虹色に見える魚や、色調豊かな体色を持つ魚群に、姉妹は珍しい物を見るように目を輝かせていた。
クラゲコーナーと銘打たれたエリアでは雪奈がクラゲを気に入ったのか、長く見つめ続けていた。淡く発光するようなクラゲは不思議な挙動で漂う。
「本日は、当館へお越しくださいましてありがとうございます。本日は、イベントコーナーにて《アイドル》とイルカの触れ合いショーを予定しております。ご興味ございますお客様はぜひご来場ください」
「《アイドル》と触れ合う&イルカと触れ合うのかな?」
今一つ要領を得ないアナウンスに華奈が首を捻る。
「《テイマー》の真似事でもするのだろう」
「《テイマー》?」
「昔居た《アイドル》の二つ名だ。動物と意思疎通が出来る《IL》を持っていた。《ステージ》では実物を引き連れる訳にもいかず《IL》で象った動物を使って《パフォーマンス》をしていたがな」
感心したのか、マヌケな声を上げる華奈に、冬臣は言う。
「席を取りに行くか?」
華奈がクラゲに魅了されている雪奈を一瞥すると、すぐに雪奈は気づく。
「私はいいですよ。行きますか~」
触れ合い広場、大型動物の展示に姉妹は目を奪われながらも、後回しにする提案を冬臣がするとすんなり了解した。イベント広場に到着すると幸いまだ席に余裕があり、イベントの詳細が掛かれた看板を苦も無く目に入れられる。
「あ……そうだ、謝らないとなあ」
ゲストの〝睦月凜〟の名を見つけ、華奈が呟く。冬臣の予想通りイルカと《IL》を通じて芸をするイベントのようだ。
「控室へ行って来る。お前たちはここで待っていてくれ」
冬臣がイベント広場にいた館内スタッフに《ライセンス》を提示し、凜の控室へ向かうと、その後ろを姉妹は付いてきていた。知らない仲ではないと思う気持ちも遠慮させようかとも思いもしたが、結局冬臣は何も言うことはなかった。
スタッフの先導で、控室が開かれると、凜が一人青ざめて立ち尽くしているのを確認した。
「仕事を取って来たのは赤鳥か?」
「ううん、《イベントプランナー》さんが依頼して来た仕事」
「黒井の手の者だろう。いいか、《テイマー》の《IL》とお前の《IL》は系統が違う。《凜音》と《テイマー》の使っていた《ドレス》とでは《回路》の目的も大幅に異なる。この状態で《テイマー》同様の《IL》を発現出来るとしたら――」
《スノウ》位だ。そう続きそうになった言葉を何とか飲み込む。不安と期待に揺れる凜の瞳を受け、冬臣も解決の策を模索する中、落ち着き払った声で雪奈が言う。
「華奈、一度凜さんと一緒にイルカと話をしてみたらどうかな? 凜さんももう一度試してみましょうよ」
凜と華奈が一瞬見合い、華奈は頭を深く下げた。
「先日は、どうも、お見苦しいところを……ごめんなさい。お兄とは仲直りしましたので……」
言ってから居たたまれなくなったのか、華奈は冬臣の背へと回り、そこに額を着けた。
「あたしは何もされてないし……これからもよろしくね、《小雪》さん」
「華奈、でいい」
並んで移動を開始した二人の背中を見送りながらも、冬臣の思考は止まらない。《凜音》の《チューニング》は間に合わない。華奈の《IL》では《凜音》は動かないし万一動いたとしても、凜よりも《IL》能力に劣る彼女が《テイマー》の真似事を出来るとは思えない。
何とか《簡易ドレス》を組み合わせて何か出来ないかと思い当たり、冬臣が館内スタッフの姿を求めてイベント場へ辿り着くとそこには、イルカとの意思疎通を成功させている凜の姿があった。
凜の首元にある《凜音》は淡く発光し、《ステージ》外でも《ドレス》が機能するよう冬臣が付け加えた《ステージコア》も利用されていることがわかる明かりも確認出来た。
イルカは凜の身振りや餌を必要とすることなくヒレを叩き合わせたり跳んだりして見せている。それは明らかに会話の賜物だという事がわかる。
「どんな魔法を使った?」
「え? えっと、最初はやっぱり出来なくて、華奈も試したんだけど《凜音》動かなくて。あ、ごめんなさい。《ドレス》の貸し借りはする物じゃないって言われてたのに」
「それは、そうだが。今それはいい。それでその後どうした?」
「もう一回試したら、何か、坂東さん――このイルカね、の声? みたいなのが聴こえた気がして、頭の中でそれに答えてたら坂東さんがお願い聞いてくれたの」
「イベントが終わったら二~三日《凜音》を借りても問題ないか?」
「うん、二~三日なら。でもどうして?」
答える言葉を冬臣は持たなかった。頭の中では《凜音》の回路と凜の《IL》データが繰り返し思い起こされている。どれだけ考えても、求めた答えは浮かばなかった。
夜も更けたが、冬臣は依然として《ドレスメーカー》を前に頭を抱えていた。目前に広げられたどの資料に目を通しても探し求めた事実は記されていない。用いられる全てを費やしてなお判明しない出来事は、冬臣の焦りを生む。今回は利益を生んだ謎がいつ牙を向くか、強く恐れた。
静かに、黒井事務所五十階研究室の扉が開かれる。もしも寝ていたら全く気づくことはなかっただろう慎重さで開かれたそこから姿を現したのは華奈だった。冬臣の傍まで寄ってくると、肩に顎を乗せ、言う。
「お兄、まだ起きてるの?」
「ああ。今日の謎が解けるまでは寝られん」
「凜ちゃんが《精神感応》使えたってやつ? 凜ちゃんの《IL》が成長したってことじゃないの? 少し、羨ましいよ。私はまだ《ドレス》を動かすことすら出来ないのに」
声の調子を落とした華奈の頭に、冬臣は頭を合わせる。慰めの言葉を冬臣は持たない、嘘は吐かないと決めている。だから、冬臣はただ頭を合わせ、華奈の仮定に言葉を返す。
「凜の《IL》は、歌と合わせることでファンの感情を喚起することが出来る《IL》だ。自分の感情を伝えようとするなら自分の《IL》の質を変化させるほどの《IL》操作能力を持つかそういった系統の《ドレス》が必要になる」
「《凜音》は? お兄が作ったんだから何か仕掛け、あるんじゃないの?」
「《スノウドロップ》と同じく《ステージ》外でも《IL》を使えるようにする《ステージコア》、それとは別に《IL》量増幅程度だ。《凜音》が要因とはならん」
「そっか。お兄、今日はもう休も? ゆっくり休んでからの方が進展あるかもよ?」
「悠長に事を構え、それが元で事故を起こす訳にはいかない」
二度とあんな思いはたくさんだ。そう歯を食いしばったのが伝わったのか、華奈は冬臣から離れる。
「気づいたらまた居なくなってるの、やだよ? 無理して、死んじゃったりしちゃ、やだ」
視界に捉えた華奈の瞳には涙が浮かびそうだった。
「お姉が事故に遭ったの、誰も悪くない。私が、勘違いだったけど、怒っていたのは、お兄がいなくなったからだから」
「すまない」
「うん。私も勘違いで恨んで、酷いことしたり言ったりしてごめんなさい」
無理もないことだ。そう言おうとして開いた口は華奈の指で遮られた。
「私は焦って勘違いをすることはもう二度としない。だからお兄は、焦って自分の身体を傷つけないで」
「わかった」
冬臣は《ドレスメーカー》の電源を落とすと、華奈と二人居住区へと戻る。それぞれの寝室へと別れ、スプリングの利いたベッドに横たわり、高い天井を見上げている内に、寝付いた。
――現在16
黒井事務所社長室には、冬臣と黒井の姿があった。黒井は物語に出てくるような書斎机に両肘を置くと、組んだ手を口元に寄せ、言う。
「アレの《B級》昇級が決まったようだな」
「ああ。いくつか実績を上げたからな」
「短期間でよくやったと言っておこう。ギリギリではあったが貴様でも無ければ間に合うことすら出来なかっただろう。ふん、これでようやく白井のところの《アイドル》とぶつけられる。これに参加しろ」
黒井が引き出しから取り出した一枚の書類は《プレフェスタ》に関する物だった。
「貴様は海外での活動が主だったな。日本の《フェスタ》に関しては知っているか?」
「他国との違いは《プレフェスタ》の有無、《B級アイドル》は《プレフェスタ》枠十名に残らなければ出場の機会はない。不足はあるか?」
「結構。白井の後塵を拝することは許さん。以上だ」
社長室を背に、冬臣はため息を漏らす。姉妹の元へと帰る足取りは重く、頭を幾度か掻き毟る。
「《魔法使い》か」
ウィザードではなく《魔法使い》。わざわざ冬臣の国の言葉で業界関係者は冬臣をそう呼んだ。それが誇らしく、嬉しくもあった。しかし時にその名誉が語弊を生む結果にもなるのだ。
五十階の居住区に戻ると、華奈と雪奈が仲良く歓談していた。最近では凜が一緒の時もある。黒井がそれについて言及して来ないことに疑問はあるが、結果が出ているからだと推測はしていた。
「お帰りー」
華奈は冬臣の心知らずか、茶菓子を頬張ったまま柔和な笑みを浮かべていた。《スノウ》が過ごしたような過酷な時間は、この国では流れていない。そして、その事について冬臣は不満に思うことも心配に思うこともなかった。冬臣の《プロデュースプラン》に狂いはない。
「何か心配事でも?」
雪奈が目聡く冬臣の心境を察知する。
「ああ、社長から凜には負けるなと発破を掛けられてな」
「うん、負けるつもりはないし頑張るよ!」
華奈は茶菓子を嚥下すると軽く胸を叩く。そんな彼女に真実は告げられなかった。
「そうだ、今日は凜の所行く約束したんだった。行って来るね!」
「今日は休養日だぞ。忘れるな」
頭上で大きく手を振り、華奈は去っていく。
「雪奈は行かないのか?」
「たまには二人で街を練り歩かせてあげようかと思いまして。私が一緒だと同じ場所に長時間いることが多くなっちゃいますから」
「気にする二人でもないだろう」
「たまには違う刺激も必要ですよ、女の友情何てそんな物です」
女を引き合いにだされてしまうと冬臣は口を噤むしかなくなってしまう。
「いつも良くして貰っていますし、たまには愚痴の一つでも聞かせて下さいね」
「お前に隠し事は出来ないな。何、問題が起きたら話をさせてもらうさ」
「……凜ちゃんに、勝てると思っていますか?」
懸念事項を正確に読まれた驚きは顔に出た。だから、今更取り繕うことは出来ない。
「一割というところだろう。ダンスは華奈の方が上手いし愛嬌もある。せめて後二月あれば四割まで勝率を上げることも不可能ではないのだが」
「今のレッスン、軽すぎませんか? 《A級トレーナー》さんに見て貰っている分内容は濃いので誤魔化されそうになりますけど、絶対的な量が足りていないかと思うんですが」
「計画通りに技術が向上しているからな。無暗に量を増す必要性がない」
「ですが、今のまま戦えば負けるんですよね?」
「量を増やしたところで計画が前倒しに出来る物でもない。それに――」
冬臣の続く言葉が声になる前に、雪奈が散らす。
「――無理をせずに成功を手に出来る業界何てありませんよ」
「随分と前時代的な発言だな」
「意地悪ですね。程度という物があるのはわかっているでしょうに」
別にケンカをしている訳ではない。見つめ合っている瞳も怒りの色を浮かべたり、湧き上がる感情で歪んだりなどしていない。それだからだろう、気負うことなく冬臣は言う。
「本当に計画通りに華奈の実力が付いているんだ。このままゆっくり育てていけば近いうちに凜と互角にやっていけて、互いに鎬を削りあえるライバルにだってなれるだろう。焦る必要はないんだ。まだ十代だぞ?」
「そうですね、失礼しました」
眉を下げ、雪奈は微笑んだ。そして一度伸びをすると言う。
「少し汗を掻いてしまいました。すみませんがお風呂に入れて頂けますか?」
「わかった。少し待っていろ先に湯を張ってくる」
「躊躇いありませんね……」
顔を曇らせる雪奈が何を言いたいのかはわからなかったが、湯を張り戻ってくると何かを諦めたように額に指を当てため息を吐いていた。
「抱き上げるぞ」
「はい、お願いします。それなりに重いですから気を付けて下さいね。ぎっくり腰にでもなられたら二人して動けないので」
「怒っているのか?」
い~え~。などと雪奈は嘯く。そんな彼女を車椅子から抱き上げ、脱衣所の椅子に座らせると、彼女はベスト、ブラウスとを羞恥心を感じさせることなく脱ぎ、膝の上で畳んでいく。
露わになった白の下着が包む胸は魅力的で、たいていの異性の目を引く力を持っている。下着が外された後も支えを失ったと思えない程美しい姿を保っていた。
「《プロデューサー》さんは女性の胸を見慣れてるんですか?」
「衣装の発注もするから多少はな」
「だからですかねー、何か落ち着いているように見えます。少しはドギマギして下さいよ~自信あるんですよこれでも」
「男としては劣情を感じているというのが本音だ。だが心配するな、《ライセンス》に誓って理性が劣勢になることはない」
「へ、へ~。えっちな気持ちにはなるんですね~。あはは、えっと、信じてあげます。よ~し、じゃあ安心して下もぽぽ~いっと」
雪奈は耳まで赤く染めると、気恥ずかしさを感じているようで、またそれを誤魔化すように勢いよくロングスカートを脱ぎ捨て、下半身が露わになった。
美の神に愛されたように均整の取れた上半身と比べて、歪な下半身を見て冬臣は思わず涙しそうになってしまった自分の内頬を噛んだ。
「浴槽に入れる。しっかり捕まっていろ」
冬臣の首に腕を回す雪奈の背が視界の端に見えた。白磁のように美しい肌に痛ましいほど大量の傷跡が残っている。そこで冬臣は耐えられなくなった。流れる涙を彼女から隠そうとしっかりと彼女の身体を抱いてしまう。
「わわわ、《プロデューサー》さん? ちょっと、誓いはどこ行ったんですか?」
「すまない」
絞り出した声は、自分でもわかる程涙声になっていた。
「謝られても困りますよ~、華奈にこんなとこ見られたら大変何で早く浴槽に入れて下さい~」
冬臣はなるべく顔を逸らしたまま雪奈を浴槽へと入れ、自分はそのへりに座り込んだ。しばらく水を弄ぶ音が続いた。そして、その音が止まると冬臣はシャツが濡れるのを感じ、間もなく人の熱に触れられた。
「すみません、みすぼらしい物をお見せして」
「みすぼらしい訳ないだろう。みすぼらしい物か!」
語調に驚いたのだろうか、わずかに雪奈が身を跳ねさせたのを感じた。
「嘘でも、嬉しいです」
「俺は身内に嘘は吐かないと誓っている」
「そうですか」
どれだけそうしていただろうか、冬臣は嗚咽を堪えるのに必死だ。そして、雪奈の熱が離れ、彼女が息を飲んだのにきづく。
「《プロデューサー》さん、その傷は?」
言われて自分の身体に視線を落とすとシャツがお湯で透け、古傷が浮かんでいた。
「二年ほど前に交通事故でな。バカな話だ、運転中に信号無視してトラックと衝突した。全く、異常気象とまで言われた雪も降っている日だったというのにな」
「ホントですよ、どれだけ焦っていたんですか~」
「ああ。本当にバカだった。だが、例え何度あの日を迎えたとしても、同じように焦るだろう」
「……そうですか」
「ああ、そうだ」
そしてもしもその時点よりも前に戻れたのなら、自分が下敷きになってもいい。さらに前なら《スノウドロップ》を破壊してもいい。さらに前なら、雪奈と――。
「――お風呂、本格的には夜にまた入りますので身体と髪は洗わなくていいですね~。すみません、お風呂から出して身体拭くのを手伝ってください」
まるで抱っこを求める幼い子供のように両手を伸ばす雪奈を抱き上げる。
「ああ、任せろ」
――現在17
《プレフェスタ》が始まる。国内の《B級アイドル》達が《フェスタ》の行われるスタジアムに集まり、A~Eまでの五つに分けられた会場で同時に《アイドライジング》を行うこのイベントは、数あるイベントの中でも特に盛況する物の一つとあって、開始三十分を前にして熱気に包まれていた。
「お客さん、集まりますかね~?」
「《協会》側は集まると判断しているようだ。そうでもなければ一組目にはしないだろう」
「そうなんですか?」
「慣例として《フェスタ》出場が決まりそうな《アイドル》は一組目と最終組に振り分けられる。ちなみにダークホース枠はだいたい中盤だ」
冬臣の手元にあるプログラムによると華奈は一組目、凜は最終組だった。いくつか聞いた名前も、華奈よりも名の馳せた《アイドル》が同じ一組目なのも確認済みだ。
「華奈は《フェスタ》出場枠に残れますかね~」
「七番手、だろう。ダークホースが二人出たとしても上位十人の枠には入るはずだ」
雪奈は小さく頷きを繰り返すと、化粧台に乗っている華奈用の《ドレス》である《雪珠》へ視線を移す。冬臣がそれに手を伸ばすと、雪奈は小さく噴き出した。
「また《チューニング》するんですか?」