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「そんなものですかね、ふふ、ありがとうございます」
雪奈は実に素直な微笑みを浮かべた。そこには何の他意も見受けられない。
「辛く、ないか?」
記憶も、半身も失って。そう具体的に尋ねることは憚られた。
「足、ですか? 今はこの車輪が私の足です。失くした物何てありませんよ」
「それを奪った者を恨んだりしないのか?」
「誰に奪われた物でもありませんから。実は、私はある期間の記憶がありません。足もその期間中に失ったようです。でも、主治医からは単身の事故だったと聞いています」
確かに交通事故といった類の明確な加害者と被害者のいる事故ではなかった。しかしそれでも不条理を呪いはしないのだろうか。
「雪奈は、相変わらず強いな」
「華奈がいますから。すみません、少し頭痛がするので部屋に戻りますね」
車椅子のハンドルに手を伸ばすと、やんわりと雪奈に断られ、仕方なしに隣を歩く。車輪を転がす雪奈の手は、昔と違い、擦り傷がたくさんあった。
「《IL》は使えるか?」
小首を傾げた雪奈に、冬臣は言う。
「電動の車椅子は重いだろう。《IL》で動く車椅子に当てがある。使えるのなら用意しよう」
「気持ちだけ頂いておきますね」
「借りは、作りたくないか?」
かつての雪奈の価値観を思い出し、そう問うと、彼女は首を横に振った。
「私が《IL》を使うと華奈が悲しむんです。以前、あの子が《ドレス》の起動に失敗した時に、お節介を焼いて、一度だけやって見せたんです。そしたら、何か辛いことを思い出してしまったらしく、泣かれました」
許しを乞う行為だけは決してしまい。そう結論付けたルールは、果たして正しいのだろうかと疑問が浮かぶ。再三に渡り悩み、幾度となく同じ答えに至りはしたが、どうしても口にしてしまいそうになる。
「着きました。送って下さってありがとうございました」
雪奈の背が扉の奥へ消えようとしている。その扉が閉まり切る前に冬臣は言う。
「黒井から、五十階の部屋を預かっている」
雪奈の本来の実績からなら、同等の部屋を宛がわれていたはずだ。
「俺は研究室で寝泊まりしても構わない。だから、お前たちも五十階に来ないか?」
「私はこの狭い部屋で姉妹水入らず、膝を突き合わせる生活に不満はありませんけど……華奈には、その方がいいかもしれませんね。《アイドル》と《スタッフ》は信頼関係が大事ですから」
「話が早くて、助かる」
今の華奈は確実に拒絶反応を見せるだろう。そう考えるならこんな余計なことはするべきではない。建前で《アイドル》の《プロデュース》を目的とは言えるが、心の奥では違う。
「それでは、華奈のところに一度行きましょうか。あの子はきっと地下二階のレッスン室にいると思います」
雪奈と来た道を戻る。やはり手助けを断られ、やや手持無沙汰となった。空白の二年に、何があったのだろうかと尋ねたくなる気持ちは、独り善がりだろうか。
しばし無言の空間が続いた。それを気まずく思った訳ではないが、一つ気づく。
「すまない。頭痛がすると言っていたな、大丈夫か?」
雪奈は車輪を繰る手を止め、意外な一言を受けたと、鳩が豆鉄砲を食らったようになる。
「ええ、大丈――具合、悪いように見えましたか?」
「見えん。だが、俺はそう言った事柄に疎いらしくな」
「ふふ、私は大丈夫ですよ。それよりも華奈のこと、よく見ていてあげて下さいね。あの子は《アイドル》で、あなたはその《スタッフ》ですからね」
「任せろ。俺は二度と自分の《アイドル》を傷つけたりはしない」
感情が一時的に高ぶってしまったからか、雪奈の呟きを聞きそびれてしまった。しかし、訊ねても彼女は言い直してはくれなかった。そうこうしている内に、華奈の姿が見受けられた。
彼女は多くの少女たちと一緒になってダンスレッスンをしていた。朝礼台のように設置された壇から見知らぬ男が彼女たちの動きに目を光らせている。
「五十三番、五十六番、七十二番」
胸に該当番号の付いたバッジを着けた少女たちが、その場に立ち尽くした。青ざめた顔からは、生気が失われている。それからもいくつかの番号が監督者なのであろう男から上げられ、その場に泣き崩れる者、無言で立ち去る者など様々だった。
「退場通告です」
冬臣の隣にいる雪奈が、そう告げる。五人目辺りが呼ばれた所で察しはついたし、実際彼女たちがミスをした事には気づいていた。
「ここにいる奴らはどんな立場だ?」
「黒井事務所への入社を希望する《C級アイドル》たちです。ここで彼女たちは振るいにかけられて、見込みありと評されれば契約を結べます」
「素人たちという訳ではないのだな」
「そうですね、うちはゼロからの育成はしない方針のようですよ?」
合理的ではある。門戸を狭めねば応募者が殺到するだろう。さらに一定水準の実力を安定して確保することが出来るのだから大手プロダクションの取る手段としては優れてもいる。
「黒井事務所の《アイドル》はグループがメインか」
「そうですね。全百人ほどの《アイドル》中、上位十六人が《候補生》、そのうちの上位四人が《season》というグループ名で、白井プロの《アイドル》として売り出されています」
「古典的ではあるが、いいシステムだ」
「そうですね、私もそう思います」
二人の会話の最中にも、番号が読み上げられ続けた。そして、十通りの番号が読み上げられたところでBGMとして使われていた曲が終わる。
「お疲れ様でした。残った皆さんはこれからも励んでください」
監督者はそれだけを伝え、レッスン場を後にする。華奈は、残った。しかし、それは明らかに何らかの外的要因があるからだろう。
「華奈は、《seaason》入り出来ると思いますか?」
正直難しいと言わざるを得なかった。長らく同様のシステムを取って来たのだろう、多くの者はそれなりに見られる《パフォーマンス》をしている。未だ契約にまで至っていない彼女らにも華奈の《パフォーマンス》は劣っていた。
「何とかしてみよう」
冬臣は即座にプロデュースプランを脳内で組み上げた。そして、華奈の下まで足を進め、労いの言葉と雪奈に告げた五十階での生活を進言する。
「私が首を縦に振ると思う?」
「許せとは言わない。俺を恨み続けてくれても構わない。だが、現状が芳しくないことは理解しているか? 名よりも実を取ることを考えろ」
忌々しげに冬臣を睨み付ける華奈に、それ以上掛ける言葉はない。彼女は、特別扱いを受けていることに気付かない程無頓着ではなかった。
「あなたに付いて行けば《シンデレラ》になれるとでも?」
「俺が《プロデュース》する《アイドル》にはその意気込みで接してきたつもりだ」
「そう、そうね。家畜に鞭打つように姉さんを酷使していたものね、あなたは」
当時華奈に雪奈のレッスンを見せたことはなかったが、この二年の間に誰かから伝わったのだろう。しかし人伝手であったとしても、その内容に尾ひれはない。
「そうだ。それが俺の限界だった。だから次は上手くやって見せる」
冬臣の言葉を耳にした瞬間、華奈の背負う憎しみの色が増すのを感じた。
「次? そうね、あなたには延々次があるものね。気楽な物だわ、ホント、ふざけている」
周囲の者たちが冬臣たちの只ならぬ雰囲気に気付き、ざわめく。
「《S級プロデューサー》がどれだけ偉いの? お姉を、お姉が使い物にならなくなったと思ったら捨てて、私にはそんな相手に対して頭を下げて教えを乞えと言うの!?」
ヒステリックに叫び、走り去る華奈の背を追い始めるとほとんど同時に、周囲を《アイドル》たちに囲まれてしまう。
「あの、《S級プロデューサー》って本当ですか? 逃げたあの子に変わって私を《プロデュース》してくださいませんか?」
「待って下さい。私は序列二十位です。四十五位のその子よりも私を――」
貪欲な彼女たちは冬臣の衣服を掴んで離さない。振り払うことで万が一にもケガをさせる訳にはいかなかった。華奈の背はみるみる遠ざかり、そして見えなくなった。
「私は《トップアイドル》になりたいんです!」
周囲の《アイドル》たちが思い思いに口を開き、冬臣へ自己アピール染みたことを開始する。まだ知名度の低い《アイドル》としては正しく、《プロデューサー》としては頼もしい限りだと思う。しかし、冬臣は今この瞬間だけは《プロデューサー》ではなかった。
「どけ。《候補生》にすらなれない《アイドル》崩れが邪魔をするな」
冷や水を浴びせかけられたように辺りが静まり返った。あまりの一言に、全員が放心し、固まる。冬臣が一歩踏み出すと、誰もが道を空けた。自分に対して唾棄する思いを裡に、足を進めていく。
一瞬だけ雪奈が視界に入ったが、すぐに冬臣は目を逸らす。すれ違いざま、雪奈が言う。冬臣の耳に入らなかった言葉は、わずか三文字だった。聞こえていたらそれに全面的に同意していたはずの冬臣は、言葉を返すことなくレッスン場を後にした。
――過去7
《ドレスメーカー》の電源を切断した頃にはもう夜も深くなっていた。熱帯夜でありながら、室内は快適な温度を保ち、今日も質の高い睡眠が取れそうだと床に着く。
寝返りを二度打つと、寝室のドアがゆっくりと開くのが目に入る。寝た振りをしながらも、薄目でしっかりと闖入者を確認していると、それはつい三時間前に別れたパートナーの姿だった。彼女は様子を窺うように辺りを見回すと、言う。
「困ったわ」
起きているのを確信しているかのような声調だ。狸寝入りをする必要のない冬臣が要件を聞くと、一瞬戸惑いを見せた後、正直に話す。
「華奈が泣き止まないわ」
冬臣はじわじわとやって来ていた睡魔を追いやると、寝巻姿の雪奈と並んで彼女たちの寝室へと訪れた。基本的に冬臣はこの場所へ足を踏み入れることはない。自室とは全く異なる香りに、当初の彼女たちの姿は結びつかなかった。
雪奈の言葉通りに、華奈は寝ながら泣くという芸当をしていた。
「さすがに、男の骨格になるのは無理よ」
雪奈の謎の言葉の意味は、それから間もなく解けた。
「ぱ、ぱ……」
そう呟き、華奈は雪奈と二人で寝ているベッドの上で、手をさ迷わせた。
朴念仁の冬臣ではあるが、いくらなんでも察しがつく。華奈の手を取ると、彼女はしっかりと握り返し、そして空いた手で冬臣の胸元を掴んだ。双方辛い体勢になり、冬臣は助けを求めるように雪奈を見る。
「……今日はここで寝ていいわ」
「お前はどうするつもりだ?」
「あなたのベッドで――ダメね。起きた時私が居なかったら華奈のことだから泣くわ」
雪奈はため息を吐くと、華奈を挟んでベッドに横になった。横たわったまま、彼女は冬臣を見上げ、特に色めき立つことなく言う。
「入ったら?」
雪奈に促されながらも、冬臣はベッドを見下ろしたまま固まっている。
「早くしないと華奈が起きるわよ」
「入るスペースが、ない」
大きめのベッドとは言え、三人が寝転がれる代物ではない。それは雪奈も承知しているのだろう、彼女としては非常に珍しい発言をした。
「華奈を抱きしめて寝れば何とかなるでしょう。下心は、ないのでしょう?」
「当たり前だ」
それでも珍しかった。例えわがままを言った華奈であっても、冬臣が抱き上げて移動させようとしようものなら激しい糾弾をされることが常なのだから。
冬臣がしっかりと華奈を胸に抱き、そしてベッドに入る。やはり大の大人が入るとなると、ベッドは手狭だった。身動きを取る度に、端にいる雪奈にも触れることになる。
何とか雪奈に触れないように位置取りを考え、身じろぎしていると、胸の中で華奈が呟く。
「お、にぃ」
焦ったが、起きたのではないようだった。華奈は、より冬臣の胸元にくっ付くように、擦り寄り、鼻を鳴らす。わずかなむずがゆさを感じながらも、冬臣はいつのまにか片頬を上げていた。
――現在14
冬臣が真っ先に向かったのは四階の華奈たちの部屋だった。昔と変わらないのなら、布団を頭から被っているはずだ。そう記憶を呼び起こし、移動する。
静まり返ったレッスン場から出てすぐ飛び乗ったエレベーターの中でも、四階のエントランスホールから毛の短い絨毯の廊下を渡る途中でも、冬臣は華奈に何と声を掛けるか迷っていた。
華奈たちの部屋を前にした冬臣は、躊躇うことなくドアをノックする。二度三度叩いたが返事はなかった。ドアノブを捻ると、何の抵抗もなく開く。
「入るぞ」「出てけ!」
華奈の声は、冬臣の言葉とほぼ同時だった。
「そうだ、出て行かなくてはな。俺も、お前もだ。五十階がお前たちの部屋だろう」
「私は承諾してない!」
「しただろう。雪奈と話している時に」
「うるさい! してない!」
華奈が頭から布団を被ったまま怒鳴る物だから、声はくぐもっていた。
わずか数年前の出来事でありながら、懐かしく感じる。
「二年前、一人にして悪かった。言い訳のしようもない。雪奈が飛び降りて、その後のことだ。不安、だっただろう。雪奈の資産を掠め取っていく大人たちが、恐ろしかっただろう。傍に居てやれなくて、すまなかった」
冬臣にとっては長く、実際には数瞬の間、静寂が漂う。
「そんな一言で全部水に流すつもり?」
「いや、俺に出来ることなら何でもしよう」
「じゃあ今すぐそこから飛び降りなさいよ。丁度姉さんが飛び降りたのと同じ高さよ」
「それは出来ない。俺はもう二度と自ら命を軽んじる行動は取らないと決めた。それが自分の命であろうと、他の人間のものであろうともだ」
「償う気がないんでしょう」
華奈は静かにそう言って、枕を冬臣に投げつけた。顔面でそれを受けた次の瞬間には、華奈は冬臣の横を走り去っていく。少し遅れて冬臣がその背を追う。ほんの数秒の差で先行されてしまい、エレベーターが下がっていく。
「相変わらず足が早い」
階段を探す間に、エレベーターは地上一階で止まった。冬臣は諦めてエレベーターを呼び、その速度にやきもきする。雪奈に頼ろうとする思考が過るが、それには及ばなかった。
冬臣は五十階でエレベーターを降りると、失笑する。そこには思った通り、最上階同様に展望スペースが存在した。ガラス張りの壁面から地上を見下ろし、そして目的のものを発見する。
改めて黒井事務所から外に出ると、この辺りで一番樹齢の高そうな木の元へと足を運んだ。見上げると、そこには華奈がいる。
「お前は変わらないな。向こうと違って日本の樹は堅いだろう?」
華奈は大樹の中ほどの高さで、枝にのしかかるようにしていた。それはまるで野生動物が外敵から逃れ、休んでいるようだ。一度冬臣を見下ろすと、再び彼女は目を閉じた。
「降りられなくなっただろう? 今そこまで行こう」
冬臣はスーツの上着を脱ぎ捨て、数年ぶりの木登りを始める。
「バカじゃないの、いつまで子供を相手にしているつもり? 降りられるわ」
「そうか。しかしせっかくの機会だ、俺も登ろう」
運動不足の冬臣は、悪戦苦闘しながらも木登りを続ける。華奈のいる高さの四分の一程度の箇所で、息が上がり始め、休み休みよじ登る。
「無様ね」
「そうだな。何、俺が様になったことなど、ない」
華奈のところまで後三分の一、四分の一、五分の一。そして、というところで足下の枝が根元から折れた。
「お兄!」
華奈の差し出した手が宙を掴む。が、元よりその甲斐はなかった。折れた枝の根元に、シャツが引っ掛かり、冬臣はまるで首根っこを掴まれた猫のようになっている。
しばらく二人は無言だった。しかし、冬臣は言わねばならなかった。
「引っ掛かって動けん」
華奈はひとしきり笑い声を上げると、気が済んだのだろう。彼女から差し伸べられた手を取ると、冬臣は丈夫さを確かめ終えた枝に腰を降ろした。
真夏の風が濃い緑の香りを運び、木の枝葉が揺れる。心地よささえ覚える葉鳴りだけが二人の間で音となっていた。静寂を破ったのは冬臣だ。
「ありがとう。助かった」
「……ふん」
「雪奈のところに戻るか。心配しているだろう。部屋の鍵も渡しそびれている」
無言で返した華奈だったが、彼女は軽やかに大地を目指す。動き始めを見届けると、冬臣は慎重に地面へと降り、しっかりと草の生えた地面に足を着けた。華奈へと振り返ると、彼女は沈痛な面持ちで、冬臣を見ていた。
「そんな傷跡、昔はなかったよね?」
どこかを負傷したかと自分の身体を見回し、肩甲骨辺りから腰までシャツが裂けていること、古傷が露わになっていることに気づく。
「いつの、怪我?」
顔面蒼白になりながら問う華奈に、古傷だと、今は痛むことなどないと叩いて見せた。
「リハビリは済ませた。激しい運動さえしなければ問題ない」
誤魔化しは通じなかった。華奈は再度同じ質問を投げかける。交通ルールを破ったのは自分で、それがもたらした結果を言い訳には使えない。そう、今も思っている。冬臣は華奈に背を向け、半歩踏み出し、呟く。
「あの日だ。だが、経過でミスをしたのは俺だ。その結果、お前たち姉妹に苦労を掛けた。言い訳にはならない」
「バカ、じゃないの」
華奈が一歩冬臣へと歩み寄る。
「バカだ、私」
背後から、冬臣の腰に手が回された。そのまま、背中に暖かい温度が触れる。
「でもお兄もバカ。言い訳しないのがかっこいいとでも思ってるの?」
「すまん」
朴念仁。分からず屋。唐変木。ぽつりぽつりと、華奈は不平をもらし、最後に言った。
「ごめんなさい。探しに来てくれて、ありがとう。見つけてくれて、嬉しかった。それから、お帰りなさい、お兄」
――現在15
「ちょっと見ない間に仲良しさんになってる」
戸惑いを見せたのは一瞬で、すぐに朗らかな顔になって雪奈は、冬臣の腕を取る華奈を見た。
「うん。ごめんね、お姉にも迷惑かけました」
華奈が頭を下げると、雪奈は冗談交じりに「許す」とだけ言って返す。そして華奈の口から聞いた自分の呼称を懐かしんだのか、それを自身の声で繰り返した。
「お兄、これからどうする? 早速レッスン?」
「今日は、色々あった。休ませてもらおう」
華奈は、冬臣の腕に抱き着いたまま、丸くした目で冬臣を見上げている。何か妙なことを口走ったのかと思案して見せると、彼女はすぐに答えを示す。
「お兄、何歳になったの? 昔は休んでるとこ見たことなかったよ?」
「言っておくが、お前たちの倍は生きていないぞ」
「ごめん、怒った?」
言って華奈は冬臣の腕に頬ずりする。気恥ずかしさを覚え、思わず腕を引きそうになった瞬間、懐かしい気配を感じ、反射的に顔が跳ね起きた。四階の姉妹の部屋の中には冬臣を含めて三人しかおらず、その場に殺気を立てた顔は、見当たらない。
「華奈ちゃんと《プロデューサー》さんも仲良しになったようですし、五十階で一緒に住むという事でいいんですかね?」
「居住エリアは二人で好きに使え。俺は施設エリアで構わん。もとより荷物もほとんどない」
「一緒に居住エリアで暮らしたらだめなの?」
「日本は向こう程寛容ではない。世間体が物をいうような国だ。《アイドル》の処女性を重要視する傾向もある。だからお前も外では俺との距離感に注意しろ」
不平を洩らしながらも、華奈は私物を取りに行くと地下にあるという預かり所へと一人向かって行った。残された雪奈の車椅子を押しながら、冬臣たちは五十階へと向かう。
「華奈の変わりように驚きましたよね?」
「そう、だな。だが俺にとっては今のあいつの方が、馴染みがある」
「仲直り出来て良かったです」
「ああ。正直許されることがあるとは思っていなかった。実際、永遠に恨まれて当然だと今でも思う気持ちがある」
「それは、許してくれた人に対しても失礼ですから、その気持ちは失くした方がいいですよ」
素直に首肯することに多少の抵抗はある。しかしそれが雪奈の言葉だからだろうか、いつか受け入れてみようと、そう考えることが出来た。
「ケンカの理由を訊かないのだな」
言ってから口を滑らせたことに気づくが、もう引っ込みの付く代物ではない。雪奈はしばらく顎に人差し指を当て、顔を上げていた。
「そうですねー……わー」
迷う素振りを取っていた所為か、言葉の途中で五十階へと到達した。扉の開いたエレベーターからは、夕日が沈む際中の光景が広がっている。雪奈は自分で車椅子を進めると、展望エリアの壁に張り付き、眼下に広がる風景に目を奪われていた。
「こんなに高い所に来たのは初めてです」
「そうだな、俺もこの高さで生活するのは初めてだ」
雪奈に追いつき、冬臣が車椅子に手を掛けた。彼女は身を反らせて冬臣の姿を見る。
「休憩する前に探検しませんか?」
「華奈がまだ戻っていないだろう」
冬臣がそう言うと、雪奈は車椅子のポケットから黒く無骨な携帯端末を取り出して見せる。
「連絡はすぐつきますよ。それにこのフロアには私たちしかいませんから」
「仕方がない」
雪奈が声を弾ませお礼を述べると、車椅子を進め始めた。フロアを東西に分けるエントランスを抜け、居住区のある左側を後回しにすると間もなく〝ドレスルーム〟が見えた。
「いつか華奈の《ドレス》がここから生まれますかね?」
「なるべく要求《IL》量を低くし、《ステージコア》を搭載する予定だ」
わかっているのかいないのか、雪奈は生返事で返す。それからしばらくすると〝レッスン室〟に辿り着いた。申し分のない設備に二人で感心していると、雪奈が携帯端末の振動に気づく。
「ごめんね、ちょっと探検してた。すぐホールに戻るから待ってて」
行きましょうか。雪奈に促され、冬臣が後に続く。さして力を込めていないようなので品のいい車椅子なのだろう。彼女は冬臣に先行する形で進み続けた。
「何か面白い物あった?」
「立派な施設だったよ。でも今一番気になるのは窓から見えた水族館と屋台? かな」
何それ。と二人は顔を見合わせ、その表情を綻ばせていた。それを見て、本当に何気なく冬臣は言う。
「《プロデュースプラン》を練るのに約二週間掛かる。その後だ」
二人は顔に疑問符を浮かべていた。冬臣が二人を遊びに誘うのは今回が初めてだ。しばらくして、二人は実年齢よりも幼く思える表情を見せた。
「その時にはパパって呼んだ方がいい?」華奈が冬臣の腕を取る。
「それともファーストネームですかねー?」雪奈が自分の頬に指を当てる。
「どちらも却下だ。居住区へ行くぞ」
結論から言ってしまえば、三人は同居することとなった。バカバカしく思える程広い居住エリアの大半を使用することなく、各自寝室だけを固有スペースとして一日の大半は三人で過ごしている。そして、二週間が過ぎた。
午前八時を回り、冬臣は目覚めると簡単に身支度を整え居間へと向かう。直前に見た、鏡に映った自分の顔は健康的に感じた。
「何も好転した訳ではないのだがな」
雪奈の足は未だに動くことはない。記憶を失っているからか、恨み辛みを吐き出すこともない。彼女には何もされていなかった。そして、何も出来ないでいる。
居間へと続くドアを開くと、そこでは雪奈がペットボトルの水を直飲みしていた。
「行儀が悪いぞ」
「あはは~、見られちゃいましたね」
ばつが悪そうにはにかむ彼女の表情は、再会するまで見たことのない顔だった。つまりは、昔の彼女はこのような屈託のない姿など見せたことがなかったのだ。
「昨日夜中まで戻って来なかったにしては早いですね」
「今日は、約束の日だ」
二週間前に、街へ遊びに行くと約束した、その当日となっていた。三人で出かけるそのために冬臣は《ドレス》も《レッスンプラン》も一通りの区切りをつけた。
「華奈を起こしてきましょうか?」
「まだ店が開くまで時間がある。構わないだろう」
「朝ご飯用意しましょうか?」
「いや、バナナ一本食べれば十分だ。今日は間食の機会が多そうだからな」
冬臣がそう言うと、雪奈はバナナを一本捥いで冬臣へと差し出す。軽く礼を言い、バナナを一口含むと程よい甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しいですか?」