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~30

 駆けてやって来たのだろう、凜は頬を上気させ、胸を上下させていた。肩に掛け、小脇に挟んだスクール鞄の口が開いているのがどれだけ急いで駆け付けたのかを物語っている。

「凜ちゃん、ノック。あしとこの人がイケナイことしている最中だったらどうするんすか?」

「え、いつの間にそんな関係に? じゃない。ダメ、ダメだよ絶対」

「あ~あ~、そんな真剣な顔しちゃって。これだからあしが毎日見舞いに来る羽目になるんすよ。ほっといたら凜ちゃん何するかわからないす」

「何それ」

 言って凜は唇を尖らせた。ここ数日で凜は赤鳥の前だといっそう子供っぽいことを、冬臣は知った。よくよく考えるとまだ十六だというのでこういった面も不自然ではないだろう。

「りんご買って来たよ。食べる?」

「凜ちゃん、りんごの皮むき出来るす?」

「出来るよ。……ピーラー、使えば」

 最後の方は蚊の鳴くような声だった。冬臣がりんごの準備を頼むと、赤鳥は笑窪を浮かべる。

「悪いすね、うちのお嬢が」

 凜は何かをさせていないと次々と世話を焼こうと何事かを尋ねて来る。それを赤鳥も想像がついているのだろう、彼女は冬臣に軽く頭を下げた。

「何が?」

 知らずにいるのは当の本人だけだ。小首を傾げたが、すぐに気を取り直して流し台へと向かって行く。その後ろ姿を赤鳥は見送ると、冬臣に向き直った。

「後二、三日で退院だそうすね。気は、変わらないすか?」

 冬臣が首肯すると、赤鳥は小さくため息を吐く。団子状にまとめ上げられた髪を弄ると、彼女は再び冬臣の目を見つめ、また深く息を吐いた。

「話しただろう。俺には《アイドル》に関わる資格がない」

 もちろん《ライセンス》という資格の意味合いではない。それを赤鳥も重々承知している。しかし彼女が冬臣について知らないことは多い。

「そうは言ってもその理由については話してくれないじゃないすか。それで諦めろというのは無理な話だと思わないすか? 凜ちゃんと出会った時《簡易ドレス》をその場で改造してみせたそうじゃないすか。正直その能力は喉から手が出るほど欲しいすよ」

 ここ数日繰り返し行われた問答だ。お互い諦めることなく、平行線を辿った結果、今日も同じ場所へと行きつく。

 冬臣は口を噤み、目を伏せる。赤鳥はしばらくその光景を眺め、そして口を開く。

「退院したら、《エアリアルレイド》を引取に伺うす」

 赤鳥から訣別の意志を受けたその日も結局、冬臣は首を縦に振ることが出来ずに終わった。


――過去4

「何をしている?」

 冬臣が買物から帰り、部屋着に着替えようとした時だ。彼の寝室で、雪奈が立っている。雪奈とその妹の華奈を引取り、数週間が過ぎたが、それは初めてのことだった。

「妹と二人纏めて引取って貰った恩を返そうかと」

「そうか、それは良い心がけだ」

「でしょう? 初めてだから痛くしないで貰えると助かるのだけれど」

「だが、どこがどう間違ってそうなった?」

 雪奈は意味がわからないと眉を寄せていた。それを見て冬臣は頭痛がするように額を押さえた。彼女は、濡れた髪をそのままに、バスタオル一枚を身体に巻いていた。

 栄養を賄い、衛生環境も向上した今の彼女に出会った頃のようなみすぼらしさはない。

「着衣のままが趣味だった? 日本人はやっぱり変態なのね」

「お前も日本人だろう?」

「そうなのかしら?」

「少なくとも俺は日本語圏以外で雪奈や華奈という名前は見たことも聞いたこともない」

「日本育ちは変態なのね」

「言い直すな。だいたい俺はお前にそんなことは期待していない」

 何を考えているのか雪奈は自分の慎ましやかな胸を揉みしだき、ため息を吐いた。

「いつこの胸が育ち、純潔を奪われるのか慄きながら生活するのは辛いのだけれど?」

「安心しろ、そんな日は来ない」

「失礼な話ね。母の胸は中々の物だったわよ」

「そういう意味ではない」

 わかっていてやっているだろう? 冬臣がそう問うと、雪奈は困ったような笑みを浮かべた。

「今の私にはこれ位しか払える物がないの。恩はすぐにでも返しておきたいわ。私の手が届く範囲はとても狭い。だから、守るものは極限まで減らしておきたいの」

 日本であれば中学生程度の年齢でしかない少女は、そう冬臣に告げた。冬臣は何も善意で雪奈たちを引き取った訳ではない。雪奈にはその事を明言しているにも関わらず、彼女はそれでも冬臣の行為に借りが出来たと判断しているようだ。

「《アイドルマスター》になれなかったその時はそれで返せ。まったくいらんがな」

「失礼な話。でもその頃には私一人分の価値と、これからあなたが支払うだろう金額とでつり合わないと思うのだけれど? 華奈に手を出したらあなたでも容赦しないわよ? それは絶対」

「バカを言え。お前は《アイドルマスター》になりたい訳じゃない。それを無理やりならせるためのレッスン、いわば強制労働だ。ふん、こんな物価の安い国でお前ら二人を養う程度の給料でやらせていたら日本であれば捕まる所だ。我ながらいい拾いものをしたものだ」

「……日本育ちって頭の中身が平和なのね」

 成長しないな。冬臣はそう内心で呟き、妹の寝る部屋へと帰って行く雪奈の背を見送る。

 その背に、素直になれずにいた自分の少年期の姿を重ねた。


――現在6


 何をするでもなく数日が経過した。何がある訳でもないが、冬臣は自室に戻ると気が落ち着くのを感じ、着替える間もなくベッドに身を投げた。入院前よりも心なしふっくらとした布団から、わずかに自分のものではない香りが漂う。

 入院中に一度凜を追い出そうと、部屋の掃除を依頼したことがあった。それを思い出し、冬臣は部屋を見渡す。大きく何かが変わった印象はないが、小奇麗になっている気がする。

「真面目なやつだな」

 その呟きに相手を貶める色はない。そしてそれはそのまま誰に届くでもなく霧散した。凜が雑巾片手に家具を拭き、布団を干す光景が容易に浮かぶ。そしてそんなとりとめのない冬臣の思考は、呼出しの音で終わった。

「退院したなら、言って欲しかった。もう午前はレッスン出来ないじゃん」

 そう言う凜の唇は少し持ち上がりへの字になっており、ご立腹のようだ。だから言い訳もせず、冬臣は短く詫びを入れる。気が晴れたのか、彼女は表情を和らげ、それから眉を下げた。

「《エアリアルレイド》、引取りに来たよ」

「そこで待っていろ」

「ううん。あたしが掃除した部屋をもう汚したりしてないか確認しなきゃ」

「今戻ったばかりだ」

「靴、揃えてないよ」

「……勝手にしろ」

 冬臣は凜を置いて机に向かう。凜は靴まで脱ぎ、本当に冬臣の部屋にまで入って行く。冬臣が《エアリアルレイド》を取り出し、彼女に差し出す。

「そうだ。これ、赤鳥さんから」

 凜は学生鞄の中から厚みのある封筒を手に取り、《エアリアルレイド》と引替えに、冬臣へ渡す。中身はそれなりの厚さになった万札の束だった。受取る必要はなかったが、赤鳥のいないここで押し問答しても仕方がない。そう判断した冬臣は封筒を受取り、言う。

「赤鳥に伝えてくれ、これで貸し借りはなしだと」

 わかった。そう頷いた凜の声が、少しだけ震えた。冬臣に凜の気持ちを正しく察することは出来なかったが、最後の餞別代りを送る。

「音感もフィジカルも《IL》も及第点だ。あれだけ基礎が出来ていれば問題ない。まずは《プロデューサー》を探せ。それから《ドレス》を使わず《クラシックアイドル》としてデビューしろ。お前ならある程度稼げるようになるだろう。そのアイドルデビューしたので遅くない」

 過大評価だろうか。しかし入院中から今に至るまで冬臣が幾度考えても、凜を認める答えは変わらない。それでも冬臣は凜に《エアリアルレイド》を任せる気にはならなかった。もちろん修理が間に合わなかったこともあるが、基礎力だけで扱える《ドレス》ではないとの判断だ。

「いつ、どれくらい、稼げるようになるかな?」

「《プロデューサー》の腕次第だ。しかしそいつの給料を上回るのに仕事を数件こなす必要もあるし、お前には実績がない。半年はかかるだろう」

「そっか、そっかぁ」

 凜の瞳から大粒の涙が零れ始め、フローリングに雫が落ちる。

「間に、合わないんだね」

 凜は必死に涙を堪えようと手首で目を抑えるが、涙は腕を伝い、肘まで濡らす。彼女は何度も目元を拭い、嗚咽を我慢しようと口を覆う。酷く美しく泣く少女だと冬臣は思った。

 冬臣は理由を問うことも出来ず、ただ棒のように立ち尽くすことしか出来なかった。凜の押し殺し切れなかった嗚咽だけが小さく、だけれどもはっきりと冬臣の部屋に響く。

「ごめんね、レッスン場で助けてくれてありがとう。最後に、もう一度お礼、言いたかったんだ。それだけだから」

 そう言い切り、凜は冬臣の部屋を去っていく。その背中に対して、冬臣から言葉は出てこなかった。彼女は最後に玄関のドアの前で振り返り、お辞儀をして、消えて行った。

 冬臣は携帯端末を操作すると、入院中に教えられた番号へと電話を掛ける。

「はい、白井芸能プロダクションです」

「今しがた、凜に《エアリアルレイド》を手渡した」

「あ~、ご丁寧にどうもす」

 赤鳥の声に特に違和感はなかった。しかし凜の様子から、何かがあったはずだ。どう切り出すか冬臣が思案していると、赤鳥は妙なことを言いだす。

「据え膳くわぬは、何てことはしてないすよね?」

「どういうことだ?」

「いえ、何でもないす。わざわざ電話して来たってことは、凜ちゃんは言わなかったんすね?」

 質問をしたいのはこちらの方だと冬臣は思いながらも、律儀に説明をした。話を黙って聞いていた赤鳥が、小さくため息を吐く。

「バカなことしてないで良かったす。それで、あんたはどうしたくてうちに電話して来たすか?」

「目の前で意味深な振舞いをされたら気になるだろう」

「それだけすか? 悪いすけど、それだけなら話すことはないす。あんたには関係ないすから」

 そう言われてしまうと冬臣には返す言葉がない。しかしそれでは、と通話を切る気にもなれなかった。もちろん赤鳥の態度が正しく、今冬臣がしている電話など彼女の仕事の邪魔にしかならない。今すぐ切られてもいいレベルだ。

「釣りを返しに行くから事務所の場所を教えろ」

「釣り? あ~、《エアリアルレイド》の修繕費すか? 不要す。そのまま受け取るといいす。元々正規に依頼すれば数百万の仕事すから」

「そういう訳にも行かないだろう、俺は修理を終えていない。だいたいこれが原因で倒産でもされたら目覚めが悪い」

「…………その金があろうとなかろうと関係ないんで不要す。それでは失礼するす」

 待て。そう言う暇もなく、電話は切られてしまった。最初に彼女たちを拒絶し続けていたのは自分の方だと、気を静め、冬臣は白井プロの件については頭の片隅に追いやることに決めた。凜も、赤鳥も、白井のことも、全てなかったことにすると唱え、冬臣はベッドに横たわる。

《エアリアルレイド》は《回路》に細工をしてある。例え使おうとしても未熟な《アイドル》どころか現役トップアイドルでも起動させるのが困難なほど要求される《IL》のレベルを冬臣は上げておいた。

 起動さえしなければ《エアリアルレイド》が原因で凜が事故に遭うことはまずあり得ない。彼女の容姿に《アイドル》としての基礎力、まともな《スタッフ》さえつけば自分がいなくとも《アイドライジング》でなかなかの地位にまで登りつめられるはずだ。冬臣はそう言い訳するように思考を走らせた。しかし胸の靄は晴れず、部屋の外へと出る。行先も知らず、冬臣は高く上がった日の下で、足を進める。

 真夏の風景が冬臣の背後に流れて行く。無意識に冬臣の足は走り出していた。目まぐるしく風景が変わる。さして距離は離れていないはずだと見当をつけるが、問題は方向だった。冬臣の自宅からは右手方向には駅、左手には別路線の駅へと向かうバス停がある。

 汗で張り付くシャツが気持ち悪く、運動不足が祟って走るのも辛い。冬臣は自分が走っている間中愚痴を脳内で唱えていた。いくらか表情にも出て、道行く人々が冬臣から距離を取る。

 そして、冬臣は目的の者を捉えた。彼女はレッスンがあるだろうに、公園で道草を食っていた。いつかの少年少女たちに囲まれ、何事かを話している。立っているのも辛くなってきた冬臣は、スーツが汚れるのも厭わず、彼女たちを視界に収められる位置で座り込んだ。木の陰に入った涼しさが心地よい。息も落ち着いてくると、話の内容も聞き取れるようになっていった。

「おねーちゃん元気ない? わたし元気の出る歌、歌ってあげる」

 幼い少女のまだ未成熟な歌声が、風に乗る。《IL》も《ドレス》もない歌だ。それでも誰かの心を動かすことは出来る。《IL》を持たず、エンターテイメント性に劣る《クラシックアイドル》が、今なお存在する理由の一環がそこにあった。

「なーなー、姉ちゃん《アイドル》なんだろー? こいつまだまだ歌下手だからさー、教えてやってよー。一応、俺達? こいつの《アイドル》になるって夢応援してやることにしたからさ、協力してやるんだ」

 少女の歌が終わると、早速少年達が凜に少女を揶揄するような発言をする。

「下手じゃないもん!」

 少年少女たちが未だに仲がいいのか悪いのか、冬臣には判断がつかない。

「全然下手じゃなかったよ。もっと聴きたいくらい」

「え~、どうしようかなぁ、そうだ、次はお姉ちゃんも一緒に歌おうよ」

 凜がその申し出を受け入れると、何を歌おうか、などとその場は甲高い声で一杯になった。しばらく騒々しくしていたが、どうやら曲目が決まったようだ。凜が指揮代わりの手拍子を始め、それがカウントと共に三度叩かれると、合唱がはじまった。しかしそれはわずか数秒で独唱となった。

 凜はその事に気付いていないのか、歌い続ける。名を表すような歌声は、気温とは別の理由で冬臣の頬に汗を流す。冬臣は今更ながら初めて凜の歌を聴いたことに思い当たる。その歌は、聴く者の注意を惹きつけ、離さない。

 無伴奏でありながら豊かな色を含む表現力、伸びやかに、そして丁寧に紡がれる音階。冬臣をして一級品と言わしめすだけの魅力がそこにはあった。一曲歌い切ると、少年少女達から歓声が上がる。

「すっごぉぉい! おねーちゃん上手!」

「すげえよ姉ちゃん、半端なく上手いよ!」

 凜は、自分の持つ歌の力に気付いていないようで、称賛を受け流していた。

「パパに頼んでおねーちゃんの《ステージ》見に行くの!」

 少女の何気ない一言に、凜の表情が凍り、俯く。そして、自分の身体を抱くと絞り出すようにして口を開いた。しかし、放たれた言葉は誰にも届かない。

「ああ、観に来い。次の《ステージ》で特等席を用意してやる」

 冬臣が、それに被せて物を言った。少年少女は、冬臣の突然の乱入に気を取られる暇もないほど凜に熱中しているようで、目を煌めかせ、元気のよい返事をした。

「悪いな、これから仕事だ。うちの《アイドル》を連れて行くぞ?」

「うん。お仕事頑張ってね、おねーちゃん!」

 少年少女は限界まで勢い付けて手を振り、去って行く。

「無理だよ。だって、事務所がなくなっちゃうんだ」

 もう声は届かない。凜はそれを承知したから改めて呟いたのだろうか。

「ファンの前ではいつも《アイドル》であり続けろ」

 凜は潤んだ目を見張り、それから怒りで細めていく。

「自分を応援してくれている人に嘘を吐いても良いって言うの?」

「そうだ。それがファンのための嘘である限りな」

「ファンのため? 何で他人が、他の人のためになるかどうかを決めるの? 他の人の気持ち何てわかりっこないじゃん」

「確かにわからない。だが決めるべき問題だ。そしてその責任は《スタッフ》が負う」

「責任取れない癖に、《スタッフ》でもない癖に! 次の《ステージ》? うちの《アイドル》? 嘘ばかりで、実現しないようなことを好き勝手に言って、酷いよ」

 第一印象は、底知れない少女。次には、年相応に弱い少女。さらにその次はどうだろうか? 冬臣にはまだわからない。

「今回、嘘を吐いたのは俺だけだ。その分の責任は、取ろう」


――現在7


 白井プロは、三階建の雑居ビルのワンフロアに事務所を構えている。一階はビルのオーナーが経営している大衆食堂、三階に白井プロ、二階は倉庫として使われているらしい。ビル自体は、ある程度の年代を感じさせるもので、壁面の塗装に剥がれがあるところもあれば、ヒビがある箇所もある。

 凜と並び、三階までの階段を上がりきると、目の前にプレートの掛かったドアが姿を見せた。プレハブ小屋についているようなドアのようでいて、その実しっかりと厚みのあるそれは案外重いらしく、開ける凜がそれなりの力を込めたのが見て取れた。

「お帰りす、凜ちゃん」

 赤鳥の声はすれども姿は見えず。小さな体躯は、彼女のワークデスクであろう机に積み重ねられた書籍や資料などで完全に隠されていた。しばらくそちらを眺めていると、赤鳥は冬臣の下まで足を運んだ。

「どういったご用件すか?」

 赤鳥の目は敵意も温かみもなく、冬臣を自社の戦力としては勘定することを諦めたことがにじみ出ている。彼女は経営を一手に引き受けているためか、リアリストなのだろう。

「仕事を依頼しに来た」

「仕事すか? うちには《D級アイドル》しかいないすよ」

 本来《D級アイドル》である凜に仕事の依頼は来るものではない。《プロデューサー》が必死になって掴み取ってくる物だ。だから赤鳥の怪訝な顔は極自然な反応だった。さらには仕事の依頼を持って来た者は自称チューナーなのだから不信感は一入だろう。

「後日正式に書類が届く」

「仕事の時期はいつすか?」

「再来月中旬だ」

「……ありがたい申し出に対して非常に申し訳ないんすけど。その依頼、受け兼ねるす」

 断るメリットはないはずだった。冬臣は我が耳を疑うが、続く赤鳥の言葉でそれが正しく機能していることを知る。

「今月末で二度目の不渡りが出るす。うちの事務所の実績で貰える《補助金》では賄えないほどの額す。口座のある銀行はそこだけじゃないすけど、お手上げなんすよ」

「なるほど、な」

 冬臣はようやく白井プロの置かれた窮地を知ることが出来た。



 冬臣にとって四年振りの《アイドライジング協会本部》。国立公園よりも規模の大きな自然公園の真っただ中に建つ高層ビルは、その大きさをしても周囲の家屋に影を落とすことはない。

 懐かしさからか冬臣は《協会本部》で用事を済ませた後も、その建物を見上げている。《プロデューサー》《チューナー》《トレーナー》業務それぞれの資格を全て有する彼は、器用貧乏で大成しないと見られることがほとんどだった。当時は就業申請をいくら出してもどこからも声が掛からなかったものだ。冬臣が感慨にふけっていると、知った声に気づく。

「何度も言っているように事務所を自発的に畳むつもりはないす」

「大した恩義もないだろう。そんな事務所の借金を背負いたいのか? ふん、私は善意で言ってやっているつもりだがな?」

 只ならぬ雰囲気、ではあるが話の内容から察するに二人の関係は債権者と債務者の関係で間違いなく、冬臣に取って都合がよい。

「赤鳥」

 冬臣の声に、赤鳥は勢いよく振り返る。驚いているようで、冬臣の存在に疑問を口にすることも出来ずにいるようだ。そのまま冬臣は反応しない赤鳥を素通りし、債権者と思われる中年の男の前へと足を進める。

 中年の男は羽振りがいいのか、ブランド物で装いを整えており、袖口から覗く腕時計も高級メーカーのそれだ。冬臣の登場に彼は不機嫌さを表す。

「何か用かね? 取り込み中なのだが」

「白井プロの債権者だな? これで完済だ」

 冬臣はそう言って一枚の小切手を中年の男に差し出すと、ますます彼は怪訝な顔つきを濃くした。冬臣と白井プロの関係を量りかねているのだろう。

「白井の関係者か? 止めておけ。今ここで完済しても無駄だ。白井の所に仕事が入ることはない。金をドブに捨てることになるぞ」

「ご忠告感謝する。たが要らん心配だ。次の仕事は決まっている」

「ほう? だが、決まった仕事が流れる可能性という物があることを知っているかね?」

 その一言で目の前の中年がどういったタイプの人間かを、冬臣は知った。しかし、それは彼にとっては何の脅威にもならない。

「心配だな。《協会本部》が開催するイベントが中止になる事態とは末恐ろしい」

「はっはっは、無知とは憐れだな小僧。白井のところには今《D級アイドル》しかいないぞ? それでどうやって《協会》主催のイベントに出場する? 悪いが《推薦枠》は我が黒井事務所の推薦する《アイドル》で決まりだ。うちには《A級プロデューサー》が三名所属しているのだからな。意味がわかるかね?」

《協会本部》が主催するイベントの大半は、高い級の《アイドル》が優先して参加権を持つ。ただ《推薦枠》というものがある。それは高級プロデューサーの意向で出場アイドルが決まることになっていた。国内に五人しかいない《A級プロデューサー》のうち過半数を超える彼らが黒井事務所に所属しているのならば、確かに黒井事務所の推薦した《アイドル》でこれまでは決まっただろう。

「そうだったのか、悪いことをしたな」

「何、私は寛大だ。無知を恥じた人間に鞭打つ真似はしない。貴様の罪を許そう」

 冬臣は、改めて小切手を差出す。

「後悔するぞ、小僧」

「この程度でする後悔など、さしたる重さなどない」

 中年の男は鼻を鳴らすと、冬臣から小切手を受取り、そして目を零さんばかりに開く。

「小僧、《ライセンス》を見せろ」

「そんな義理はない」

「……黒井敬三だ。うちの事務所に来る気になったらいつでも来い。即採用してやる。ただし、私の邪魔をするのなら覚悟をすることだな」

 黒井は、赤鳥とのやりとりなど忘れたように去って行った。

 後に残された二人の間でわずかな沈黙が訪れた後、赤鳥が口を開く。

「国内大手芸能プロダクション黒井事務所の二代目社長さんす。先代とうちの社長はライバル同士だったらしく、うちを潰すことで二代目さんは先代を越えたと周知させたいみたいす」

「そうか。別に聞くつもりはなかったんだがな」

「それは失礼したす。聞かれなくても話した方がいいことも、話したくなくとも聞かれた方が良いことも世の中にはあるんすよ」

 さして年を重ねていないだろう赤鳥が世の中を語るのは、少しばかりおかしかった。しかし冬臣はそれを一蹴することはしない。

「後半は、同意し兼ねる」

「そうすか」

 赤鳥はまとめ上げた髪を形が乱れるまで弄ると、冬臣を見上げた。どこか躊躇う様子を漂わせ、それから彼女は瞳に強い光を宿す。

「あしらに、どうして欲しいんすか? 正直、あんたのことが全然理解出来ないす。何であしらに手を貸したんすか? その癖差し出した手をあんたはすぐに引っ込める。訳わかんないす。希望を見せては掌返す、それが楽しいんすか? 恩がある癖にこんなこと言うのが恥知らずなのはわかってるす。けど、あしはあんたのことが大嫌いす」

「俺も、俺が大嫌いだ」

 そう言う冬臣の顔を前に、赤鳥は言葉を失う。単に自分に酔っている様子はなく、迷子のように弱々しく便りない冬臣のその顔は、彼女にとって助けを求めているようにも見えた。

「《スタッフ》として働き続けることも、《ライセンス》を捨てることも、どちらも選べずにいる自分が、大嫌いだ。未練がましく執着し続けている癖に、才能にあふれた凜へ力を貸すことも出来ずにいる自分が、大嫌いだ」

「何が、あったんすか?」

「俺は…………担当アイドルを殺した」

 絶句する赤鳥をよそに、冬臣は彼女に背を向けた。口を滑らせた自分に腹立ちながら。


――過去5


「日本?」

 雪奈は白を基調とした愛らしいステージ衣装を着ていた。素の彼女を知る者たちは馬子にも衣装だと言うかもしれない。しかしステージ上の彼女、つまり《スノウ》に付いた数多くのファンがそう見ることはないだろう。

「そうだ。この《ステージ》が終わったら日本へ行く」

「そう……、私の貞操を賭けたステージへと行くのね」

 成長したのかリボンでボリュームを誤魔化しているのか、冬臣には判断の付かない胸元を抱き、雪奈が不敵に笑うと、冬臣は軽く片頬を上げた。

「馬鹿を言え、もう一生分はお前たちを食わせなければならないほど、お前を使って稼いだぞ」

「そう。それは良かったわ。もう遠慮することはないのね」

「元よりお前に遠慮があったか?」

「あなたは本当にバカなのね」

 よく見る雪奈の半眼を前に、冬臣は頭を掻いた。

「《アイドルマスター》になりに行くぞ」

「前哨戦のつもりはないわよ? 私は目の前の《ステージ》でいつも手いっぱいだもの」

 五大大会のうちの三大会制覇という偉業を達成した《スノウ》に対して今日の会場は貧相だ。しかしそれでも《スノウ》がデビューした土地である貧国の《ステージ》には《アイドライジ

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