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――現在3
《エアリアルレイド》を凜から受け取り、数日が過ぎていた。冬臣は凜と出会った公園とは異なる公園のベンチに腰を降ろしている。その手に《エアリアルレイド》はない。
今頃凜は冬臣と出会った公園で彼を探しているかもしれない。盗まれたと警察に届け出ているかもしれない。冬臣はどちらでも構わないと思っている。雪奈とどこか似た《アイドル》から《エアリアルレイド》を遠ざけることに成功し、それでことを完結させた。
《スノウ》を失い、自身が事故に遭い、そして退院してから先日の出会い。それまでと変わらない冬臣の日々が再開されていた。幸もさらなる不幸もなく、浮き沈みもない日々をただ怠惰に過ごす。
「隣、よろしいですかな?」
人の良さそうな顔をした老人に身振りで答え、冬臣はその場を立ち去ろうかと思案したが、それを理由に老人から離れる機会を逃す。
「あなたと同じ目をしたことがあります。うんと若い頃に。今のあなたと同じくらいの年齢でしたでしょうか」
老人の言葉が冬臣の胸深くに届くことはなかった。知ってか知らずか、老人は続ける。
「時は、万病の薬にはなり得ません」
一般的な物言いと異なる内容に、冬臣はつい横目で老人へと視線を向け、耳を傾けてしまう。
「忘れた振りは出来るでしょう、思い出す回数が減ることもあるでしょう。しかし、ふとした拍子にそれは鮮明な出来事として蘇る」
「なら、どうしたらいいのでしょうね」
「失敗した出来事で成功すればよいのです。後悔は達成で上書き出来ます」
冬臣は老人の言葉を肯定することが出来なかった。当然だろう。冬臣には同意するに足るだけの経験がないのだ。雪奈を失い、後悔しているのは過去ではなく、現在の出来事なのだから。
「そんな物ですかね」
「そんな物です。終わらせた後ならば。終わらせた後です。気を悪くなさらないで下さい。だから今のあなたには理解出来ないかもしれませんね」
ならどうしてそんな話をした。冬臣はそう言いたくなる。
「一人で悩み、一人で暗闇に落ちていくのなら自由になさい。そして、一人で責任を取りなさい。ただ、二人目を引きずり込むことを、私は許しません。人は他者の人生を背負えないのですから」
老人の声に、険が入る。しかし、それも一瞬で、再び包み込むような穏やかさが戻る。
「前に進み、二人目三人目を巻き込みなさい《魔法使い》」
冬臣が老人を二度見返した時、そこに先ほどの老人の姿はなく、呆けたように口を開いたり閉じたりしている者がいた。
「すみませーん、おじいちゃ、んが……」
少し離れた所から駆け寄ってくる凜の姿に、冬臣は絶句するより他なかった。数瞬の間があってようやく、こんなふざけた偶然があるものかと、怒りが沸き起こる。そして、どれだけの罵詈雑言をその身に受けるかと身構えたが、杞憂に終わる。
「《エアリアルレイド》の調子、どうかな? 修理、難しい?」
凜は、冬臣を疑ってなどいなかった。強いてそう振舞っているのかと冬臣は邪推したが、今目の前にいる少女の揺れる瞳を前に、とてもそうだと思えない。
「違う。ごめん、順番間違えた。ごめんね、社長が迷惑かけなかった?」
疑問符を冬臣が浮かべていると、凜は逡巡した後紹介を始める。
「こちら白井プロの白井社長。数年前から呆けが始まっちゃって、一日の大半は呆けているんだ。でも大事な時には戻るんだ、ホントだよ?」
ホントだよ? そう人差し指を立てた凜に対して、冬臣は何と答えていいのかわからなかった。目の前で虚空を見つめる老人は何も告げない。
「お前は、白井プロに所属していていいのか?」
「これがホントに大事な時には凄い人何だって。事務員の赤鳥さんもすっごく優秀で、一人で事務所の切り盛りしているんだから」
誇らし気にしている凜に対して、冬臣は完全に胡乱気な目つきでいた。
「他の所属はいるのか?」
「いたよ、たくさん! でも社長がこうなってからは皆いなくなっちゃった」
何故お前はその時移籍しなかった。そう訊きたい気持ちは湧き上がらなかった。白井プロの現状に処方する薬を思いつかなかったからなのか、深入りを避けるためなのか、冬臣には判断がつかない。おそらく、両方だろう。
「《エアリアルレイド》は俺が二千万で買い取ってやる。その金で成人まで食いつなげ。事務所はもう畳め。赤鳥とやらがその手続きを出来ないのなら俺の伝手で何とかしてやる」
所属する組織を否定された嫌悪は起こらず、凜はむしろ疑問が浮かんだらしい。口元に折った指を当て、小首を傾げる。そして、考えが纏まったのか、それを口にした。
「どうしてそこまでしてくれるの? 《エアリアルレイド》の修理を頼んでおきながら変な話だけどさ、あなたにそうまでして貰える理由が思い当たらないよ。あなたは『デビューさせてやろう』って言ってくる大人たちとも、あたしのことをろくに知らない癖に『好きだ』と言ってくる男子たちとも違う気がする」
眉目秀麗と評して引け目なしの凜は、それで得もすれば損もあったことが窺い知れる。冬臣の目の前で疑問を呈している今この瞬間の表情ですら異性どころか同性の目でも奪うだろう。
ここで雪奈に似ているから。とは冬臣は答えない。それが真実だとは思えないからだ。では手の届く範囲で助けられるからだろうか。そう思考も出来たが、しっくりこない。冬臣は無関係の人間が目の前で野垂れ死に寸前になっていようが、同情こそすれ、手を差し延ばすには至らない人間だ。
「ただの、気まぐれだ」
「そう。気まぐれなんだ。人が良いんだね」
凜の言葉の意味が冬臣には理解できない。偽善と言われようと考え無しとも言われようが許容出来た。だが人が良いというその言葉には、すんなりと受け入れられないだけの抵抗感がある。善人とは、いついかなる時も誰に対しても善を行うからこそ善人なのだ。
「だって、あなたは見返りを求めていないもの。二千万なんて大金なのに、冗談じゃなく出すつもりだったでしょ? でもあなたはそれであなたに対してどうこうしろって言わなかった」
凜は、求めるものがない者のことを知らない。そう冬臣は判断した。
「後から要求しようとしたかもしれない。それに《アイドライジング》に従事していれば二千万はさして大金でもない」
「トップクラスの《アイドル》の《チューナー》だったんだ?」
例え高所得職業である《アイドライジング》界従事者であっても、二千万稼ぐことはそう容易ではない。冬臣は自分の失言に気付き、舌打ちをした。そして、雪奈はもう笑うことも泣くこともないというのに、自分は感情を激しく起伏させてしまっているという事実に嫌気が差す。
「昔の話だ」
居たたまれず、冬臣は立ち上がり、踵を返す。その背に凜が言葉を掛けようとしたその時、老人の声がした。
「凜、あの青年に一度レッスンを見て貰いなさい。君が《アイドル》に相応しいかどうか、そこで判断をして貰いましょう」
「社長! ……あの、聞こえたと思うけどお願いします」
見たところで意味はない。冬臣は結論を既に出している。それを上手く伝える術が見当たらず、彼は無言で返す。
「絶対に見て貰うから」
誰かによく似た声色で、誰かをどこか彷彿とさせる少女が呟いた。
――現在4
冬臣は酷い喉の渇きを感じていた。自宅に戻り、コップに注いだ水道水を飲み干しても潤わず、その渇きは深夜に至り続いている。日中何をしている訳でもないが、現実逃避をするように発揮される寝つきの良さも今晩は姿を現さず、時間を持て余す。だからだろうか、机が度々視界に入る。より正確に言うのならその中にある《エアリアルレイド》のことが気にかかる。仮に修理に成功したとしても凜に渡すつもりは毛頭ない。
ただ一つ、机に置かれた機械がやたらと目を引く。掛けられたカバーを退かし、電源を入れれば何の問題もなく使用できるそれが不可思議な引力を放つ。
眠れない焦燥感が湧き上がる。眠れないことで何か困ることはないはずだ。明日も予定はない。しかし、冬臣はそのままベッドに横たわっていられなくなった。
部屋の明かりを点けることなく、素足でフローリングの上を歩く。《ドレスメーカー》のカバーを剥がすと、埃の匂いがした。机の中から《エアリアルレイド》を取り出すと、《ドレスメーカー》の中に設置した。電気の通る音が小さくする。
《ドレスメーカー》の盤上に《エアリアルレイド》が浮かび上がる。この実物よりも大きな《コピードレス》に《回路》を編み込んだり別モニタに移るシステム言語を改変したりした後、《ドレスメーカー》で上書き作業を行えば《ドレス》が組み上がるという代物だ。
まずはシステム言語に目を通す。ここで《回路》異常があればわかる。当たりをつけて《コピードレス》を電灯に翳す。灯りを点け忘れていることにようやく気付き、卓上電灯のスイッチを入れた。
目が慣れるまで薄目になりながらも確認すると、数本の金糸状の物が途切れていた。《IL》の過剰供給や操作ミスで焼き切れている箇所と、単純に劣化か何かで切断されている箇所がある。繋げばよいだけだが、そこは《エアリアルレイド》だ。システム言語から推測するに、一本繋ぎ直すだけでも他の《回路》の上を通したり下を通したり一本置きに戻ったりと複雑な工程が要求されている。
並の《チューナー》ならば見た瞬間匙を投げるのが必然なレベルだ。正直、冬臣のレベルでさえ平時であれば見限っただろう。しかし今の彼は一種の異常な状態だった。黙々と作業を進める。二年以上のブランクから、その速度も精度も最盛期と比べて劣る。《簡易ドレス》とは、要求される技術が雲泥の差だ。
真夏の暑さを室内では感じられなかった。年間通して空調を利かせているコストよりも、《ドレスメーカー》の不調がもたらす被害額は大きい。
ざっと結び繋げた《回路》が一段落すると、《コピードレス》を《ドレスメーカー》で試行させる。示される文字列は膨大なエラー。冬臣は予想通りの結果に、再試行を始めた。金糸状の物を溶かし、円形にした物を《回路》の近くに張り付け、新たな《回路》を描いていく。
試行。エラー。試行。エラー。試行。エラー。試行。システムグリーン、ただし《エアリアルレイド》にあるまじき予想スペック値。試行。エラー。
やがて夜が明け、冬臣の瞼がようやく重くなってきた。彼は《ドレスメーカー》の電源を正規の手段で落とし、後片付けのあと、ベッドに横になる。
数年振りの充実感と共に、冬臣は意識を薄れさせた。ようやく眠れる。そう思った矢先、来訪者を告げるベルの音が鳴った。無視してやり過ごそうとしたが、相手は諦めの悪い者のようだ。何度も何度もベルを鳴らす。
冬臣は物が極限まで少ない部屋のフローリングを渡り、また物の無い廊下を経て玄関まで辿り着く。サンダルに足を掛け、ドアを開く。外の匂いと共に、ここ数日で馴染みになってきた香りがした。
「おはよう」
「何故ここにいる?」
凜だ。学校の制服なのだろう赤と黒のチェックスカートは野暮ったくならない程度に短く、白のブラウスの上にスカイブルーのサマーセーター。個性と言えばサマーセーターでしか表現されていない服装だが、それでも彼女は年相応以上に愛らしかった。
「午後から補習があるから、今日は午前中にもレッスン行こうと思って」
「言い方が悪かった。どうしてここがわかった?」
「そんな結論を焦らないでよ。あたしだって本当にあなたがここにいるとは思っていなかったんだからびっくりしているの」
凜は言葉通りに、少し落ち着きがなかった。とは言え明確に身体を小刻みに動かしていたり目を泳がせていたりしている訳ではない。
「社長が、ここにあなたが居るって言うから」
冬臣は一瞬後を付けられたのかと思ったが、よくよく考えたら思い当たる節があった。冬臣が《アイドライジング》協会へ四年程前に提出した求職書に記述した住所がここだった。雇用主になりうる白井社長なら調べることが出来る。
「想像はついた。それで何の用だ? 悪いがレッスン見学ならまた今度にしてくれ。今から寝るところだ」
「今から? 何をして――あ」
凜は頬を少しだけ上気させ、柔らかな笑みを浮かべた。冬臣の心臓が一度だけ強く鼓動する。冬臣は凜の視線を辿り、舌打ちせんばかりに自分の迂闊さを呪った。金糸状の物が服の裾に付いている。凜が何を考えたのか手に取るようにわかった。
「徹夜するほど一生懸命やってくれてるんだ」
潤んだ瞳を向ける凜に、視線を合わせられず、冬臣は顔を背けた。そんな良いものじゃない。ただの現実逃避にやっただけだ。言葉で否定しようとして、否定する必要もないことに気づく。
「そうだ、《ドレスメーカー》うちの事務所に在ったよ。今度使ってみる? 赤鳥さんに見て貰ったんだけどすぐ使えるって」
「不要だ」
「何で? もしかして《ドレスメーカー》なしで修理出来そうなの?」
「そうなんでも自分に都合よく考えるな。腹が立つ」
凜の表情がみるみる曇り、口は開いたまま止まった。冬臣の剥き出しの感情に、驚いたのだろう。
「現状では修理自体が不可能だ。下手な《チューナー》が余計な手を加えてめちゃくちゃになってしまっている。ああなってしまったら設計図を見ながら直さなくてはならない」
そして、《エアリアルレイド》の製作者は、設計図など残さない女だ。正確には感覚で開発をする無類の天才肌で、自分で設計図を残せない。特に《エアリアルレイド》は彼女の所属している研究機関の黎明期に作られた《ドレス》で、彼女の開発物を研究し、資料化する部署も当時は未熟で、その頃の開発物はオリジナル一点物となっている。
「そっか、そうなんだ。それじゃ、仕方がないね」
凜は自分の腕を抱きつつ、笑ってそう言った。はっきりと作った笑顔だとわかる。しかし冬臣はその悲壮な彼女の表情を晴らしてやることが出来なかった。術がない訳ではない。むしろ容易なことだ。問題は冬臣にとっては心理的な抵抗が強い手だという事だった。
「えっと、邪魔してごめんね。レッスン、行かなくちゃ」
去っていく凜の小さな背中が、より小さく冬臣には見えた。その姿は雪奈とは似ていない。そもそも彼女と雪奈の似ているところなどほとんどない。冬臣は連想を続ける。雪奈は彼女ほど大人びた容姿をしていなかった。背だってよっぽど小さい。しかし精神は力に満ち溢れていた。
凜はどうだろうか、大人びた姿をしておきながらどこか子供っぽく、もともと使えるかもわからない《ドレス》ですら失えばああして小さくなる。
「五分待て」
冬臣は凜の返事を待たず出かける用意に入った。凜は雪奈ではない。そう完全に結論付けるために彼は動く。寝巻代わりの装いからスーツへと着替え、身だしなみを整える。宣言通りに五分で自宅を出ると凜がドア脇に座り込んでいた。
「レッスン場は近いのか?」
「ううん、バス乗って駅まで行ったら電車」
「タクシー拾うぞ」
「駄目だよ、交通費の無駄」
「午後から補習なのだろう、なら時間がない。お前は俺に一目見せただけで納得させるだけの《パフォーマンス》が出来るのか?」
凜は黙り込み、そのまま冬臣に手を引かれながらタクシーに乗る。レッスン場まで二人の間に会話はなく、凜は運転手に行き先を告げると、すぐに外の風景に顔を向けていた。
程なく到着したレッスン場は、案外小奇麗な建物だった。中の音が漏れてこないことから防音もしっかりしているようだ。最も、音漏れがするようなレッスン場は及第点以下だが。
凜は未だに《エアリアルレイド》の件が尾を引いているのか、元気がない。冬臣に着替えてくることを告げると、更衣室へと真っ直ぐ向かう。冬臣は受付近くの休憩所で大人しくしていると、《トレーナー》らしき男が近寄ってきた。
「どなたかの付き添いの方ですか?」
「睦月凜のレッスンを見学することになっています」
「ああ、凜ちゃんの。どうも、彼女のメイン担当で郷田と申します」
そう言って、差し出された名刺には《B級トレーナー、C級チューナー》の二つの肩書が記されていた。彼の自然な笑顔と明瞭に話す口振りから、サービスを生業にして長く過ごしていることが冬臣には感じられた。
冬臣が相槌を打つと、凜が半年より少し前にこのレッスン場に来るようになったこと、その見目麗しさから担当トレーナーになった際同僚にやっかまれただとかどうでも言いことを矢継ぎ早に捲し立てた。しばらく冬臣はその話を耳に入れていたが、次第に聞き流すようになっていく。彼は凜の《パフォーマンス》について口にせず、彼女を取り巻く環境についての話題に終始していたからだ。
「え? 今日は住吉さんにお願いしていたはず」
郷田の実のない長話は、凜が現れるまで続いた。彼女は郷田がその場にいることに、戸惑いの表情を浮かべている。どこか、嫌がっているようにも見えたのが冬臣には引っ掛かった。
「凜ちゃんが来てから七か月目だろ? 試験って言うほど大げさじゃないけど、経過を確認させてもらおうと思ってさ。ほら、住吉は《C級》だから、わからないところもあるだろうし」
郷田が白い歯をむき出しにして笑うのに対して、凜は引きつった笑顔を浮かべている。しかし郷田はその事に気付いていないようだった。
「それじゃあ行こうか凜ちゃん。大レッスン室を取ってあるから今日は《ドレス》も使えるぞ。俺の権力を行使しちゃったよ」
そう郷田は豪快に笑って言いのけた。随分と冬臣の時と態度が異なるが、それ自体はよくあることで、特に気に掛ける物ではない。
大レッスン室と札の掛かった部屋に入ると、鏡張りの壁一面、そして小規模の《ステージ》、《ドレスメーカー》と中々の設備を有していた。
凜は入室すると、冬臣がいることでか、わずかに緊張を見せ、その面持ちのまま柔軟を始めた。髪をシュシュで高い位置にまとめ、手首には白と青のボーダーになっているリストバンド。色の濃いシャツにハーフパンツといった出で立ちで、普段よりも活発な印象だ。
郷田が柔軟の手伝いを名乗り上げたが、何故か冬臣が凜に呼ばれた。
「柔軟性とかも、見て」
うなじの白さや華奢な肩だとか、スレンダーな癖にやはり女性らしい肉付きをしている背中や足だとかに触れても、冬臣はいっさい色めき立つことなく柔軟のサポートをやり切る。
「何か、慣れてる?」
さあな。などと冬臣ははっきりと答えずに流す。すると凜は柔軟性の評価を尋ねる。
「ダンスを主体にした《パフォーマンス》でも問題ないだろう」
「本当?」
冬臣は運動性を度外視したうえでの、あくまで柔軟性一つの評価だと釘を刺したが、それでも凜は表情を和らげた。
「まあ、俺もそう思いますけどね。困りますよ、素人判断でそんなこと言ってもらっては」
「そうだな、失礼した」
冬臣はさしたる反論もなく、凜から離れる。代わって郷田が凜の筋力トレーニングのサポートに入った。凜が仰向けに寝そべると、郷田が彼女の顔を跨いで立つ。彼女が腹筋で持ち上げた足を、郷田が左右に押して倒し、凜が元の位置に戻す。
「はい、それじゃあ声出しながら」
凜が音階を口にしながら腹筋を続け、その後に背筋、ランニングマシーンとトレーニングを熟していく間に、冬臣は凜が郷田に対して感じている情が通じた。本人はさり気ないつもりなのだろう、しかし明らかにことある毎に彼女の身体に触れていた。
冬臣は、担当に対して劣情を持つことをよしとしない。その冬臣から見れば許されざる振る舞いだが、それはあくまでも彼自身の価値観であり、当事者ではない自分が口を出すべきではないと、それを咎めることまではしなかった。
レッスン三時間の内、二時間が経過したところでフィジカルトレーニングがようやく終わった。名残惜しそうに離れる郷田を見て、冬臣は凜にセクハラをするためにフィジカルトレーニングに重きを置いているのではないかと邪推したほどだ。
「じゃあ凜ちゃん。これレンタルの《ドレス》ね。あまり使う人いないから探しちゃったよ」
「すみません」
「ああ、ごめん。良いんだよ。でも何なら俺が専用作ってあげようか?」
「うちの事務所、あまり余裕ないんで」
「いいよいいよ後払いで。凜ちゃんはきっとビッグになるしね」
郷田の目が口ほどに物を言っていたからか、凜はそれをやんわりと断り、《ドレス》を両手首、両足首に巻く。彼女が軽く目を閉じると、彼女の《IL》と《ドレス》が作り出す色とりどりの光の粒が周囲に放出され始めた。
光の粒が生まれては消える。不思議な光はそれ自体の発生に風を生じさせず、慣れない者が目にすれば酷く違和感があるだろう。
冬臣の目が凜の《IL》を見極めようと鋭くなる。そして、凜の身体がわずかに浮上する。彼女の《IL》と《ドレス》が完全に繋がった瞬間だ。そうなると後は《アイドル》の個性が発揮される。大きく《歌》、《踊り》、《特異》と三種に分けられ、それらは精神感応や能力者の様々な機動、幻視などをもたらす。
凜の超能力が発動すると思われた瞬間に、わずかなノイズが空間を走った。
その瞬間、冬臣は自身のスーツの上着を脱ぎ、背側から引裂いた。突然のその行動に、郷田と凜の動きが止まる。引裂かれたスーツの中から白い帯状の物が三本、姿を見せた。冬臣がそれを両手首、首に巻く。装着を終えるその直前に凜の《ドレス》から放電に見える光が噴出し――
「雪奈ぁぁぁぁ!」
――冬臣の全身から白色の、ひし形の光が無数に放出された。次の瞬間、冬臣の姿が掻き消え、凜の前まで移動すると彼女の両手首を掴んだ。冬臣は掌が焼け焦げるのを感じながらも決して手を離さず、川の激流のように流れる凜の《IL》を、彼自身が身に着けた《ドレス》へと誘導する。
凜の身体が宙を舞う。凜の《ドレス》に組み込まれている《空中機動》の《回路》に、冬臣が彼女から集めた《IL》を集中し焼き切る。反動で、床を転がるようになった凜を必死に抱き抱えた。《IL》を操作し続けた冬臣の背が鏡を割り、二人は止まる。凜の身に着けた《ドレス》の放電は収まっており、辺りは一時、静寂に包まれた。
「だ、大丈夫ですか!」
遅まきながら駆け寄って来た郷田を、冬臣は傷ついた拳で殴りつけた。鏡はレッスン場にふさわしく、砕け落ちる類の物ではなかったが、それでも冬臣のシャツに血が滲む。しかし、その痛みを冬臣は感じていない。
倒れた郷田の胸元を冬臣は掴みあげると、郷田は短く悲鳴を上げた。
「ふざけるな! 《アイドル》を殺す気か! 探しただと、そんな物を《チューニング》もしないで使わせたのか!」
「す、すすすすみませ――」
「――謝って済むか――」
冬臣が殴り殺してやるつもりで振り上げた拳は、凜の手と、涙声で柔らかく押し止められた。
「そんなことしなくていい。早く、病院」
「どこか痛めたのか!? 腕は動くか? 足は? 火傷はないか!?」
酷く狼狽した冬臣の姿がそこにはある。最低限の物言いしかしなかった冬臣が、捲し立てるようにして凜の身を案じていた。
「違う、違うよ! あなた、《チューナー》なのに、手、ううん手だけじゃない」
「お前は何ともないんだな!?」
「だ、大丈夫」
それを聞き届けた冬臣は、本来自身に適性のない《IL》を行使した反動か、意識が薄れていく。泣き叫ぶ凜の声は彼の耳には届いていない。彼が最後に意識を失う前に思ったのは、今度は守れた。だった。
――現在5
「調子はどうすか?」
スーツ姿のこぢんまりとした女性が、冬臣の病室を訪れた。何枚かの書類を手にしており、スリッパを履いた足で戸を閉める。
「悪くない」
病室にいる入院患者は冬臣一人で、簡単なキッチンやバス、トイレまでもが揃っていた。
女性は髪をまとめ上げ、まだ幼さの残る顔を誤魔化すためか、引き締まった印象を与える眼鏡をしていた。彼女は資料をベッド脇の机に放り投げると、その足で調理場に向かう。
「りんごでも食うすか?」
冬臣が断ると、彼女はりんごを切った端から自分の口に運んだ。小気味よい咀嚼音をさせながら、女性は語り出す。そして折りの良いところで本題に入る。
「ホントに賠償は治療費だけでいいんすか?」
「ああ。完全に元通りになるそうだしな」
言って冬臣は包帯をした手を掲げて見せた。その下には火傷であまり人に見せたくはない有様の掌が隠されている。しかしそれは現代の再生医療技術においてはさほど問題にはならない程度だ。薬品が肌に馴染むまで待ち、手術を行う。それが終われば完治する。
「それにしても立派な病室すね~、あんた何者なんすか?」
冬臣が病院に運ばれた際には気を失っていた。そのために荷物を漁られ、《ライセンス》を発見された結果が、この病室を宛がわれた理由だろう。
「どうやら通帳を見られたらしいな。遺産がまあそれなりにある。あの《スタジオ》としては災難なことだ。一泊いくらするのか知らんが、請求書は見たくもない」
「まあそれを見られるのは《スタジオ》側だけすし、いい気味すよ。うちの可愛い凜ちゃんを危ない目に遭わせおって」
危険な笑みを浮かべる女性に、冬臣は失笑で返す。
「それにしても本当に助かったす。もしもあの場にあんたがいなかったらと思うとぞっとするす。ありがとうございました」
もう何度目になるか分からない謝辞に、いい加減冬臣もその感謝の気持ちを受け入れざるを得なくなっていた。
「その礼に賠償請求だの、入院手続きだの面倒な事務手続きをやって貰っている。正直、煩わしいので助かる」
実際のところ、揉めがちの賠償請求に関しても実に手際よく短時間で女性は決着を着けた。凜の話には聞いていたが、確かに目の前の女性は優秀なようだ。
「だが赤鳥といったな。毎日見舞いに来る必要はないぞ。全てお前に任せて問題ないようだ。それに事務所の切り盛りをしているのはお前なのだろう?」
「大丈夫す。今回の件で不本意ながらその位の余裕は出来たす。それに――」
「――調子はどう!?」