鈴の音、響く時
汗が、じんわりと額ににじみ出る。
風が吹いて、涼しさを感じる。
指先は、とても冷たい。
一歩、歩く。段差を上る。下を見下ろせば、遥か遠くにコンクリートの道路が見える。車が忙しなく行きかって、走るエンジン音もうるさくてかなわない。
無意識に拳を握った。
(俺は今から、死ぬんだ)
もううんざりだった。親に引かれた道を歩くのは。性根が腐りきった奴等の集まる場所に居るのは。もう、全ての事にうんざりしていた。
今から此処を飛び降りたら、簡単に死ねる。うんざりする事も無くなる。
今から、死ぬ。恐怖なんてものは無い。
周りから音が消えていく。うるさいエンジンの音も消える。自分の、ゆっくりとした鼓動の音だけが聞こえる。
両手を広げて、飛ぼうとしたその時――-
チリン。
心臓の音だけの世界に、鈴の音が響いた。
チリン・・・・・・チリン・・・・・・。
何度も何度も響いた。鈴の音がだんだん近づいてくる。
チリン、チリン、チリン
音がはっきりするにつれて、音が早くなっていく。
チリン・・・・・・。
不意に、鈴の音が聞こえなくなった。そこでやっと、はっとする。音が一気に戻ってきた。
後ろを振り返ると、小学校一年生くらいだろうか、おかっぱの少女が、赤い着物を着て立っていた。着物には、白い百合の花が咲いている。
「死にたいの?」
少女が、口を開く。
「・・・・・・うん、死にたい。俺は死にたい。だから、此処から離れてくれない?」
少女は、動くつもりはないらしい。じっと、此方を見つめている。
「お兄さん、名前は?」
「俺? 俺は志乃月 悠雅。君は?」
「・・・・・・わたしは、鈴ノ音 音樹」
変わった名前だと思った。
「音樹ちゃん、此処から離れてくれないか」
「何で、死にたいの?」
悠雅の言葉には耳を貸さず、少女は質問をしてきた。
「・・・・・・うんざり、してるから。もう、この世界に居たくないんだ」
「だから、死にたいの?」
「うん、そうだよ」
だから早く離れてくれ。此処から消えてくれ。
声には出さず、心の中で音樹に言った。けれども、音樹はまだ動こうとしない。
「うんざりしてるから死ぬなんて、馬鹿みたいだね」
「なんだと・・・・・・?」
「なんでうんざりしてるからって、死ななきゃいけないの?」
言葉が、詰まった。
理由なんて、ただうんざりしてたから。それだけだ。うんざりする事から開放されたくて、死ぬ。ただ、死にたいって思っただけだ。
「―――」
「わたしは、お兄さんの死にたい理由は馬鹿げてると思うよ」
馬鹿げてる―――。
確かに、馬鹿げてる理由だ。この少女に言われるまで、気づきもしなかった。けど、気づいたからといって、死にたくなくなった訳じゃない。
「・・・・・・理由なんて関係ない。馬鹿げてる、なんて言われても俺は死にたい。邪魔しないでくれないか」
鋭く言ったつもりだが、音樹は平然としていた。
「そう。じゃあもう邪魔はしないよ。飛び降りるでも首をつるでも、好きなようにしたら良いよ」
そう言う音樹は、その場から離れようとはしない。
さすがに子供の前で死ぬ事も出来ずに、かと言って存在が邪魔なんだ、と言える訳もない。
「どうしたの?」
「いや・・・・・・離れてた方が良いんじゃないか?」
心配して言ったのに、音樹はくすくすと笑った。
「お兄さんが、離れてほしいだけでしょ? わたしは構わないよ?」
「・・・・・・」
構わないと言われても、人がいるとそういう気分になれなった。
「・・・・・・ねえ、お兄さん。人は死んだら何処へ行くと思ってる?」
「・・・・・・さあね。俺、死んだ事ないから」
何がおかしいのか、音樹は噴出した。
「ふふっ。人はね、死んだら天国へ行くんだよ」
「地獄には行かないのか?」
「地獄はね、自分から死んじゃった人が行くんだよ。人が言うように、自分で死んじゃったら何処にもいけなくて、ずっと此処にいる。なんて事はないんだよ」
じっと、悠雅の目を見ながら話す。そして続けた。
悪い事をした人は、天国で良い事をする。悪い事をした分きっちり。そうしたら、生まれ変われる。そして、最初から良い事をしていた人は、すぐにでも生まれ変わって、またこの世に生を受ける事が出来る。けれども自殺をした人は決して天国へは行けず、ただ地獄の中をさ迷い続けるだけ。
「よく知ってるね。何処でそんな事覚えたの?」
正直、悠雅は一切信じていなかった。ただの子供の戯言だとしか思ってなった。
「これを教えてくれたのはお父さんだよ。死神の一番偉い人。本当は血は繋がってないけどね」
「死神なんだ。じゃあ君も死神さんかい?」
冗談半分で聞くと、音樹は頷いた。
「そうだよ。わたしのお仕事は、自ら命絶つ者を監視する事なんだ」
「ふーん。じゃあ俺の事監視してんの?」
「そうだよ。お兄さんが死んだ後、お兄さんの魂を回収して地獄に送るの」
よくここまで考えられたな。と思った。冗談にしてはなかなか上手い。
「お兄さんに信じさせてあげるよ」
「は? ・・・・・・うわっ!?」
次の瞬間、強い風が吹いた。
悠雅は思わず目を瞑る。
風が止んでから恐る恐る目を開けてみた。
「なっ!?」
目の前に広がった光景は、信じがたいものだった。
昼だったのが夜になり、紅い月が輝いていて、音樹の紅かった着物は黒へと変わり、白い百合の花だけは変わっていない。手には音樹よりも遥かに大きい巨大な銀の鎌。恐らく、悠雅が持っても相当な大きさだ。当然重い筈なのに、音樹はそれを平然と持っていた。
「さあ、お兄さん。早く死んでね。わたしには次のお仕事があるから」
「っ・・・・・・」
先ほどまで、小さく感じていた少女が、急に大きくなったように感じた。
口の端を上げるだけの笑みは、鳥肌が立つような感覚に成る程不気味だ。
「どうしたの、お兄さん?」
声を発する事も出来ず、ただただ目の前の音樹を見詰めるしか出来なかった。
そして、漸く気がついた。
死ぬのが、怖いと思ってる事に。死にたくないと思ってる事に。
音樹が現れるまでは、怖くもなんとも無かった。しかし、今は怖い。
「お兄さん、本当は死ぬのが怖いでしょ?」
今度は、ふわりと微笑んだ。
一瞬にして、景色が戻っていた。
「お兄さん。まだ、お兄さんの心は死にたくないって言ってるよ。まだ生きたい。この世界で、くだらなくても良いからって」
「俺の、心が?」
聞き返すと、音樹はうんと頷いた。
「だって、死にたくないってさっき分かったでしょ?」
「・・・・・・・・・」
確かに、先程思った。死にたくない。死ぬのが怖いと。
でも、何故音樹がその事を分かったかが分からない。
「お兄さんにこれあげるね」
そう言って音樹に渡されたのは、銀色の小さな鈴。それをじっと見詰める。
渡される際、小さく鳴った。
チリン―――
鈴の音色は、音樹が現れる前に鳴った音と一緒だった。
「っ、これ!」
顔を上げると、もう音樹の姿は消えていた。
「・・・・・・・・・」
そこで、悠雅は気がついた。音樹の、本当の仕事を。
音樹の仕事は、自ら命絶つ者を監視する事ではなく、自ら命絶つ者に己の心を分からせる事。
「・・・・・・・・・ありがと、音樹ちゃん」
たった、ほんの数分程度しか会っていない少女に、命を救われた。そして、生きている事がくだらなくても、うんざりしても、命を投げ出す事はいけないと教えてくれた。
「地獄に行かなくて済んだや」
その後暫く、一人で笑った。
明日、友達と呼べる人間にでも話してみようと思った。今日会った事を。
きっと馬鹿にされるだろう。でも、話したかった。
鈴の音、響く時に現れた少女の話を。
人は、死ぬと何処に行くかを。
きっと、笑われるだろうな。頭がおかしいと思われるかも知れない。でも、それでも良い。
まだまだ人生は長いから。