↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

相死喪愛 ―闇の章―

相死喪愛 闇の章 第二話 電子的恋愛事情

作者: 秋本 勇
掲載日:2013/05/23

闇の章 第二話 電子的恋愛事情


カズが入室しました

 カズ)久しぶり!

 mimi1021)あ、カズくんだ〜☆久しぶり

 カズ)mimiさん、久しぶりwあれ、mimiさんだけ?

 mimi1021)うん。

 mimi1021)私ももう少し待って出ようと思ってた。

 カズ)そっか。

 カズ)でも、mimiさんだけで俺ちょっと嬉しいかも。

 mimi1021)えー!

 mimi1021)なんてw私も嬉しいよ♪


 深夜一時。パソコンの前で船木一道はにやけた頬を一度叩いた。細い文字入力画面に「今にやけた(笑)」と打ち込んでエンターキーを押す。

 カズ)今にやけた(笑)

白い背景色に青い文字で先ほど叩き込んだ文字が出る。するとすぐに、

 mimi1021)恥ずかしいじゃん!やめてよー

と、今度は薄いピンク色の文字で返信されてきた。また頬がにやけてきていることに、この時点で一道は気がついていない。

 一道がこの「劇的恋愛ネットワーク」通称「劇ネット」にハマり出したのは二ヶ月ほど前だ。友人である細井道孝のこの言葉がきっかけだった。

「劇ネットの女はすぐヤレるぜ」

彼女いない歴五年。その彼女とも結局三ヶ月もしないうちに別れた一道としては、どうしても今年は夏までに彼女ゲットを目論んでいた。なぜなら、細井を含む友人グループの中で彼女がいないのは自分だけだったのである。

「ヤレたってそっから先だろ!」

「バカ!ヤっちまってからのほうがことが運びやすいだろ。それまで行くのにドキドキ青春してるような歳じゃねーよ!」

今年で二六になる一道は、そう言われてそれもそうかと納得するような男だった。

「でも、劇ネットって何だよ」

「出会い系サイト」

それは分かる、という突っ込みを返す前に、

「表は『ドラマのような劇的恋愛をお助けします!』みたいな陳腐なこと書いてあるけどさ、けっこーリアルに裏サイトっぽいことしてるぜ、してるやつは。登録して顔写真とかプロフィール公表してさ、気に入ったらチャット申し込みすんだけど。すげーすげー!」

何がすごいのか一道には想像がつかなかったが、とにかく出会いの場としては最適なんだと細井に言われて、その日のうちに一道は会員登録を行っていた。顔写真は任意で、別に自分の顔じゃなくても似顔絵を載せたり、ペットの写真などでも良かった。プロフィールは本名とメールアドレス、年齢、性別、住所(県と市までだが)は必須項目で、ネット上で使用する名前は本名かハンドルネームかを選ぶことができる。ハンドルネームで迷ったが、無難に「カズ」と日ごろから使われているニックネームにすることにした。それらを入力すると、今度は好みの女性のタイプを尋ねられる。これを登録しておくと、自分のプロフィールなどを管理するためのマイページというところに、登録されている女性の中から好みのタイプをランダムに表示してくれるという。一道は肌の項目は「色白」、髪の色は「黒もしくは落ち着いた茶色」、ヘアスタイルは「セミロング」と「ロング」、体系は「細め」とチェックし、備考欄には「自分よりも年上か同い年」と打ち込んだ。あとは仕事や趣味、好きな食べ物、休みの日の過ごし方など無難な質問に任意で答え、最後に「この情報で登録しますか?」という質問に「はい」を選択してOKをクリックした。画面に「登録が完了しました。ご登録いただいたメールにご登録内容を送信しました」と表示されて、案外簡単に一道の「劇ネット」体験は始まった。

 仕事から帰ってきて、まずはパソコンを開く。劇ネットにアクセスして、登録時に決めたIDとパスワードを入力し、マイページにログオンする。マイページにはアクセスカウンタ機能や、メッセージボード、ツイッター機能もあったりして、男女問わず交流することもできた。数日経つと、フォローしたりされたりという交流ができ、やがてメッセージボードに「今度チャット申し込みさせてください」とか「チャットできる時間教えてください」という女性からのメッセージも残るようになってきた。だが、まだチャット機能に関しては使う気がしなかった。一道自身が、どうもこうしたバーチャルな場所で出会いを求めること自体に抵抗を持っていたからである。かといって、登録した以上何かチャンスを掴まなければという想いにも駆られていて、ある日経験者である細井に相談すると、

「じゃあ、個人ページの一×一チャットじゃなくてさ、交流チャット見てみれば?」

と勧められた。

 マイページには個人チャットとして一対一の入室枠二名までしか入室できないチャットルームが常設されている。入室の際には、そのチャットルームを管理するマイページの管理者が決めた入室パスワードが必要だ。入出の時間を決め、メッセージボードなどを使ってパスワードのやりとりをし、時間になったら二人で入室してチャットを開始する。

 しかし、そのチャットが苦手、もしくは複数の人間と交流したいという者向けには交流ページが設けられており、そこでは何室もチャットルームがあって好きなチャットルームに十人枠で入室することができる。もちろん、パスワードを設定することもできるので、オープンにしたくない場合は入室予定者にパスワードを伝えて交流チャットルームで複数の人間とチャットをすることもできる。部屋に名前をつけて、たとえば「二〇代限定」とか「男子禁制」、「恋バナしましょう」という簡単な入室者向けの紹介もできる。わからないのは「無言部屋」というやつで、一道も一度興味本位で入ってみたら本当にただひたすら無言で時が流れていたのに驚き、慌てて退出したことがあった。

 一道が初めて入ったのは、無難な「二〇代限定、共学(笑)」という紹介がついたチャットルームだった。共学(笑)というのが男性、女性関係なく、という意味であることは察しがついた。入室すると、男五名、女三名という計八名が一道を出迎えた。チャット自体は初めてではなかったので、挨拶してから話題に混じり、なんでもない仕事の話や趣味の話をして、その日は入室者一名とメッセージのやり取りをした。それは残念ながら男性だったのだが、劇ネット利用が長いので何かあったら相談に乗ります、という言葉をもらっていた。

 それからいろいろなチャットルームに入室しては知り合いを増やし、メッセージでやりとりをする、という劇ネットのシステムには慣れ始めた。初心者です、と最初に言っておくと皆の対応もそれなりに優しくなる。これだけしている分には出会い系サイトというよりは普通の交流サイトのようだが、一道があるとき率直な感想をそう述べると、

「そこが劇ネットのいいトコなんだよ。まあ、怖いトコでもあるけどな」

と細井は意味深に言った。

 登録から一ヶ月。順調にフォロワーも増やし、メッセージボードにも知人からのメッセージが残るようになり、チャットルームの出入りにもなれてきた頃。それは、一道の頭からすっかり「女性との出会いを求める」ということが抜けてきた頃だった。チャットルームでちょっとした出会いがあった。

 チャットルームの説明は「真剣に出会いを求める人向け」と書かれていた。真剣、という言葉がネット上ではあまり意味を持たないのは一道もよくわかっている。冷やかすつもりはなかったが、真剣さを求めたわけでもなく、流れで入室してみた。中には男二人、女二人の計四名が話していた。ちょうど男女一対一で割れる数。要はネット合コンみたいなもんか、と一道が退出しかけると、

ピロキ)あ、退出しようとしたでしょ

と男を示す青い色で名前が書かれたピロキが話しかけてきた。

聡子)別にいーよー。人数かんけーないから

続けて女を示すピンク色の名前の聡子がそう書き込んできた。一瞬迷ったが、一道は、

 カズ)合コンとかじゃなくて?

と打ち込むと、

Slilm7)全然!

と今度は青い文字。

 カズ)じゃーお邪魔します!

ピロキ)いらっしゃーい!

Slilm7)ども。

聡子)こんばんはー

そして最後に……

 mimi1021)こんばんは。よろしく

と、mimi1021と名乗る女との出会いがあった。


 カズ)mimiさんってさー

 mimi1021)??

 カズ)いつもさー

 mimi1021)うん

 カズ)最初だけさー

 mimi1021)最初?

 カズ)チャット一人だよねー

 mimi1021)あー…

 mimi1021)早すぎかな、私(泣

 カズ)いや、あの、

 mimi1021)うん?

 カズ)もしよかったらさあ

 mimi1021)なーに?

 一道はそこで一瞬迷う。果たしてこれから自分が打ち込むことが、相手に拒否されないか少し不安だった。その間、チャットルームの画面には、

 mimi1021)どうしたの?

 mimi1021)え、まさかの寝落ち??!(笑

とmimi1021から言葉が並んだ。声に出して一度唸ってから、

 カズ)寝落ちって!(笑

と答える。

 mimi1021)あ、起きてた!

冗談めかす彼女の言葉に苦笑いする。

 カズ)どーせ二人だからさ、この部屋

 mimi1021)うん

 カズ)ここ抜けてさ

 カズ)俺のチャットルーム来ませんか

一道は画面を睨んだまま指を止めた。心臓がバクバクと信じられない音を立てている。いつもならすぐに返事を返してくるはずのmimi11021からの打ち込みがまだこない。

 だめか、と思いかけた瞬間。

 mimi1021)そうしよっか

夢のような返信。一道は自分では気がついていなかったが真っ赤な顔をして、

 カズ)じゃあ、パスワードはmimiさんで

と打ち込むと、

 mimi1021)私のナンバー?

と返信されてくる。パスワードは数字でしか設定できないせいだ。

 カズ)そう。IDの

 mimi1021)あ、わかったwすぐ用意できる?

 カズ)うん、もう、今すぐ!

 mimi1021)じゃあカズくんのページ開いて待ってる

 カズ)じゃあ、待ってて!すぐだから

慌ててチャットルームを退出し、自分のマイページに戻って個人チャットルームを使用可能にする。パスワードの入力を要求され、記入ボックスに「1021」と打ち込んでOKを押した。

 カズが入室しました

ポン、という電子音の後、個人用チャットルームの画面がアップになる。少しすると、また同じような電子音がして、

 mimi1021が入室しました

と表示された。

 カズ)いらっしゃい(笑

 mimi1021)お邪魔しますw

 カズ)初めて個人チャット使う

 mimi1021)え、本当?

 カズ)うん、マジで

 mimi1021)じゃあ私が初だ♪

 カズ)mimiさんが初☆

 mimi1021)嬉しい!ありがと。。。

画面上のやり取りに代わり映えはない。ただ、枠が十人から二人だけになっただけで、一道は不思議と安心していた。誰にも邪魔されない、という安心感だ。それを自覚して、mimi1021と二人だけで会話ができることが純粋に嬉しかった。

 mimi1021)初ならちょっと頑張ったでしょ?

 カズ)何を?

 mimi1021)私のこと誘うの

図星で一道は慌てた。

 カズ)そんねことないよ

 mimi1021)あ、誤字!慌ててる?

 カズ)そんなことないよ

 mimi1021)打ち直してもダメ〜

そんな何気ないやり取りが一道は楽しかった。他のIDの持ち主とは少し距離感があるのに、mimi1021とはその感じがまったくない。最初に話したときも、自然に会話になじんでいた。気が合うのかな、と一道は一人呟いてから、妙に照れて頬を両手でごしごしとこすった。

 カズ)そういえば

 mimi1021)??

 カズ)mimiさんのその数字ってなに?

 mimi1021)1021のこと?

 カズ)生年月日かなー?なんて

 mimi1021)当たり。

 mimi1021)あ、生年月日非公開にしてたっけ

 カズ)うん。

 mimi1021)設定ミス!

 mimi1021)年齢非公開にするときかな

 カズ)年齢は出てたよ?

 mimi1021)えー!!プロフィールなんてチェックしてないし!

大慌てする顔文字が出て、思わず一道は吹き出した。

 mimi1021)mimiさん可愛い

思わず書き込んだ自分の発言に一瞬固まる。思わず、ではあったが、その言葉の重要性に一瞬で気がついた一道はどうしようかと焦った。

 mimi1021)もー、チョー焦った。やめてよー(泣

mimi1021のその返事にほっとして、

 カズ)mimiさんでもそんなことあるんだねー

と打ち込んだ。

 mimi1021、女性、年齢は二七歳、仕事はOA機器を扱う会社の事務。好みのタイプは年下で、猫顔よりは犬顔の動物好きが好き。mimi1021のプロフィールページから知っている、一道の知る情報はそれだけだ。だが、チャットを繰り返すうちに、少しとぼけた感じで、砕けた口調が可愛らしい女性だということが分かった。

 カズ)犬顔ってどんな顔?

 mimi1021)びっくりした!

 mimi1021)突然?

話の腰を折って突然の質問にmimi1021も驚いた様子だった。だが、プロフィールの話が出てきたので、一道は思わず一番引っかかっていた疑問を尋ねてみた。

 カズ)プロフィールの好みのタイプ

 カズ)犬顔って書いてあったでしょ

 mimi1021)あー、あれ!

 mimi1021)見てたんだ(笑

 カズ)俺って、犬顔かなーって

 mimi1021)えーとね

 mimi1021)俳優さんだと

 カズ)うん

しばらく時間が空いて、出てきた回答が、

 mimi1021)キムタクみたいな?

と返ってきた。

 カズ)えー!チョー面食いじゃん!

 mimi1021)違うよー!キムタクが好きなんじゃないもん!

 カズ)ホントー?じゃあ好きな俳優さんでいる?

 mimi1021)西島秀俊とか

 カズ)この前の連ドラ出てた!犬顔?

 mimi1021)うん、犬顔

 カズ)じゃー、向井理

 mimi1021)犬顔かなー

 カズ)キムタク出たから中居正広

 mimi1021)猫!

 カズ)チョー即答(笑

 mimi1021)竹之内豊は犬で、反町隆は猫

 カズ)あ、だんだん分かってきた

 カズ)藤木直人は犬でしょ

 mimi1021)当たり!

 カズ)松潤は猫だね

 mimi1021)ニノくんもね

 カズ)相葉が犬

 mimi1021)どっちかといえばそーかなー

 mimi1021)ていうか、なにこの会話(笑

 カズ)mimiさんの好みのタイプの話

 mimi1021)犬顔限定じゃん!

mimi1021の発言の後で、二人でほぼ同時に同じ大爆笑の顔文字が表示されて、一道は思わず一人で声に出して笑っていた。そして一道は、会ったことはおろか、見たこともないmimi1021の、やはり自分と同じように画面の前で笑う姿を勝手に想像していた。この時間だからパジャマだろうか。少し長めの茶色の髪は邪魔にならないように結われていて、色白のきめ細かい肌が見える。よりリアルに想像して、やはり照れて一道は首を振った。

 mimi1021)分かってきたところで

 mimi1021)カズくんは犬顔?猫顔?

 カズ)俺〜は多分猫

 mimi1021)えー!じゃあダメぢゃん

 カズ)あ、うそうそ!犬!

 mimi1021)なんて☆カズくんなら猫顔でもいいよ

時々、こうしてmimi1021から少し一道を意識したような発言が出る。その度、一道は彼女に期待していいものか悩む。年上の女性だから、手玉に取るのも手の内か、と半信半疑でその言葉を受け止めてしまう。

 カズ)mimiさんはどっち?

そして、半信半疑の言葉を打ち消すための新しい質問で場を埋める。一道の常套手段になってきていた。

 mimi1021)私は猫顔

 カズ)ネコ目?

 mimi1021)目つきキツイみたい(汗

 カズ)俺可愛いと思う

 カズ)猫っぽい顔の女の人って

一道はあえて、可愛いという単語を使ってみた。心臓は相変わらずバクバクと音をたてている。

 mimi1021)ありがと☆

チャットルームの空白が突然埋まらなくなる。どういう話題でつないだものかお互い悩んでいるのが分かる。一道が何か書かなくては、と焦り始めた時だった。

 mimi1021)私、カズくんに会ってみたいな

突然のそれに一道が固まる。そして、次の瞬間、

「劇ネットの女はすぐヤレるぜ」

という細井の言葉を思い出して慌てて顔をこすった。

 カズ)俺に?

確認してみる。一道の心臓が、耳の奥までせり上がって音を立てている。

 mimi1021)うん

確かな手ごたえ。だが、それは一瞬にして否定される。一道の中で天使と悪魔が戦っている。天使が「これはきっと冗談よ」と囁けば、悪魔が「いいじゃん、いっちゃえよ」と耳をつつく。軍配は。

 カズ)俺もmimiさんに会いたい

悪魔に上がった。

 mimi1021)本当に?

 カズ)いや、むしろ俺が本当に?だよ

 mimi1021)じゃあ、アドの交換しよう☆

 カズ)うん

 mimi1021)メッセージで私のアド送るね

 カズ)じゃあすぐ返信するよ

少しの間があき、

 mimi1021)今送ったよ☆

とチャットルームに書き込まれた。一道がマイページをチェックすると、メッセージに受信メッセージが一件とあった。開くと、タイトルには「mimi1021です」、内容には「ケータイのメアドです」と書かれた数行後に、携帯電話のメールアドレスが書かれていた。一道は自分の携帯電話のメール新規作成画面を開き、同じように自分の名前と「よろしくおねがいします」と書いて送信した。

 カズ)俺も今送った!

 mimi1021)来たー♪

 カズ)打ち間違ってなくてよかった(汗

 mimi1021)大丈夫☆大丈夫♪

 mimi1021)名前、カズくんで登録していい?

 カズ)いいよ〜。mimiさんはミミさんでいい?

 mimi1021)うん、いいよ☆

 mimi1021)カズくん、次の日曜日は予定ある?

いよいよネット上から現実世界へとシフトすると思うと、一道の心はそれまでの不安よりも期待のほうが上回っていた。

 カズ)全然!なにも!

 mimi1021)即答!(笑

 mimi1021)じゃあ、日曜日に会おうか☆

 カズ)いいね!どこで会う?

 mimi1021)渋谷とかどう?

 カズ)OK!ハチ公前でいい?

 mimi1021)うん。時間はどうしようか

 カズ)そーだなー

 カズ)十一時頃でどう?昼飯食べませんか

 mimi1021)いいね☆

 カズ)あ、写メ交換する?待ち合わせ分かんないからさ

すると、mimi1021からの返信が止まった。何かあったのかと待っていると、

 mimi1021)写メはやめない?

 mimi1021)会ってからのお楽しみ♪

と返信されてきた。それもそうか、と一道は少しにやける。

 カズ)当日着ていく服装とかで判断する?

 mimi1021)じゃあ、前日にメールで報告はどう??

 カズ)OK!楽しみw

 mimi1021)私も!

 カズ)じゃあ、今夜はこれくらいにしておきますか

 mimi1021)そうだね。

 mimi1021)じゃあおやすみ☆

 カズ)おやすみ♪また今度

 mimi1021)次は土曜日かな?

そのあとウィンクする顔文字が表示され、

mimi1021が退出しました

と表示された。一道は少し名残惜しい気もしたが、チャットルームを閉じた。だが、次の瞬間、携帯電話が鳴ったので慌てて開いてみると、

『今夜はありがとう。土曜日またメールしようね』

とmimi1021からのメールが着信していた。一道は、

『俺のほうこそありがとう。またメールします』

と少し悩んでからメールを返信した。チャットとそれほど変わらない内容なのだが、メールのやりとりとなると緊張していた。

『楽しみにしてます。おやすみ☆』

『おやすみなさい』

一道は一人、部屋で小躍りしてから、ふと考えて細井にメールした。内容は劇ネットで知り合った女と会うことになった!という簡単なものだったが、一人で喜びをかみしめるよりも「よかったな!」と言ってくれる人間に報告したかった。というよりも、それは自分の幸せを誰かに自慢したいという欲求だったわけだが。だが、その日細井からの返信はなかった。


 翌日、一道が帰宅している最中に細井からメールの着信があった。昨夜のメールから全く連絡がなかったのでどうしたのかと思っていたところで、内容をみると、

『やったな!うまく決めろよ!』

と書かれていた。簡単なものだが一道の心は一気に昨夜に戻り、

『細井のおかげだよ!ありがとう』

と返信する。

『いつ会うんだ?』

『日曜日。渋谷で待ち合わせなんだよ』

『王道だな。お前、失敗すんなよ』

『するかよ!あ、渋谷でうまいメシ屋ある?昼飯食えるとこ』

『なんだよ!しょっぱなから俺頼りかよ!』

だが細井はそう言いながらも、駅からほど近いイタリアンレストランの場所を教えてくれた。ランチメニューが女性向けに量は少なめだが味はよく、デートの昼食で失敗したことがない、という細井の自信の店ということで一道は一人盛りあがった。

『成功したらメールくれよ』

『成功しなくてもメールするよ』

『なんだそりゃ。そうだ、一つ良いこと教えておいてやるよ。成功しなかったときのことを考えてだ……』

一道はそのあとの文面をたどりながら、少しだけそれを心のどこかに引掛けておこうと決めた。


 土曜日、仕事が終わってすぐ携帯電話をチェックするとmimi1021からのメールが入っていた。タイトルは「明日の服装が決まったよ」との内容。写真が添付されており、ノルディック柄の白い帽子が写っていた。

『明日はこの帽子をかぶっていきます。白いから分かりやすいでしょ?』

一道はまだ服装を決めかねており、その返事は家に帰宅してからにしようと会社を出た。


 帰宅してから小一時間、とにかく着られる服の全てを取り出して一道は悩みに悩み、最終的に黒いコートと、赤と黒のギンガムチェックのシャツ、白いタンクトップ、ジーンズと無難な格好を選んだ。そして、メールでコートとチェックのシャツを取った写真をmimi1021に送信した。

『返事遅くなってごめん。明日はこの服装で行きます。分かりづらいかな?』

食事をしようとキッチンに入ると、すぐにメールが返信されてきた。

『大丈夫。すぐ分かると思うよ。明日楽しみにしてるね』

『俺も楽しみ。また明日』

簡単にメールを返信してから、鍋で湯を沸かしながら明日のプランを練った。


 翌日、一道は少し早めに家を出た。渋谷へは電車で五分ほどだ。服装は昨日の通り、スニーカーを履いて電車に乗り込む。携帯電話を取り出して、もう一度昨日のメールの写真を見た。帽子を食い入るように見つめて頭に叩き込んでから、携帯電話をジーンズのポケットに戻した。朝からメールは一件もない。

 渋谷で電車を降りハチ公前に行くと、一道と同じように待ち合わせをしているような人間がたむろしている。携帯電話を片手に周囲をうかがうもの、時計を気にしているもの、男女様々だがほとんどは若く見える。一道は一度携帯電話を取り出して時間を見た。約束の十一時十分前。にわかにそぞろ立つ心。きょろきょろとあたりを見回すが、ノルディック柄の白いニット帽をかぶった女は一人もいない。ときどき白い帽子をかぶった女が通りすがるが、大体は一道を無視してどこかへと消えていった。五分前ならばまだ来ていない可能性もある。周りを気にしながら、時間も気にしつつハチ公前に立つ。

 しばらくして、とんとんと肩を叩く者があった。振り返ると、白い帽子をかぶった女がそこに立っていた。顔の真ん中に上向きの大きな鼻がある。目は細く、そばかすとニキビの目立つ白い肌。厚ぼったい唇は真っ赤に口紅が塗りたくられている。下膨れのおかめみたいだ、と一道は思った。

「はい?」

愛想笑いを浮かべて首をかしげる。一道は、道か何かを尋ねられるのかと思ったのだ。もう一度よく見ると、真新しい白いジャケットには値札が付いている。中年女性の着るような花柄のワンピースで太った体を覆い、太く短い脚を無理やりブーツに突っ込んでいた。一道は心の中でそっと、ブーツがかわいそう、と呟いた。むしろ、よくその足が入るブーツがあったものだと感心するべきか、とも思った。

「こんにちは」

突然あいさつされ、

「こんにちは」

と返すが先が続かない。

「あの、どうされたんですか?」

しばらく悩んでから一道が、やはり愛想笑いのまま尋ねると、

「私mimiです」

と女は帽子を指さした。ゆっくりと視線を帽子にやってから、一道は愕然とした。

 ノルディック柄の白いニット帽。

「カズくん、でしょ?」

目の前の彼女が携帯電話をかざす。それがスローモーションに見えて、一道は一瞬、自分がドラマの中にいるのではないかと、ひどく非現実的な想像を膨らませた。そんな一道の目に飛び込んできたのは、自分が昨夜送信したメールに添付した写真とまったく同じもの。今現在身に着けている服装と、まったく同じ服が写っている。

 一瞬、他人の振りをしようと考えたが、彼女はそれを一気に封じてしまった。

「mimiはニックネームで、本名は三つの石に、英語の英が美しいで三石英美。ミで始まってミで終わるから、ミミなの」

一道の中で漢字が変換され、と同時に描いていたmimi1021像が全て崩れた。少し長めの茶色い髪は、黒くて毛先の開いたぼさぼさのロングヘアーに変換され、猫目の少しセクシーな二重の目元は、細いおかめのような一重のたれ目に。すっと通った綺麗な鼻筋は団子鼻に。薄くて形のいい唇は、そこだけが別の生き物のような赤いナメクジ二匹に。白いきめ細やかな肌はそばかすとにきび跡だらけの肌に。細身で長身な、だけど少し肉感的な体系は……。そこまで変換されて、一道は眩暈を覚えた。

「カズくんの本名は?」

目の前の英美はご機嫌な様子だった。身長は一道よりも頭一つ分くらい低い。上目遣いで英美がそう尋ねたことに、一道は吐き気を覚える。

「ふ、フナキカズミチ……」

やっとのことで出た自分のフルネームを、言ってしまったあとで後悔した。

「カズミチくん。漢字はどう書くの?」

「スキーのオリンピック選手の船木に、漢数字の一、道路の道」

「ふうん。船木一道くん」

英美の赤いナメクジがぞろぞろと動いて名前を呼ぶと、一道の背筋に悪寒が走った。今すぐ帰りたい、と心の中のもう一人の一道が涙声で叫ぶ。

「今日はよろしくね、カズくん」

心の叫びが危うく喉までせりあがってくるのを一道は抑えて愛想笑いを浮かべた。その表情が見れたものではないことを、本人は気づいていない。


 昼食はスペイン坂の途中にあるイタリアンレストランのランチメニューにした。細井が教えてくれたところだ。本当は英美を連れて入ることを一道は心の中で拒んでいた。だが、他の店を知らなかったし、何より相手が英美とはいえ昼食の店選びに戸惑っている姿を見せたくなかったのだ。しかし、一道は深く深く後悔していた。隣に英美を連れてここまで来るときもひどく恥ずかしかったのだ。そして、信じたくなかった。俺が、こんな女と一緒に歩いているなんて、と。

「ん!おいしい!」

恐ろしいほどの自己嫌悪に襲われて、食欲もほとんど湧かない一道の横で英美は運ばれてくる料理いちいちにそう声を上げる。男か女か判別つかない中性的な低い声はひどく掠れていて、やけに耳に引っかかる。

「ここ、すごくおいしいね。こんなにおいしいイタリアン食べたの初めて!」

オリーブオイルがたっぷりかかったトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼを口に運んでから英美がにっこりと微笑む。真っ赤な唇はオリーブオイルでグロスを塗ったようにぬらぬらと光っている。それが、ぬめりをまとった赤いナメクジに見えて一道は思わずフォークを皿に置いていた。ナポリタンは皿に半分以上残っている。

「カズくんて小食なんだね。サラダもパスタも全然食べてないし」

「あ、まぁ……ね」

「だからそんなに細いんだぁ。いいなぁ。羨ましい!」

一道の気のない返事をよそに、英美はカルボナーラを次々平らげていく。スプーンが用意されているが、それは使わないようだ。フォークにぐるぐると白いソースがたっぷりと絡みついたパスタを一口分よりも大きく巻きつけ、口元でぐいぐいと中へ押し込み咀嚼する。顎が動くたびに顔も一緒に縦に激しく動くのは何故なのだろう、顎だけを動かして食べられないものだろうか、と一道は不快に思った。ただ、それが可愛いと思っているのだろうか、英美はちらと一道の様子を窺い、彼が自分を見ていると分かるとより激しく顔を縦に振りながらカルボナーラを口の中で解体した。前髪が、それにあわせて前後するのでなんだかよくわからない生き物のように見えた。

 最後に運ばれてきたデザートは店オリジナルのデザートピッツァというものだった。薄くて丸いピザ生地に桃のコンポートと砂糖漬けにしたオリーブの薄切りが綺麗に盛り付けられ、その中央にはバニラアイス、上からははちみつとシナモンが降りかかっている。甘党の一道は一瞬状況を忘れて思わず目を奪われた。が、運んできた店員が衝撃の一言を残して場を去る。

「こちらはお二人で切り分けてどうぞ」

かちゃ、と置かれた専用のカッターと二枚の小皿。二人で取り分ける、という一言がこんなに残酷に響いたことはないだろう。今、この目の前にいる、この女と、一枚のビザを分け合うなんて。一道が唖然として皿を見つめていると、

「私が取り分けてあげるね!」

と英美が率先してカッターを取った。そのとき、開いたワンピースの袖がふわりとバニラアイスを掠めたのが見えた。

「あっ!」

思わず一道が叫ぶと、英美はすでに小皿の一枚を片手にピッツァの切り分け作業に入っていた。英美はその小さな叫びにウィンクして、

「大丈夫、こういうの得意なんだから」

とまた作業に戻る。何が得意か!と叫びたくなったが、

「いやっ!そうじゃなくて!」

危うくスルーされそうになったことに一道は慌てて声を上げていた。英美の長い髪が皿をかすめる。

「どうしたの?」

「俺……甘いもの、苦手で……」

苦渋の決断だった。

「一人で、食べられる?」

その言葉に、英美がぱっと顔を輝かせる。

「え、いいの?本当に?」

口調は遠慮気味にそう言っていたが、顔はもういっぱいに喜びで溢れていた。

「いいよ……」

「ありがとう!じゃあ、いただきまーす!」

名残惜しい気持ちをぐっとこらえて、器用に巻いたピザ生地を一口で口に放り込む英美の姿を恨めしげに見つめる。口の端に付着したバニラアイスが白くて汚らしい。甘い桃とシナモンの香り、バニラアイスがほんのり溶けて、はちみつと混ざり合いながら生地にしみこみはじめている。絶対にうまい、うまいに決まってる……。一道は心の中一人ごちる。

「んーっ!おいひい!」

言葉にならぬ英美の叫び。今日この瞬間以上、英美の、いや人間の言葉が憎く感じたことはない。だがどうしても、あの袖の触れたバニラアイスを口に運ぶなど考えることすらできなかった。

「ねえ、本当に食べないの?」

拗ねたように英美が言う。その手にはしっかりと小皿とフォークが握られている。口の端のバニラアイスがまだ残っている。一道の視線が英美に移るや否や、英美は待ってましたとばかりにフォークを握った右手の薬指で、口の端のバニラアイスをちょんと拭った。分厚い唇をつんと尖らせて。一道は、苛つく自分の心を何とか静めようと努力した。

「いいよ、全部食べて」

極力口調には気をつけているのだが、やはり突っぱねたような口調になってしまう。思わず英美の様子を窺うが、彼女は別に気にした風でもなく、

「そう?じゃあ食べちゃお」

と可愛らしく言って、また小皿にこんもりと盛り始めた。こんな相手にでも、自分の態度が相手を傷つけていないか気にしてしまう自分に自己嫌悪を抱きつつ、周囲の目がやけに気になっていた。


 レストランを出てからはすぐにカラオケボックスに行った。英美はそのあと買い物に行きたかったらしいが、一道がカラオケに行こうというと、

「二人きりになれるしね」

とやけに嬉しそうだった。

だが、これは一道の、正確には細井の作戦だった。それは、あの日メールで細井から提案されたものだった。

『もし相手が良くなかったときは、飯のあとにカラオケに行け。多分あそこのメシ屋なら一時間もありゃ食い終わるだろ。十一時に約束して、歩いて大体一五分、飯食って十二時ちょっとだな。あのメシ屋から歩いてすぐのとこにカラオケがあるから、そこに誘うんだ。時間は一時間にしておけよ』

今のところ、その作戦は成功している。時間の指定も大体細井が言ったものと合致していた。そして、一時間で受付をしてそろそろ予定時刻が回る頃だ。気分よく歌う英美の横で、一道は携帯電話を取り出し時間を見た。

「あっ」

時間を確認すると同時に携帯電話に着信があった。それは細井からのものだった。英美もそれに気がついたのか、歌うのをやめて図々しく携帯電話を覗いて来た。

「電話?」

「あ、うん。友達。ちょっと出てきていいかな」

「うん、いいよ。待ってる」

彼女は明らかに気分を害したようだがそういった。もうすっかり彼女気分らしいが、一道はそれは気にせずさっさと席を立った。その電話の鳴動が、天の助けのように思えた。

「もしもーし。どーだー?今どこだー?あそこのデザートピッツァ最高だったろ!」

能天気な細井の声は、今や一道を救うたった一つの蜘蛛の糸だ。

「細井、助けてくれ!」

「なんだよ、急に。なんかあったのか」

緊迫した一道の声に細井の声が緊張する。が、事情を説明すると細井は電話の向こうでひとしきり笑い転げ、

「それが出会い系サイトの怖いとこ!お前も悪いわ、それ」

と息も絶え絶えに言った。

「なんだよ!だって……」

「それさー、きっと女の作戦だぜ。ゼッテーいつもすっぽかされてたんだって。だから、先回りして相手のこと見つけて、違いますって言われる前に証拠突き出してさぁ行きましょ、ってやつだよ」

細井はまだおかしいのか語尾を笑いで濁らせながらそういった。だが、言われたほうの一道はショックで言葉がなかった。

「しょっぱなから怖い女に捕まったな、お前」

「……」

無言のままの一道をさすがに心配したのか、

「さあ、仕方ねーな。俺の作戦を実行しよう!」

と声高に言った。


「電話、終わったの?」

 部屋に戻るなり英美が上目遣いでちょっと睨んできた。だが、その顔もあと少しまでだと思うと我慢できた。一道はとびきりの愛想笑いを浮かべ、

「終わったんだけどさ、ちょっと急用できちゃって」

と頭をかいて見せた。

「えー、ひどいよ」

「ごめん、でも断れなくてさ……」

「じゃあこのあとは?」

「すぐにさっきの電話のやつのとこに行かなくちゃいけなくて……」

「じゃあ私も一緒に行っていい?」

そんな英美の言葉に、一道は一瞬緊張する。だが、

「ごめん、ちょっと深刻でさ……」

と言葉を濁す。これは細井の入れ知恵だ。

「深刻って、どんな?」

「それは……」

そのとき、抜群のタイミングのよさでまた一道の携帯電話が鳴る。

「もしもし?」

「おい、早く来てくれよ!どうにも落ち着かなくてさ!」

「いや、それがさ……」

「おいおい、そっちももめてんじゃ洒落になんねぇよ!ちょっと相手に代われよ!俺が説明するから!」

電話の受信音量は最大。これも細井の作戦の一部だ。相手にわざと聞こえるように音量を上げ、細井は大声で叫ぶ。

「あのさ、ちょっと代わってくれって」

「え?」

英美の顔に明らかに戸惑いの色が浮かぶ。だが、渋々と言った様子で英美は携帯電話を取って耳に当てた。あとで携帯電話を拭かなくては、と一道は心の中で思った。

「もしもし……?」

「あぁ、一緒にいる人?ちょっと一道早くこっちに寄越してくんねーかな。じゃないとマジでやばいんだ」

「でも」

「でもじゃなくて!こっちは女がヒステリー起こして殺されかかってんだよ!」

「だけどカズくんが行かなくたって別に……」

「あー、もう!俺が浮気してるってヒステリー起こしてんだよ!その時間一緒にいたやつ連れて来いってうるさいんだ!一道が来れば一発で話し済むんだよ!分かったろ!」

怒号でさすがに彼女も焦ったのか、英美は怖い顔をして携帯電話を一道に返した。

「ごめん、ちょっと外で話してくるわ。びっくりさせてごめん」

そう言って部屋を出ようとすると、

「うん……」

とそれまでの怒りの様子はどこへ行ったのか、英美はおとなしく頷いた。だが、その様子がやけにしおらしく、嘘を突き通すことに少し罪の意識を感じた。

「もしもし?うまくいったか?」

「ああ、納得したみたいだった」

「迫真の演技だろ?」

一道の危機的状況は確かに先ほどの細井の名演技でうまく切り抜けられそうだ。

「ありがとう」

「貸しな、貸し。まー、俺も経験したからな、似たようなことはさ」

にやり、と笑う細井を想像して一道はため息をついた。そして、先ほどのしおらしい英美を思い出し、やはり罪悪感がじわじわと湧き出てきた。

「しかし、やけに食い下がってきやがったな。あーゆー女は怖いぜ、マジで。たいがい嫉妬深くてよ、妙な疑いかけられるんだ。別れるのも難しいし。もう二度と会わないほうが良いぜ、きっと」

細井に改めて言われて、短い時間の英美の行動や言動を思い出す。そして思い出せば思い出すほど、罪悪感よりもおぞましいほどの自己嫌悪がまた蘇ってきた。

「そうするよ。なんだかんだお前の忠告は全部当たってるし……」

「じゃあ、あとはうまいこと言ってさっさと帰れよ。あ、そうだな。まっすぐ帰らずに柏木のトコ寄って帰れ」

柏木とは細井と一道の共通の友人だった。だが、柏木は今仕事の都合で海外に出張中だったはずだ。それを言うと、

「郵便受けの裏に鍵があるから、それをできるだけ自然に取って、開けて勝手に入っちまえ。あいつ出る前に言ってたろ。鍵はあるから自由に入ってもいいって」

たしかに、柏木はそれまで違う友人と部屋をシェアしていたのだが、その友人が彼女と同棲をするから、と出て行ってしまって以来、一道ら友人に部屋を自由に使っていいといっていたのだ。

「でも何で柏木のうちなんかに……」

「バカだなー。お前、今俺んとこにくる予定になってんだろ?そのまま家帰ったら嘘だってモロバレだろ」

「あ、そうか。って、え?」

それはある可能性を示唆していることに、一道はやっと気がついた。その可能性とは……。

「それって、別れたあとにつけられるかもしれないってことかよ!」

愕然としてそう叫んだ一道に、

「まあ、そこまでするかは分からないけどな。ただ、さっきの電話の感じじゃ粘着質だぜ。降りる駅ぐらいまではチェックするかもしれないぞ」

と細井はひどく涼やかに言った。

「とにかく、俺の直感にしたがって悪いことはないと思うぜ」

さきほど、一道自身がそう言ったばかりだ。

「分かった……念のためそうする」

電話を切ってから、自分のしたことに今更ながら後悔した。


 カラオケ店の精算を済ませ、英美とはそこで別れることにした。一道は早く彼女から解放されたかった。

「じゃあ、終わったらあとでメールちょうだい」

すっかり彼女のような物言いに吐き気を覚えたが、

「できたらするよ」

と返し、じゃあ急ぐから、と足早に駅に向かった。振り向くことは怖くてできなかった。

 山手線に乗り、渋谷を出てから新大久保で降りて駅前の雑踏を抜けるとすぐに柏木のアパートが見えてくる。向かう足取りは一道自身が思うよりも早かった。すぐ後ろに彼女がいるような錯覚を覚えているためだろう。アパートの二階、角部屋に行くと表札には「柏木」と出ている。玄関横に備え付けの郵便受けの下を探ると、細井の言ったとおり、ガムテープのような感触と、そこに鍵のような凹凸があるのを感じた。自然にそれを剥がすと、ガムテープに張り付いた鍵が手のひらに残った。

「おーい、大丈夫か……?」

鍵をゆっくりと回しながら、一緒にドアノブをまわす。かちゃりと鍵のあく感触がして、ドアノブが半分くらい回ったところでドアがゆっくりと開いた。一道は振り返らないように、そして周囲を見回さないようにして部屋に入った。

 一道の心に、やっと生きた心地が戻った。


 その日の夜、柏木の家でしばらく過ごしてから一道が自宅に戻ると、タイミングを見計らったように英美からメールが来た。

『あのあと大丈夫だったの?メールがないので心配です』

そのメールで、昼間の出来事が一気に蘇る。一道は携帯電話をベッドに放り投げ、自分は座卓とセットで買った座椅子に座り込んだ。一人暮らしをして二年目。給与もそれなりでそこそこ暮らしていけている。この部屋に恋人を呼んだら……と想像して心を躍らせたこともある。それを思い出して、一道は落胆でいっぱいになった。

 しばらく呆けていると、突然携帯電話が鳴り出して一道は大げさなほど驚いた。恐る恐る携帯電話を開くと、そこには細井の文字。

「もしー?もう家ついたか?」

「ああ、ついた」

「無事帰れてよかったな」

皮肉なのか本心なのか、どちらにせよ一道に今の細井の声は安心を抱かせるものだった。あの窮地を救ってくれたのは細井なのだ。皮肉としても感謝しなくてはならない。

「細井のおかげだよ、ありがとう」

「おいおい、皮肉で言ったんだぜ」

やっぱりそうか、と一道は一人ごちたが出てきたのは苦笑だった。

「ま、とにかくお前がなんとかなったならいいや!早く次の女捜せよ」

「いや、もう劇ネットはやめるよ。今回でもう懲りた」

「マジかよ?だってまだ一回目だろ。たまたま初めからはずれだっただけで、当たりの女は五万といるぜ?」

「はずれの女も五万だよ、どーせ」

一道が口を尖らせると、電話の向こうで「しょーがねーなー」という細井の声がした。

「そんなお前にいい話」

「なんだよ、もう出会い系はやめてくれよ」

「違う違う!明日合コンあんだよ。有名女子大卒OL五人」

「マジで!」

「メンツ足りねーんだ。お前出れる?というか、出られること前提で電話したんだけどさ」

「行く行く!」

「じゃあ明日の……」

約束を取り付けて電話を切ると、すでに一道の心から英美のことは消えていた。携帯電話が鳴動していることにも気がつかなかった。


「ユカリちゃんて趣味ダイビングでしょ?俺も前にやってたんだよ」

 翌日の合コンはかなりレベルの高いものだった。有名女子大卒のOLで、品はあるがそこそこ合コン慣れしている女が集まっていた。男は一道と細井共通の大学時代の友人たちで合わせて五人。すでに終盤へ差し掛かり、五人の男たちは誰狙いかをすでに定め、二次会への打ち合わせ済みである。女性陣もそこそこ男性陣を気に入ったらしく、二次会へもつれ込むのは容易そうだった。一道は最初から本城ユカリというブティック店の店長を狙っていた。

「えー!そうなんですか!じゃあ今度茅ヶ崎あたりいきませんか?」

「でも結構前だからなぁ。大学時代だし」

「茅ヶ崎なら私の行ってるお店があるし、そこでちょっとした講習も受けられるんですよ。経験者向きとか、初心者向きとか。それに一回出たらすぐに思い出しますよ!」

セミロングの茶色い髪の毛先にはゆるいパーマが掛かっており、肌の色は白くきめ細かい。それをうまく引き立てるような化粧。顔立ちも上品そうで、そこそこに整っている。スタイルは抜群だ。細井と狙いがかぶったが、昨日の一件もあってかもめずに譲ってもらえた。

「そうかな?」

「きっと!だから一緒に行きません?なかなか友達とはスケジュールが会わなくて」

友達とは、のところでユカリは一道の耳元でそっと囁いた。それがやけに新密度を増したような気がして一道の心が躍る。

「じゃあ、絶対あわせるから今度行こうよ。お店紹介して」

「やったぁ。じゃあ、早速メアド交換しませんか」

自然な流れで携帯電話のメールアドレスと番号を交換する。そのときふと、一道の脳裏に昨日深夜に気がついたメールの着信が浮かんだ。

『どうして返事くれないの?まだもめてるの?』

背筋を這う悪寒。一瞬で青くなると、

「船木さん?大丈夫ですか?」

とユカリがそっと覗き込んできた。その手が、一道の腿に載せられている。

「あ、ごめん……」

「すごく青い顔してますよ。飲みすぎました?」

すっと差し出されたのは水だった。こういう気配りがユカリはうまい。さきほども、でしゃばるでもなくそれぞれに料理を取り分けてさりげなく配っていたのはユカリだ。

「ありがとう。ちょっと飲みすぎたかな」

そんなことはないのだが、ごまかして差し出された水を取ると、

「もし辛かったら……」

とユカリが顔を寄せてきた。口につけかけていたコップを少し離すと、

「このあと抜けちゃいませんか、二人で」

と、先ほどのように耳元でユカリが囁いた。手に持ったコップを落としそうになる。慌てて振り返ると、上目遣いのユカリが微笑んでいた。


 男女合わせて八名はすっかり出来上がり、二次会のカラオケには大はしゃぎで消えていった。ある程度冷静だった細井は、

「あとはうまくやれよ」

と一道に囁いて二次会へ行った。明日仕事が早いから、というユカリを一道が送る、という形で二次会を断り、二人は飲みなおすためにバーへと入った。そこは、ユカリの知っている店だという。

「こんばんは」

中年で、よく整った上品な髭をたっぷり蓄えた男性バーテンダーもユカリの姿を見つけると、すぐにそう言って自分の真正面を指してどうぞと言った。バーテンダーの真正面はよほどの常連ではないと座れないんではなかったか、と一道はあるテレビ番組で言っていたことを思い出す。バーにくるのは初めてだったのでやや緊張気味だった。

「こんばんは。ごめんなさい、今日は彼と一緒なの。隅にするわ」

ユカリの後ろに立っていたので、バーテンダーからは一道の姿が見えなかったらしい。ユカリがそう言って一道の姿を見せると、バーテンダーはにっこり微笑んで、

「そうでしたか。ではどうぞ」

とカウンターの一番奥まった席を指した。だがそれよりも、ユカリが自分のことを「彼」と言ったことに一道は喜びを感じていた。

「今夜は何を?」

「彼にはノンアルコールでさっぱりめを。私はソルティドッグにするわ」

「かしこまりました」

他に客は見当たらない。二人で貸しきっているかのようだ。バーテンダーが魔法のように飲み物をステアし始めるのを、一道は夢心地で見つめていた。男性の太い指で繊細に氷をくるくると回す姿は見ていて気持ちがいい。

「もしかして、こういうところは初めてでしたか?」

先ほどの合コン会場とはまったく違う雰囲気をかもし出すユカリが微笑んで言う。

「あ、うん。実は……」

「ここは私のお気に入りの場所なんです。マスターもいい人だし。よかったらこれからも一緒にきませんか」

それはこれからに期待してもいい、ということだ。先ほどのダイビングの約束よりも、それはぐっと新密度を増す。

「私、もっと船木さんのこと、知りたいな」

頬杖をついてちょっと首をかしげたユカリに魅了されていた。


 それから一ヶ月。その日、一道はユカリと一緒に茅ヶ崎でダイビング講習を受けていた。経験者向けの講習で、ユカリは講習を受けずとも十分上級者だったのだが、一道に合わせて一緒に講習を受けてくれたのだ。ユカリの行きつけのショップに行くと、

「ユカリちゃんの彼氏ならおまけしてあげるよ」

と講習代もだいぶ安く済んだ。

 一道とユカリが交際してから二週間ほどが経過していた。

「気持ちいー!」

一通り講習が終わり、船にあがって一道は思わず叫んでいた。冬も近いので海水はだいぶ冷たいが、それでも久しぶりにもぐって見る海の中の景色はとても綺麗だった。

「さすが船木さん!講習受けなくても大丈夫だったんじゃない?」

一緒にあがってきたユカリも気持ちよさそうだった。海中のコミュニケーションを取り合いながら、よりユカリとの距離も縮まった気がする。

「いや、感覚は残ってるけど覚えてないもんだなーって」

「そうですか?結構すいすいいっちゃってびっくり!」

ユカリはノーメイクの素肌に水滴をつけてにっこりと笑った。俺の目に狂いはなかった、と一道は改めて思う。

「今日はこの辺にしておきましょう。慣れてないと案外きますよ」

講師の男性がそう言って、一道の肩の辺りを叩く。

「そうですね。明日が怖いです」

と一道が返すとユカリが笑った。


 ショップに戻ってひとしきり今日のダイビングの感想を話し、ショップの店長という男とも親しくなったところで、

「このあたりにおいしいシーフードのお店があるんですよ。お昼に行きません?」

というユカリの提案で昼食となった。ショップから歩いてすぐのところに、個人営業のレストラン。ダイビングをしたあとは必ずここで昼食か夕食をとるのだという。

「こんにちはー」

ユカリが入って声をかけると、中から中年の女性が出てきて二人を出迎えた。

「あら、ユカリちゃん久しぶり!なぁに、彼氏?」

「うん。うふふ」

ユカリが嬉しそうに、しかし恥ずかしそうに笑うのを見て一道も少し照れる。中年の女性はそんな二人を見て笑顔を浮かべ、

「じゃあこっちどうぞ」

と奥まったボックス席に通してくれた。

「今日はシーフードサラダをオリジナルドレッシングで……」

さすがに慣れた様子でユカリが料理を頼んでいく。中年女性も大体当たりがついているのか、メモも取らずにそれを聞き終え、

「はい、じゃあちょっと待っててね」

と言って奥へと消えていった。中でユカリの注文したものを叫ぶ声が聞こえる。厨房に調理人がいるのだろう。

「あっ、ごめんなさい!いつもの調子で頼んじゃって……」

「いいよ、俺シーフード全般好きだし」

「でしょう?だから絶対ここに連れてきたかったの!とってもおいしいから」

たった二週間の付き合いの中で、ユカリが自分の好みを把握していることに一道は顔をほころばせていた。

先ほどの中年女性が戻ってきてレモン水を出してくれた。それを飲みながら今日のダイビングのことや、バーのマスターのことで盛り上がる。渋い中年男性だったが、あれでダイビングをするという話が出たときは一道も驚いた。

「結構いろんなところに行ってるみたい。この前話を聞いたら、宮古島まで行ってきたんだって」

「へぇ!いいなぁ、宮古島。綺麗だろうね」

「私も一回は行ってみたいな」

「俺も。いつか二人で行こうか」

「本当に?嬉しい!」

ぱっとユカリの目が輝く。それが嬉しくて、

「うん。絶対行こうね」

と一道も返すと、彼女はとても楽しそうに笑った。

 次々と料理が運ばれてくると、ユカリはそれを小皿に一つ一つ一道に取り分けてくれた。シーフードサラダに、ホタテの貝柱とえびのグラタン、パエリア、あさりたっぷりの海鮮スープ。おまけでスモークサーモンやホタテ、いくらなどが乗ったカナッペも出てきた。品数は多かったが案外するすると進み、気づいたときにはほとんどを完食していた。ユカリもスタイルはいいが、なかなかの胃袋を持っているのだ。

「あー、おいしかった!ここ、すごくいいね」

デザートには近海で取れた塩を使った塩バニラアイスが出てきた。それを味わいながら言うと、ユカリは自分のことのように喜んだ。

「シーフード好きで甘党の船木さんにはぴったりでしょ?」

「よく甘党だってわかったね」

「食事したときにデザートを見て喜んでいたでしょう。それに、メインディッシュを食べるときとデザートの時の顔が全然違うもの」

一道はこの一ヶ月の間に食事や例のバーに行ったことを思い出す。たしかに、デザート付きのコースメニューを頼んで一緒に食べたことがあった。そのときの表情を細かく見ていたということだ。ユカリが自分のことをみていてくれているということを再確認し、一道は喜びで心の中で小躍りした。

「このあとはどうしようか」

一道の提案に、

「少し海でも歩きましょうか」

とユカリが微笑む。

 レストランを出て、先ほどのショップの前を通り過ぎて海岸へ降りる。風は冷たいが、サーフィンやウィンドサーフィンを楽しむ者の姿もあった。一道とユカリのように、寄り添って歩くカップルの姿もある。有名な海岸だけに寒空といえども人の数も多い。

「こうやって船木さんと海にこれるなんて嬉しいです」

ユカリが横を歩きながら言った。それに一道が振り返ると、ユカリも一道を見上げていた。

「最初は社交辞令かと思ったから」

「合コンのとき?」

「そう」

そのとき、すっとユカリから腕を絡めてきた。一道の右腕に暖かいユカリの腕が密着する。湿った冷たい海風の中、そこだけが暖かい。

「船木さん、大好き」

ユカリの声が海風に乗る。一道はここ数年感じたことのないときめきを感じていた。と同時に、細井に心から感謝した。

「ユカリ……」

彼女に視線を移し、抱きしめようとした瞬間。

 一道の背筋に這う湿った悪寒。総毛立つその気配にユカリの背後へゆっくり視線をやると。

 二人の遠く遠く後ろに、ぽつんと立ち尽くす人影。膝の辺りが黒くゆらゆらと揺れているのは着ているワンピースの裾が海風にたなびいているせいだ。黒い髪が、風にふわりふわりとなびく。

「船木さん?」

ユカリの声と、

「カズ君……」

英美の声が耳の奥に蘇った。


 自宅に戻ってからも一道の心は落ち着かなかった。あの海岸で見かけた姿は、絶対に英美だった。初めて渋谷で会った日と同じワンピースを着た英美。この一ヶ月、ユカリとの交際に夢中で、英美のことなどすっかり忘れ去っていたのだ。メールにも返信していないし、劇ネットにもまったく顔を出していない。なのに何故、自分たちがいた場所が彼女に分かったのか。

「粘着質だぜ」

細井の言葉が蘇る。もしかしたら、すでに自宅の場所も把握されているのかもしれないと思うと落ち着かず、慌ててあきっぱなしだったカーテンを閉めた。

 忘れ去っていたのも無理はない。初めて英美と会った日を最後に、英美からのメールも途絶えていたのだ。一道はそれに少し安堵さえ覚えていた。向こうもきっと、あれが最後だと思ってメールをしてこないのだと。

 だから、砂浜で英美を見たときの恐怖は、一道にとって未知のものだった。黒い髪をたなびかせ、遠くからこちらを窺う姿は同じ人間とは思えぬ何かをまとっていた。だが、あれが本当に英美だったのかを確認しようとは思わなかった。メールをしたらどんなことになるか想像するのも恐ろしかった。


 翌日、寝不足のまま出勤し、眠気に襲われるまま昼休みを迎えた。同僚に誘われて昼食をとり、帰ってきて一服していると携帯電話が鳴ったので取り出す。着信を見ると、ユカリからのメールだった。

『今夜またあのバーで待っています』

簡単な待ち合わせメール。一道は、

『分かった。じゃあ、今夜は七時頃に行くよ』

と返信した。ユカリからの返信はなかった。


 約束の七時ちょうど、一道はバーへと入っていた。マスターがいつもの笑顔で、

「こんばんは」

と出迎えてくれる。

「こんばんは」

一道もそれに返事を返して店内をぐるりと見回す。が、ユカリの姿はまだなかった。

「待ち合わせですか?」

マスターのそれに、

「ええ。彼女はまだ?」

と尋ねるが、

「見えていませんね」

という思った通りの言葉が返ってきただけだった。

「そうですか……」

「どうされますか?」

「あ、じゃあ、ジントニックを」

「かしこまりました」

しばらくするとジントニックと小皿に盛られたミックスナッツが置かれた。一人でいることがまずなかったので、少し落ち着かない。

 だが、ジントニックを飲み終わる頃には昨夜の寝不足がたたってか眠気に襲われ始めた。バーのカウンターで居眠りなど恥ずかしく、一道は何とか睡魔と闘いながらミックスナッツを口に運ぶ。かり、と口の中でナッツが弾けると睡魔が一瞬だけ飛ぶような気がした。

 約束から一時間ほどが経過した頃。突然一道のスーツのポケットの中で携帯電話が鳴った。静かな店内に不似合いな電子音が激しく響き渡り、一瞬にして睡魔が吹き飛ぶ。マスターは、

「大丈夫ですよ」

と笑ってくれたが、周囲の人間の嫌な視線を感じた。慌てて外に出て携帯電話を開くと、ユカリからの着信だった。何かあったのだろうかと焦る気持ちで通話ボタンを押す。

「もしもし?どうかした?」

だが、電話の向こうは無言のままだった。

「もしもし?ユカリ?」

一道が声をかけても、やはり無言のまま。嫌な汗がこめかみを流れる。

「ユカリ!もしもし!」

すると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。

「ユカリ……心配かけ」

「カ・ズ・くん」

頭のてっぺんから足先までが冷水を浴びたように冷たくなっていく。この、正体不明な声。それは……

「み、み、みみさん……?」

「うふふ。久しぶり。メールもくれないし、どうしてるのかと思ったら、こんな女と会ってるなんて」

それはそばにユカリがいることを意味している。それがどんな状況であるかを、一道は意外と冷静に判断していた。

「ユカリは……?」

「ユカリだって!私のことはさんづけのくせに。一体何様のつもりなの?」

刺激しないほうがいい、という判断が頭をよぎる。

「ミミさん、あの、一体どういう状態なのか教えてくれないか」

比較的落ち着いた声で一道が言うと、電話の向こうでくすくすと笑う声が聞こえた。一道の脳裏に蘇る英美の姿。黒髪を震わせながら、二重顎を震わせながら、笑う姿を想像してぞっとする。

「そんなの、カズくんが一番知ってるんじゃない?あ、そうだ。写メ、送ってあげようか」

「写メ?」

「無様だよー。この女のこんな姿、もう見れないと思うし」

そんな声の後、向こうでカシャ、という電子音がした。おそらく、自分の携帯電話で写真を撮ったのだろう。

「電話切ったら見てみてね」

そう言って、電話が切れた。

「もしもし!」

電話が切れた後も携帯電話を耳にあてたままにしていると、耳でけたたましいメールの着信音がして一道は慌てて内容を確認した。件名、内容は空白の英美からのメール。添付されていたのは……

「ユカリ……!」

そこに映っていたのは、ぐるぐるに両手を縛られ、口にガムテープを貼られ、殴られたかしたのかパンパンに腫れあがったユカリの顔だった。一道の喉の奥から呻き声が上がる。

 そして、その写真を確認したのを見計らったようにまたユカリの番号から着信があった。

「もしもし?なかなか面白い写メだったでしょ?」

「お前、ユカリになんてこと!」

「だって誰が悪いのよ!」

思わぬ英美の剣幕に押され、一道は一瞬で言葉を失った。次に聞こえてきたのは、なんとも不快感を呼び起こす英美の猫撫で声だった。

「ねぇ、カズくん。この女のこと助けたいでしょ?」

ざらざらと鼓膜に引っかかる声が一道に吐き気を呼び起こす。だが、かろうじて、

「ユカリに何をしたんだ」

と尋ねると、

「写メ見たでしょ?」

と、さも当然のように言ってのけた。

「私の質問に答えてくれない?」

「ユカリを早く解放しろ!」

「だから!助けたけりゃ私の話聞けっていってんだよ!」

激昂した英美が髪を振り乱しながら携帯電話に叫ぶのを想像して、一道は恐怖に慄いた。無言でいると、

「あ、ごめんね……でも、カズ君が怒鳴ったりするからだよ?」

とまた例の甘い声で囁くように言った。

「カズくん、この女のこと、助けてあげる。その代わり、また私と一緒にデートしよう。ううん、今度はゆっくり一日、二人だけで過ごしたいな」

思い出される一ヶ月前の悲劇。胃の収縮が一道を襲う。ひどい眩暈と混乱。

「カズくんのおうちで一緒に過ごそうよ。そうしたら私、パスタを作ってあげるから。カズくんのおうち、とっても片付いてて綺麗でびっくりしちゃった。もしかして、この女が片付けにきたりしてないよね?」

「……!」

英美は、一道の部屋に侵入したことをさらりと告白した。そして、その言い方で現在地がどこかも分かった。分かった瞬間、一道は通話を切って走り出していた。タクシーを捕まえ、自宅へと急ぐ。座っていることが、何より自分のことを苛立たせた。

 自宅前に到着すると、一道はタクシーの運転手に料金以上の紙幣を掴み取って渡し、転がるようにして外へ出た。エレベーターを待つ余裕はなかった。急いで階段を駆け上がる。自宅のドアは、やはり鍵は掛かっていなかった。乱暴に開け放つと、そこには英美が立って笑っていた。

「おかえり、カズくん」

その一言が無性に腹立たしく、

「どけ!」

と一括して英美の体を押しのけ、廊下を走ってリビングへ入る。そこにユカリの姿はない。寝室にも姿はなく、キッチンを覗き、最後に浴室へ入って一道は総毛立った。自由を奪われぐったりとしたユカリが、冷たい浴室のタイルの床に放りだされていた。写真では分からなかったが、足首もガムテープで頑丈に縛られていた。

「ユカリ!」

慌てて一道は駆け寄り、口のガムテープを外してやると、かろうじて息をしていることが分かってやっと生きた心地が戻ってきた。

 と同時に、英美に対する怒りが爆発した。

 ユカリを抱き起こしたまま振り返ると、そこにはすでに英美が立っていた。顔には薄気味悪い笑みを浮かべている。あの日と同じ黒いワンピースに白いジャケット。少し違うのは、その白いジャケットに、ユカリのものと思しき血痕がいくつかできていること。そして、値札が取れていること。

「ねえ、カズくん。パスタ作ったんだけど」

「ふざけるな!何をしたんだ、ユカリに!」

浴室なので声がひどく反響する。それが静まった頃、英美はにやりと、一道を見て笑った。

「見て分かるでしょ?お仕置きしたのよ」

「……お仕置き?」

「私のカズくんに手を出すなんて。なんて不埒な女」

英美の顔面が醜く歪む。それでなくとも整っていない顔がぐしゃりと潰れたような表情になった。そして、分厚い唇から白いものが吐き出され、それがユカリの顔に当たった。

「クソ女」

一道の怒りが限界に達した。ユカリを抱きかかえ、そして立ちふさがる英美を思い切り蹴り飛ばした。分厚い肉の弾力を感じたが、次の瞬間には英美は廊下まで吹き飛んでしりもちをついていた。

「痛いーっ!」

英美が腹部を押さえてのた打ち回る。黒い髪の毛が別の生き物のようにそれに合わせて蠕動し、ばたばたと嫌な騒音がした。だが、一道はそんな英美に向かって、先ほど彼女がユカリにしたように唾を吐きかけた。絶叫していた英美の動きが止まる。

「お前みたいなブス!最初から相手になんかしてねーんだよ!彼女面しやがって、気持ち悪ぃ!」

もう一度、廊下の隅へ追いやるように蹴飛ばして、ユカリを寝室へと運ぶ。手首と足首の拘束を解いてやると、うっすらと目を開けた。腫れ上がった紫色の瞼が痛々しく、一道はユカリを抱きしめ、

「ごめん……」

と謝った。胸の辺りでごそごそと何かが動くのに気がついて体を離すと、

「……ふな、きさん……怪我は……?」

とユカリが長い指で一道の顎に触れた。

「俺は大丈夫。それより、君が……」

一道の言葉にユカリは切れた唇を持ち上げて、

「良かった……」

と言ってまた目を閉じた。どうやら痛むのか、目を開けているのは辛いようだった。

「ユカリ……」

一道の泣きそうな声に、ユカリがまたゆっくりと、細く目を開ける。だが、ユカリの視線は一道を通り越して、一道の背後に彷徨い、大きく見開かれた。

「船木さん、後ろ……!」

弱弱しいその声に一道が振り返る。背後には、鍋を抱えた英美が立っていた。

「離れなさいよ」

鍋が一気にひっくり返ると、一道の背中一面に熱さとも痛みとも取れぬ激しい衝撃が走った。思わずユカリをかばうように抱きかかえるが、彼女は腕の中で、

「熱い!」

と小さく叫んだ。

「うぉぉぉっ!」

獣のような咆哮を上げて一道が床に転がる。ユカリは自力で動くこともままならず、一道に下ろされた仰向けのまま、転げまわる一道を横目で見ていた。床に広がる熱湯と茹で上がったパスタ。床を這いずる一道と、無抵抗のユカリを冷たい目で見下ろしている英美。

「おいしい?」

英美が一道に向けて鍋を投げつける。ごつ、という嫌な音がして鍋は一道に当たって跳ね返り、壁にぶつかって小さな穴を開けた。

「そうだ、ソースはね、カズくんはきっとミートソースがいいと思って」

のた打ち回る一道を置いて、英美が一度キッチンに戻り、次にミートソースの入っている深目のフライパンを持ってきた。そして、

「どうかな?ミートソースもちゃんと作ったんだよ」

とそれをひっくり返した。一道の頭に赤いものが一気に落ちると、頭皮に、耳に、額に、そして顔全体に、うなじに、熱いものがねっとりと絡みつきながら落ちてきた。一道の喉から絶叫が迸る。それを見て、英美は嬉しそうに微笑んだ。ユカリの腫れ上がった目からは涙がこぼれている。

「ねーえ、カズ君。だあいすきだよ」

ユカリが小さく「やめて」と呟いた。だが、一道と英美にそれは聞こえない。一道の耳は、先ほどのやけどで耳の奥では金属音のようなものが響いていた。

「愛してるよ、カズくん。これで私だけのものだね」

英美の手にはいつの間にか握られた包丁が、ぎらぎらと光り輝いていた。


 Slim7が入室しました

 Slim7)お待たせ

 聡子)遅いよー!罰金十万円

 Slim7)うわ、ビミョー!妙にリアル!

 聡子)マジ遅いし!

聡子)もう三十分も待ってたんですけどー

Slim7)ごめんごめん

聡子)仕方ないなー

Slim7)じゃあ報告します!

聡子)あ、話題そらした!

Slim7)じゃあ報告なしでもいいの?

聡子)それはダメ!

Slim7)分かってて言う俺(笑

聡子)ヒドスギ!(笑

Slim7)いやー、マジうまくいったわ。ドッキリ!

聡子)マジで!

Slim7)うん!まんまと(笑

聡子)あはは!

聡子)びっくりしたんじゃないの、カズ君(笑

Slim7)そりゃもう。

Slim7)電話するなり「助けて!」だぜ(爆

聡子)チョーウケる!

Slim7)聡子の友達マジサンキューだよ

聡子)いい子でしょー(笑

Slim7)てかそんなにひどいのかよ?

聡子)うん!

Slim7)うん!て(汗

聡子)だって小学生の時からだもん

聡子)ぱっと見マジヤバだよ

Slim7)ま、その友達のおかげで大成功!

Slim7)名前も拝借しちゃってゴメンネゴメンネー!(笑

聡子)mimi1021がSlim7と同じ人なんて思いつきもしないだろーね(笑

Slim7)友達大変だったんじゃないの?

聡子)別にー

聡子)チャット記録見せて、この人になりきってっていったら喜んでた

Slim7)ヤバくね?それ

聡子)まー、あいつは生まれつきヤバい

Slim7)怖!チョー怖!(笑

聡子)つか何でドッキリなんてやったの?

Slim7)うるせーんだよ。彼女ができねーのほしーの

Slim7)あいつ昔からウザい

聡子)怖!チョー怖!(笑

Slim7)結果いい女ゲットしやがったしよー

聡子)えー!なにそれ

Slim7)合コン誘ったんだけどさー

聡子)合コン?

Slim7)引き立て役に呼んだら一番いい女とられた

聡子)自業自得(笑

Slim7)マジありえねー

聡子)あ、そういえばさ

Slim7)???

聡子)あのあとあの子からメール来て

Slim7)友達?

聡子)そう。なんかね、付き合うことにしたって言ってたよ

Slim7)は?一道と?

聡子)そう!あいつの思い込みっぽいけど

聡子)カッコよくて優しかったんだって。かっこいいの?カズくん(笑

Slim7)下の中

聡子)中ってところが優しさ!

Slim7)マジかー!

聡子)まさかマジで付き合ってると思ってんのかな

Slim7)だとしたらヤバくね?

聡子)だーかーらー

聡子)あいつは生まれつきヤバいから(笑

Slim7)あの合コン女と一緒にいるとこ見たらどうなるかな

聡子)あいつチョー嫉妬深いからなー

聡子)殺しにいくかもね

Slim7)マジか!

聡子)じょーだん(笑

Slim7)ヤベー!(笑


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。