配達竜が運ぶもの(2)
ソフィニア=サンディットとその両親と兄とが住む家は、大きくて広い二階建てで、小さい庭も付いている。平均水準よりは良い家屋であり、役人が住む家屋としてみると普通程度。そんな家である。
その家の二階には部屋が四つあった。廊下の手前から順に、リオラの部屋、ソフィニアの部屋、ソフィニアの兄ディムの部屋、書庫となっている。
上級学校から帰宅したソフィニアは、自室の机の前にある椅子に座って寛いでいた。
机の上は綺麗に整頓されており、今は紅茶をいれた花柄のティーカップが一つ、揃いの柄のコースターの上で湯気を上げている。
部屋の中も綺麗に整頓されており、部屋の主の几帳面さが伺える。壁には風景画が飾られ、細かく美しい彫り細工が施された木枠の掛け時計もあった。
リオラよりも二つ年上で十四歳の少女、ソフィニア。彼女は、穏やかな印象を与える顔立ちをしていた。
美しいブロンドは少しカールがかかり、緩やかに流れる川を思わせる。そのブロンドの川は、胸元くらいまでの長さで流れ落ちている。肌は白くて透明感がある。
当人が身につけている落ち着いた身のこなしなども相まって、外見だけで判断するなら、いかにも良家のお嬢様と言える少女だった。
ほっそりとして背が高く、線が細いソフィニアの身体は、リオラとは対照的だ。
服装などは特に着飾っておらず、淡いピンクのブラウスにベージュのスカートを身につけている。
紅茶の香りと味を楽しみながら彼女は考える。幼なじみの親友でもあり、今は『家族』でもあるリオラの事を。
もっとも、ソフィニア家の面々の中でリオラを家族の一員だと思っているのは、一ヶ月前の『毒蛇事件』の後では彼女一人だけなのだが──
「リオラ、今日も遅いわね。最近いつも寄り道して遊んでる気がするけど……」
呟きながら、ふと窓の外を見やる。リオラが外で遊ぶのを好む事はよく知っている。だから以前から、寄り道して帰る事も多かった。しかし最近は、それがほぼ毎日という頻度になっている。
ソフィニアは、学校で昼食を食べている時に〈配達竜〉がやってきたことを思い出す。彼女は〈配達竜〉にあまり興味が無く、むしろ竜という恐ろしい生き物をわざわざ出向いてまで見ようとは思わなかった。だがリオラなら自分と違うだろうと思い至る。
リオラが好奇心旺盛で、思い立ったらすぐ行動に移す性格なのは、幼なじみである彼女もよく知っている事だ。
(今日は〈配達竜〉でも見にいったのかしらね。今まで一度も見たことが無かったようだったし……)
そんなことを考える。
ソフィニアは、リオラが寄り道などをして家に帰る時間を遅らせている事の、別の理由にも感づいていた。
(父様や母様や兄様が皆、リオラに辛くあたるから……。あの時、リオラは何も悪くなかったのに。わたしが何度言っても、みんな解ってくれない。わたしでは、理不尽にリオラを憎む父様や母様や兄様の目を覚ますことができない。リオラを召し使いのように扱うのを、やめさせることもできない。リオラは気にしていないように振る舞っているけれど、やっぱり毎日家に遅くかえってくるのは──)
この家の居心地が悪いから。
そうとしか、考えられないではないか。
それは、ソフィニアにとっても辛いことだった。あの事件の前までは、リオラはサンディット家の全員から『家族』として迎えられていたのだ。
ソフィニアの母などは「娘が二人になったようだ」と喜んでいた。父や兄も、両親を亡くしたリオラの事を不憫に思い、暖かく家族として迎えていた。
そんな幸せな一時は、もう望んでも手に入りそうにない。
心の強いリオラではあるけれど、あの事件の前後にサンディット家の面々が大きく態度を変えた事は、精神的に堪えたはずだ。ソフィニアはそう思っていた。
リオラは見栄っ張りで、人前で滅多に弱音を吐いたりしない。それに、我慢強い。けれど、まだ幼い少女なのである。
(わたしにできることは、リオラの味方で有り続けて、リオラの良き姉で有り続ける事くらい? それだけ? 他に何かできる事はないのかしら──)
リオラの事で何かできないか。家族のリオラに対する態度をどうにかできないか。ソフィニアは最近、そんなことばかり悩み続けている。しかし、どちらも解決策は見つからないのだった。
リオラの方からソフィニアに何か相談したり、愚痴をこぼすようなことは今までに一度も無かった。その事も、ソフィニアを不安にさせている。
愚痴を吐いて貰った方が、相談相手として役に立てているという実感が持てるのだ。
ソフィニアが物思いにふけりながら紅茶を全部飲んで、そのしばらく後。
「ただいまー!」
階下からリオラの明るい声が聞こえた。
そして勢いよく階段を上がってくる音が近づいてきて、次に二階の廊下を早足に進む足音。隣の部屋にリオラが入るのがわかった。
いつもよりもなにか慌てているのか、急いでいるのか。リオラの騒々しい帰宅にソフィニアが訝しんでいると、彼女の部屋の戸が二回ノックされた。
「ソフィ、ニア、帰ってるよね? 入って、いい?」
息を切らせながら、酸素不足なリオラの声。ソフィニアは立ち上がると、すぐに戸を開けてリオラを部屋に迎えた。
リオラは真剣な目でソフィニアを見て、
「あのねっ、今日、新しい作戦を、思いついたんだけどさ、それで〈配達竜〉、見に行ったら、その作戦も無理そうで、もうソフィニアに、相談するしか、ないかなって──」
立ったままで、息も絶え絶えに一気に説明しようとするが、ソフィニアには、何のことかよくわからない。
「すこし落ち着いてから話したらどう? 何が何だか、さっぱりわからないわよ」
「あ、うん、そか」
ソフィニアの落ち着いた声の影響もあり、リオラも一度話すのをやめた。
「ふーー」
数分後、深呼吸をするリオラ。全力で走って帰ってきたのか、呼吸が落ち着くまで時間がかかったのだった。
ソフィニアとリオラは、並んでベッドに腰掛けていた。ソフィニアの右にリオラが座っている。
リオラが相談を持ちかけてくれるのは嬉しい。ソフィニアはそう思うのだが、何故か不吉な予感がしてならなかった。〈配達竜〉という言葉がリオラの口から出てきた事も気になる。
「よし、落ち着いた! それじゃ、ちゃんと話すからさ、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん」
「まず、昨日の夕食の後。あたしを孤児院に入れて欲しいって、ソフィニアの両親に頼んだけど、ダメだったよね」
「ええ。そうだったわね。あの時、本当に驚いたんだから……先に私に話してくれてもよかったのに」
ソフィニアの声が憂いを帯びる。
リオラは昨晩、町の孤児院に入れてほしいと自分からソフィニアの家族に頼んだのだ。リオラを疎んじるソフィニアの家族たちなら、喜んでそれを認めてくれると思っての事だったのだろう。
その考えはソフィニアにも解ったが、彼女の両親がその要求を受け入れない事も、ソフィニアにはすぐに予測できたのだった。
一度引き取った天涯孤独の幼い少女を、一年やそこらで手放して孤児院に入れるという事──それは明らかに世間体が悪い。
そんな事をしたら、人々の憶測から、様々な噂が飛ぶことになるだろう。
家庭内で揉め事が起きたのだろうとか(実際に起きているのだが、外には知れないように両親は気を配っている)。リオラの分の生活費用で自分たちがあまり贅沢できなくなったからだとか。リオラが虐待を受けて孤児院に逃げ込んだなどという噂が立つかも知れないのだ。
ソフィニアの父は役所で働いている。人格者として振る舞っており、部下や上司からも信頼を得ている彼にとって、そのような悪い噂は絶対に避けなければならない事だろう。
実際、昨晩もソフィニアの父が一番強く反対していた。
「いきなりで脅かせてごめん。でも、夕食の前に思いついて、すぐに頼んでみようって決心したからさ」
「まあ、リオラらしいけれどね。昨日も言ったように、リオラが家を去るのはちょっと寂しいけれど……わたし以外に味方の居ない今、この家よりも街の孤児院の方がよさそうだとも思ったわ。会えなくなるわけではないし」
ソフィニアはそう言って微笑する。この街の孤児院なら、両親が寄付をしに行く時に付いて行ったことがあった。少し中を見ただけだったが、清潔感のある施設で、そこの子供達も明るく元気だった。
「ソフィニアの家族が悪いとか、そんなことは思ってないんだよ! ただ、あたしがいるせいで家の雰囲気が悪くなってる気がして、それが申し訳なくてさ」
リオラは、自分が辛い状況であるにもかかわらず、ソフィニアに気を遣っていた。そして自分を憎んでいる彼女の家族のことも、一切悪く言わないのである。
「悪口とか言ってもいいのよ、リオラ? やっぱりわたしの家族のリオラに対する態度は、理不尽でおかしいと思うし……」
「おかしくないよ。あたしは憎まれて当然だし。それだけソフィニアは、家族から大切に想われてるんだって。大切な人が誰かのせいで命を落としかけたりしたら、その誰かを憎むって──普通の事だよ」
幼い少女とは思えない大人びた考え方を、リオラは笑顔のままで言う。
憎まれ、つらい仕打ちを受けた子供が、その相手の事にまで気を配る──普通の子供にできることではない。大人であっても、精神的に打たれ弱い人間や、客観視能力に欠ける自己中心的な人間には難しい事だろう。
リオラが年齢にそぐわない大人びた態度や考え方をするようになったきっかけは、病に伏した母を心配させない為だった。ただ母を心配させないが為に、しっかりしている自分を見せようと努力した。それが定着して、母の死後もずっと続いているのだ。
「でも、あの事件はリオラのせいじゃ──」
「ああ、もう、話が進まないよ。その事はもう置いておいてさ」
「そ、そうね」
ソフィニアも頷く。今は、リオラの相談を聞くことが大切であった。
「でね。今日、〈配達竜〉が町に来たのはもう知ってるよね」
「ええ。昼くらいに飛んで来ているのを、教室から見たわ。リオラは、公園まで見に行ってきたのかしら?」
「うん、さっき見に行ってきた。あたしも色々考えたんだけれど、この町にいる限りはどうにもできない気がしてきてね。〈配達竜〉になんとか他の町に連れて行ってもらえないかなと思ったの。他の町でも、孤児院くらいは探せば見つかるだろうしさ。でも、その事がソフィニアの家族にばれると絶対止められると思うから、なんとか秘密にしつつ、〈配達竜〉に頼む方法はないだろうかって考えたんだけど、どうしても思いつかなくて」
「は、配達竜さんに、別の町に……?」
勢い込んで語るリオラのとんでもない考えに、ソフィニアの頭は一瞬思考停止に陥った。
「うん。別の町に行ったら、ソフィニアとも会えなくなっちゃうけれどね。でも名案だと思ったりする」
リオラは悪戯っぽく笑うが、ソフィニアの胸中はそれどころではなかった。思わず立ち上がって、声を荒げる。
「そんなの……だめよ! 会えなくなるのよ? わたしとも、他の学校の友達の誰とも……!」
ソフィニアは、リオラが母を亡くす以前からも、幼なじみの親友同士だったのだ。そして今では、ただの親友以上の存在とも言えた。同じ屋根の下で、家族として、姉妹として暮らしているのだから。
突然別の町に行くと言われて、納得できるはずがなかった。
「ちょっ……、ソフィニア、声が大きいっ。家族に聞かれたくない話だから、お願い」
リオラは口元に一差し指を当てて、静かにするように促す。ソフィニアもつい声を荒げた事に気づいて、再び座った。
「ごめん、つい……。でもリオラは、それで平気なの? 知らない町に、一人でなんて……。わたしとも、誰もと会えなくなるのよ? リオラのお母さんのお墓も、見にこれなくなるのよ……」
ソフィニアは沈痛な面持ちで、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ありがとう」
自分の心配をしてくれるソフィニアに、自分と別れる事を本気で拒もうとしてくれるソフィニアの心に、リオラは静かに感謝を述べる。
「それでも、ソフィニアに協力して貰いたいんだ。あたしがこんなこと頼めるのは、ソフィニアしかいないし」
「そんな勝手な事言って! わたしがどれだけリオラのこと……!」
感情的になり、顔をほのかに赤くしたソフィニアが言葉を詰まらせる。
頭では理解していた。勝手さならば自分も同じ。ソフィニア自身も、それらしい理由を言いながら、自分の感情だけで勝手に否定しているのだ。ただリオラと離れたくないという感情だけで。
「………………」
数瞬の沈黙が訪れた。
「…………ソフィニア。あのさ──」
沈黙を破ったのはリオラ。彼女はソフィニアの顔を見て、何かを言おうとした。しかし言葉の続きが来ない。
「リオラ?」
ソフィニアもリオラの顔を見て促す。なにか、言いにくいことを言おうとしている様子だった。リオラは、ソフィニアの顔から少し目をそらした。
「んと。あのさ…………今のあたし、幸せだと思う?」
「…………」
単純な問いであった。言葉通りの意味だけならば。
ソフィニアから見て、リオラが幸せに見えるか否か。それを問いかける一言。
しかし、答える言葉が見つからない。
ソフィニアはその時、リオラの中に初めて弱い少女を見た気がした。口元に不自然すぎる微笑みを浮かべて、リオラは言ったのだ。
笑いながら、泣き出しそうな顔で。
リオラは誰の前でも弱みを弱音を吐かなかった。強く振る舞っていた。母が亡くなった時も、少なくとも葬儀中などの人前では、全く涙を見せずに毅然とした態度をとっていたリオラ。そのリオラが、今はとても儚い存在に見える。
「──ごめん、ソフィニア。変な事聞いたね」
「リオラ……私こそ──」
ソフィニアは謝ろうとした。リオラがひた隠しにしてきた辛さに気づけなかった事。一番の友達であり理解者であると思っていた。しかし、どれだけ親密でも、他人の思っている事の全てがわかるわけではない。そんなことはあり得ない。ソフィニアはそれを思い知った。
リオラは、今のままではいけない。このままでは、この子は壊れてしまうかもしれない。
「ソフィニアが謝ることじゃないよ。それより、お願いっ! 協力して欲しい! 〈配達竜〉にこっそり別の町に運んでもらう方法を、一緒に考えて欲しい」
ソフィニアの言葉を遮って、力強く言うリオラ。
膝の上で組まれていたソフィニアの手に、自分の手を重ねるリオラ。彼女はもう、悪巧みをする悪童のような不敵な笑みを浮かべていた。
先ほど見せた泣きそうな少女の顔は、幻だったのだろうか。
「母さんがね、死ぬ前にくれた言葉があるの。『あなたにとっての幸せは自分で見つけて、自分の手でつかみ取りなさい。待っていても、誰も幸せになんてしてくれないんだから』って母さんはあたしに言った。あたしは、いつも衝動だけで、あまり考えずに何かすることが多いと思うよ。自分でも。けれどソフィニアの家を出て新しい居場所を見つけるのは、あたしにとって絶対、間違った事じゃないと思ってる」
リオラは力強い確信を込めた口調で言った。
「そう……」
ソフィニアも決意した。
リオラと別れることになっても。
それがリオラが望む事ならば。
それが今より彼女を幸せにする方法ならば。
「わかったわ。リオラ、一緒に良い方法を考えましょう」
「ソフィニア……!」
ソフィニアが笑顔で頷くと、リオラの笑顔も深くなった。
こうして、二人の少女は『リオラのラウの町脱出計画』の作戦会議を開始した。
数十分後。
「さすがソフィニア、天才、策略家、小悪魔っ。これならいけるかもっ!」
「うふふふ……そうかしら。でも、問題は〈配達竜〉よね」
少女たちは、怪しい作戦会議を楽しんでいた。今の二人は、悪巧みをするただの子供らしい子供だった。
「うーむ……あんだけでかい図体してるんだから、人間一人の重さくらい、わからないと思うけれどねー」
「それもそうかしらね。あと、その方法だと荷物を〈配達竜〉に託す役目は、わたしになるのよね……」
「なにか問題あるの? 台車使ったら、ソフィニアでも運べると思うけれど」
問われて、ソフィニアは溜息を吐いた。
「だって、竜よ? 正直、直接側まで行って話をするのは怖そうだし……」
「大丈夫だって。さっき行って見てきたけど、〈配達竜〉は大人しそうだったし。怖いとかあまり感じなかったよ。街で人間を襲った事もないみたいだしさ」
「それは、リオラに度胸がありすぎるからね……。普通の女の子は、怖がるものよ」
「じゃあ、やってくれないの?」
リオラが上目遣いに、弱々しい、悲しげな声で言う。わざとらしい演技だった。
「もう……やるわよ。リオラのためなら、やってやるわよっ。竜がなんだってのよっ」
やけくそ気味に言って立ち上がり、にやりと笑うソフィニア。おとなしい良家のお嬢様のようにみえて、ソフィニアもなかなかの度胸があった。行動力のほうは、リオラから受けた影響が大きいかもしれない。
「そうこなくちゃ! 竜なんて、でっかいトカゲに羽ついてるだけと思えばいいよ。或いは、でっかい鳥」
「トカゲや鳥は喋らないし、火も吹かないけれどね──」
そんな感じに作戦会議も終わろうとしていた時。
コンコン──ノックの音。続いて、
「ソフィニア、リオラさんはここにいないかい?」
ソフィニアの兄、ディム=サンディットの声。
二人の少女は、一瞬息を潜めた。
作戦会議は小さい声で話し合っていたから、部屋の外には漏れていなかったはずだ。リオラはソフィニアに頷くと返事をした。
「はい、ここにいますー!」
ソフィニアの家族には、丁寧な言葉遣いで話すリオラ。
「やはりここだったか。ソフィニア、入るよ」
「はい」
戸を開けて、ディムは部屋の入り口まで入ってきた。
長身で、整った顔立ち。短い髪はソフィニアと同じ金色で、少しクセがある。ソフィニアより三つ上の十七歳で、父と同じ町役人を目指す、真面目な青年である。少し妹に過保護なところがあるのだが。
「リオラさん。夕食までまだ時間がありますから、床と窓の拭き掃除、やっておいてもらえるかな? あと、掃除の後に時間があれば、庭のランプにオイルを足しておいて欲しいね」
他人行儀な口調である。例の事件の後、ディムはリオラへの嫌悪感を、距離感のある態度で示すようになった。家族と思っているなら、『さん』などは普通付けない。
『リオラさん』と呼ぶようになったのも、事件の後からのことだ。それまでは親しみを込めて、実の妹と同じように呼び捨てで呼んでいた。
「兄さん、どうしていつもリオラだけに? わたしも掃除くらい一緒に──」
ソフィニアは、兄に厳しい眼差しを向けて言おうとするが、皆まで言う前に兄が声を被せてきた。
「ソフィニア、いつも言ってるだろう。リオラさんはうちに『居候』してるんだから、何か手伝いくらいするのが礼儀なんだと。僕はリオラさんに、思いやりのある立派な人間になって欲しいから、渋々と頼んでいるんだよ。それに、リオラさんもいつも、掃除は好きって言ってるじゃないか。そうだよね?」
そう言って、リオラに人の良さそうな微笑を向けるディム。表情には全く悪意などは見えない。笑顔が爽やかな好青年に見える。しかし、ソフィニアもリオラも、ディムの本心はよくわかっている。リオラがソフィニアと一緒にいるのが、疎ましいのだ。
「はいっ、掃除は好きですし、やってきますね!」
リオラは明るく大きい声でディムに返事を返す。心の奥でどう思っているのかは、他人からは解らない。実際リオラが掃除好きなのは、ソフィニアも知っているが──
「それじゃソフィニア、また後でー」
ベッドから立ち上がり、部屋から出て行こうとするリオラ。
「あっリオラ、わたしも一緒に──」
「ソフィニア、おまえが手伝ったらリオラさんの好意が無駄になっちゃうだろう?」
リオラの後を追おうとしたソフィニアの前に、爽やかな笑顔で少し悩ましげに首を傾けた兄が立ちはだかる。その間に、リオラは部屋から出ていってしまった。
「ところで、リオラと何を話していたんだい? 変な遊びとかの話じゃないだろうね?」
この兄の言葉に、ソフィニアはドキリとして一瞬硬直するが、すぐに笑顔で取り繕う。
「そんな話じゃないですわ、兄様。今日リオラが〈配達竜〉を見てきたみたいで、その話をしていただけ」
「ふーん……そうかそうか。〈配達竜〉というと、父さんも仕事が増えて大変そうだよ。〈配達竜〉の安全と町民の安全の両方を考えての警備の手配とか、〈配達竜〉をもてなすのに何を用意するかとか」
「そういえば前の時も忙しそうにしていましたわね、父様」
とりあえず上手く話題が変わって、ソフィニアは安心する。
「忙しくても、町のために働くのはやり甲斐があるんだろうな。父さんは張り切ってたし。僕も早く父さんのように役場で働きたいよ。──さて、僕は部屋で勉強してくるけど、ソフィニアは掃除なんかしちゃだめだよ。そうそう、ダイニングのいつもの場所に、チョコレートを買って置いてあるから。ソフィニアが前に美味しいって言ってたやつだよ」
「わかりましたわ。ありがとう、兄さん」
兄は満足そうに微笑みながら部屋から出て行った。
ソフィニアは再びベッドに腰掛ける。
彼女は、兄も両親も嫌いではない。皆が自分を大切に思ってくれるのは、嬉しい事だ。だが今は、彼らのリオラに対する態度に限って、嫌いだった。
「なんとか考えを変えてもらえないかしら…………あっ」
独り、ソフィニアは閃く。
「作戦追加ね。ふふふ……」
そしてリオラにも知らされない第二の計画を、彼女は頭の中でまとめていった。
後に、ソフィニアの謀略によって、サンディット家には大きな騒動が起きることになる。
リオラが姿を消した後、『リオラの遺書』が見つかる事によって──
◆ ◆ ◆
夜の公園は静かだった。虫の奏でる鈴のような音と、風で擦れ合う木の葉のざわめき。
そして、広い芝生地の中央では静かな寝息。それらの他に音は存在しない。
〈配達竜〉イムナは、身体を丸くして尾の上に顎を乗せたような状態で眠っているようだった。その褐色の鱗の一部は、月明かりと街灯の明かりを反射して輝いている。輝く鱗は、まるでブロンズでできているようにも見える。
そんな竜をよく見ることができる位置に二人の人間の男が立っており、竜を見張っていた。
〈配達竜〉の監視・制圧の任務を与えられた守衛であり、町の守衛隊の中でも最も腕があると言われる二人だった。彼らは〈配達竜〉がやってくると、いつもこの任務を与えられてきた。竜に一番近い位置における、夜間の監視・制圧任務。
言葉にすると物騒で緊張感のある任務に思えるのだが、実際はそうでもなかった。
「もうすぐ夏も終わるな。夜は肌寒くなってきた」
守衛の一人、黒髪で角張った顔をした中年の男が言う。彼の低い声は、普通に喋っていても一般人には威圧感を与える。
筋骨隆々な身体をしており、骨が太いという言葉がぴったりの男だった。背中には、自分の身長ほどもある巨大な剣を背負っているが、この剣を〈配達竜〉に向かって抜いたことは無かった。たぶんこれからも無いだろう。
「ちげぇねえな」
もう片方の守衛の男が答える。こちらはまだ若い男で、紋様が描かれた緑色のバンダナを頭に撒いている。バンダナから覗く髪は茶色。中年の男よりも小柄だが、鍛えられた身体であることに変わりはない。こちらは、鞘に入れた剣を腰にさしている。鞘は緩やかに曲がっていた。曲刀──シミターと呼ばれる種類の剣だった。この武器もまた、〈配達竜〉に使われる事は無いだろう。
二人とも服装は守衛隊の制服で、カーキ色の上下だった。
「〈配達竜〉の旦那、毎度ながら寝相がいいものだな」
身じろぎもせずに静かに寝息を立てる竜を見たまま、中年の男。
「ちげぇねえな」
面倒そうな顔で相づちを打つ若者。
「虚しい任務だし、一緒に寝たくなってくるな。旦那が人間を襲ったりしないのは、もう分かりきっている事だ」
「ちげぇねえな」
三度、同じ相づちを打つ若者。
熟練の戦士ともなると、相手の動きや、殺気や敵意などの気配を察知する事ができる。
彼ら二人も、始めてこの任務に就いた時は、〈配達竜〉の全ての挙動、瞳の動き、話す言葉などに最大限に注意を向けて、臨戦態勢で警戒していたのだが──
竜からは、人間に対する殺意や敵意などが微塵も感じられなかった。感じたのは、ただの興味、好奇心と言ったものだけだった。ゆえに彼らは、今ではこの任務の必要性を疑っている。
不要なのではないか、と。
「しかし……一度戦ってみたいとも思わないか。こう竜を目の前にしていると」
「ちげぇねえな」
強き者は、強き者との戦いにある種の喜びと興奮を覚える。自分より強そうな者に挑戦したいという気持ちを抱く事が多い。たとえそれで敗北して死のうとも本望という人間も存在するくらいである。彼ら二人も、死んでまでとは言わないが、竜と戦ってみたいという気持ちは持っていた。
「だが、どう考えても勝てそうにないな……。人間相手とは訳が違う」
「ちげぇねえな」
「…………。少しは別の言葉も使わんと、脳が腐るぞ? 俺はもう聞き慣れているが」
竜から目を離し、若者を横目に見遣って中年の男は少し眉をひそめた。
「ちげぇねえな」
性懲りもなく、同じ相づち。
「……………………」
「……すまんね。喋るの、面倒で」
中年の男から殺気を感じた気がした若者は、さすがに謝ることにした。
「だが雑談でもしていないと、暇だろう?」
「別に」
「むう──」
それで会話は止まった。
やがて日付が変わり、一時間が過ぎた頃。
「腹がへったな」
「ちげぇねえな」
見回りで公園を回ったりして、また竜の側に戻ってきた二人。愚痴は言うが、任務を放棄したりはしない二人だった。
中年の男は、竜の傍らの籠に入ってる果物を見た。〈配達竜〉のもてなしで用意された食糧が、食べきられる事無く余っているのだった。籠の中には、よく熟れた赤いりんごが見え隠れしている。
「りんご、美味そうだな」
「ああ……〈配達竜〉に、貰ってもいいか聞いてみっか?」
若者の方も、腹がへっているせいか普通に喋り出した。
「だが旦那を起こすのは悪いだろう。今日──でなく昨日か。昨日来たばかりで疲れもあろう」
「それはそーだが……」
と、その時。二人に第三者の声が届いた。
「おまえたち」
心まで震わせるように響く声。
一瞬、何者の声かと二人は辺りをうかがったが、自分たちと竜以外に誰の気配も無い。
もう一度よく竜を見ると、竜が首をもたげて二人の方を向いていた。声の主は〈配達竜〉イムナだったのだ。目を覚ましたらしい。
「起きていたのか、〈配達竜〉の旦那」
中年の男が軽い口調で話しかける。
「我の眠りは浅いからな。意味の無い任務だと思うが、ご苦労なことだ」
無表情で、特に労う感情も見せず、竜は言った。
竜に対して二人の任務は『〈配達竜〉の護衛』として伝えられているのだが、それが単なる建前だと見抜けないイムナでは無かった。
そして守衛の二人も、とっくに見抜かれているだろうと踏んでいた。
「ああ、本当に意味の無い任務だ。だが上の人間に言っても、まともに聞いてくれないんだよな、これが」
中年の男が竜に言う。
竜は、その言葉を聞いているのかいないのか、おもむろに前足の指で、籠からりんごを一つ掴み取った。それを器用に爪で弾いて、二人の守衛の方に転がす。
芝生の上を転がったりんごが勢いよく足下に来たので、中年の男はそれを拾い上げる。若者が隣で、それを物欲しそうに見る。
「腹が減っているのだろう。食べるといい」
言いながら、続けて三個のりんごを二人に向かって転がす〈配達竜〉イムナ。
二人はそれぞれの手に一つずつりんごを取った。
「さっきの、聞かれてたのか。じゃあ、ありがたく頂いておこう。気遣いに感謝する」
中年の男は竜に軽く頭を下げる。内心では、〈配達竜〉が自分たちに気を配った事に驚いていた。〈配達竜〉が始めて町にやってきた時から数年が経っている。少し性格が変わったのだろうか。無愛想なのは変わらないようだが。
「ありがとなー、〈配達竜〉の旦那」
若者も、りんごを持つ手を挙げて言う。
だが配達竜は、再び寝息を立て始めていた。先ほど寝ていた時と全く同じ姿勢に戻っている。
「無愛想だが、いい奴だよ。旦那は」
「ちげぇねえな」
二人の守衛は、りんごを水で洗って食べようと、公園の噴水に向かった。
◆ ◆ ◆
青色と灰色が半々程度の穏やかな曇り空。少し風が強いだろうか。
〈配達竜〉イムナストージャ=ブラオーンが、ラウの町にやって来てから五日目。この日、彼はラウの町を発つことにしていた。町の人間にも既に伝えてある。
やるべきことも殆ど終わっていた。人間と町を観察し、情報を得て知識とするのが第一の目的であるが、それは町の中に居るだけでも容易にできる事。
第二にすべき事は、配達する荷物の扱いである。町に来た翌日、まず大きな革袋からラウの町宛の手紙や荷物を全て取り出し、それを町の役所管轄である便送局の人間に託した。町の中で宛先の家に送り届けるのは、彼ら人間の仕事だった。
それから、イムナが確実に立ち寄る事に決めている、次とその次の町へ届けるものを受け取る。これは依頼人から直接ではなく、町の人間たちが便送局の〈配達竜〉依頼特設窓口に預けたものをまとめて受け取った。受け取ったのは、この町で最後の日──つまり今日の朝の事だった。
いつもイムナは、次に立ち寄る予定にしている二つの町に宛てたものしか受け取らない。あまり離れた町であると、彼のきまぐれで到着が遅れたり、立ち寄るのをやめてしまう可能性もあるからである。あくまで『ついで』でやっている事なのだ。少なくとも彼自信はそう思いこんでいる。
また、荷物が増えると重くなるという事もある。屈強な力を持つ巨竜であっても、重いものを持って飛ぶと疲れることに変わりはない。
五日間ずっと居座っていた公園で荷物を受け取り終えると、イムナは町の東門へと歩いた。先導する人間は、町の最高権力者である町長と、その護衛をする男が二人。
護衛をしているのは中年の男と若い男の二人組で、夜の公園でずっと彼の監視をしていた馴染みの彼らだった。
町長は背の低い初老の男。黒髪より白髪が目立ってはいるが、壮年の人間に負けない生気を持っているように見える。背も曲がっていない。銀縁の眼鏡ごしに見える目はやけに細い。始終笑顔を作っている今では、目を開いているのか閉じているかさえ、よくわからない。
左右や後ろからは野次馬が付いてきているが、この町に到着した日から昨日までと比べると、それほど多くない。よく見回すと主婦らしき中年女性の割合が多い。時間が平日の昼前という事と、イムナがこの町に来て五日目であることが主な理由だろう。
人間の歩調に合わせて歩きながら、イムナは饒舌な町長の雑談に付き合っていた。町長は最初は先導していたが、話しやすいようにイムナの横に並んで歩いていた。町長の頭の上には、ちょうどイムナの折りたたまれた片翼があった。
「以前にも提案させて頂きましたが、旅に飽きた暁には、この町の南西にある丘などに定住されてはいかがでしょうか。町の者たちも歓迎いたしますし、ご存じの通り、あの丘は多種多様な花が咲く美しい場所。食糧となる草食動物も狩れますし、果物も野生で実ってますよ」
町長は、純粋に好意から言っているように見えるが、好意に加えて打算も含まれているだろう事が、イムナには予想できた。
「気持ちだけ貰っておく。我はまだ、旅をやめる気は無い。そして落ち着く場所を決めるまでは、まだ時間があるからな」
「そうですか。まあ、このラウの町がイムナ殿を歓迎するということを覚えておいてくださればと思います。記憶の片隅にでも」
「ふむ。それよりも、この町で食べたりんごが美味かった事が記憶に残りそうだが」
軽い冗談で、話の方向を変える。人間独特の、話題の拒否・拒絶をさりげなく伝える話術だった。長い間人間の町を巡っているイムナは、人間の話し方というのも少しわかってきていた。
町長が竜であるイムナを歓迎する理由は主に二つだろう。一つは、観光による収益の向上。人間に好意的な竜があの丘に住むとなると、竜を見ようとして観光に来るものが増えるはずだ。花だけでは、春から夏しか観光で賑わうことがない。だが、竜が一年中いるならば、観光の収益も安定すると考えられる。身も蓋もない言い方をすれば『見せ物』としての効果。
もう一つは、はったりだ。いざという時、町の側に竜が居るということは『竜が守る町』として効果を発揮する。町が何者かに攻め込まれようとする時、竜の存在が大きいと町長は考えるだろう。町の平和をずっと守り続けたいと願う、町長らしい町長であるならば。
(単独の竜の力など、人間の軍隊の前ではたいして驚異にならんだろうがな……)
イムナは事実としてそれを認めていた。謙遜でも自虐でもない。人間が扱う武器は、文明が発達する度に、強力なものになってきている。最近見られるものでは、火薬の力で巨大な鉛玉や火薬玉を発射する大砲などがある。あれが直撃すれば竜族でも受けるダメージは大きいだろう。
「りんごですか。実を言いますと、他の町からきた旅人──ああ、人間のですよ。旅人からは、この町のりんごはあまり美味しくないと言われてしまっているんですがね。人間と竜殿では、味の好みが違うのでしょうか」
そう言って、町長は微笑した。もう〈配達竜〉のイムナが来るのは九回目であり、警戒心は殆どないようだ。この褐色の巨竜に、ある程度の冗談が通じるのも解っていた。
「我の味覚が特別なのかもしれん。多くの竜を一所に集めて食わせて感想を聞けば、答えは得られるだろうな」
「ははは、それは難しいでしょうなあ。竜殿は一人で生きる者が殆どと聞きますし、その上、こうして人間の町を紳士的に訪問してくださる竜殿は、イムナ殿以外に全く存じ上げませんよ。人間の町を滅ぼしたという恐ろしい竜殿の事なら聞いたことがありますが、そんな竜殿がやってきたら、りんごを食べてもらう前に、わたしが食べられてしまうことでしょう」
面白い言い回しだった。イムナもそんな町長と話すのにやぶさかではない。政治を行う人間は、言葉を巧みに使う技術に長けている必要があるらしい。時には、詭弁をも活用すると聞いたことがある。
「ふむ……人間の町を訪れる竜族は、我も他に聞かない。今町長殿が言った、人間を好んで食らう竜というのは、人間でいうと異常者や異端者と言える存在だ。珍しい生き物の肉を欲する人間や、普通は肉として食べない生き物の肉を愛好する人間、のようなものだと思う」
「なるほどなるほど。わかりやすい例えです。逆に人間の中にも、竜殿の血を飲み肉を食べると、竜殿のごとき力を得られるという迷信を信じている者がいますね。わたしはそんな迷信は馬鹿げているとしか思えませんけれどね。イムナ殿もそう思いませんか?」
「馬鹿げている。だが、我もそのような人間に食われぬよう、気をつけなくてはな」
イムナが今日の会話で始めて、口を歪めて微笑した。半分以上は冗談だが、人間に殺されて食われる可能性が全く無いとも言い切れない。竜は獣の王などとも呼ばれるほど強大だが、不死身の生き物ではない。それは他の生き物たちに同じ。
「はっはっは。そういう輩の目には、イムナ殿の鱗がチョコレートのように美味しそうに写るかもしれませんな。っと、ご無礼な冗談に聞こえたなら申し訳ないですが。そんな人間に出くわしたらなら、イムナ殿の力を存分に味わってもらえばよい事でしょう」
「チョコレート、とは……?」
イムナが始めて聞く単語だった。恐らく人間の食べ物であろうが、どんなものなのか全くわからない。
「存じませんでしたか。チョコレートというのは──む、もう東門に着きますね。話していると早いものです」
「そうだな。改めて礼を言っておく。五日間、世話になった」
「いえいえ、たいしたおもてなしもできず」
そして、〈配達竜〉と町長たちの一行は、大きい石造りの東門から町の外まで出て行った。町の外まで付いてくる見物人はいなかった。東門のところで、数人の人間が、〈配達竜〉に別れの言葉を投げるのみだ。
「預かったものは、必ずツッカの町とテスティルンの町に届けよう」
首から胸元に下げた大きい革袋に片方の手を添えて、イムナは言った。
「よろしくおねがいします。それでは──」
町長も笑顔で頭を下げる。そして別れの言葉をかけようとしたとき、東門から一人の少女が駆けてきた。大きめの木箱を載せた荷台を押している。
「〈配達竜〉さん、お待ち下さい!」
イムナも、その人間の少女に注目する。頭部からは美しい金色の髪が緩やかに流れ落ちており、肌は白く澄んでいる。背丈からすると、大人になる途中段階にいる子供といったところか。くっきりとした少女の瞳は、やや恐怖も混じっているが、イムナの黄金の瞳をしっかりと捉えている。
「我に何か用か」
イムナが問う。用件は、少女が押している荷台を見れば予想はついたのだが。
少女が返事をする前に、町長が少女をまじまじと見ながら口を開く。
「おやおや? あなたは確か、サンディット君のところの──」
「はい。こんにちは、ラウナー町長。ソフィニアと申します。父のギム=サンディットはお役所で働いております」
名乗ったソフィニアは丁寧にお辞儀をした。当然ながら、この辺りの礼儀作法はしっかりと身につけている。
「やはりそうでしたか。して、ソフィニアさんは、イムナ殿に?」
と、町長はソフィニアの荷台に載っている木箱を指し示す。
「はい、こんな時になって申し訳ないのですが」
〈配達竜〉に向き直る。
「イムナストージャ様に、どうかこの荷物をツッカまで届けていただきたく思います」
少女は愛想良く微笑んではいるが、毅然とした態度でイムナの顔を見上げてきた。その表情には、強い意志と決意が見え隠れしているように思える。
「イムナでいい。様もいらん。今回、この町で受け取った荷物は少なかった。それくらいなら加えても構わん──が、なかなか大きい荷物だな」
イムナは荷台の上にある木箱を見る。荷台で押してきたということは、彼女が抱えて運ぶには重すぎる重量があるのだろう。
だが次の瞬間、イムナはその木箱に視線をとめたまま密かに驚いていた。竜の嗅覚は鋭い。彼が嗅覚に集中すると、臭いで木箱の『中身』がわかったのだ。
「はい。多少、重いかも知れません。中には沢山の書物が入っております。ツッカの町の孤児院に寄付するものです」
少女はごく自然に喋っていた。町長は、その言葉を聞いて頷いていた。
「ほほう。そういえば、以前にはソフィニアさんの父上も、この町の孤児院に寄付金を贈ってくださいましたな。ツッカの町とは交易以外でももっと親密な関係を築いていきたいと思ってますから、寄付は良い切っ掛けになってくれるかもしれません」
町長の気をよくした様子に、ソフィニアも同意して「はい」と笑顔で頷き返す。
「ふむ……」
イムナは、木箱の中身についてのソフィニアの言葉が嘘だとわかっていたが、それを問い正すべきか躊躇した。なぜそんなものが木箱に入っているのか、その理由がわからない。彼女が嘘を言ったのは、中身がばれたらまずいからに違いないだろう。
ソフィニアと名乗った少女は笑顔だが、瞳は真剣そのもので、強い意志がこもっているように見える。
「イムナさん、どうかツッカまで無事に、この荷物をよろしくお願いします」
ソフィニアは深く頭を下げる。イムナが嘘に気づいているとは、思ってもみないだろう。
イムナはとりあえずこの『中身』の理由が知りたく思い、遠回しに聞き出そうとした。
「ソフィニアとやら。この荷物の『書物』に、手違いはないのだな?」
イムナから畏怖を感じさせる竜の声で質問され、ソフィニアは一瞬たじろいでいた。竜にばれたかと不安になったのかもしれない。
「はい、何度も確認いたしましたから、手違いはございません」
それでも笑顔で、毅然としてイムナの黄金の瞳を見てくる。
「そうか。ならばもう一つ聞かせてもらいたいのだが──その書物は、ツッカの孤児院に届けられる事を、自ら望んでいると思うか?」
「……!」
奇妙な質問。
町長や二人の守衛はそう思っただろう。書物を擬人的に扱った質問である。
この質問で少女は、中身がばれていることをほぼ確信しただろう。ソフィニアという名の少女の表情が一瞬こわばったのを、イムナは見逃さなかった。
「はい、望んでいると思います。わたしがこうして届けようとしなくても、自分で飛んでいってしまうくらいに。そして、それがこの書物にとっても幸せなことのはずです」
迷いの無い答えだった。その返答を受け、イムナはこの奇妙な荷物を届けてやることにした。
「わかった。必ず無事に届けよう」
人間のように頷く仕草をしたイムナは、両前足で木箱を荷台からそっとつかみ上げると、胸元にある大きい革袋に入れた。
その動作の一部始終を、ソフィニアが真剣に見ていた。それは中に入っているものを心配するゆえだったのだろう。
「では、失礼するとしよう」
イムナはその場にいる人間たちを見回しながら言った。
「是非またお越し下さい。道中お気を付けて。イムナ殿が気をつける事など、あまり無いかもしれませんがね」
と町長。
「また会おう」
と中年の守衛。
「またな」
と若い守衛。
「さようなら。いつかまた……」
とソフィニア。ソフィニアの言葉は、〈配達竜〉にかけたものだったのか、それとも、荷物の『中身』にかけたものだったのか。
「うむ。では行くとにしよう」
イムナは人間たちに背を向けると、ツッカに伸びる街道の脇まで歩いていった。
リオラ=フォーリーブは、窮屈で暗い密閉空間の中にいた。両膝を立てて、膝に頭をつけて座っている姿勢で。
ソフィニアの別れの言葉を聞いた時は、思わず声を出して返事をしてしまいそうになったが、なんとか堪えた。〈配達竜〉にではなく、自分に対しての言葉だと思ったのだ。
町や友達との別れは悲しいことのはずなのだが、今はこの特殊な状況による緊張が勝っている。
竜が歩く度に、木箱は上下に揺れた。そして竜が立ち止まったのか、揺れがおさまる。いよいよ飛び立つのだろう。
リオラはその瞬間の衝撃に備えて、歯を食いしばる。
すぐに、自分の身体が重くなったような、下に引っ張られるような強い衝撃が襲ってきた。それからは交互に、身体が軽くなったような浮遊感も襲ってくる。その気持ち悪い感覚になんとか耐える。
〈配達竜〉が跳躍し、翼を激しく打ち付けて高度を上げていっているのだろう、とリオラにもわかった。
数分後には、竜が滑空に移ったらしく、揺れや衝撃は少なくなった。
(うっへぇ……。今のは正直かなりきつかったな。あんなのが続いてたら吐いてたかも。たぶんもう空の上にいるんだろうけど……外が見えないとよくわからないなあ~)
暗く狭い木箱の中では、空を飛んでいるという実感がわかない。リオラは外に出て大地を見下ろしたいという衝動に駆られた。
(〈配達竜〉には、もうばれてるのかな? ソフィニアと話してた内容が、かなり怪しいんだけど。でも気づかれてないかもしれないし、まだ自分から出ていくのはやめとこっかな……)
悩んだが、まだこの中に身を潜めていることにしたリオラ。
「……」
「…………」
「………………」
ずっと飛んでいるだけで、何事も無い。〈配達竜〉も無言。リオラに話しかけてくることもない。
リオラはいつのまにか緊張感を無くし、眠っていた。こんな状況下で木箱の中で眠れる度胸は、彼女ならではだ。
イムナは気持ちよく飛んでいる間、ずっと木箱の中身の事を考えていた。
中身は人間だ。間違いなく人間の臭いがする。あの木箱の中に入るくらいなら、子供だろう。
木箱から人間が出てくる様子は無い。声が漏れてくることも無かった。
だが生きた人間が入っているという確信はある。人間の死体が入っているのなら、死臭でわかるからだ。
(生きた人間を運ぶのは始めてだな。さて、どうするべきか……。『ばれているから出てこい』とでも言うべきか)
狭い木箱の中に長時間隠れ続けるのは、苦しい事だと思う。もしかすると、そう言ってやるほうが中の人間のためかもしれない。
先ほどのソフィニアという少女は、人間たちに中身がばれないようにしたかったのだろう。そして、イムナにばれるのは問題が無かったようだ。
あの少女は、恐らくイムナにばれた事を悟っていたにもかかわらず、無事に届けてくれさえすればいいという内容の返事をしてきたのだから。
そのやりとりは、箱の中の人間も聞いていたはずなのだ。それでも、ずっと隠れ続けている。
ここにはイムナ以外に何者もいない。空の中を飛翔している今、側に来る者がいたとしても鳥くらいだ。中の人間が、出てきても問題無いと判断してもよさそうなのだが──
(ふむ……。本当に辛くなったら、自ら出てくるだろう。どれだけ根気があるのか、様子を見てみるとするか)
イムナはそう決めると黙したまま、冷たい風を受けて飛翔を続けた。
真昼の太陽が、雲の隙間から何度も出入りを繰り返していた。
飛翔する竜の背中側にある褐色の鱗は、それに呼応するかのように、光を反射して輝いたり、輝きを失ったりを繰り返す。