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9月(1)

 熱気が、会場の隅々まで満ちていた。


『ジャパンフェス』の最終日。屋内外のブースには多くの来場者が押し寄せ、アーティストのライブやトークセッションも軒並み満員。

  イベント終了を告げる大きな花火が上がるのを、幸治と那波は本部テントの端で眺めていた。


「……よかった、無事に終わって」

 そう言って幸治が小さく息を吐くと、那波はいつものきっちりとした口調で応じた。


「課長のおかげです。ほんとうにお疲れさまでした」

「天野さんもだよ。ほんとにありがとね。」

 そう言って軽く笑う幸治の顔に、ふと、那波も笑みを浮かべる。

 その表情は配属された春先よりもずっと柔らかく、無防備だった。



 夜、実行委員会主催の打ち上げ。

 地方都市のホテルにほど近い大型レストランでは、音楽関係者、文化人、行政担当者、スポンサー企業の関係者が集まり、乾杯の声が響いていた。

 日出新聞社の代表として幸治と那波も、あちこちに挨拶して回る。

 慣れない酒席で那波は、だんだんと足元が覚束なくなっていた。


「天野さん、大丈夫?」

 幸治がさりげなく声をかけると、那波は少し驚いたように笑った。

「……すみません、お酒、あまり強くなくて……でも、大丈夫です」

「いや、もういいんじゃない?ホテル戻ろっか」


 幸治は実行委員会の委員長にさっと挨拶して自然な動きで出口へ向かった。

 会場の外は一気に静まり返っていた。

 夏の名残を感じさせる生ぬるい夜風が肌を撫でた。ふたりはホテルへの道をゆっくりと歩き始める。


「すみません、課長。ご迷惑をおかけして…」

 那波の声は、どこかふわりとしていて、普段の堅さが抜け落ちていた。

 足取りもややふらついていて、幸治は那波の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩いていた。


「いや、俺のほうこそごめんね。もっと早く気づかなきゃいけなかったのに」

「いえ、そんなこと…」

 お酒で火照った那波の頬を夜風が撫でる。


「でも…抜けてきちゃって大丈夫だったんでしょうか。ほんとに申し訳ないです」

「ああ、全然気にしないで。実行委員会の人たち半分くらいはもう帰ってたから。むしろ俺らはかなり残ってたほうだよ」

「そうだったんですか」

「今の若い人はああいう席って苦手だろうのに。よく……」


 幸治は逡巡したように一瞬ふっと息をつく。

「よく、頑張ったね。天野さん」


 その言葉が、那波の頬を別の意味で火照らせた。

 酔いは覚めてきたのに心臓は早く打ち、足元はふわふわとしていた。


 ホテルまであと少しというところで、ふいに幸治は袖を軽く掴まれて驚いたように振り返る。

 月明かりの下、うつむいた那波の表情は、幼さと決意が入り混じったように見えた。


「……芦田課長」

「うん?」

「私、課長のことが好きです」


 幸治はその言葉に、一瞬足元を失ったような感覚を覚えた。


 わかっている。彼女はかなり酔っている。きっと明日になったら忘れている。

 でも、明らかに、今目の前にいる彼女の瞳は真っ直ぐで、嘘がなかった。


(だめだ。ここで応えてはいけない)

 そんな声が心の奥で響いた。


「……そっか」


 応えたらいけない。それはわかっている。わかっているのに。


 那波の言葉に、すがってしまう。


 幸治はふと手を伸ばし、那波の手をそっと握った。

 小さな手が、自分の指をぎゅっと握り返してくる。

 那波は何も言わず幸治の肩にそっと体を寄せた。

 幸治はそのまま、ゆっくりと歩きだす。

 二人とも無言だった。



 ――翌朝。

 ホテルの部屋で目覚めた那波は、昨夜の記憶を少しずつ手繰り寄せていた。


 あのとき、酔いはとっくに覚めていた。自分が何を言ったか、何があったかは、ありありと覚えている。


(……終わった)

 顔から火が出そうだった。枕に顔を押し付けて、必死に昨日の自分を否定しようとする。


 一方、幸治はロビー階のカフェでコーヒーを啜っていた。

 うっすらと目の下に疲れがにじんでいる。


(……やってしまった)

 イベントが成功したという解放感はあった。地方出張という非日常感もあった。でもそんなことは理由にはならない。きっと昨日の舞台がいつもの東京であっても結果は同じだっただろう。


 ただ、那波のまっすぐな「好き」がひたすらに嬉しかった。それだけだ。

 厳重に閉まってどこかへやったはずの、あの感情の蓋をまた開けてしまうほどに。


 でも……。


 15歳も年下で、部下で、しかも、記者に戻るための勉強をしながら今の仕事も全力で頑張っている彼女に、自分は必要ないだろう。


(昨日の夜は、何もなかった)


 天野さんと顔を合わせるまでに、忘れよう。昨日は何もなかった。

 そう自分に信じ込ませようとするたび、彼女の手の感触がよみがえってくる。


「おはようございます」

 那波が荷物を持ってロビーにやってきた。


「おはよ、早いね。まだ出発まで時間あるのに。あ、でも溝口くんにもお土産買っていきたいから少し早めにチェックアウトしようか。駅にけっこうお土産あったよね」

 幸治はにこやかに話しだすと、那波は「そうですね」と軽く相槌を打つ。


(よかった、天野さんいつも通りだ)


「私もお土産見ていきたいのでそうしましょう。もう出発しますか?それならチェックアウトの手続きとってきますね」

 那波はいつものように表情を変えずにフロントに向かう。幸治は「ああ、俺も一緒に行くよ」と荷物を持って立ち上がる。


(よかった…課長いつも通りだ)


「宿泊ありの出張だからね、領収書ちゃんとチェックしておかないとね。あとで経理からいろいろ言われちゃう」

「そうですね、私も入社したての頃はいろいろ失敗しました」

「ああ、そうだよ天野さん生活部だったんだもんね。出張ばっかりだったでしょ」

「まあ、他の部に比べればそこまでですけど」


 幸治も那波もよく話した。昨日の夜のことはお互い一切触れず、本音という小さなビー玉を必死で隠すように言葉を重ねた。


 お互いの触れた手、生ぬるい夜風、「好きです」という言葉、それらがフラッシュバックしながら、二人は東京に着くまでなんでもない言葉をただ紡いでいた。


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