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8月(2)

 土曜の午後、真夏の太陽は雑踏のアスファルトを惜しげもなく照らしていた。


 道端で動画を撮っている外国人、大型モニターから流れているCM、トラックから発せられる騒々しい音。

 渋谷はいつだって、雑多な街だ。


 改札口を抜けた那波は、思わず足を止めて人の波を見回した。

 渋谷に来るのは、実は初めてだった。都内に住んでいるとはいえ、普段の行動範囲は会社と自宅と最寄りのスーパーくらい。休日に若者の街を歩くことなどなかった。


「天野さん」

 振り向くと、ラフなシャツを羽織った幸治が笑っていた。

 会社で見る白ワイシャツ姿とは違って、シックな色でまとめられたコーディネートは雑誌にスナップを撮られてもおかしくないほどのセンスが感じられた。だが幸治自身は変わらず、飄々とした緩さをまとっている。


「お待たせしてすみません。道に迷ってしまって」

「迷うよねーだって渋谷はダンジョンだもん」

「ダンジョン…」


 思わず苦笑してしまった自分に、那波は少し驚いていた。

 この街の雑踏が、自分を少しずつやわらかくしている。そんな気がしていた。


「しかし今日も暑いねー。ライブまで少し時間あるから、どっかで涼みがてらお茶でもする?」

 幸治の提案で、ふたりは駅から少し離れた路地裏のカフェに入った。

 人通りの多いエリアから外れたその店は、観葉植物に囲まれた静かな空間で、冷房の涼しさがちょうどよかった。


 二人が対面で座るテーブル。

 アイスコーヒーとハーブティーを前に、微妙な沈黙が流れる。


 ――これは、デート……なのだろうか。


 那波はそんな考えを打ち消そうと、コースターの縁を指でなぞる。

「こういうとこに来るの、初めてです」

「そうなんだ、渋谷もあまり来ない?」

「休日に誰かと出かけることもないので」

「わかるよ、俺も引きこもりだから」

 幸治は笑って、グラスの水滴を指で拭った。


「じゃあよかったね、今日は。たまたま出かける機会があって。まあその相手が俺ってのは…申し訳ないけど」

「いえ…でも、まあ…そうですね。たまたま外に出る機会があってよかったです」


 不自然に差し込まれる「たまたま」の一言がお互い、どこか胸の奥にひっかかる。


 幸治は、テーブル越しに那波を見た。

 日差しを受けた横顔は真面目で、いつも通りの冷静さがあった。

 しかし、そのまじめさの奥になにかほんのわずかな期待があるように、幸治には思えてしまった。


 そんな視線を読み取ったかのように、那波がふいに目を伏せる。

 グラスの中の氷が静かに揺れた。



 ホールに着くと、もうすでに熱気が漂っていた。


「うわー……一階席は満席ですね」

 関係者席のある二階の座席に座り、那波は一階を見下ろしていた。


 若いカップルや音楽ライターを気取っているだけなのか本職なのかよくわからないいでたちの大人たち、学生など多様な客層でホールは埋め尽くされていた。

   

「天野さん、一階のほうがよかった?」

「あ…いえ、いただいたチケットですから」

「でもこの様子じゃチケット取るのも大変そうだよね。もらえてよかった」

 幸治はほほ笑みながらワンドリンクのコーヒーに口をつけた。


 やがて照明が落ち、ドラムのリズムが空気を通して体を揺らした。


 イントロが鳴った瞬間、那波の表情が変わった。

 どこか堅さを残していたその表情が、ふっと緩み、瞳が輝きを帯びる。

 那波はリズムに合わせて控え目に体を揺らし、唇が自然と歌詞をなぞっている。


  ――こんな表情を、初めて見た。


 幸治は、思わず那波に見とれていた。


 心の奥からこみ上げて、抑えようとしても止まらないその感情の名前を幸治は知っている。

 そして、それはもう自分にとってずっと前に忘れたものであることも。


   

 終演後、ネモフィラの曲のインストが静かに流れる中、観客たちが次々とホールをあとにしていく。

 那波はまだ、余韻のなかでまっすぐ前を見ていた。

 幸治は、その横顔をただ見つめていた。


 渋谷の街は、夜になっても熱を帯びていた。

 ホールを出た観客たちが、少し汗ばんだ顔で笑いながら駅へと向かっていく。

 那波もその一人だった。けれど少しだけ、他の誰よりも楽しげだった。


「……すごい楽しかったですね」

 歩きながら、那波は幸せそうだった。

 感情を強く表に出さない彼女にしては、めずらしく声が弾んでいた。


「誰かのライブに行くのも初めてだったんです。初めてのライブがネモフィラでほんとよかった」

 そう言って、目を輝かせながら幸治を見る。

 街灯が反射する瞳の中に、まだステージの光が残っているようだった。


「それに、曲もすごいよかった。アニバーサリーもやってくれたしほんとなんて言うか……すごいよかった」

 那波はそう言うとふっと息をついた。


「……なんか、さっきからすごいよかったしか言ってないですね私。言葉を扱う仕事なのに全然言葉にできない…」

「そういうものじゃない?ほら、オタクって語彙力喪失するじゃん」


 幸治は笑いながら、赤信号で足を止めた。

 その緩やかな口調に、那波もつられるように少し笑みをこぼした。


「でも……楽しかったです。ほんとうに」

「そっか。よかった、一緒に来てくれて」

「……ありがとうございました」


 信号が青に変わる。ふと沈黙が落ちる。

 無言のまま横断歩道を渡るその短い時間にも、二人の心の奥で何かがくすぐったく揺れていた。


 やがて、駅前のスクランブル交差点を渡り切ったとき、那波がふいに口を開いた。


「……あの、私、今日ちょっと騒ぎすぎてましたよね?」

「え?そんなことないんじゃない?」

「いえ…今思ったんです。さっきもずっと私だけしゃべってて……お見苦しいところをすみません…」

 那波は恥ずかしそうにうつむいた。


「そんなことないって。むしろ新鮮だったよ。天野さんいつもぴしっとしてて隙がないでしょ?だから今日みたいに、楽しいって全身から伝わるの見られて俺も楽しかったよ」

「それって…やっぱり騒ぎすぎてたってことですよね…」

「騒いではないでしょ。楽しい時に楽しいって言えるのいいことじゃん。天野さんが楽しんでくれてほんとよかった」


 その一言に那波は頬に再び熱を感じて、ごまかすように髪を耳にかけた。

「……今日は、たまたま、ですから」

「そうだね。お互いにたまたま、ライブに行く機会があったからね」

「はい。偶然、です」


 本心を隠すように二人は、たまたま、を繰り返した。

   


 真夏の陽射しがガラス越しに差し込む午後。

 イベント推進課では、『ジャパンフェス』に向けた準備が、着々と進められていた。


 幸治はパソコンの画面越しにスポンサーの最終チェックをしながら、脇に置いたアイスコーヒーに口をつける。

 冷えた液体が喉を通る感覚に、ささやかな気分転換を得るのも、こう暑い日には貴重だった。


「課長」

 斜め前から聞こえてきたのは、溝口の声だった。

 那波が資料を印刷しに席を外したタイミングだった。


「……最近、天野さん、なんか変わりましたよね」

 幸治は画面から目を離さずに「え、そう?」と返す。


「なんていうかな……やわらかくなったっていうか。前はもっと、こう…びしっ!だめなものはだめ!…みたいな感じで近寄りがたかったけど。最近、ちょっとだけ話しやすいっていうか」

「そりゃあ、うちに来たら誰だってそうなるでしょ。溝口くんだって配属されたときは、びしっ!課長メール読んでください!何回言ったらわかるんですか!って感じだったよ」

「えーそんなでしたっけ…いやでも天野さんは絶対変わったと思う」

「それはね、仕事内容も変わったしね」

「いや…そういうんじゃないんだよな…」


 そう言うと、溝口はちらっと部屋の入口を確かめつつ声をわずかにひそめた。


「……課長のこと好きなんじゃないかな、天野さん」


「はあ?もう…だめだめ。そんなこと天野さんに聞かれたらセクハラになっちゃうよ?」


 幸治は軽く笑い、書類に目を戻す。

 飄々とした態度はいつも通り。けれど、その指先はわずかに止まっていた。

 まるで、予期せぬところを突かれたかのように。


「いやそうかもですけど……でも、天野さん、課長が席外すじゃないですか。そしたら課長の背中ずっと目で追ってるし、なんか恋する目?みたいなそんな感じでぼんやりしてるし…かと思えば急に頭ぶんぶん振って頬バチーン!ってしてパソコンかたかたし始めて…あれはやっぱり恋してるんじゃないかな…」


(それは…もしほんとうだったら挙動不審すぎるだろ)

 幸治は那波のその様子を想像して思わず笑みがこぼれてしまった。


(課長のこと好きなんじゃないかな、天野さん)

 溝口のその言葉がもう一度頭の中で再生される。


 そうかもしれない――いや、そう言われれば思い当たるような節はある。

 もしそうだとしたら俺は……


 思考の先にある言葉を、幸治は喉の奥で飲み込んだ。


 俺は、もう恋を忘れた。心の奥にしまいこんでもう取り出すことのない感情。

 深入りしてはいけない。それは、彼女のためにも。そう思っている。


「それは……きっと推しがいるんだろうね、天野さん」

 幸治はひとつの書類に押印して、そう締めくくった。



 一方そのころ、那波は社内のプリンターの前に立っていた。

 資料の束がカタカタと音を立てて印刷されていく。

 手元を見つめながら、意識は渋谷の街を二人で歩いたあの夜に飛んでいた。


(よかった、一緒に来てくれて)

 そう言ってほほえんだ幸治の横顔。


 ネモフィラのあのライブが、私は確かに楽しかった。

 でもそれは音楽に対してだけではない。

 あの人と一緒にいた時間が、心から楽しかった。


(……でも)


 那波は自らの頬に、ふっと手を添えた。

 ほんのりと熱がこもっているのを感じて、思わず目を伏せる。


 恋など、自分には不要なものだと思っていた。現に今までそんな感情は知らなかった。

 勉強も仕事も、努力こそが自分を証明する道だと信じて疑わなかった。

 だからこそ、今でも残業をして仕事の資料を読みこみ、毎晩遅くまで記者としての勉強を続けている。

 自炊をし、体調管理を怠らず、生活を律する。それが最善で正しい生き方なのは疑いようもない事実だ。


 けれど、心が揺れている。

 目で追ってしまう。

 話しかけられると、嬉しくて、困って、また自分に腹が立つ。


(……私は何をしてるんだろう)


 印刷を終えた資料を抱えながら、那波は自席へと戻った。


「ただいま戻りました」

 何もなかったように、整った口調で告げる。


 幸治は軽く顔を上げ、「おかえりなさい」と、いつも通りの笑みを浮かべた。

 その笑顔に、胸の奥がまた少し、熱を帯びる。

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