8月(1)
東京の空が、ようやく本格的な夏を迎えたある日――。
蝉の声を背中に受けながら、幸治と那波は新幹線を降り、地方都市の駅前に降り立った。
目的は、来月に開催予定の『ジャパンフェス』の打合せだ。前回は日出新聞社で顔合わせを行ったが今回は幸治たちが実行委員会側へ赴き打合せを行うこととなった。
炎天下のアスファルトがゆらめき、遠くで車のクラクションが鳴る。
出張に来たというのに、幸治はどこかリゾート気分を感じさせるゆるい表情で、スマートフォンを取り出し景色を撮影していた。
「うわーすごい。俺この課に来て初の地方出張だよ。さすが国を挙げての音楽フェス、やることがでかいわ」
新幹線で爆睡していて体がなまったのか思いっきり伸びをしながら幸治があたりを見回す。
「しかし……東京も暑いけどここも暑いね。天野さんも暑さ対策ちゃんとしてね。もう、新幹線の中でも仕事してるんだもん、そんなんじゃ倒れるよ?」
「私は大丈夫です。前日ちゃんと寝てきましたんで」
「えー俺もちゃんと昨日寝たんだけどな」
幸治との軽い雑談につい口元が緩む。
きっちりしたスーツ姿の那波は、少しだけ日焼けしていた。イベント推進課に異動してから、あちこちの現場に立ち会うことも多くなったせいだろう。場数をこなしてきたからか以前よりも表情に余裕が出てきたようにも見える。
実行委員会の集まりは、地方の文化会館で行われていた。
地元自治体、広告代理店、観光協会、スポンサー企業、音楽イベント会社など多彩な面々が一堂に会するその様子は圧巻だった。
新聞社の立場として、幸治は会の冒頭に簡潔な自己紹介をし、手際よく場の空気をつかんでいく。
那波はというと、議事録の作成のためのメモをとったりスケジュールの確認をしたりと忙しく動き回っていた。
「天野さん、これ今回のスポンサー一覧ね。挨拶回りしながらどこから誰が来てるか確認してくれる?」
「了解です」
迷いのない声で返す那波に、幸治はほほえんで小さく頷く。
以前なら肩に力が入りすぎていた彼女が、最近は肩の力を抜いて人と話せるようになってきた。
打合せは滞りなく終了し、各地からやってきた企業担当者は三々五々解散していく。
そんな中、幸治たちのもとに音楽イベント会社の担当者がやってきた。
「日出新聞の方ですよね。私、ミルヒライムというインディーズレーベルの者なんですが。日出新聞さんには先日うちのネモフィラというバンドを御社の夕刊で取り上げていただきまして。ほんとうにありがとうございました」
そう言いながら担当者は名刺を幸治と那波に手渡す。すかさず二人も名刺を交換した。
「日出新聞さんの、あの『エンタメサンライズ』でネモフィラのライブを取材していただきまして。おかげさまで良いプロモーションができました。それで今回のフェスにもネモフィラの出演が決まりましてほんとうに感謝しています」
「そうだったんですか。エンタメサンライズはうちの芸能部の記者がやっていますんで、芸能部にも申し伝えさせていただきますね」
担当者の熱い語りにも幸治はにこやかに対応する。こういった対応のうまさを見ると幸治もまたプロだなと、横で聞いている那波は実感していた。
「それで、お礼と申しては差し出がましいんですが…今度の週末、渋谷でネモフィラがライブをするんですよ。もしよろしければこちらの関係者席のチケットをお渡しさせていただきたくて」
「ああ…申し訳ございません。私どもは日出新聞といってもイベント担当の部署なので紙面の構成などには関われなくて…」
幸治がやんわりと断ろうとすると担当者は大きく首を振った。
「あ!いえいえそういうわけではないんです。私どもも取材をしていただきたいというわけではなくて。ただ、お恥ずかしい話なんですが関係者席のチケットが余っていまして。プライベートということでぜひ…いかがでしょう?」
「プライベート、ですか…」
ちらりと視線を横に向けた。那波が、少しきょとんとした顔で幸治を見ていた。
――プライベートは…余計意識するんじゃないか?
幸治はひとつだけ息を吸い込み、何気ない口調で言った。
「天野さん、どうする?」
「そうですね…課長のご判断にお任せします」
そう言いながらも那波の視線はチケットをとらえて動かなかった。
「そっか。じゃあ…行こうか。あんまりない機会だし」
言葉にすると、思った以上に自然だった。
たとえば外回り中に昼食に誘うみたいな、そんな軽さだった。
けれど、その言葉が胸の奥に何かを灯したのは、幸治自身が一番よくわかっていた。
那波もまた、驚いたような、それでいてどこか嬉しそうなほほえみを浮かべた。
その笑顔が胸に残って、幸治は無意識に視線を逸らした。
帰りの新幹線。
窓の外には夕暮れの空と、広がる緑の田んぼ。少しだけ色あせた空の下で、二人は隣同士に座っていた。
幸治は文庫本をめくり、那波はタブレットで今日の打合せ概要を作っている。会話はないがその沈黙はどこか居心地がよかった。
「あ、課長。そろそろ横浜ですよ」
那波が窓の外に目をやると紺色の空に横浜のネオンがきらきらと揺れていた。
「ほんとだ、横浜までくると一気に東京に戻ってきた感じするよね」
幸治も窓の外を眺める。同じ景色を見る二人の距離は少し近くなっていた。