7月(2)
あの雨の夜から数日経っても、那波はアパートの部屋でノートパソコンを開いたまま、カップに入れたハーブティーの湯気をぼんやり眺めてしまっていた。
雨の日、幸治の車で聴いたネモフィラ、「お疲れさま」という声、それらはすべて夢だったかのように翌日もその次の日も幸治は何もなかったように飄々と仕事をしていた。
那波も以前と変わらず、黙々と仕事をした。定時後も資料を読みこみ、傍らで記事を書く練習もした。それは新聞記者になってから今まで、ずっと変わらない習慣のはずだった。
けれど最近、集中しようとすればするほど、思考の隙間に誰かの姿が入り込む。
適当に軽口を叩き、何を考えているのかわからないくせに、誰よりも人を見ていて、さりげない優しさを投げてくる人。
あの雨の夜、穏やかにハンドルを握るその横顔を思い出してぼんやりしては、はっと我に返る。
那波は頭を振り、すぐに資料へと視線を戻した。
記者に戻る。人を動かす記事を書く。それが自分の目標だったはずだ。
恋だのなんだの、いまは関係ない。そんなことに気を取られていては、いつまで経っても私は前に進めない。
画面に並んでいる文章の跡を読み返してタイピングを再開する。
けれど、ふとした拍子にカーソルが止まる。
気づけば、脳裏にはあの人の声。
(まじで?俺も好きだよ)
――不意打ちだ。
いつだって、不意にやってくる。
那波は、唇を少しだけ噛んだ。
気づかないふりをしていれば、きっとこの気持ちは静かに消えていく。
そう思いながら、それができない自分を、まだ完全には受け入れられていなかった。