7月(1)
イベント推進課ではその日、新しいプロジェクトの打合せが始まっていた。
国の関係省庁の主導で開催される『JAPAN MUSIC FESTIVAL』、通称『ジャパンフェス』と呼ばれる国内最大規模の音楽フェス。地方創生も兼ねたこのフェスは音楽だけでなく日本のカルチャー全般を国内外にアピールするという大がかりなものだった。
もちろんそのスポンサーには日本を代表する企業が名を連ねており、日出新聞社もその実行委員会に参加することが決まっていた。
日出新聞社応接室には、実行委員会の担当者と広告代理店のスタッフが並び、幸治と那波が正面に座っていた。
当日までのスケジュールや役割分担など、すでに上層部どうしで決まっている事項の確認。実務担当者の顔合わせの意味合いが強い打合せだった。しかし、和やかに進んでいた会話の中で、ふいに空気が変わった。
「……失礼ですが」
実行委員会の担当者が手元の資料から顔を上げた。
「天野那波さんですよね? 以前、育児支援の記事を書かれた……」
その声に、那波の背筋がわずかにこわばった。
「はい。私です」
担当者は書類をそっと置いた。視線は冷ややかだった。
「失礼を承知で申し上げますが……今回のフェスは、数多くの企業がスポンサーについています。不祥事や炎上は、絶対に避けたい。過去にネットで話題になった記者をスタッフとして迎えることについては……少々、慎重にならざるを得ません」
一瞬、時間が止まったように感じた。
那波の顔から、血の気が引くのがわかった。
幸治はその場を笑って受け流すでもなく、怒りで立ち上がるでもなく、ただ静かに、穏やかな声で言った。
「もちろん、慎重に検討されるのは当然です。ただ、誤解のないように申し上げると……天野は現在、記者ではなくイベント推進課のスタッフであり、記事を書くことはありません。むしろ、慎重さという点では、彼女以上に頼れる人間はいないと、私は思ってます」
担当者は黙ったまま視線をそらし、結論を曖昧にしたまま、打合せは終わった。
部屋を出てからも、那波は一言も発しなかった。
幸治は隣を歩きながら、ちらりとその横顔を見る。
表情は変えていない。だが、彼にはわかった。
何も感じていないふりをしているだけだと。
その日、那波は定時を過ぎても資料をまとめていた。それは明日以降でもできることだった。仕事をすることで蓋をしようとしている。
そんな那波を見ていると幸治は心配とも同情とも言えない、自分でもよくわからない感情が心に広がった。
「天野さん、そろそろ帰ったら?」
幸治は意識して何気なく声をかけたつもりだったが、よほど仕事に没頭していたのか那波はびくっとして幸治を見た。
「あ…ほら、天野さん帰らないと俺も帰りづらいしさ」
「……大丈夫です、私のことは気にせず課長は先にお帰りください」
那波は表情をぴくりとも動かさずにパソコンに向かっている。
「ああ…うん、じゃあ…お先に失礼しようかな」
幸治はパソコンをシャットダウンし、かばんに手をかける。
「天野さんも、早く帰って」
「はい、お疲れさまでした」
「うん。お先に」
ざあざあと音を立てて雨が道路を打ち付けている。ひっきりなしに走っている車のライトに照らされる雨粒を眺めながら幸治は車に乗り込んだ。
(天気予報当たったな、車で来てよかった)
そのままさっさと、いつものように帰路につくはずだった。
それなのに、エンジンもかけず蒸し暑い車内でぼんやりと駐輪場のほうを見ている。
(俺は、何をやってるんだろう。何を……誰を、待ってるんだろう)
「帰るか」と軽くため息をついてエンジンをかけたその時、幸治の目が何かをとらえた。
残業してまでやることじゃない。それは課長もわかっていたはずだ。
気を遣ってくれたんだろう、那波はどこか申し訳ないような気持ちになった。
一人になったイベント推進課の部屋の中は空気が止まっているようにしんとしていた。部屋の外、どこか遠く、おそらく編集局のあたりから、ばたばたと動き回る人の気配が聞こえる。
「帰ろ」とふっと息をつき、那波は電気を消して部屋を出た。
社屋を出た那波の前に広がっていたのは、音を立てて降りしきる大雨だった。
灰色の空の下、まるでビルの壁に流れ込むように雨粒が打ちつけている。
「……最悪」
つぶやきながら、駐輪場まで駆けていく。
レインコートは着ているが、風が強く、フードの隙間から冷たい雨が顔にかかった。
社屋から徒歩数分、いつもなら考え事をしているうちに着いてしまう駐輪場がこの日はやけに遠く感じる。ビル風も手伝い、強い向かい風と容赦なく襲ってくる波のような雨でうまく歩けない。
まるで、自分が前に進もうとすればするほど、何かが邪魔をするようだった。
そのとき、後ろからヘッドライトの灯りが差し込んだ。
ゆっくりと近づいてくる車が、那波の横で止まる。
運転席の窓が下がった。
「天野さん」
「課長……帰ったんじゃ」
「すごい雨だよ?送るよ」
「……大丈夫です。すぐ止みますから」
「いや、もうびしょびしょじゃん。風邪引いちゃうよ」
那波は一瞬ためらったあと、濡れたフードを外し、助手席のドアを開けた。
車内は穏やかな空気が流れていた。
「すみません、座席…濡らしてしまって」
「ああ、全然。今日雨すごいもんね。もともとそこ雨で濡れてたから」
一瞬の沈黙が流れる。
静かにうなるエンジン音と、フロントガラスを叩く雨音に小さく流れるネモフィラの曲が溶けていた。
幸治はぽつりとつぶやいた。
「つらいこととか…傷とかさ、自分で治そうとしがちだよね、めっちゃ頑張って。でも時には誰かに…治してもらうってのもありなんじゃないかな」
ハンドルを握るその横顔は、いつもの軽い雰囲気とは違って見えた。
やわらかい声で話しながらも、どこか自分自身に向けているような気配があった。
那波は黙って前を見つめていた。
言葉にならない何かが胸に広がっていく。
(課長も……傷を、自力で治そうとする人なのかな)
その思いが、ふいに胸の奥を突いた。
いつも飄々としていて、冗談で空気を流して、核心に触れないように笑っているくせに。
今日の幸治は、まるで本当の声で話しているように聞こえた。
信号で止まったとき、那波がふいに口を開いた。
「……ありがとうございました。今日は……助けてもらってばかりで」
「うん?俺何もしてないよ?」
小さく笑って答えたその横顔に、那波は一瞬見とれてしまった。
雨は相変わらず激しく、窓の外は街灯の作る光の輪がにじんで見える。
その時、オーディオからなじみのあるイントロが流れてきた。
「あ……アニバーサリー…」
那波が思わず口を開いた。
幸治はハンドルを握ったまま、嬉しそうに返した。
「お、よく知ってるね」
「さっきから思ってたんですけど…これ『far away』ですよね。私このアルバムが一番好きなんです」
「まじで?俺も好きだよ」
穏やかに幸治が笑った。
「俺は、時の河が好きなんだよね。よく眠れるから」
那波もかすかに笑った。
「……わかります。アルバムの終曲ですしね」
「そうそう、天野さんは?何が好き?」
「そうですね……今の気分ならever and everかな」
「あーわかる。いい曲だよね。めっちゃラブソングだ」
「あ…」
那波の頬はかすかに熱をもったが、幸治は気づかない様子でネモフィラの話を楽しそうに語っている。
それを時に笑いながら、時に頷きながら那波は聞いていた。
学生時代も、社会人になっても「天野さんはまじめだもんね」と言われ、周りから距離を置かれていた。それでも良かった。もともと雑談は得意ではないしもちろん好きでもない。自分の目的には無駄なことでしかなかったから。
それが今、幸治と雑談しているのが楽しい――それに自分でも驚いていた。
ふと沈黙が落ちた。けれど、重くはなかった。
音楽と雨音が混じり合って、ゆるやかな時間が流れている。
その中で、那波はふと、幸治の横顔を見つめた。
社内ではいつも飄々としていて、真面目な話になると逃げるように軽口を叩く。
けれど今、隣にいるこの人はそんな表層とは別の、静かで温かい奥行きを持っている。
――どうしてこの人は、何もかもわかったような顔で笑えるんだろう。
――どうして、さっきみたいに、私を守ることができるんだろう。
今まで抱いたことのない、言葉ではうまく説明できない感情が、胸の中に波紋のように広がっていく。
その感情が自分の中で名前を持とうとしていることに、那波は静かに気づいた。
ああ、これが恋というものか。
本の中にしか存在しないと思っていたその感情が宿った心の内を、那波は不思議と他人事のように見つめていた。
車はゆっくりとアパートの前に停まった。
雨はまだ止んでいない。
那波はシートベルトを外し、ドアに手をかけたあと、ふと振り返った。
「……ありがとうございました」
幸治は、微笑んだ。
「うん、お疲れさま」
ライトに照らされた雨粒のなか、那波はそっと車を降りた。
背中に残った優しい声と、車内に流れていた切ない音楽の余韻が、心の奥に、ゆっくりと染み込んでいった。
部屋に灯りをつける前に、幸治はリビングのソファに体を預けた。
薄暗い空間にネモフィラの音楽が静かに流れる。
「あなたと出会うまで 知らなかった
そのぬくもりも やさしい声も
これからどんな 傷がついても
あなたの腕に 包まれるなら」
『ever and ever』が好きだと言った直後の、彼女のわずかに頬に赤みがさした――あのときの表情が、不意に脳裏をよぎった。
幸治は目を閉じた。
心の中に、薄い膜のようなものが張っていた。
破ろうと思えば破れる。
でも、破ってしまえば戻れなくなる。
年の差、15。
上司と部下。
一人になった10年前のあの日。
ソファに深く沈み込み、幸治は天井を見つめたまま、呼吸をひとつ吐いた。
明日香と暮らしたあの部屋、二人すれ違いながら働いていた日々が目の奥に浮かぶ。
「……深入りなんて、するもんじゃない」
言葉は静かだったが、胸の奥には小さな痛みがあった。
音楽はまだ続いていた。




