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6月

 イベント推進課が手がけていた「発見!日本のおいしいものフェア」が終わった翌週の月曜日、フロアは、いつになくのんびりしていた。

 机の上に積まれていた書類も片づき、ホワイトボードの「進行中」の欄が珍しく空白になっている。


 もともと幸治を含めて三人しか職員のいない小さな課ではあるが今日は特にゆったりとした雰囲気が漂っており、溝口にいたっては堂々とスマートフォンでSNSに目を通している。室内にはコピー機の作動音だけが響いていた。

 幸治はというと、自席でコーヒー片手にイベントのアンケート集計を眺めながら、ふんふんと小さく鼻歌のように唸っていた。


「やっぱり、千葉のピーナツエクレアが人気だったか。あれおいしいよね。食べたことある?ピーナツ型のエクレアにピーナツクリームが入ってるの。面白いこと考えるよね」

 幸治が壁打ちのように一人で話しているのを聞きながら、幸治の前の席で黙々とアンケートの仕分けをしていた那波が、ぴたりと手を止めた。


「芦田課長」

「ん?」

「社会部の澤野さんって、ご存じですか」


 その名を出された瞬間、空気がすっと冷めた。

 コピー機の音すら一瞬止まったような気がした。


「えっ、それ……」

  すかさず口をはさんだのは、溝口だった。


「いや、それ、天野さん…あんまり軽く聞くような話じゃないっていうか……」

「え?何かあるんですか?」

「いや、あの……まあ……」

 溝口がしどろもどろになっている横で、幸治は特に表情を変えることもなく、コーヒーをひと口すすった。

「いいよ、溝口くん。別にタブーじゃないでしょ」


 その言葉に、那波がまっすぐ視線を向けた。

 幸治は書類を机に戻し、椅子にゆったりと背を預けた。


「うん、澤野さん知ってるよ。すごく優秀な記者だよね。取材力もあるし、言葉の切れ味も鋭い。人の目を引く記事を書くよね。たぶん、今のうちの記者の中でもトップクラスじゃないかな」


「……そうですか」

 那波は静かにうなずいた。その目に曇りはなく、ただ尊敬の色が宿っていた。


「私、ああいう記事を書きたいんです。取材を重ねてしっかり筋の通った…私の文章が誰かの生きる力になるような、そんな記事……」


 幸治は、その言葉にじっと耳を傾けていた。

 いつもなら、「いいじゃん、天野さんならできるよ」なんて、本心か社交辞令かわからないような軽口を挟むところだろう。

 けれど、その瞬間は何も言えなかった。


 彼の胸の中で、ひとつの記憶が再生されていた。

 昔、明日香と初めて出会った時のこと。


「芦田さんの記事は人を動かす力があるんです…私の憧れです」


 そのときと同じ言葉ではない。けれど、根底にある衝動は同じだ。

 自分の書いた文章で、人の心を動かしたいという純粋な欲望。


 幸治は、カップをそっとデスクに置き、少しほほ笑んだ。

「天野さんって意外と熱いよね」

「はい?」

 那波はふいをつかれたように目を丸くした。


「ほら、ペンは剣より強し、みたいな? いいと思うよ。そうだよ、もともと記者なんだもんね。天野さんならきっとできるよ。すごいね。俺みたいなイベント屋には無理な仕事だな」


 いつもの調子に戻れただろうか。

 本音を隠そうとすればするほど言葉がとめどなくあふれてくる。小さなビー玉を枯葉で隠すように。


 ほんの数秒だけ沈黙が流れた。


 溝口が気まずそうに立ち上がり、「何か買ってこようかな。なんか喉乾いたし、うん」とぶつぶつ言いながら部屋を出ていった。


 幸治はその背中を目で追ったあと、那波に言った。

「でも、うちにいたって文章で人を動かせるよ?まずは今回のアンケートの報告書から書いてみようか。来場者の声がいっぱい詰まってるからね」

「……そうですね、頑張ります」

 そう言って、那波は珍しく、すこしだけ口元を緩めた。


 幸治は、ふっと息を吐く。

 知らない、ということは、ときに強い。


 彼女は何も知らない。幸治と明日香のことも、過去も、何も。

 けれど、その純粋さが、彼を揺さぶってくる。


(まっすぐすぎるんだよな、天野さん)


 心の中で、そっと呟いた。

 けれどそのまっすぐさが、どこか懐かしくて、少しだけ――羨ましかった。

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