5月(2)
昼下がりの社内掲示板前。コピー用紙にプリントされた一枚の紙が行き交う社員の視線を集めていた。
《第4四半期 優秀社員賞》
──社会部 澤野明日香
その名前を見た瞬間、幸治は、一瞬だけまばたきを忘れた。
誰かが「さすがだねえ」と呟いたのが聞こえた。確かに、彼女なら当然だ。災害報道、環境行政、地方自治体の腐敗まで、記者としての手腕は社内でも群を抜いていた。
幸治は、その場から静かに離れた。
向かった先は、社屋の七階、半ば忘れられたような喫煙室だった。昔は各階に必ず一か所あった喫煙室だが今は社内で一か所だけになってしまった。総務局の隣にあるその部屋は、時代に取り残されたようにそのまま残っていた。
ガラス越しに、忙しく行きかう社員たちを眺めながら、幸治はポケットから細いタバコを取り出した。火をつけ、ふうとひと息、浅い煙を吐く。
「あれ?珍しい。幸ちゃん禁煙したんじゃなかったの」
ドアが開き、同期の加納が入ってきた。細身のスーツにシャツの襟元を崩したまま、缶コーヒーを片手に器用にタバコに火をつけて煙を吐き出す。
「……たまにはね」
「優秀社員賞見た?明日香ちゃんすごいねー…ってあれ、もしかしてこれ地雷だった?」
幸治は答えず、もう一度煙を吐いた。煙は少しだけ揺れて、やがて天井の換気口へ吸い込まれていく。
「今じゃすっかり日出の顔だな、明日香ちゃん」
加納はそう言って煙を吐いた。
「こんなとこでタバコ吸ってるの見ると…幸ちゃんまだ引きずってんだ」
「引きずってないよ」と本心から言えれば楽なのだろう。幸治は笑って、煙草の灰を静かに落とした。
「別に。ちゃんと別れて、ちゃんと忘れて、ちゃんと今を生きてるよ」
「ちゃんと、ね」
加納は鼻で笑った。
「もっとちゃんとした今があったのかもしれない、とでも言いたいみたいだね」
加納の言いたいことはわかっていた。
明日香にも仕事にも、まじめに向き合っていれば、今でも記者・芦田幸治として活躍していたかもしれない。でもそれをしなかった。自分が記者から離れたことも、自分から離れていく明日香を止めなかったのも、すべて自分が決めたことだった。後悔はしていない。
「そんなにちゃんとした大人じゃない?俺」
いつもの調子に戻り軽口を叩く幸治を見て加納はふっと笑った。
一瞬の沈黙が流れる。加納があっ、と思い出したように沈黙を破った。
「そうだそうだ、どうなのよあの炎上ガール」
「炎上ガール?」
「天野那波だって。いやーすごいよね。明日香ちゃんとはまた違うすごさよ」
確かに炎上するほど人の気を引く記事を書いたのはある種、実力の証でもあるのかもしれない。
「めっちゃまじめなんだって?まじめすぎて生活部でも浮いててさ。それで上との連携もとれなくてチェックがざるになったって話だよ」
「へえ…よく知ってんな加納」
「当然でしょ。編集局から総務局を渡り歩いてきたこの人脈はすごいんだから」
加納は誇らしげな表情を浮かべた。それもそのはず、加納は文化部から生活部、運動部と記者として手腕を奮い、その実績から今は人事課で職員採用を担当しているのだ。社内の人事にも噂にも明るかった。
「まじめすぎていつも一緒にいる芦田課長が大変そうなんですー、なんて声も聞いたよ?どうなのそこのところ。ていうかそんなに一緒にいるんだ」
「そりゃ同じ仕事してるんだから一緒にいるだろ。まあ、まじめすぎるのはたしかにそうかもね。ちょっと危うさを感じるくらいだもんな。前も一緒にイベントの打合せ行ったんだけど業者の人と話すのもまだ慣れてないみたいだったね。いやそりゃそうなんだけどね。まだ来たばかりだし」
「ほぉん…?」
加納がなぜかにやにやしながら幸治を見る。
「…何」
幸治が怪訝そうに加納を見返す。
「いや?」と、加納はにやにやを崩さずに幸治を見ている。
「まあ、いいんじゃない?幸ちゃん独身だもんね」
「何それ、どういう意味」
加納が二本目のタバコに火をつけて「いや、幸ちゃんさ…」と、何かを言いかけたその時
「あ、加納課長いた。ちょっといいですか?」
と人事課の社員が喫煙室の扉を開けた。新鮮な空気がすっと入ってくる。
「おぉ、どうした?」
加納はじゃあね、と言い残し社員と何やら話しながら喫煙室を出て行った。
「なんだったんだ…」
幸治は吸い終えたタバコを灰皿に擦り、早々に仕事に戻った。
その日の夜。ネオンの洪水から逃れたような住宅街に建つマンション。幸治はいつものように無言でエレベーターを降り、自宅のドアを開けた。
電気のついていないリビングに入る。カーテン越しに見える街の灯りが、ちらちらとカーテンにあわせて揺れている。
幸治は電気をつけて音楽プレイヤーのスイッチを入れた。ネモフィラの曲。静かなイントロが流れ始める。どこか懐かしく、少し切ないメロディに包まれると、自然に体がソファへ沈み込む。
そして、思い出すつもりもなかったのにふと加納のデリカシーに欠けるとも言える声が頭の中で再生された。
(明日香ちゃん、すごいねー)
少し目を閉じると、すぐに過去がよみがえってくる。まるで昨日のことのように。
*
10年以上前、幸治は社会部の記者として多忙な日々を送っていた。事件、行政、企業不正。現場に出ながら、部下の原稿をチェックし、締切をにらみ、風邪を引いていても台風が来てもペンを止めなかった。
あの頃の俺は、新聞記者という生き方を全く疑わなかった。それ以外の生き方は考えられなかった。いや、考えなかった。
明日香は、生活部の若手記者だった。社会部に比べれば穏やかな部署だったが、彼女はその枠に収まらず、常に取材であちこちを飛び回ってはいくつも記事を書いていた。それらの記事はときに日出新聞の出版部門が発行している週刊日出という雑誌にも取り上げられるほどだった。
だから社内の資料室で初めて明日香から声をかけられた時はびっくりした。まさか彼女が俺のことを知っているとは思わなかったから。
「社会部の芦田さんですよね。芦田さんの記事、読んでます。いつも取材をしっかり重ねて筋の通った記事で…芦田さんの記事は人を動かす力があるんです。私もそういう記事を書きたくて…芦田さんは私の憧れなんです」
そのときの彼女の弾む声と目のまっすぐさを、俺は今でも覚えている。
都会の喧噪が遠くに聞こえる。幸治は目を閉じてまだ昔を思い出していた。
惹かれ合うのは早かった。出張の合間に食事をし、メールを交わし、やがて自然と付き合い始めた。半年後には結婚を決めた。互いに、仕事を理解し合えるという自負があった。
けれど、それは理想論に過ぎなかった。
深夜に帰宅した幸治が、食卓に残された夕食をラップごと冷蔵庫に戻すのが日常となり、明日香もまた、取材で地方に出ていることが増えた。たまに顔を合わせても、いつもどちらも疲れていた。
そして、ある日。
幸治は取材中の裏取りを誤り、誤報の記事を出稿しかけた。幸い、直前で気づいて取り下げたが、上層部からは厳重注意を受け、昇進の話も消えた。
その夜、帰宅すると明日香が珍しく幸治よりも早く帰宅していた。
彼女は幸治を見ずにぽつりと呟いた。
「私、地方特派員に応募することにしたの。…結婚は、たぶん私に向いてなかった」
そのとき、幸治は「そっか」と言うだけだった。
三年。互いに相手のやり方を変えようとはしなかったけれど、自分のやり方も変えなかった。愛したことは嘘じゃない。ただ、お互いに現実が見えていなかった。
離婚届は幸治が一人で取材の合間に出した。
二人で住んでいたマンションも引き払い、逃げるように新しいマンションを買った。明日香が今どこに住んでいるのか幸治は知らない。
*
音楽が、ゆっくりとサビに差し掛かる。幸治は立ち上がり、キッチンでグラスに水を注ぐ。その動きはどこまでも静かで、淀みがなかった。
もう恋愛はいい。激情も、甘い夜も、去り際の離しがたい手のぬくもりも、すべて忘れた。
そういうものは、若い二人に似合う――たとえば、天野那波のように。
グラスの水を飲み干しながら、ふと、彼女のまっすぐな眼差しが脳裏をかすめた。
「…いや、天野さんに激情は似合わないか」
独り言を呟き、グラスを洗う。
ソファに戻ると、もう一度音楽を再生した。
切なくも温かなメロディが、静かな夜を満たしていった。




