5月(1)
その日、那波は、社用車の助手席に座っていた。運転席には課長の幸治。彼のスーツは襟が少しよれていて、ネクタイも結び方が甘い。まるで「きっちり」がこの世に存在しないかのようだった。
「早速なんだけど、明日イベントの打合せに行くんだ。天野さんも同行してくれる?」
そう言われた那波はいつもより「きっちり」としたスーツで臨んだ。というのに当の課長は適当極まりない雰囲気で運転している。
那波は内心、落ち着かなかった。先方に失礼があるんじゃないか、そもそも課長は何も準備をしていない気がする。いやきっとしていないだろう。異動してきてまだいくばくも経っていないけれど私にはわかる。課長はとんでもなく適当な人間であるということを。
そして、「課長は頼りにならない。私がなんとかしなくては」という決意を胸に抱いていた。
幸治の適当さに辟易してどこか憤りさえ感じていた那波はそれまで気づかなかったが、幸治が信号で停まるたびに、カーステレオの音量を上げたり下げたりしながら、鼻歌混じりになにか口ずさんでいることにふと気づいた。かかっていたのは、彼女が毎晩聴いている曲だった。
思わず、横目で彼を見た。
ネモフィラを知ってる?いや、ラジオでたまたまかかっているだけ?那波は車のオーディオを凝視していた。
「……もしかして、天野さんネモフィラ知ってるの?」
唐突に幸治が言った。気づかれていた。
「……はい。たまたま、大学のときに知って。それ以来、ずっと聴いています」
「えーまじで?俺初めて見たよネモフィラ知ってる人。俺ね、こうして外出するときいつもネモフィラかけてるんだ。布教?ってやつでね。でも誰も知らないからさ。溝口くんなんか、ずっとこれYOASOBIだと思ってるんだよ、今でも」
軽口でぺらぺらしゃべる人は男女問わず那波は苦手だったが、不思議と幸治に不快感はなかった。
車はやがて、湾岸沿いの大きな展示ホールに着いた。週末に控えた「防災フェア」の準備で、今日はスタッフとの最終打ち合わせだった。
会場内はまだ組み立て途中のブースが並び、照明が仮設のままで、どこか荒々しい雰囲気が漂っている。そんな中、一人の男が那波たちに近づいてきた。
「日出の人? ああ、今日の下見担当ね。スケジュールの最終調整だっけ」
無骨な作業服にタオルを首にかけた男は、第一印象からして職人気質そのものだった。声も態度もぶっきらぼうで、客というよりは作業をじゃまする御上を迎えるような構えだった。
那波は資料を手に取り、まっすぐ目を見て応じた。
「本日の予定はこの通りです。各ブースの設置場所は安全管理ガイドラインに基づいて調整をお願いしています。搬入の順番も、あらかじめ申請した通りでお願いいたします」
正論だった。だが、その言い方はどこかきっちりしすぎていた。男は眉をひそめ、腕を組む。
「そりゃ分かってるけどさ。現場ってのはスケジュール通りにゃいかないもんなんだよ。あんたさ、現場で働いたことないでしょ?」
ぴり、と空気が張り詰めた。
那波が言葉を探して口を開きかけたそのとき、幸治がふらりと間に入った。
「まあまあ、彼女が言ってるのも一理あるんですよ。ほら、ちゃんとルールを守ってくれると、うちもあとから責任の擦り付け合いしなくて済むんでね。今怖いですから。ちょっとやらかしただけで話題になっちゃうでしょ?でも俺も現場の人間だったんで分かります、言いたくなる気持ちは」
笑みを浮かべながら、幸治はポケットから飴玉を取り出して男に差し出した。
「すいませんね、うちの新人、すごくまじめなんですよ。でもしっかりしてるでしょ?今日一日、ひとつよろしく頼みます」
男はちらりと幸治を見て、ふっと鼻を鳴らした。
「……まあ、分かったよ。こっちもできるだけ合わせるさ」
言い残して、男は工具を持ってブースの方へ戻っていった。空気が和らぐ。那波は、驚いたように幸治を見つめていた。
「……いつも、ああやって乗り切るんですか?」
「だいたいはね。うまくいかないときは、めっちゃ謝る」
その言葉には力も威圧もなく、ただ自然だった。ふっと、那波は気づいた。
この人は、適当なようで、人と人との間をよく見ている。押しつけもせず、主張もせず、その場をうまく回すことで、事を進める。
――記者の仕事とは違うけれど、これはこれで、すごいことだ。
少しだけ、ほんのわずかだったが那波の中に幸治への敬意が、ほんとうに少しだけ芽生えた。
(まあ、課長なんだから当然か)
そう思いながらも那波は適当なだけでない幸治を、ほんの少しだけ見直していた。