11月(2)
数日後、那波はどこかそわそわしていた。
新芽賞の発表が、午後に掲示板へ貼りだされる。
午後発表、というざっくりとしたアナウンスは体に良くない。仕事の効率も落ちる。ちゃんと〇時に発表します、と言ってくれたらいいのに。と、心の中でぶつぶつ言いながらも資料を見ながらキーボードを叩く。そんな那波をどこか心配そうにちらちらと幸治が見ていた。
数日前、加納が寄越した封筒の中には今回の新芽賞の入選者が載っていた。
幸治がイベント推進課という、決して閑職ではないが記者とは大きくかけ離れた部署へ異動することとなったとき、当時の総務局長から頼まれたのが新芽賞の審査という仕事だった。
社を挙げた優秀記事を選出する日出新聞賞は外部から審査員を呼ぶが新芽賞の審査については記者を定年退職した、記者OBが担っていた。
「記者OBばかりじゃどうしても審査に偏りが出る。ましてや新芽賞のような若手記者の発掘が目的の賞を年寄りだけで審査するのは趣旨にも合わないだろう。だから、芦田くんにぜひ審査をしてほしい。まあ……私としては、ほんとうは芦田くんには記者として活躍してほしいんだが」
しんとした会議室。今までほとんど会ったこともないような総務局長と二人きりでそんな話をされたのはもう10年前のことだ。編集局以外の部署への異動希望を出した時のことだった。それからずっと、半ば秘密裏のように幸治は審査員の一人として毎年新芽賞に応募された記事を読んで点数をつけ、講評もしている。
だから、今回提出された那波の記事も読んでいた。那波らしいまっすぐでまだ青さの残る文章。全力で仕事をしながらこの記事を書いたんだと思うと身内びいきでつい高めの点数をつけてしまったが、他の審査員がつけるであろう点数を考えるとバランスはとれるはずだ。構成力、取材の丁寧さ、文章力、すべてにおいて平均以上だった。特選まではいかないにしろ入選はするだろう。幸治は那波の記事に講評を書きながらそう思っていた。
しかし、加納から渡された入選者に那波の名前はなかった。
那波が炎上記事を書いて記者を外れたということは審査員である記者OBの耳にも届いていたことだろう。おそらくその先入観が点数を下げた。――だから、記者名を明かさずに審査しろって編集局にも人事にもずっと言ってたのに。幸治は今もそわそわと時計を何度も見ている那波に目をやりながら軽く息をついた。
そのとき、幸治のパソコンの画面に新着メールの通知が現れた。
「言い忘れてたこと」というタイトル。差出人は明日香だった。
イベント推進課 芦田様
この前は突然ごめんね。結婚のこと、一応報告しておきたくて。幸治と話すのも久しぶりすぎて、どんなテンションで話してたっけとか、そういうのも忘れてたから会うまでは少し緊張もしていたけれど、会ったら全然なんてことはなかった。初めて出会ったときから、幸治は何も変わってなくて、いつまで経っても幸治は私にとって憧れだなって思った。あ、今は好きとかそういうのはないけどね。
今までずっと幸治に言うのを忘れてたんだけど、幸治と出会って恋をして結婚したあの三年ちょっとの間、私はすごく楽しかった。私のことを傷つけてばかりだったとか、幸治にはそういう記憶しかないかもしれない。私も仕事の楽しさにとらわれて幸治のことを思いやれない申し訳なさがあったり、単純に忙しくて疲れていたりで、たぶん幸治から見たら私はやつれていたと思うから。
でもあなたと過ごした時間は、今でも私の中でとてもきらきらした幸せな思い出です。そういう幸せを私は知っていたから、今回また恋をしてもいいかなって思えたのだと思う。幸治と出会って、結婚して、別れたあの日々で私はあなたから幸せをたくさんもらった。それは幸治も同じだったんじゃないかな。
私は明日、ウクライナに出発します。あっちで見ること、聞くこと、全部書きとめるつもりです。幸治も、元気でいてね。
明日香と結婚を決めた時の彼女の嬉しそうな笑顔、出張の合間に待ち合わせたビルの入口、明日香が手を振って駆け寄ってきた姿。初めて夜を一緒に過ごした日の朝。今まで心の中で無意識にせき止めていたようなそういう光景が今、ダムの放出のように一気にあふれてきた。
「課長?」
溝口が心配そうに幸治を見ている。
「どうかしました?」
「ああ、いやなんでもないよ」
幸治はメールを閉じて部屋を見回した。
「あれ…天野さんは?」
「それなんですけど」
溝口は依然として心配そうにしている。
「新芽賞、発表されたんです。それでさっき僕も天野さんと一緒に見に行ったんですけど……」
幸治はドアのほうに目をやる。那波が戻ってくる気配がない。
「天野さん、発表見たあと僕に先行っててって言って……まだ戻ってこないんですよ。なんか……大丈夫ですかね」
「ああ……選外だったんだ、天野さん」
加納から渡された入選者名簿が脳裏によぎる。
「あ、そうなんです。天野さんあんなに頑張ってたし……たぶんショックですよね。なんて声かければいいか……。てか大丈夫ですよね?まさか身投げとか……」
「いやそれはないでしょさすがに」
幸治はそう言いながらも立ち上がる。
「ちょっと探してこようか」
その時、イベント推進課のドアが開いて那波が入ってきた。
「あ…天野さん」
溝口がほっとしたように声をかける。
「すみませんでした、気を遣わせてしまって」
那波は表情を崩さずそう言うと、幸治のもとへ向かった。
「新芽賞、選外でした。仕事も融通していただいたのにご期待に添えず申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる。そんな那波を見て幸治は胸が潰されそうになった。
「……そっか。お疲れさま。天野さんよく頑張ったよ。仕事のことなんて気にしないで。溝口くんにもちゃんと仕事してもらわないとだしね」
「そ、そうそう。天野さん記事書きながら仕事だってしっかりやってたもん。すごいよ」
「ほんとだよね。あ……わかった、これ溝口くんのせいじゃない?」
「え?あ、なんか……すみませんでした」
茶番のような二人の掛け合いに那波はかすかにほほ笑んだ。
「新芽賞は……残念だったけど、ここの仕事しながら記事を書いて応募したのはほんとにすごいことだからね。そこはほんとに自信もって」
俺は、天野さんの記事とてもよかったと思う。すべてにおいてよく練られた記事だった。それでも選外なのは、きっと年寄りの審査員が天野さんの名前だけで評価したからだ――那波に伝えたいことはいっぱいあった。しかし審査員しか読むことができない応募記事を幸治が読んだとは言えなかった。
「ありがとうございます。でも、結果が出なかったのは……私の実力不足だっただけです」
那波は軽く礼をすると自席に戻った。
その夜は、「天野さんも早く帰ってね」と言い残し幸治も溝口もすぐにイベント推進課をあとにした。
(課長にも溝口さんにも……気を遣わせてばっかりだ)
那波はパソコンに向かい一人で企画書を作っている。こうしているほうが気がまぎれると思い残業をしているのに、言葉がうまく出てこない。窓の外から風のうなる音とともに激しい雨粒がガラスを叩いている。そういえば時期外れの台風が来てるとかいってたっけ、と那波は窓の外をぼんやりと眺めた。
(あのときも、こんな雨の日だったな)
『ジャパンフェス』の担当者から「炎上する記事を書いた職員とは仕事ができない」と言われたあの日。会社を出ると大雨で、それで、課長が来た。思えば私が課長を好きになったのはあのときだったかもしれない。
(でも、もうそんなこともないのか)
心がからっぽになった気がした。
加納課長は「もう少し待っててあげて」なんて言ってたけど、それが結局なんのことだったのかはわからない。「芦田課長が天野さんの言葉を受け入れるまで待っててあげて」なんて、都合が良すぎる解釈だ。
那波は会社を出た。入口に立っているだけで強い雨風が那波を襲ってくる。かばんからレインコートを出そうとした手が止まる。
「どうせ濡れるなら、もういいや」
那波は小さく呟き、そのまま駐輪場まで歩いた。あっという間に髪も服もずぶぬれになったがそれでも気にしなかった。
なんで、あんなに頑張ったのに――
なんで、こんなに好きなのに――
なんで、が止まらずそれは涙となって流れ出た。ちょうどいい。涙も嗚咽も、この暴風雨ですべてかき消される。
駐輪場までの道は、那波の他に歩いている人は誰もいなかった。那波は雨に打たれながら声を殺して泣いていた。
そのとき、那波の横で車が止まった。見覚えのある黒のセダン。
「天野さん」
運転席の窓が開く。
「課長……」
「とりあえず乗って」
その声はどこか真剣だった。
「でも、私……」
「いいから。俺、天野さんに話したいことある」
話したいこと、が何かなんて気にならなかった。幸治に声をかけられた時点で、乗ってと言われた時点で、那波の中に『乗らない』という選択肢はなかった。
「今日台風だよ?天野さん自転車で帰るつもり?」
幸治はタオルを那波に手渡した。水が滴っている髪や服を静かに拭く。
「前の雨の日はまだ暑かったけど今寒いでしょ、ほんと風邪引いちゃうよ」
今までずっと聞いてきた穏やかな幸治の声に那波はなぜか涙があふれてタオルで拭いた。
夜道を走る車の中は静かだった。その静けさを埋めるようにネモフィラの曲が流れている。
「ああ、そうだ。この前溝口くんと打合せ行ったでしょ?その時もネモフィラかけてたんだけどね、やっぱり溝口くんYOASOBIだと思ってた。あれもう覚える気ないよね」
何気ない話を独り言のようにさりげなく幸治は話す。那波がくすっと笑うと幸治はほっとした表情になった。
「課長には……ほんとにご迷惑をおかけしました。仕事のことも……この前話したことも」
「新芽賞はね、ほんとに大丈夫。気にすることはないよ。俺、天野さんが昔生活部で書いてた記事読んだことがあるんだ。いろいろ書いてたよね。はしかの記事とか、あれはタイミング的にもばっちりだったしよく調べてるなってびっくりした。若手の記者でこんなに書けるなんて、って」
「……ありがとうございます。お世辞だとしても嬉しいです」
「お世辞じゃないよ、ほんとにね」
幸治はほほ笑んで続けた。
「あれだけ書けるんだから。大丈夫。それに今だって、天野さんの企画書はすごく読みやすいよ。文章力があるんだよ」
幸治の言葉が那波の心を満たしていく。もう、そんなことを思ったってなんにもならないのに。那波は涙があふれそうになるのを堪えた。
「課長の声が……言葉が、私はやっぱり好きです」
そして、那波はふっと自嘲するようにかすかに笑った。
「なんて、今さら言ってもご迷惑なだけなのに。すみません」
那波のアパートの前で車が止まった。雨は依然として車を叩いている。
「前に、天野さん言ってくれたよね。嬉しいこともつらいことも……俺と話すと心が明るくなる、って」
幸治の声にはどこか緊張がにじんでいる。
「たとえばね、今日みたいに天野さんがつらい気持ちになった日に……俺と話して、それで天野さんの気持ちが少しでも明るくなるんだったら」
那波は幸治の横顔を見つめた。
「なんか……俺は、それを見ていたいと思った」
「……えっと」
那波はその言葉の真意がくみ取れず考えをめぐらせた。でも幸治の言いたいことはなんとなくわかった気がした。
「回りくどいよね。ごめん。ほんと俺こそ今さらなんだけど」
そう前置きして幸治は軽く息をついた。
「俺、天野さんが好きなんだ。だから…これからも一緒にいてほしい」
那波の心にじんわりと暖かいものが広がった。
「私なんかでよければ……ぜひお願いします」
「天野さんがいいんだよ」
幸治はふっと笑った。那波もつられて笑った。
「私も、課長がいいんです」
那波は幸治を見つめる。これからこうして幸治を見つめてもいいんだと思うと心地よい安心感で心が満たされた。
幸治は助手席に手を伸ばし、そっと那波の手を包んだ。那波の手が軽く幸治の手を握り返す。
見つめ合い、そして幸治はそっと那波の唇にキスをした。
雨の中、街灯が二人の乗る車をあたたかく照らしていた。




