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11月(1)

「恋なんて、しなきゃよかった」と涙を流しつくしたあの日から、那波は今までよりもずっと仕事に打ち込んだ。イベントの企画書を完璧に仕上げるため残業を重ね、周りの声が聞こえなくなるくらい没頭して資料を読みこんだ。

 そうして数日。幸治はいつものように那波にも話しかける。那波もいつものように答える。感情を抑えるのは昔から得意だった。この感情も抑え続ければそのうちに忘れる。そう思い込もうとしていた。

 それなのに、好きという思いを抑えるたびに胸が苦しくなる。涙が絞り出される。那波は頭を振り、仕事に集中しようとしていた。


「課長、そろそろ行きましょうか。僕車回してきますね」

『ダイバーシティスポーツフェスティバル』の打合せのため、溝口が部屋を出て行く。


「ああ、俺も行くよ」

 幸治も立ち上がる。


「じゃあ天野さん、留守番お願いね」

 いつもの調子で幸治は那波に声をかけた。


 誰もいなくなったイベント推進課の部屋、那波はキーボードを打つ手を止めて深いため息をついた。



 平日昼間の中央通りは軽く渋滞していた。


「少し早めに出発してよかったですね」

 溝口が助手席で時計を見て言う。


「そうだね、この時間混むからね」

 幸治の運転する車は前の車についてのろのろと進んでいたがついに完全に止まった。幸治がオーディオの音量を下げる。


「課長、またYOASOBI聴いてるんですか?好きっすねー」

「だからこれYOASOBIじゃないんだよ、ネモフィラっていうの」


(そういえば天野さんと初めて車乗った時はすぐネモフィラって気づいたな)

 そんなことをぼんやりと思い出しているときだった。


「課長」

 溝口が口を開いた。


「天野さんと何かあったんですか」

 わずかに幸治の表情が固まった。


「天野さんと?……何もないよ。たぶんね」

 声はどこか上ずっていた。思えば那波が異動してきてからの一連を一番間近で見ていたのは溝口のはずだ。彼なりに気づくところはあったのだろう。

 うーん、と溝口は腑に落ちないような声を出す。

「僕はよくわからないんですけど」

 車がゆっくりと動き出す。


「課長もですけど、僕らいつかはそれぞれ別の場所に異動するじゃないですか。たまたま同じ時に同じ課で、そこで仲良くなったらそれって奇跡くらいすごいことだと思うんですよね。だから、後先考えたって仕方ないっていうか。だってそのうちまたみんなばらばらになって、この先誰がどこでどんな仕事をするかもわからないですし」


 幸治はじっと聞いていた。


「うーん…なんかまとまらないんですけど、僕はそう思いました」


 傷つくとか傷つけるとか、今からそんなこと考えてたって仕方ないだろ。未来は誰にもわからないんだから。ということをおそらく溝口は言いたかったのだろう。その言葉は幸治の凝り固まった心を少しだけ溶かした。


「溝口くんって鋭いよね。記者向いてるよ?」

 幸治はいつものように飄々とした様子に戻って言った。


「また課長はそうやってごまかすんですもん」

 溝口はどこか不満げに返す。


「いや、うん……サンキュ」

 そのときの幸治の声はいつもと違う、本音が表れていたように、溝口は感じた。



 一方、がらんとしたイベント推進課では那波が一人で黙々と企画書を作っていた。来年の春に開催される『産業フェア』。毎年日出新聞社が企画運営をしているイベントだ。前回の企画書や実績報告書をじっくりと読みこむ。


「……この文章、課長っぽい」

 那波は無意識に呟く。企画書も報告書も数十ページのボリュームであるが、内容が簡潔にまとめられ読みやすい。記者から退いても幸治の文章力は圧倒的で、那波は思わず読みふけってしまった。


「お疲れさまでーす。あれ、芦田課長は?」

 そのとき、突然ドアが開いて男が入ってきた。那波はびくっとして思わず立ち上がる。


「課長は今、打合せで外出しております。どのようなご用件でしょうか」

 那波が流れるように対応する。


「ああ、特に用はなかったんだけど……天野さんだけ?」

 男は部屋を見回す。


(この人、なんで私のこと知ってるんだろう……)

 那波は少し訝し気に男を見た。細身のジャケットを軽く着崩している。年は……課長と同じくらいか。


「あれ、覚えてない?人事課の加納です。ほら、天野さんが異動するときに生活部でいろいろやってた」

 にこやかにそう言うと加納は首から下げている名札を那波に見せた。


「あ……芦田課長の同期って」

「お、よく知ってるじゃん。芦田課長から聞いたんだ」

 加納はそう言いながら部屋の中に入り、溝口の席に腰かけた。


「すみませんが、芦田課長は戻り17時ごろかと…」

 当然のようにいすに座ってくつろいですらいる加納に戸惑いながら那波は声をかけた。


「ああ、じゃあ。天野さんと話そうかな」

「うざ絡みされなかった?」という、いつかの幸治の言葉がよみがえってきた。那波は身構えながら席に座る。


「天野さん、最近どう?記者職からの異動だったけど」

 人事の面談のように、加納がごく普通の調子で尋ねた。


(もしかして、私の異動後が気になって来たのかな……)

 那波は背筋を伸ばした。

「はい、また記者として貢献していきたいと思っているので今でも勉強を続けています。もちろんイベント推進課での仕事も新聞社のまた違った一面を見ることができて刺激になっています」


「そっか。それならよかった」

 加納はほほえんだ。


「じゃあ、芦田課長のことは?」


 那波はふいをつかれた。この人はいったい何を知っているのか。芦田課長はいったいどこまでこの人に話しているのか、いや何も話していないのか。頭の中を答えのシミュレーションが駆け巡った。


「芦田課長にも……よくしていただいています」

 それしか答えられなかった。加納に表情を読み取られそうで那波は目をふせた。


「そっか。うん。よかった」

 加納はほほえんで続けた。

「芦田課長ね、ああ見えてけっこう繊細っていうか。いや違うな、うじうじしてるんだよ」


 那波は話の意図が読めず戸惑っている。


「記者の時もさ、すごかったんだよ芦田課長って。あ、あいつが前に社会部記者だったってのは聞いたことあるかな。取材してて普通忖度したり空気読んだりしてみんな聞かないようなこともずけずけと聞くの。それで相手から怒鳴られても全然平気で。怒鳴られた内容も全部メモしてたからね。よっぽど鋼のメンタルだと思うでしょ?そしたらあとで『俺は人を傷つけてばっかりだ』とか言って一人でなんか落ち込んでるんだよ。まあうじうじとさ」


 那波は気づけば引き込まれていた。幸治の記者時代の話は初めて聞いた。


「そんなに引きずるなら記者辞めればいいじゃん?でもまたすぐ取材に出てまたずけずけ聞くんだよ。で、また『俺はみんなを傷つけてる…』の繰り返し。変なやつだなってずっと思ってるんだけどね、今でも」


 話をじっと聞いている那波を見て、加納は穏やかに言った。

「ほんと、そういうとこ記者から離れた今も変わってないんだよ。あの頃から年もとってそんなほいほい踏み出せなくなったとこはあるけど……だから天野さん、待っててあげてくれないかな。あいつ、今まだうじうじムーブかましてる最中なだけだから」


(あ……知ってるんだ、全部)

 那波は頷くでもなくただ加納をまっすぐに見ていた。


「あ、そうだそうだ。本題忘れてた」

 加納はそう言うと、ここに来た時からずっと手にしていた茶封筒を那波に手渡した。


「これ、芦田課長に渡してくれる?あ、天野さんは中身見ないでね。これ、がちの親展だから」

「わかりました」

 那波は封筒を受け取り、幸治の席に置いた。


「ありがと。人事の加納が来たよって課長に伝えておいてくれる?」

 加納はそう言うと「じゃあお疲れさま」と言って部屋を出ていった。



 空に夜が広がり窓からオフィス街の煌々とした明かりが入ってくる頃、幸治と溝口が戻ってきた。


「お疲れさまでした」

 那波がすかさず立ち上がる。


「あれ、天野さんまだ残ってたの?ごめんね先上がっててよかったのに」

 幸治がいつもの調子でかばんを机に置いた。


「16時頃、人事の加納課長がいらっしゃいました。それでこちらの封筒を芦田課長へ、と」

 那波は幸治のかばんの下敷きになっている封筒を指さした。


「えー……あいつ何しに来たんだよ…てかこんなのわざわざ持ってくる?普通に社内便でいいのに」

「『これ、がちの親展だから』だそうです」

「なんだよそれ……」

 幸治はため息をつきながら中を見る。ごく普通のコピー用紙に何か印刷された書類。

 それを見た瞬間、幸治は驚きのような表情をかすかに浮かべたがすぐにいつも通りの様子に戻り、封筒に書類を戻して引き出しにしまった。


「じゃあ、俺も帰ろうかな。天野さんも早く帰って。もちろん溝口くんもね。今日疲れたでしょ」

「そうっすね……でも課長が一番疲れたと思います」

 溝口はかばんからばらばらと出てくる資料を手際よくまとめてファイルに入れている。


「そうなんですか?」

 那波は幸治のほうを見る。


「あー疲れたよね、道混みまくってるから運転がめっちゃ疲れた」

「いやまあ運転もそうでしょうけど、そういうんじゃなくて」

 溝口がつっこみを入れる。


「けっこうあっちの要求がきつくてね。担当者も癖強いし……課長がうまく話進めてくれたからほんとによかったよ」

「それは……お疲れさまでした」

「ほらもういいから。溝口くんも天野さんも帰って。じゃあお先に」

 幸治はそう言って部屋を出て行った。


 外に出ると冷えた夜風が幸治に向かって吹き抜けた。思わずジャケットのポケットに手を入れる。


『まだ、終わってない気がするよ』

 という加納の声。


『後先考えたって仕方ないっていうか』

 という溝口の声。


 そして、那波と交わした何気ない会話と姿。


(今日も天野さんを好きだったな、俺は)


 心の中で無意識に呟いて我に返る。


(って、今さら何を考えてるんだ……でも)


 地下鉄の入口にさしかかるところで、ふと立ち止まり夜の空を見上げた。


(俺はやっぱり天野さんを諦めきれないんじゃないか。諦められない気がする)

 雲一つない空には東京の都心でもうっすらと星が見えた。


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