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10月(4)

 恋多き人生ではなかったが、それでも人並みに恋愛の経験はある。学生の頃から初対面の人と打ち解けるのは早かったし人の輪に入って自然と会話をすることも得意だった。ときには誰かと付き合い、そして別れも経験してきた。

 年を経るにつれて、別れのダメージが大きくなってくる。リカバリーも遅くなってくる。


 夜のイベント推進課。社員はみな帰りコピー機の作動音がかすかにうなるがらんとした部屋で幸治は一人パソコンに向かっていた。

 やることがないわけではない。だからこうして残業をしている。ただ、早く帰りたくないという気持ちのほうが強かった。自宅だろうと会社にいようと一人でいることには変わりないが今日は仕事中という属性を脱ぎたくなかった。


 一息ついて、幸治は立ち上がり部屋を出た。


 喫煙室。幸治はジャケットのポケットからタバコを取り出し火をつけた。虚しさなのか後悔なのか、よくわからない感情のかけらが煙となって宙に浮かぶ。


「あれ、残業?」

 加納が入ってきた。


「まあね」

 幸治は煙を吐いて答える。


「イベント推進課も大変だねー」

「いや、暇だよ」

 加納は思わず吹き出した。

「じゃあなんでこんな時間までやってんの」

 幸治は何も言わずに吐いた煙のゆくえを眺めていた。


「そういや、明日香ちゃん再婚したんだね」

「ああ、この前久しぶりに話した」

「明日香ちゃんと?」

 幸治は頷く。

「明日香は……恋愛を思い出したんだろうな」

「幸ちゃんは?」

「俺は……」

 加納が幸治を見る。


「…自分が相手につけてきた傷ばかり思い出す。せっかくならもっといいことを思い出したいのに」

「そしたら天野さんにも好きって言えるのに、って?」


「何言ってんのまじで」と、ここは笑って返すところだった。そうして軽口を叩いて、シリアスな雰囲気をさらりと流す。そうして日々をこなしてきたのに、今日はうまくいかない。


「天野さんから言われたよ。好きですって」

 加納は驚いたように目を見張った。


「でも、ごめんって言った。俺、もう嫌だもん。明日香のときみたいに天野さんを傷つけるの。彼女にはもっと穏やかに生きてほしい」


 沈黙が落ちる。ふう、と加納は煙を吐いた。

「それって、幸ちゃんが傷つきたくないだけじゃなくて?」

 ぐうの音も出ないほどの正論。幸治は何も言えず加納から目をそらした。


「まあ、それでも明日香ちゃんは恋を思い出したから結婚したんだろうけどね」

 加納は灰皿でタバコを擦った。

「もうちょっと、よく考えてみたら?俺ね、なんかまだ終わってない気がするよ。幸ちゃんのリメンバーラブは」

「……は?」

 加納は軽く笑うと喫煙室を出ていった。


「リメンバーラブって……ばかじゃねえの」

 短くなったタバコを灰皿に落とし、息をつく。


(もうちょっと、よく考えてみる、か)


 幸治は喫煙室を出る。近くの人事課をのぞくと加納の他にも何人か残業をしているようだった。幸治に気づいた加納が人事課の奥、課長席から明るく手を振る。


(きもっ……なんだあいつ)

 那波にごめんと言ったあの夜から色彩を失っていた心が加納によって少し色を取り戻したような感覚に気づいて幸治はなんだか腹立たしくなった。


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