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10月(3)

 記事を書き終え提出した帰り道。達成感と解放感で那波の足元はいつもより弾んでいた。見上げた夜空には月がくっきりと浮かんでいた。

 ここまで走り続けた数週間が、一気に終わったような気がした。

 ふう、と長い息を吐く。浮かんだのは、幸治の顔だった。


(……明日、伝えよう)

 思えば、誰かに向かって「好き」を伝えたいと思ったのは生まれて初めてだった。そもそも那波は今まで誰かを好きになったことがなかった。恋の話で盛り上がる女子たちの輪には入れなかったし入りたくもなかった。恋を知らなくても生きていける。私に恋愛は不要だと、信じて疑わなかった。

 それが今、一人の人を思い、確実に「好き」になった。那波は初めて恋を知った。

   


 翌日は仕事がほとんど手につかなかった。そんな様子の那波を見て幸治は「新芽賞で疲れたでしょ?今日はゆっくり休んで」と労ったが、別に疲れてはいなかった。


「課長、今日の夜お話したいことがあります」

 夕方、デスクで書類に目を通していた幸治に、那波はそう声をかけた。


 幸治の目が一瞬静かになり、それからいつもの飄々とした笑みを浮かべた。

「えーなんだろ。こわい話じゃないよね? じゃあ、休憩室でいい?あそこなら誰も来ないしね。あ、みんないてもいいならここでもいいけど」

「いえ、休憩室で」

 那波は淡々と伝え、席に戻った。



 夜の休憩室は静まり返り、照明がぼんやりとあたりを照らしていた。ここに来るような職種の社員はみな帰宅している時間だ。窓際の席に二人は向かい合って座る。

 コーヒーメーカーの低くうなる音が、二人の間の沈黙を埋めていた。

 那波は手にしていた缶コーヒーをテーブルに置くと、小さく息を吐いた。


「すみませんでした」

 那波がそう切り出すと幸治は何も言わずに那波を見た。


「ジャパンフェスの打ち上げの夜のこと……ほんとうは全部覚えてるんです。私、あの時ほとんど酔いも醒めてて、醒めてて……それで」

 那波は言葉を探すようにうつむいた。幸治はただ那波を見つめている。

「それで……だから、あの時言ったこと……あれは」


 那波は幸治をまっすぐに見た。

「あれは、私のほんとうの気持ちなんです」


(まるで、俺があの夜のことを全部覚えてるって知ってるみたいだな)


「あの夜はたぶん何もなかったよね」と天野さんに話したんだけどな、と幸治はどこか冷静に考えていた。


 那波から話があると言われたら、それも夜の誰もいない場所で話したいとくれば、幸治は那波が何を話したいのかなんとなくわかっていた。わかっていたのだから、この場に来ることを断ることだってできた。いつものようにやんわりと断って、それでなんとなくこの話をうやむやにして、変わらない関係を保つことも。

 それでもここに来たのは、なぜだろう。


 那波は話を続けた。

「私は、課長が好きです。嬉しいこともつらいことも、課長が聞いてくれるとそれだけで心が明るくなるんです。きっとこれが……好きってことなんだと思うんです」

 言葉が震える。でも、那波の瞳は揺れていなかった。


 沈黙が落ちた。


 幸治は少し視線を落とし、缶コーヒーを軽くゆするように回した。

 そのしぐさは、何かをごまかすようでもあり、整理するようでもあった。

「……そっか」

 そう言った幸治の声は、いつもより少しだけ低かった。

 そして、ゆっくり言葉を継いだ。


「でも……ごめん」


 那波は顔を上げた。何かを言いかけて、言葉を飲んだ。


「俺は……天野さん知ってるかわからないけどバツイチで、40のおっさんだよ。天野さんがね、俺をそういうふうに思ってくれるのは……嬉しいけど、よくないんじゃないかな。だって天野さんにはもっといい人が絶対いるから。そういう人とこれからまだ、いくらでも出会うんだよ」

 まるで、自分に言い聞かせるような口ぶりだった。


「澤野さんとご結婚されていたのは、知っていました。そのうえで、それでも……私は課長が好きです」

 那波の声が、少しだけ強くなった。


 幸治は目を伏せ、苦笑するように顔をそらした。

「……ごめん」

 そう一言だけ残し、幸治は立ち上がった。


 テーブルに置いたコーヒー缶が、カタリと鳴った。

「でも……ありがとう。嬉しかった」

 那波の言葉を待たずに、幸治は休憩室を後にした。

 

 ドアが閉まる音がして、静けさが戻る。

 那波はしばらく立ち上がることができず、深く息を吐いた。


(ありがとう、嬉しかった)


 その言葉に嘘はなかったように思うのはただ都合のよい解釈をしているだけなのか。

 休憩室の窓から見えるビルの灯りが、ぼんやりとにじんで見えた。



 帰宅した幸治は、ネクタイも緩めずそのままリビングのソファに沈み込んだ。

 天井をぼんやりと見上げていると、休憩室での那波の言葉が何度も脳裏に浮かんでくる。


(課長が聞いてくれるとそれだけで心が明るくなるんです)

 曇りなく、まっすぐに自分を見つめる彼女の目がよみがえってくる。


 あのまっすぐな思いは俺じゃない誰かに伝えるべきものなんだ。


 そう言い聞かせるように、カーテンの隙間から見える夜の街を見つめた。

 部屋の静寂を持て余し、スピーカーの電源を入れる。


『ever and ever』が流れた。彼女が好きだと言っていたネモフィラのあの曲。

 淡いイントロ。切ないメロディが今日は一段と心にしみ込んでくる。

 幸治はソファに深くもたれたまま、目を閉じた。


 ――ライブ、楽しそうだったな天野さん。

 ――目をきらきらさせて、拍手してたな天野さん。

 ――『騒ぎすぎましたよね』なんて言ってなんか一人で落ち込んでたな天野さん。


 どの那波も、幸治はありありと思い出すことができる。

 思い出して、心がほっと暖かくなる。


(……ほんとうのことなんて言えないだろ)


 天野さんは、俺を好きだと言ってくれた。でもそれは完璧に取り繕ったいつもの「芦田課長」が好きなだけだろう。俺はそんなにいい人間じゃない。天野さんと一緒にいられたら、それは嬉しい。でもまたいつかあの日が来るかもしれない。――昏い目で後悔をにじませた明日香を見たあの日が。


(怖いだけなのか。俺は)

 彼女の未来を想うふりをして、ただ自分が傷つきたくなかっただけかもしれない。


「40でバツイチの俺なんかより、天野さんにはもっといい人がいるよ」

 それが、大人のふりをした言い訳だと、どこかで気づいていた。

 静かに音楽がフェードアウトし、部屋は再び、沈黙に包まれた。



 翌日、イベント推進課のオフィスはいつも通りの喧騒に包まれていた。

 幸治はいつものように、にこにこと軽口を叩きながら、会議資料に目を通している。

 その笑顔の奥に、わずかな翳りがあることに気づく者はいなかった。

 一方の那波は、いつも通りの正確な仕事ぶりではあるものの、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。


(あまり眠れなかったのかな……大丈夫かな天野さん)

 そんなことを思う資格があるのかと、幸治は心の中で自分を咎める。


「あれ、天野さんさっき言った来週の打合せの資料ってもうできてる?」

 溝口が那波に声をかける。


「あ……」那波は作業の手を止めた。

「すみません、今すぐに」

「ああ、いいよ全然大丈夫」

 溝口がすかさずフォローするが那波はあちこちのファイルから資料を引っ張りだしている。

「すみません、忘れてました。すぐやります」

 那波は慌てたようにキーボードを打ち始めた。


「ほんと大丈夫だよ、天野さん。てか来週の打合せは溝口くんと行こうと思ってたしね。そうだよ、だから溝口くんが作ったらいいんだよ」


 那波は驚いたようにキーボードを打つ手を止めて幸治を見た。溝口も予想しない言葉に目を見開いた。


「え?僕なんですか?」

「だって次のやつ、ダイバーシティスポーツフェスティバルでしょ?溝口くん運動系じゃん」

「いやまあそうですけど……」


 溝口は那波をちらりと見る。

 那波はいつものように隙のない表情に戻っていた。


「それに、天野さん絶対疲れてると思うもん。新芽賞に出すって大変なことだよ?しばらくゆっくりしたほうがいいって」

 幸治は那波に目をやる。


「……すみません、お気遣いありがとうございます」

 那波は幸治と目を合わせず、抑揚のない声で返した。



 その夜、帰宅した那波は明かりもつけずリビングでしばらく立ち尽くしていた。


(こうして、遠くなっていくのか)


 那波は今まで好きな人から距離を置かれるという経験がなかった。好きな人がいなかったのだから当然だ。「天野さんはまじめすぎるから」と周りから避けられても「炎上させた記者」と後ろ指をさされようと別になんとも思わなかった自分は精神的に強いと思っていた。


 でも、そんなことはなかった。


「好きな人」の影響力は大きすぎる。

 優しい言葉でやんわりと、しかしはっきりと距離を置かれたあの瞬間を思い出すと胸が苦しくなる。


(恋なんて、するものじゃなかった)


 心の中で呟き、堰を切ったように涙と嗚咽があふれてきた。

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