10月(2)
朝晩が肌寒くなって、季節はすっかり秋になっていた。
それでも二人は相変わらずお互いにどこかで意識しながらそれを取り繕いながら何もないように仕事をしていた。
新芽賞の締め切りが近づいてきたある日の午後、那波は社員食堂で一人、トレーを前にして黙々と箸を動かしていた。
記事の追い込みで最近は寝るのを忘れる。イベント推進課の仕事を融通してもらっているとはいえ、業務中に記事のことばかりというのはさすがに気が引ける。集中して記事に向かうのはいつも帰宅してからだった。
そんな日々が続いて疲れがたまったのか今朝は目が覚めたらスリープしているパソコンを抱えるように机に突っ伏していた。飛び起きて時計を見たのが出社の15分前、お弁当の準備をする時間もなく家を飛び出したのであった。
イベント推進課の自席でお弁当を広げるのがルーティンとなっている那波にとって社員食堂で昼食をとるのは、異動してから初めてだった。午後を回った社員食堂では、総務系の職員はすでに昼休みを終えた時間であり、記者と思われる職員が数人、パソコンを開きながら丼をかきこんでいる。閑散とした食堂で那波は黙々と箸を進める。
テーブルの向こう側では、休憩中なのか総務局らしき女性二人組が談笑していた。
そこまで大きな声でなくても静まり返った空間ではその言葉がはっきり耳に入ってくる。
「……でね、澤野さんって、今度海外に行くらしいよ。内戦を書きたいって自分で希望したんだって」
澤野という名前に、那波は一瞬箸の動きを止めた。
女性たちは続けて話す。
「やっぱりすごいよね、あそこまで自立できれば結婚とか考えないんだろうな」
「え、知らない?澤野さんってバツイチなんだよ」
「まじで?結婚してたの?てか離婚したのそれで?え、社内?」
聞き耳を立てているつもりはないが話が入ってくる。プライベートをこんなところで暴露される明日香のことを那波は少し哀れに思った。
「うん、イベント推進課の芦田課長とね。もう10年前くらいかな、離婚したの」
トレーの上で、那波の箸が小さな音を立てて転がった。
「うそ!?芦田課長ってなんか適当な感じの人でしょ?澤野さんと全然タイプ違うじゃん。へー…澤野さんはもっとばりばり記者やってる人とくっつきそうなのにね」
「何言ってるの、芦田課長ってもともと社会部の記者だよ?伝説の敏腕記者って言われてたんだから」
「えー……全然想像つかない、それほんとなの?同姓同名とかじゃない?」
女性社員たちが笑っている声も、その後の会話も那波の耳にはもう入ってこなかった。
心の中をざわりと何かが撫でていく感覚。
知らなかった。その事実が、自分でも思っていた以上に衝撃だった。
幸治がかつて結婚していたこと。
その相手が、澤野明日香であること。
そして、彼女が幸治から離れた今も社会部の記者として活躍していること――
ゆっくりと口に運んだ味噌汁の味は、いつも以上に薄く感じられた。
何かを問いただしたいわけではない。
知る権利があるわけでもない。
けれど、彼の隣に明日香がいたという事実が確かにそこに存在したのだと思うと、心がざわついてしかたがなかった。
(私は、何も知らなかったんだ)
静かな食堂の窓の外で、風に揺れる葉の音がした。
午後、それまで根詰めてパソコンに向かって仕事をしていた幸治は「ちょっと疲れたから休憩してくるね。みんなものんびりして」と言い残し休憩室へと足を向けた。
窓からは秋の柔らかな日差しが差し込んで休憩室をほんのりと照らしている。
ドリップコーヒーを紙コップに注ぎ、窓際の席に腰を下ろす。
手にしたカップは、まだ熱を持っていた。だが口にする気にはなれず、ただ窓の外に目をやる。
通りを見下ろすと作業服姿の男性たちがゆっくりと歩いていくのが見える。
その様子をぼんやりと眺めながら、幸治は考えていた。
――天野さんは今も記者になりたいのか。
新芽賞にかける彼女の真剣な思いを、幸治はよく知っている。
応援したい気持ちはある。それがきっと彼女の夢であり、目標だろうから。
それと同時に、ふと胸を締め付けられる感覚に襲われる。
記者という「鎖」で雁字搦めにされた自分自身のこと、一方で「鎖」を味方につけ、記者として飛躍した明日香のこと、すれ違いばかりだったあの三年間が頭によぎる。
天野さんが記者職に戻れば今の、同じ課の上司と部下という立場がなくなって物理的に会う頻度が減る。その寂しさもないわけではない。
でもそれ以上に、彼女には自分のように――記者という仕事に没頭し、溺れて初めて後悔するなんて経験をしてほしくないという、傲慢とも言える思いを抱く自分に嫌気が差す。
そのとき、扉が静かに開いた。
「幸治」
聞き慣れた、懐かしい声だった。
顔を向けると、明日香が幸治の元へ駆け寄ってきた。
「さっきイベント推進課に行ってきたら、課長は休憩室にいるんじゃないですかって言われたから」
明日香は幸治の向かいのいすに腰かけた。
「……久しぶりじゃん。もう二度と会わないだろうと思ってたけど」
幸治は冗談とも本気ともとれない飄々とした様子で声をかけた。
「ほんとだよね、なんだかんだ10年ぶり?」
「ああ、社会部にいるんじゃそもそもこっちにも滅多に来ないだろ」
「そうだね、昨日まで大阪にいて。明日には北海道なんだ」
明日香はそう言うと「私も何か飲もうかな」と席を立ちコーヒーを注いでまた席に戻った。
彼女の髪は肩までの長さに整えられ、眼差しは以前よりも少し柔らかくなっているように見えた。
「そういや海外にも行くんだって?内戦の取材なんて……当時の俺でも気が引けたのに」
「あの頃は若かったからね。私だって今だから決められたようなものだよ」
「そっか」と幸治はふっとほほ笑み、手にしていたコーヒーをようやく口に運んだ。
「それで、俺に何か用でもあった?」
幸治が明日香に話を向けた。
「ああ、うん。そうなんだ」
明日香はどこか照れた様子で続けた。
「あのね、私結婚するの」
一瞬、時が止まったようなような感覚がした。でもそれはほんの一瞬のことだった。
「これ」と明日香は左手の薬指を見せた。そこにはシルバーの細いリングがはめられている。
「……そうなんだ。よかったじゃん」
幸治は声を絞りだした。明日香のことはもう、何も思っていない。
それなのにまた、10年前のあの日、別れを選んだあのときの明日香の表情がよぎり胸が締め付けられた。
「うん、うちの政治部の記者でね。彼もあちこち飛び回ってるからあまり会えないんだけど」
明日香は話す。
「幸治と別れた後……私、もう恋愛とかそういうの忘れようって思ったんだ。仕事楽しいしそれでじゅうぶんだって。でも」
明日香は窓に目をやり息をついた。
「彼と出会って、もう一度、やり直してもいいかもしれないって思えたの。海外に行くって決めたのも彼の後押しでね。あ……こんなの幸治にする話じゃないけど」
そのとき、ついさっきまで幸治の胸の中に沈んでいた澱が、明日香のはにかむような笑顔を見てすっと消えた。
(そうか、明日香は恋を思い出したんだ)
そのとき初めて明日香を「記者時代の仲間」として見ることができた。
昔、仲が良かった人。それは傷ではない。
「別にいいよ、ほんとよかった。言うて澤野さんまだ若いんだからさ、仕事もプライベートもばりばりできるよ」
幸治は笑った。明日香を「澤野さん」と呼んだのは10年以上ぶりだったのに、驚くほど自然に口をついて出た。
「そんなこと言ったら幸治だって。どうなの?最近」
「最近ね……うん、俺もなんとかやってるよ」
明日香はすかさず反応する。
「『俺も』って……もしかして幸治も付き合ってる人いるの?」
「そんなわけないじゃん」と幸治は自嘲気味に笑った。
「……俺が、ただ好きってだけ。ほんと、それだけね」
明日香の惚気に当てられたわけではない。でも明日香にならいいかと思えた。恋を思い出し、新しい道へ進んでいる彼女になら自分の本音を隠さなくても。
「もしかして…イベント推進課のあの女の子?」
幸治は答えずにコーヒーに口をつけた。それを明日香は肯定と受け取ったようだった。
「じゃあ私そろそろ行くね」と、明日香は席を立った。
「よかった。幸治が今も変わらずにいてくれて」
そう言い残して明日香は休憩室をあとにした。
ドアの閉まる音がして休憩室は静けさを取り戻した。幸治は窓の外を眺めてコーヒーを飲んだ。
(好き、か)
その言葉を口にできるほど自分は若くないと思っていた。いい大人が愛だの恋だの、くだらない。それでも明日香に那波への気持ちを口にしたあの瞬間、この心は確かにわきたった。それは昔、ときめきと呼んでいた感情だった気がする。
しかしその次の瞬間、明日香の言葉が頭の中で再生された。
(幸治と別れたあと、恋愛を忘れようと思ったんだ)
(もう一度やり直してもいいかなって思えたの)
「……俺は、明日香を傷つけることしかしてなかったんだな」
幸治は窓の外に目をやる。そんなことわかっていたはずだ。この10年間、何度も同じことを考えた。それでも面と向かって言われると見ないふりをしてきた自責の念が顔を出す。
(やっぱり、この気持ちは自分の中だけに留めておかないと)
ふっと息をつき、空になった紙コップを捨てた。
廊下の照明はまだ白く、窓の外には午後の陽射しが広がっていた。
休憩室を後にした明日香が、社会部のフロアへと向かって歩いていく。明日には北海道へ発つ。その前に社内でできる準備をしないと。
飄々ぶってもその心に熱いものが流れている。それが幸治だった。「俺が、ただ好きなだけ」とかすかに照れながら口にしたまっすぐな言葉。それを聞けただけでも明日香はどこか晴れ晴れとしていた。
そのときだった。
「……すみません」
背後からかかった声に、明日香は立ち止まり、振り返る。
「あ…さっきの」
そこに立っていたのは、イベント推進課でさっき少し話した女性社員だった。
少し戸惑いを含んだ表情で、しかしまっすぐにこちらを見ている。
「私、イベント推進課の天野と申します。少しだけ、お話できますか」
廊下の端、誰も通らない窓辺のスペース。
二人はそこに立った。
「突然すみません」
那波は静かに口を開いた。
「私、以前生活部で記者をしていて……その頃から澤野さんは私の憧れだったんです。今も……」
「ああ…そうなんだ。うん、ありがとう。嬉しい」
彼女が幸治の思う人――なんとなくわかる。このまっすぐさにきっと彼は惹かれたのだろう。
「それで……澤野さんが芦田課長と昔ご結婚されていたと聞きました」
「それは本人から?」
「ああ…いえ、そういうわけではないんですが」
那波はばつが悪そうにうつむいた。
「あ、ごめんなさい。問い詰めてるわけでもなんでもなくて」
那波は顔を上げてまたまっすぐに明日香を見る。
「うん、ほんと昔ね。芦田さんと結婚してた」
「あの……私」
那波は覚悟を決めたように明日香に向き直った。
「私、芦田課長が好きです。上司として好き……それももちろんあるんですけど、一人の人として好き、です」
明日香はじっと那波を見つめていた。その視線に耐えきれず那波はうつむいた。
「あ……それを澤野さんに伝える意味は…ないかもしれないんですが」
その後に続く言葉を探して那波が逡巡している。
「私、さっきね芦田さんと話してたの」
那波は不安と緊張が入り混じった表情で明日香を見た。そんな那波を見て明日香は口元に笑みを浮かべた。
「大丈夫、もうそういう関係じゃないから。それに私、結婚するの。それを芦田さんにも一応報告?しておこうかなって。ほら、まあ短い間とはいえ仲良くしてたわけだし」
明日香はにこやかに続けた。
「でね、今日話してわかった。芦田さんも、きっとあなたのことを大切に思ってる」
那波は言葉を失ったまま、明日香の視線を受け止める。
まっすぐで、優しいその瞳。そこからは嫉妬も敵意も感じられない。
那波の胸の奥に、熱いものが広がる。
それは驚きでも困惑でもなく、名前のつかない決意だった。
「ありがとうございます」
那波は深く頭を下げた。
「そんな感謝されることしてないけどね」
そう言うと明日香は笑って「じゃあ」と歩き出した。
那波はその場にしばらく立ち尽くしていた。
心の中で、何かが音を立てた気がした。
記事を書き上げたら、ちゃんと伝えよう。
芦田課長に。 いまの私の気持ちを、すべて。
廊下を吹き抜けるエアコンの風が、那波の髪を揺らした。




