10月(1)
その日、社内の掲示板にひときわ目立つ張り紙が貼り出された。
「日出新聞社 新芽賞開催のお知らせ」
那波は思わず足を止めた。
新芽賞。日出新聞社の編集局と人事課が共同で開催する、入社5年以内の若手社員対象の記事コンクールだ。本社のみならず全国に散らばる支社からも腕に覚えのある若手記者が参加し、さらに記者職ではない社員からの応募も可能だった。新芽賞のことは知っていたがこれまで那波は記者の仕事に忙殺され応募したことはなかった。
(入賞すれば、記者にまた戻れるかもしれない)
掲示板の前で拳を握ると、那波はすぐにデスクへ戻り、記事になりそうなテーマをパソコンに打ち込み始めた。
「天野さん、どうしたの?急に」
隣席の溝口が声をかけると、那波は少しだけ頬を赤くして笑った。
「はい。新芽賞に応募したくて」
「そうなんだ!さすが天野さんだね」
溝口は声を上げた。そのとき他部署との打合せから幸治が戻ってきた。
「課長、今よろしいですか」
那波がすっと立ち上がり幸治の前へ立つ。
「うん、どうした?」
「私、新芽賞に応募しようと思うんです」
「お!すごいね。そしたらこっちの仕事は大丈夫だよ。新芽賞に集中して」
「あ…ありがとうございます。でも自分の仕事はしっかりやりますんで」
「うん、無理せずにね。あ、記事のことは溝口くんにアドバイスもらったら?溝口くん文章じょうずだもんね」
「課長いい加減にしてください、僕記者やったことないですから」
溝口は幸治につっこみを入れながらキーボードを叩いている。
そんな幸治と溝口のやりとりを横目にパソコンに向かい記事のテーマを考えている那波を幸治はどこか複雑な表情で見ていた。
数日後、那波は地下の資料室にいた。
古びた紙の匂いが漂う部屋、書棚からファイルを出し入れする音だけが響いている。
「日出新聞賞入選記事」
その年に日出新聞に掲載された膨大な記事の中から特に優秀な10件が選ばれる。
入選する記者はみな取材力だけでなく文章の構成力や語彙力などすべてに優れているとされ、その後も記者一筋で生きる人がほとんどだった。そして新芽賞はそんな日出新聞賞の登竜門という位置づけであった。
(入選でもいいから新芽賞を獲って、いつか日出新聞賞に選ばれるような記者になれたら……澤野さんのように)
日出新聞賞に入選した記事がすべてまとめられているファイルを手にとり、那波はじっくりと読んでいた。
東京大空襲の証言記事、原発取材の連載、地域密着のミニコラム――
雑多なテーマの入選記事を読み漁るうち、一つの記事で手が止まった。
《新興宗教と政治の境界線を追って》
――社会部記者・芦田幸治
「……課長?」
(2010年日出新聞賞 第3位入選記事)
「第3位……課長が?」
那波は時間を忘れて記事を読んだ。
今の幸治からは想像もつかないような尖った文体。追い詰めるような問いかけ。静かな怒りのような筆致。
(……こんな記事を書く人だったんだ)
読む人の目と思考を奪うほど求心力のある記事。
那波は読み終わってふっと息をつくとまた読み返した。そして、もう一度名前を確認する。
それは、「適当でいつも飄々としている」イベント推進課長・芦田幸治の、知らなかった顔だった。
その日の夕方。
那波は意を決して幸治の席へ向かった。
「課長、少しよろしいですか」
「うん、どうした?あ、新芽賞のこと?」
軽い調子の幸治に、那波は遠慮がちに資料室で見た記事のことを口にした。
「日出新聞賞の入選記事を読んでいたら……課長の名前を見つけました。すごく鋭くて、迫力のある記事でした。……もしよかったら、アドバイスをいただけませんか」
一瞬だけ、幸治の目が静かになる。
けれどそのまま、いつもの飄々とした笑みに戻った。
「えーあれ見ちゃったの?恥ずかしいね、あれ俺の黒歴史だからさ」
「でも、日出新聞賞の第3位なんてそんな簡単に獲れるものじゃないです。それに課長…社会部の記者だったんですね。なんで今は……」
そこまで言って、言葉を切った。
幸治は、少し間を置いてからカップをゆらゆらと回しながら笑った。
「まあ、いろいろね。俺はこういうとこでのんびりやるほうが性に合ってるって気づいたからかな」
――いろいろ。
その言葉に、それ以上踏み込んではいけない空気を那波は感じた。
幸治にとって、記者という仕事は自分を縛りつけて決して解くことのできない「鎖」でしかなかった。
深夜まで張り込み、スクープを狙う。当事者から生きた言葉を引き出すためには相手の感情を逆なですることも厭わない。自分を蹴落とそうとしている他の記者たちを返り討ちにする。とんでもない時間と労力を割くことなんてなんでもなかった。自分が見たこと、聞いたことをひたすらに記事へと昇華させ、また別の取材へ駆ける。そういう生き方しかできなかったからそうして生きてきただけだ。
気づいたら自分が産み落とした文章たちは「新芽賞特賞」だの「日出新聞賞第3位」だの勝手に名前がついていた。
「芦田さんの記事は私の憧れです」
そうまっすぐに話す明日香と出会って、初めて自分の「鎖」を肯定された気がした。
自分は明日香と出会うために記者になったのかもしれない、とすら思った。そして、それでも、すれ違っていった日々。
すべてが重なって記者という「鎖」を無理やり引きちぎった。
記事を書くことは命を燃やすことと同じだった。少なくとも幸治にとっては記事を書くたびに自分の命が削られる感覚があった。生きるために命を削る。そうしたいのではない。そうせざるを得なかっただけだ。
(天野さんには、穏やかに生きてほしいんだけどな)
心の中で呟き、何を言ってるんだろうと打ち消す。天野さんの生き方に口を出す権利などない。
「……まあ、頑張って。こっちの仕事は気にせずにさ」
那波はまっすぐに頷いた。
幸治が口にしたそのひと言に、たくさんの意味が込められていることに気づくことはなかった。




