9月(3)
リビングのドアを開けてそのままソファに身を預けた。
隠していた本音がため息となって部屋に浮かぶ。
あの夜のことを、これからも全く触れずに彼女と仕事をすることもできた。
そのうちに「好き」と言った彼女の声も、手も、夢の中のできごとだと記憶を塗り替えられるくらい薄まって、そうなったあたりで彼女はまた異動する。何もないまま、それでいい。
それが本音であることは確かだ。それなのに。
天野さんはどう考えているんだろうか。あの夜のことを。俺のことを、どう考えているんだろう。知りたい。天野さんの考えていることを。
これもまた本音だった。彼女のことを知りたい。もっといろんなことを話したい。だからといって――
「本音を言えばいいってもんじゃないんだよな」
幸治は呟いた。灯りをつけていない部屋の窓からは東京の夜景がきらめいていた。
「たぶん何もなかったよね」
その言葉は、時間が経っても那波の中で消えずに残っていた。
いつも通りに出勤して、いつも通りに業務をこなし、そして幸治とも、変わらないやり取りを続ける。
けれど、ふとした瞬間、胸の奥にひっかかる。
(あの夜の言葉も、手のぬくもりも、全部なかったのか)
幸治を目の端にとらえる。いつもと変わらずパソコンに向かいながらマグカップに入ったアイスコーヒーに口をつける。「イベント推進課の芦田ですー お疲れさまでーす」と、穏やかな口調でどこかに電話をかけている。いつもと何ひとつ変わらない。
私もいつも通りの仕事をしないと。
たかが恋愛ごときで仕事が手につかないなんて愚の骨頂だ。そう思うのにうまくできない自分に腹が立つ。
ふと幸治は、ふらりと立ち上がり部屋から出て行った。
足が向かったのは、社内の休憩室だった。
小さな観葉植物と、コーヒーのほろ苦い香りが残る空間。窓の向こうには、遠くスカイツリーが霞んで見えていた。
幸治はコーヒーメーカーで紙コップを満たし、窓際の椅子に腰を下ろした。
遠くに聞こえる人々の話し声、電話のコール音、雑多な音が心地よいBGMになる。
眺めるでもなく窓の外に目をやっていると、休憩室のドアが開いてラフなジャケット姿の男が入ってきた。
「あーイベント推進課の課長がさぼってる」
加納が幸治の向かいに座った。
「いいんだよ、課長ってのはたまに席を外さなきゃ。みんな息抜きできないでしょ」
「じゃあ俺もさぼろうかな」
加納は立ち上がり自販機で缶コーヒーを買うと、再び幸治の向かいに座る。
「最近どうよ」
缶コーヒーのふたを開けながら加納が尋ねる。
「最近ね……」
幸治は言い淀み窓の外に目をやった。
最近、いろいろありすぎた。しかしそれを今ここで加納に話すほどの気力はない。
「あ…俺わかっちゃったかも」
「は?何を」
「天野さんのこと?」
幸治は口に運ぼうとしたコーヒーをあやうくこぼすところだった。
「え?もしかしてほんとに?」
加納は驚いたように目を見張った。
「俺、お前に何か話したっけ…」
休憩室には二人以外誰もいないのに幸治はわずかに声をひそめた。
「いや、聞いてないね。はっきりとは」
「はっきり…」
「前に喫煙室で会ったじゃん、幸ちゃんと。そのとき、なーんとなく思ったんだよね」
「……何を」
「あれ?幸ちゃん、天野さんのこと気になってる感じ?って」
幸治は記憶を手繰り寄せる。あのとき、確かに彼女の話をしていた。でも当たり障りのない話だ。そもそも彼女のことは最近異動してきた一人の部下としての印象しかなかった。
「幸ちゃんさ、今まで自分のとこに配属された人のことなんて言ってたか覚えてる?」
「今まで……」
「俺、イベント推進課に配属された人のこともれなく幸ちゃんに聞いてるんだよ。『今度配属された人どう?』って。一応人事課やってるわけだしね。そしたら溝口くんのことは、『あーすごいよね』で終わり。その前の人に至っては『そんな人いたっけ』だよ?幸ちゃんは人に興味なさすぎるんだよ」
思い返すと異動がひと段落する頃、加納とばったり出くわすことが多かった。記者を諦めて別の道を選んだ自分が腐ることなく課長職としてしっかり部下を見ているのか、人事として加納なりに気がかりだったのかもしれない。
「今まで一言で終わってたのにさ、天野さんのときだけすごかったんだもん。幸ちゃんの熱意が」
加納は続ける。
「『まじめすぎるけどよくやってるよ、そんなところがあやうさを感じるけどね。この前も一緒に打合せ行ったんだけど』って。幸ちゃんがあんなに誰かのことを評するのは……明日香ちゃん以来だった」
何も言えなかった。加納の言うとおりだ。でも、だからこそやっぱりこれ以上進んだらいけない。
最後に見た、後悔をにじませた明日香の表情がよみがえる。天野さんにあんな思いはしてほしくない。
「恋はもう…忘れたんだよ」
幸治は自分に言い聞かせるように呟いた。もういい大人だ。恋なんて忘れたほうがいい。彼女の笑顔を見て心が色づく瞬間も、たまらなく触れたくなる衝動も、すべて忘れたほうがいい。
「忘れた、ねえ」
加納はコーヒーに口をつけて窓の外を眺めた。
「忘れただけなら思い出せるよね」
幸治は思わず加納を見た。ふっと軽く笑い加納は続ける。
「思い出してみたら?そういうの」
「……そういう年じゃないだろ。俺らもう40だよ?」
幸治は努めて軽くかわして「じゃあもう行くわ」と席を立った。
(忘れただけなら思い出せるよね)
廊下を歩く幸治の頭の中で加納の言葉がぐるぐると回る。なんであんなやつの言葉にここまで自分が揺さぶられないといけないのかと腹立たしいくらいだった。
彼女も何も覚えていない。俺も忘れた。あの夜のことは。それでよかったはずだった。忘れたつもりだった。
何度も忘れては、そのたびに思い出す。
初めて二人で外回りをしたときに車から流れていたネモフィラの曲、ずぶぬれになりながら必死に前へ進もうとしていた雨の日、子どものように目を輝かせていたライブの光景。
そして「好きです」という言葉とやわらかい手の感触。
思い出しては忘れようとする。忘れてはまた思い出す。思い出してしまうから、なかったことにしようとしたのに。
なかったことには、今もできそうになかった。




