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9月(2)

 東京は、一足早い秋雨前線のせいで連日すっきりしない空模様だ。


『ジャパンフェス』が終わり、一段落ついたイベント推進課のフロアには、すでに次の案件の資料が並び始め、幸治も那波も以前と変わらぬ様子で仕事をこなしていた。


「天野さん、『秋の謎解き街歩きツアー』の広報確認って来てた?」

「はい、修正があったので広報に戻してます。今日じゅうにはまた確認が来るそうです」

「おお、サンキュ。さすが天野さん」


 そんな幸治の軽口に、那波は少しだけ口角を上げるが、それ以上は何も言わない。

 視線はパソコンのモニターに向けたまま、指先は無駄なくキーボードを叩き続けていた。

 幸治は、その様子を目の端でとらえながら、もう一度だけ口の中で「ほんとさすがだよ」と小さく呟く。


 ――あの日から、何もなかったように振る舞う。

  示し合わせたように、二人は自然とそうしていた。


 けれど。


(……忘れられるわけないよな)


 幸治の脳裏には、あの夜の那波の手と、「好きです」という声が今もはっきりと残っている。

 あれは酔った勢いでの言葉だ。酔っていなければ、彼女がそんなことを言うはずがない。

 だからこそ――何も言ってはいけない。


 それは、那波も同じだった。

 あの夜、幸治に身を寄せたときのあの感覚。

 心がふわりと浮き上がるような幸福感と、翌朝の激しい後悔。

 何より、あの告白を幸治がどう思ったのかを考えると、胸が締め付けられるような申し訳なさでいたたまれなくなる。



 週末、夕暮れが落ちかける都内の文化会館。

 日出新聞社が後援するオーケストラの定期演奏会に、幸治と那波は立ち会っていた。


「文化部の取材が入るから、一応うちからも顔出すようにってさ。ま、たまにはこういうのも悪くないでしょ」

 3日前のこと。そう言ってチケットを手渡した幸治に、那波は少しだけ目を見開いた。


「……私でいいんですか」

「もちろん。溝口くんこういうとこ行くと寝ちゃうしね。それに天野さん音楽好きじゃない?ネモフィラ好きなくらいだもん」

「まあ…嫌いではないですね」

「ならよかった。今週の金曜の夜なんだけど」

「了解です。予定しておきます」


 那波は隣に座る幸治に目をやった。プログラムに書かれている曲紹介をじっくりと読んでいるようだった。


「…課長は、クラシックよく聴かれるんですか」

 幸治はプログラムから視線を上げてステージを眺めた。

「昔はよく聴いたかなー。俺の同期が文化部の記者だったんだけどね、なんかやたらクラシックの演奏会に誘ってくるから」

「同期…」

「加納ってやつね。知らないか。今は人事課の課長やってるんだけど」


 人事課の課長……うっすらと記憶に残っている。私が異動するときに生活部の部長といろいろやりとりしていた人だろう。生活部で「炎上した記者」として周りから腫れ物に触るように扱われていた異動直前の日々が一瞬よみがえった。


「なんとなく知ってます。……異動のときにお世話になりました」

「ああそっか、あいついいやつなんだけどなんかめんどくさいんだよね。うざ絡みされなかった?」

「うざ絡みって」と、思わず那波は笑った。幸治は相手の話を広げて笑わせて、どんな場でも和ませる。


(誰とでもこうして楽しく話せる人なんだろうな、課長は)

 ふと、心に寂しさが水滴のように落ちてかすかに波紋を広げた。



 演奏会が始まると、二人は隣の席で、ただ静かに音楽に身を預けていた。

 シューベルトの交響曲が終わり、次にラヴェルの組曲が始まる。

 照明が落ちたホールの中、那波はふと隣を見た。

 幸治はステージを見ながら、腕を組み、音に耳を傾けていた。

 その横顔が、なぜかいつもより遠く感じられた。


 ――この距離は、遠いのか、近いのか。



 終演後、ロビーに出た二人は、自然と並んで歩いていた。

 夜風がもう冷たい季節になっていた。幸治はジャケットのポケットに手を入れた。

 いつもならあれこれと雑談をしながら歩く幸治がどこか緊張した面持ちだった。


「……天野さん」

 幸治が口を開いた。


「はい?」

「この前、ジャパンフェスの打ち上げのとき…」


 那波の心臓は一気に跳ね上がった。その先に続く言葉が怖くて、雑踏に耳を傾けようとした。


「あのときのこと……覚えてる?天野さん」


 その瞬間、那波の頭の中はフル回転してあらゆるパターンをシミュレーションした。

 覚えています、と言ったら課長はどうする?

 覚えてないです、と言ったら?課長は安心するだろうか。


「あの……すみませんでした」


 那波は思わず立ち止まり頭を下げた。幸治が驚いたように振り返り那波を見る。


「あの打ち上げのとき…課長もご存知かと思うんですが、私はかなり酔ってて、それで……どうやってホテルに着いたかもわからないんです」


 そんなの嘘だ。それでも繕う言葉は止まらずに流れていく。課長を困らせたくないのか、答えを聞くのが怖いのか。そのどちらもだった。


「ああ……そうだったんだ」

 幸治は安堵とも寂しさともとれる表情を浮かべた。


「だから…あのとき何があったのわからなくて……課長にご迷惑をおかけしてなかったかずっと心配でした」

「あ…うん」

 幸治は曖昧に返事をした。


「いや……実は俺もけっこう飲んでたからさ、あのとき。意外と酔って…たんだろうね、記憶が曖昧で。だから天野さんに何か迷惑かけたかなって俺も心配だったんだ」

「……あ、そうだったんですか」

「でも…まあ、天野さんも覚えてなかったんなら、ちょっと安心したかな。たぶん何もなかったよね。ごめんねいきなり変なこと聞いて」

「いえ…そうですね、何も…なかったと思います」


 私は覚えている。課長は全然酔ってなんかいなかった。そうやって嘘をついて、この人はうまくかわしていくんだ。

 二人はしばらく無言で立ち止まっていた。


(やっぱり正直な人だな、天野さんは)


「あのとき何があったかわからないんです」と、目をそらしながら必死に繕う那波を見て、幸治はどこかほほ笑ましさすら感じていた。


 同時に、下手な嘘をついてでもあの夜をなかったことにしたいのか、と思うとどこか寂しさが残った。


(何やってるんだろう)

 そのとき二人の心の声がシンクロしていたことはお互い知らない。

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