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4月

 四月の東京は慌ただしい。どこもかしこも花見客でにぎわったかと思えば葉桜になる頃には、桜に浮かれていた人々も足早にその下を駆けていく。都内に本社をかまえる日出新聞社も人事異動という名の春の嵐がひと段落して、社内の空気はどこか凪いだ海のようだった。


 芦田幸治は、背に広がる窓の外からそよそよと揺らぐ木の葉を眺めて、鼻歌混じりに椅子を揺らした。日本三大新聞社の一つである日出新聞社。その事業局イベント推進課という、かつての自分ならその存在すら知らなかったであろう部署の課長席に収まって、もう五年になる。


「……で、どこに何を展示するんだっけ。『日本の未来フェア』」

「課長、それメールで送ってありますよ。あと日本の未来フェアは先週終わったやつですからね?次は『日本の防災フェア』ですから」


 若手社員の溝口がパソコンの画面に向かったまま答えた。幸治は人懐こい笑みを浮かべる。


「溝口くんのメールってなんか読みにくいんだもん。難しくて」

「読む気ないだけでしょう、それ」


 溝口は企画書を印刷して課長に見せた。


「出店企業のブースをこうやって配置して、あとは各企業の物販と飲食スペースがこんな感じですね」

「ああそうそう、そうだったね」


『適当すぎてなんかいらいらする』、『つかみどころがない』、『冗談なのか本気なのかわからないことばかり言ってる』――今までイベント推進課に配属された社員は、だいたい幸治をそう評していた。溝口も幸治に対して概ねそんな印象だったが、それでも憎めないのは幸治の気さくな人柄によるものなのだろう。


「……今日ですよね。天野……?さん」

 溝口は席に戻り少し小声になった。


「ああ、異動ね。この時期に珍しいよね。なんかあったのかな」

 幸治は他人事のように返す。


「『なんかあったのかな』って……もう、課長と話してると疲れます」

 ため息まじりに溝口が言った。


「えーそう?俺は元気だけど」


 そんな、不毛なやりとりをしているところに、ドアがノックされた。


「失礼します」


 抑揚のない、だがよく通る女性の声だった。入ってきたのは、生活部の部長と真新しいベージュのスーツに身を包んだ若い女性。女性の黒髪はひとつにまとめられ、姿勢は寸分の緩みもない。


「本日付でイベント推進課に配属されました、天野那波と申します」


「ああ、お待ちしておりました」

 幸治は立ち上がると天野那波と名乗った女性の元へ立った。


「ちょっとタイミングがずれてしまったけれど人事異動ってことでね。天野さんは優秀な記者だったから。きっとこの課でも活躍できるはずですよ」


 生活部の部長がどこか白々しく幸治に言った。それを横で聞いていた那波は「優秀な記者『だった』」という言葉でわずかに目を伏せた。

 春の異動は終わっていたはずだ。そこへ来ての人事異動とくれば、いわくつきなのは誰の目から見ても明らかだった。



(ああ――あの炎上記事の)

 人事異動で生活部の記者がイベント推進課に配属されることになった。その話を事業局長から聞いたのはほんの数日前のことだった。

 記者の端くれだったころの癖で、幸治は顔と名前の記憶に自信がある。彼女は数週間前、生活面で掲載されたある記事の執筆者だった。子育て支援のトレンドを紹介する記事。記事の内容は問題なかった。しかし締めの段で書いた「母親は子どもにもっと手をかけるべきであるが」の一文が良くなかった。その部分だけが切り取られSNSであっという間に拡散された。

 「こんな記者がいるから少子化が止まらない」だの、「日出新聞には子どもを育てながら働いてる人なんていないんだろう」だの、本社の上層部にもクレームが届いたという話だ。


「あの炎上ぶりじゃあ、当分記者はできないだろうね。まだ若いのにかわいそうに」


 広い会議室は局長と幸治の二人きりだった。とりわけ人事の話は人の目を避けて行われる。


「確かに…実力はありそうな記者ですけどね」


 炎上したという那波の記事を読みながら幸治は言った。

 しかし、いくら実力があってもこの記事の書き方では炎上は避けられない。まあ、生活部上層のチェックも緩かったんだろう。運が悪かった。


「生活部で炎上ってのも珍しいですからね」

「そんなわけで、よろしく頼むよ。芦田さん」


 局長はそう言うと会議室を後にした。



「うち、編集局じゃないけど……それでも良かったの?」

 幸治が言うと、那波は持ってきた書類を机に入れながら表情ひとつ変えずに答えた。


「異動命令ですので」

 面白みも感情もない、けれど芯だけはきっちり通った声。幸治は苦笑し、那波に向き直った。


「じゃ、まあ、よろしくね。生活部、大変だったでしょ。ここで少し羽を伸ばすといいよ」


 那波はぴたりと足を揃えて頭を下げた。その動作には一分の狂いもなく、かえって居心地の悪さを感じるほどだった。

 窓から差し込む午後の日差しがイベント推進課の部屋をまぶしく照らしていた。



 都心のオフィス街は夜もひっきりなしに車が走り、そこここのビルの窓からは明かりが漏れている。

 幸治は会社からの帰り道に近くのコンビニでコーヒーを買うのが日課だった。暖かくなったとはいえ、夜風はまだスーツの隙間から肌を刺す。温かいコーヒーをすすりながら幸治は地下鉄の駅までのんびりと歩く。

 港区の高層マンション。エントランスで警備員に軽く会釈し、エレベーターに乗る。セキュリティのしっかりしたタワー型の建物だが、彼は豪華さよりも一人でいられることが気に入ってここに住んでいる。

 部屋の鍵を回すと、冷えた空気が迎えてくる。靴を脱ぎながら、無意識のうちにリビングの電気をつけてスピーカーの電源を入れる。

 やがて、柔らかなイントロが部屋に満ちる。アコースティックギターと、透明感のある女性ボーカル、時折重なるハーモニー。どこか切なく、懐かしい旋律。三人組のインディーズバンド「ネモフィラ」。知名度があるわけではないが、幸治はもう五年ほど彼らの曲をよく聴いている。

 

   「誰にも 言えない夜がある

   それでも朝はやってくる

   忘れたふりの うまさだけが

   少しずつ 増えていった」

   

 幸治はネクタイを緩め、冷蔵庫からウイスキーのボトルを取り出す。グラスに氷を落とし、音楽のリズムと重なるようにして琥珀色の液体を注いだ。

 テレビもつけない。スマートフォンの通知もオフにしている。こんなふうにして夜が更けていくのを、幸治は毎晩、静かに受け入れていた。


 誰かと会話することは嫌いじゃない。むしろ社内では「適当だけど気さくで話しやすい課長」として知られている。会議でも打ち上げでも、冗談を交えながらうまく場を転がすのが得意だ。

 けれど、仕事の外にその社交を持ち込むことはしない。連絡先は渡されれば交換するが、こちらからアクションを起こすことはない。飲みに誘われれば断らず行くが、二軒目の誘いは「明日も早いから」と笑って断る。

 そうして「一人でいること」に、すっかり慣れてしまった。

 10年前、離婚してからずっと――そうだ、ずっと、こうだった。


 曲が終わる。次の曲が始まる。幸治はソファに身体を預け、天井をぼんやりと見つめた。


(天野那波、か)


 昼間の彼女の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。整った顔立ちと、感情の見えない声。無駄がなくて、隙もない。けれどその完璧さが、なぜか少し、幸治には不安定に映った。


「まじめすぎるってのも、大変だよなあ」


 誰にともなく、呟く。氷がグラスの中でカランと音を立てた。



 朝の都心は、空気に熱と焦りが混ざっている。通勤ラッシュでごった返す駅前をすり抜けるようにして、那波は自転車を走らせていた。

 シンプルなクロスバイク。風を切る感覚が好きなわけではない。ただ、地下鉄の混雑にストレスを感じるくらいなら、一定のリズムで身体を動かすほうが効率的だと判断しての選択だった。

 体力の維持、通勤時間の短縮、環境への配慮。すべてに目的があり、無駄がない。


 帰宅すると、まず自転車を駐輪場の柱にチェーンでくくり、玄関で靴をきちんと揃える。都内、環七から少し入ったところにある古いアパートの二階。築年数の割には清潔感のあるこの部屋を選んだのも、家賃と立地を考慮した上での判断だった。

 鍵を閉めて、エプロンをかける。冷蔵庫にある野菜を使って、さっと野菜炒めを作り、炊きたてのご飯と味噌汁を添える。節約と健康の両立。それが那波の日常だった。


 テレビは置いていない。代わりに、本棚には整然と背表紙が並ぶ。

 『現代ジャーナリズム論』

  『取材倫理と報道責任』

  『災害報道における人間の声』――

 どれも、記者として生きることを志してからずっとバイブルのように何度も読んでいる。異動で記者を外された今でも、それは変わらない。


(記者に戻るためには、もっと勉強しないと)


 自分が書いた記事が「炎上」したとき、彼女ははじめて報道というものの影響力の大きさとその歪さを見た。事実を書いたつもりが、誰かの怒りを呼び、誰かもわからない「みんな」の怒りも呼びこんだ。

 正しさが正しく伝わらない――それは、彼女のようにまじめすぎる者にとって、特に厳しい現実だった。

 食器を洗い終えると、机に向かい本棚の隅にある小さなスピーカーの電源を入れる。

 アコースティックギターの柔らかい音色。どこか懐かしい旋律。優しくて切ない歌声。

「ネモフィラ」という三人組のバンドだ。大学生の頃、たまたまYouTubeで耳にしてから今もずっと聴いている。

 

   「足りないまま 気づかないまま

   言葉にすれば こわれそうで

   見えない明日に しがみつく夜

   それでも ページをめくった」

   

 ノートを広げる。タブレットで最新の国会答弁を見直し、気になる社会問題のキーワードを調べる。

 非記者職に異動になっても、取材の現場にいなくても、自分の中に記者の目を持ち続けることはできる。そう信じたくて、那波は今日も学び続ける。

 その心のどこかには、かすかな焦りもあった。それでも彼女は、日々を真面目に積み重ねていく。彼女にはそれしかできなかった。

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