怨嗟核開眼
王都フィルマリア。
薄青い暁光が尖塔の先を染めようとした刹那、空が裂けた。西の空に巨大な逆十字が浮かびあがり、血黒い雲が渦を巻く。嵐のような魔力が街の上空を覆い、光はすべて吸い込まれた。
――闇霧結界。
城壁上の見張り鐘が狂ったように打ち鳴らされ、人々の悲鳴が大路を満たす。明かりを灯す術者の杖先は、闇霧に触れた瞬間ぱちぱちと火花を散らし、逆流した魔力で爆ぜた。
堕光の修道会――大司祭イムルの「開眼の儀」が始まったのだ。
刻印の疼きに叩き起こされ、俺――レオルは緋槌工房の扉を蹴った。空は真昼のように暗く、紫黒の霧が路地を這う。
キダン師範は包帯姿で天窓を睨み、唸った。
「霧に触れるな。生命力を煮え立たせ、魂を闇へ引きずり込む」
「リナは?」
「双月神殿で祈祷結界を張ると言って飛び出した」
喰鋼を背に、俺は走る。胸の刻印は最初から熱を撒き散らし、闇霧を喰らいたいと唸るが、まだ檻を開けない。
石段を駆け上がると、銀白の防護障壁が崩れかけていた。
リナが祭壇の上で両手を掲げ、七重の光陣を押し上げている。
その足元を、黒い蔦のような霧が絡み昇り、肌を焼く。
「リナ!」
叫んだ瞬間、障壁が砕け、黒霧が津波となって押し寄せた。
喰鋼を叩きつけて地を割り、爆裂鉱撃術Ⅱの火柱で霧に風穴を開ける。
だが霧はすぐに渦になり、火を飲み込んで膨張した。
ロゼッタが逆風で押し返し、アルデンが治療矢をリナの脚へ撃ち込んで毒を吸い上げる。ユドーの煙幕瓶が光を散らし、黒霧を惑わせた。
しかしリナの頬は蒼白。魂視には魂の色が薄紅から灰色へ透明化していくのが見えた。
神殿裏手の回廊に、黒髪を風に振らせて立つ影――シエラ。
彼女は闇霧を平然とくぐり抜け、リナと俺の間に割って入った。
「私に任せて。これは……過去に私が撒いた闇だから」
その手首には、幼い頃に押された焼き印――堕光の修道会の印章。
シエラは袖をまくり、焼き印に短剣を当てると刃を返して肉を裂いた。血が闇霧に触れるや、黒き雷が走り、霧が彼女へ吸い込まれていく。
「身寄りのない孤児を拾ったのが堕光の修道院だった。私たちは闇霧に耐える実験体……でも、私だけが脱走した」
声はかすれ、血は止まらない。
「今度こそ、終わらせる。リナを守って……レオル」
闇霧の中心は王城前広場だった。噴水を病んだ心臓のように包み、怨嗟核が浮かぶ。直径三メートル。黒曜石に赤い稲妻が脈打ち、無数の亡霊の顔が浮かんでは消える。
大司祭イムルの黒衣がその前に立つ。紫水晶の仮面には泣き笑いの二つの口が刻まれ、狂気の詩を低く歌い上げている。
『魂を闇に還し 光の欺きを終わらせよ……』
街頭から浮かび上がる無数の幽魂。死人も生者も区別なく魂を吸われ、闇霧に溶けていく。鐘楼の鐘はひとりでに揺れ、悲鳴じみた音を放った。
リナは血の滲む腕で祈祷杖を構え、俺の前に立った。
「私の光で霧を裂く。刻印の炎と合わせて!」
「それじゃお前の命が――」
「関係ない! 小さい頃、闇に怯えるあなたの背中を見てた。今度は私が闇を殴る番!」
魂視で見たリナの魂は、薄まった光を燃料に自ら燃焼している。
――浄化の光を放てば、彼女は燃え尽きる。
刻印が鼓動を早める。第二解放の門が開き、魔力が渦を巻く。
リナが光陣を編む。七芒星が月光を吸い、眩い剣となる。
「レオル、私を信じて! あなたは人でいて!」
恐れが喉を締めた。もし第二解放を開けば闇霧を飲み干せる。しかし同時に、人を捨てる可能性がある。
俺は拳を握り、刻印と共鳴する金晶の触媒――8話で奪った欠片を取り出した。
紫炎と金光が衝突し、炎が白くなる。
「恐れごと斬る――!」
喰鋼を振りかざし、爆裂鉱撃術Ⅱを絞り込み、点で起爆。
リナの浄化光が剣の刃になり、怨嗟核を真っ向から貫いた。
核が断末魔の咆哮を上げ、空が真昼のように光り、闇霧が裂ける。
光が消えると、王都の空は鈍色の夜明け色に戻っていた。霧は跡形もなく、路地に倒れていた人々が呻き声を上げる。
怨嗟核は砕け、黒い雫となって雨のように落ち、舗石を焦がした。
リナは祭壇に膝をつき、杖を杖先だけ残して白く燃え尽きさせていた。髪は銀灰に褪せ、瞳の光が弱い。
俺は走り寄り抱きとめた。
「リナ!」
「大丈夫。生きてるよ……ちょっと魔力を使いすぎただけ。……ごめんね、髪、白くなっちゃった」
彼女は笑い、そのまま意識を失った。
広場の破片の上、イムルは仮面を砕かれ血を吐きながらそれでも笑っていた。
「門は開いた……怨嗟核はひとつではない。闇はまだ……」
ロゼッタの風刃が彼を縛る前に、大地が割れ、闇孔が開きイムルを呑み込んだ。
地下の闇へ彼の高笑いがこだました。
王都の空に、ようやく朝の光が戻った。
神殿の鐘楼が、安堵の鐘をゆっくりと鳴らす。
俺はリナを抱えて緋槌工房へ向かう道を歩いた。
シエラは修道院の焼き印に布を巻き、静かに俺たちの後を歩いている。
アルデンは弓を肩に、闇霧が去った街を見渡した。
ユドーは割れた煙幕瓶の欠片を拾い集め、ため息をついた。
刻印は静かだが、胸の奥では金晶の欠片が微かな金色を灯し、第二解放の鍵穴に差し込まれた鍵のように冷たく光る。
恐れはまだ檻の中。けれど檻の戸には小さな隙間ができている。
「――行こう。次は、闇の根を断つ」
朝日が尖塔に当たり、砕けた怨嗟核の破片を金色に染めた。
遠くでキダンの鍛冶炉が火を噴き、ハンマーの音が王都にこだました。