魂の色を見る子
王都フィルマリアの北門をくぐり、街道を陽に向かって三里。まだ肌寒い早春の空気の中で、つややかな灰色雲がじわじわと薄れ、薄紅の朝焼けが寄せてくる。
「レオル! 待って!」
石畳を小走りに追いかけてくる白衣の少女はリナだ。双月神殿付属の治癒士学院で修行中の幼なじみ。透けるような金髪を三つ編みにまとめ、胸には銀製の月桂十字。そして今日は薄鼠の外套を羽織り、手には木箱。
「これ、慰霊祭の供物用の灯火水。登山道にも持っていくわ」
木箱のふたを開くと、霊水の中に浮く小さな燭台――月の滴。この水を燃料にした灯火は、霊峰トリスで眠る英霊たちを導く“道標”とされている。
「定員オーバーで護衛を雇えないって聞いて。レオルが行くって知って、私も志願したの」
「いいのか? 今日は神殿の定期治療日だろ?」
「大丈夫、代行を置いたわ。――だって、あなた一人で行かせると無茶するでしょう?」
リナはほんのわずか、眉をつり上げて笑った。詰め寄る優しさに、俺は苦笑して頬を掻く。
慰霊祭行列の警護任務を担うのは、俺とリナに加え王都弓兵隊の補欠士官フェルス、雑貨商の若旦那ユドー、神殿侍女カルナ。依頼主は神殿本部、危険度C。が、霊峰トリスは頻繁に霊障が起こるため、Bに近いと囁かれている。
馬車は荷室に献花と供物を積み、車輪がきしむたび香草の匂いを漂わせた。
王都を背にした緩やかな丘陵は合金杭の風車が点在し、風に軋む金属音が遠い鐘にも似ている。
午後。
国境警備線を越え、道は未舗装の山道へ。土の色が灰褐色から玄色へ変わる頃、まばらな松の間に聳え立つ双頂峰が姿を現した。双子の峰を中央の窪みで接合したその姿が「霊峰トリス(*三位一体*)」の名の由来。
夕刻。
第一野営地となる峡谷口へ到着。斜面を削った段々畑の跡が広がり、廃れた石造りの神像が枯れ枝を纏っている。
炉に拾った松枝をくべ、藁敷きの寝床を作り、報告用の灯籠に灯火水を注ぐ。火焔は水面を伝い、淡い水色の炎を灯す。夜気にふわりと漂う甘いミルリカ草の香りは、死者の魂を和らげると古文にある。
侍女カルナが祈祷文を詠唱し、俺とフェルスが交代で周囲を巡回。満月が雲の裂け目に浮かび上がると、山肌の風紋が静かにきらめいた。
火を挟んで腰を下ろす。リナは湯気の立つ薬草茶をくれ、俺の手に自分の手を重ねた。
「ねえ、下水道の事件、詳しい報告書を見たわ。あなた、危険な毒霧の中に飛び込んだんですって?」
「まあ、あんなもんは序の口さ。祭壇用の石像が倒れてくるよりはマシだったかな」
「冗談言わないの。……でも、怖くなかった?」
リナの瞳は月灯に照らされ、揺らぎのない琥珀の光を宿している。俺は肩をすくめ、嘘をつかないことに決めた。
「怖かったさ。でも、背を向けるほうがもっと怖い。小さな頃、鉱山の暗闇で迷った時も、落盤の時も。あの真っ暗闇に囚われる方が嫌なんだ」
リナは短く息を呑み、そして柔らかく笑った。
「――だから、あなたは、前に進むのね」
真夜中。二の峰の影が長い指を伸ばす頃、**カァン……**と澄んだ音が遠くから聞こえた。金属を叩くような、それでいて鐘にも似た残響。
「鍛治槌……か?」
俺は半ば寝ぼけた頭で呟く。あの音色はルモンタ鉱山の早鐘に似ている。
立ち上がって耳を澄ますと、今度は子どもが笑う声。それから、何かが引きずられる湿った音。
松明を掴んでテント外へ出る。霧が膝の高さまで漂い、夜氣が背筋を刺すほど冷える。
――視界の端。霧の向こうに、小さな影があった。青い灯籠を抱えた少女。
俺は声をかけようと歩み寄り、けれど二歩目で足がすくんだ。
鉱石感知の“匂い”が突然、真紅→漆黒へ跳ね上がる。これは危険の色。
「リナ、起きろ――!」
叫ぶと同時、霧が渦を巻き、影が複数へと裂けた。鎧を着た兵士の霊、抱えたままの剣に血を滴らせ、声のない咆哮を上げる。
胸を殴られたように脈が跳ねる。頭蓋に熱が突き抜け、視界がパリンと割れた。
――魂の色が見える。
霧の中、兵士霊の頭上に赤黒い炎が揺らめく。憎悪と痛みの色。対して、手を引かれ引き倒される少女の魂は薄桃の光で震えている。
あの少女は“生きた人間”だ――俺にはそう見えた。
「リナ、フェルス! 現世の魂を守れ!」
リナは眠気を振り払い、足に絡む霊布を解呪光で払いながら立ち上がる。フェルスが咄嗟に弓を引き、霊体に風切りの符を付した矢を射る。矢は霧中で青い閃光を発し、兵士霊の胸を貫いて弾けた。
が、霊体は怯まず進む。霧に黒い手が伸び、俺の足を捉えた――冷たく、重い。
俺は呼吸を詰め、一歩踏み込み急制動で足首を捻り、手を振り払って後転。勢いを殺さずハンマーを片手逆持ち、地を突いて跳躍。霊障域を飛び越え、少女の前へ着地した。
「大丈夫か? 名前は!?」
少女は涙で濡れた頬を震わせ、「ティナ……迷子になったの」と嗄れ声で答える。魂の色は淡い水色になり、まだ生きている証。
兵士霊たちが剣を構え突進してくる。霧が一斉に巻き上がり、視界が白い幕に閉ざされた。
魂視で剣の軌跡が赤線に見える。回避だけでは埒があかない。俺は咄嗟にハンマーの頭を地面に打ち付け、衝撃を拡散。
衝撃波は霧を散らし、兵士霊の鎧の合わせめを揺らした。そこには赤錆を帯びた制御符――下水道で見た傀儡符に似た呪印が貼られている。
「制御されてる……ノアの仕業か!」
叫ぶ俺の背中から光の奔流。リナの治癒光が今度は鎮魂の光弾として浴びせられ、制御符を焼き払った。
霊は呻き声とともに赤黒い炎を消し、色を菫紫へ変えて霧の中に溶けていった。
霧が晴れ、月光が戻る。俺の耳に男の声。
「見事な連携。――少年よ、汝は“魂の鍵”を見る眼を持ったな」
振り向くと、鎧姿の青年の霊。長い銀白の髪を風に揺らし、胸甲に刻まれた紋は五百年前の大陸戦役の英雄ヒュオル・アルヴァーン。歴史書で何度も見た名だ。
「なぜ慰霊場の霊が襲いかかる?」
俺の問いに、ヒュオルは寂しげに目を伏せた。
「我らを縛る黒い糸が、新たに山を覆った。堕光の修道会の邪曲が、魂の翼を鉛細工にしている。生ある者よ、核を斬れ。さればこの山は封ぜられる」
その声は山の石と同じ重さを持って耳へ落ちた。
ヒュオルは指先で空間に光の紋を描き、拳ほどの結晶片を作り出す。霊水で固めた月光の欠片――霊護符《月鏡晶》。
「汝の魂視を助ける。清浄なる光を刃とせよ」
結晶を受け取ると、魔喰刻印の奥が小さく脈打った。魂視の彩度が上がり、霧の小さな揺らぎまでが立体的に見える。
――その時、空気がごそりと裏返った。
冷気ではなく、心臓を握りつぶす重圧が降る。
『魂を解き放つ……闇こそ平等……』
地の底から響く扉の軋みのような声。慰霊祭詠唱を裏返しにした邪音律。
魂視に映る全ての色が暗く濁り、山肌を薄闇が這い上がる。その中心、一瞬だけ巨大な逆十字のシルエットが映った。
堕光の大司祭イムル――姿は霧に紛れて見えないが、確かに奴の魔力だ。
リナが灯火水の小瓶を掲げ、祈祷詠唱を逆位相で被せる。光と闇の波が干渉し、重圧がわずかに退いた。
「レオル、霊護符の光で侵食を断て!」
俺はハンマーの柄に月鏡晶を嵌め込み、柄尻を地面へ叩きつける。
光が脈動し、霊峰の石に網目のような紋が走る。闇の跡は消えないが、その進行が止まった。
『まだ芽生え……いずれ貴様が門を開く……』
囁きが遠ざかり、闇は岩肌の裂け目へ吸い込まれた。
金星が空に残る刻、山道に灯火水の青い炎が列を作る。
神殿神官が法螺貝を吹き、参列者が静かに歌を紡ぐ。リナの声は高く澄み、闇に触れても汚れない水晶。
俺は列最後尾の位置でハンマーを杖に、魂視で霊の影を見守った。
霊たちの色は淡い青、静かな花の匂い。暴走を止めたことで、山は安らぎを取り戻したらしい。
峰の中央窪地で灯籠を霊泉へ流す。水面が月の金色を映し、灯籠の炎が溶けるように沈んでいく。英霊の魂が冴ゆる空へ還る儀式。
ヒュオルの霊は列の外で腕を組み、静かに頷いた。
「約束しよう。闇の核を必ず砕く」
俺の誓いに、彼は唇を開いた。
「その時まで、汝の眼が曇らぬことを祈る。魂は時として、色に欺かれるからな」
慰霊祭は無事終了。供物商のユドーは売れ残りを荷に詰めほくそ笑み、侍女カルナは礼典の報告書を巻物にまとめる。
リナは俺の腕に包帯を巻きながら、囁いた。
「目に見えるものすべてを背負い込まないで。あなたの魂が疲れきる前に、頼ってね」
包帯を留める白い指が震えていた。その震えに気づき、俺は右手でそっと覆った。
「ありがとう。……必ず、生きて帰るよ」
山を下りる頃、朝陽が斜面の霜を溶かし銀の川が走った。
俺はポケットの深層紫晶を親指で撫でる。鏡晶と紫晶が微かな共鳴音をたてた。
闇は確実に形を持ち、俺たちを試している。
それでも俺は、ハンマーを重みごと握り直す。
「次は決して、色に惑わされない」
その言葉が白い息とともに空へ昇り、双頂峰の稜線に溶けた。霊峰は静かに、けれど確かに、俺たちの行く手を見つめ返していた。