家に帰れずに、私は死んだ
「……あれ? また、ここ?」
目を開けると、暗い空間にいた。
上も下も、右も左も分からない。音もなく、静かすぎて、耳の奥で「キーン」と鳴る音が響く。
だけど、私はこの空間を怖いとは思わない。
『夢』だと知っているから。
(今日こそは熟睡したかったのに……)
ここ最近、同じ夢ばかり見るせいで、寝不足気味だ。
おまけに明日は早く出勤しなくてはいけない。
朝礼で恒例の『1分間スピーチ』の当番が回ってくるのだ。
テーマは、自由。
つまり、『何を話してもいい』ということ。
……逆に困る。
『誰かに語れるような充実した毎日』を送っているわけではない私にとっては、スピーチのネタを考えること自体が苦痛だった。
家で考えるとダラダラしてしまいそうだし、何より就業時間外に仕事のことを考えるのが嫌だ。
だから、明日は早めに会社に行って、朝礼までにスピーチを考えようと思っていた。
(なのに、またこの夢……!!)
叫びたい。
毎晩毎晩、人の夢に勝手に現れる『アイツ』に文句を言ってやりたい!
そんなことを考えていると、赤い羽根がひらひらと舞い落ちてくる。
まるで炎のように光を放ちながら、ゆっくりと――。
手を伸ばし、羽根を掴む。
炎のようだと思った羽根は、意外にも熱くはない。羽根は私の手のひらの中で、燃え尽きる最後の炎みたいに、すぐに消えてしまった。
(……来た……!!)
上を見上げると、強い光を放つ炎が私の方へ近づいてくる。
……いや、違う。炎ではなく――
大きな鳥の形をした何か。
鋭いくちばし、その少し上にある小さな瞳。
不思議と愛嬌のある目をした、炎の鳥が目の前に降り立つ。
「……な、なによ……! 何か言いたいことでもあるわけ?」
我慢しきれずに鳥に問いかける。
だが、鳥は鳴きもしない。音すら立てず、ただじっと私を見つめ続けている。
誰かに見つめられるのは、気分のいいものではない。
しかも、こんな夢が毎晩毎晩続くのだ。ノイローゼ気味になるのも無理はない。
「ちょっと……! 何か言ってみたらどうなの!?」
そう言いながら、鳥のくちばしに触れようとした――その瞬間。
「キェェェェ!!」
「……!!」
けたたましい鳴き声を上げ、鳥が大きくくちばしを開いた。
意外とグロテスクな口の中が目に入り、「ヒッ」と叫びかけたところで――
急に意識が引っ張られた。
***
「えっ!!?」
飛び起きると、そこは見慣れたワンルームマンションのベッドの上だった。
狭いけれど、気に入っているわが家。
「……結局、今日もあんまり寝られなかった……」
独り言をつぶやきながら、枕元のスマホを見る。
身体はだるいし、頭はぼんやりしている。
30歳が間近に迫る今、最近ますます疲れが抜けなくなってきている気がする。
スマホの時刻は、『7:45』。
「げっ! これじゃ、いつもと同じじゃんーーー!!!」
しかも、朝から誰かからLINEが来ている。
開いてみると、大学時代の友達からだった。
『結婚式の出欠確認! 明日まで!』
締め切り直前まで返事がないから、忘れていると思われたのだろう。
早めにリマインドしてくれる、いい友達だ。
……しかし。
(今月、結婚式だけで3件目なんですけどぉ……。このままだと結婚式貧乏になっちゃう……)
お祝いしたい気持ちはある。
でも、こうも重なると、懐が痛むのは避けられない。
だからと言って、欠席すれば「別の友達の式には出たのに、私のには来てくれなかった」と友情にヒビが入りかねない。
財布を取るか、友情を取るか――究極の二択。
「だああああ! その前にスピーチだ!!!」
今は目の前の仕事が最優先だ!
気合を入れて立ち上がると、洗面台に向かった。
慌ただしく洗顔を済ませ、スキンケア、着替え、メイクを手早くこなす。
毎日こんな感じで慌ただしいし、嫌なこともそれなりにある。
だけど、いいことも楽しいこともある。
私は、私の人生を、それなりに気に入っている。
「おっと、忘れちゃいけない!」
冷蔵庫を開け、愛用の栄養ゼリーを掴むと、そのまま家を飛び出し、駆け出した。
「麻友!おっはよー!」
「藤崎課長!おはようございます!」
会社の最寄り駅を出たところで、経理部の藤崎課長に声をかけられた。
40代の女性課長だ。
かつて営業職だっただけあり、サバサバしていて話していて気持ちがいい。しかも、気配り上手で、部署を問わずに誰にでも声をかける。
彼女のフォローのおかげで転職せずに済んでいる社員も多いらしい。
私も、その一人だ。
「麻友は、いつもきっちりこの時間の電車に乗ってくるよね」
「ははは……実は、今日は早く家を出ようと思ったんですけど、寝坊しちゃって。結局いつもと同じ時間になっちゃいました」
「今日、なんかあるの?」
不思議そうな顔をする藤崎課長に、「実は……」と1分間スピーチのネタで悩んでいることを話した。
「あんなの適当でいいよ。やる意味なんかないんだから」
あまりにもあっけらかんと言われたので、思わず笑ってしまう。
「課長がそれ、言っちゃいます?」
「言うよー、時間の無駄だもん。上には前々から早くやめるように言ってるんだけど、習慣だからとか社員同士の理解を深めるために必要だとか言って、なかなか無くならないんだよね」
呆れたようにため息をつく課長を見て、こういう場を和ませる仕草が自然にできるのがすごいなと思う。
私もいつか、こんなかっこいい女性になりたい。
でも、今の私はというと……自分の部署の上司たちを困らせてばかりだし、社長や部長クラスの人を前にすると緊張して委縮してしまう。
藤崎課長みたいに、堂々と自分の意見を言うなんて、私にできるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、目の前の歩行者信号が青に変わる。
横断歩道を渡り始めたその時だった。
左折してきた車が猛スピードで私の横をかすめ、目の前に突っ込んでいった。
「ッ!!!」
車は歩行者信号の電柱に衝突し、ようやく止まったようだ。
前方はぺちゃんこに潰れ、ボンネットが開きかけている。
運転手は幸いにも無事のようで、自分で車のドアを開けると、痛めた腕を押さえながら、よろよろと運転席から出てきた。
ほっとしたのも束の間、女性の甲高い悲鳴とざわめきが響いた。
事故の衝撃で飛んできた車の部品が、女子高生の脚に当たったのだ。
急なことにパニックになった女子高生は、傷口を押さえながら「痛い!痛い!」と繰り返し叫んでいる。
押さえる手の下から、黒にも似た赤い血が滴り落ちていた。
「麻友!警察と救急車!」
茫然と立ちすくんでいた私を、藤崎課長の声が引き戻した。
課長はバッグからハンカチを出しながら、泣き叫ぶ女子高生のもとへ駆け寄る。
(そうだ、事故の時は警察!それから救急車!)
数秒遅れて言葉の意味を理解した私は、スマホを取り出して『110番』を押した。
しかし、呼び出し音が鳴るだけで、なかなか出ない。
そう感じたのは、私自身がパニックになっていたせいかもしれない。
なかなか繋がらないことに苛立ちながら、ふと空を見上げる。
赤い何かが舞い落ちてきた。
(なんで、これがここに!? 夢じゃないよね!?)
それは、夢で何度も見た、炎の鳥の羽根だった。
***
喫茶店の店内はランチタイムでにぎわっていた。
カップの触れ合う音、スプーンが皿を叩く音、人々の笑い声――。
私はハンバーグプレートの横に添えられたライスをスプーンで崩しながら、目の前の同僚たちを見た。
「で、今朝は事故に巻き込まれたんだって? 麻友」
目を輝かせながら話を振る美香に、私は少し肩をすくめた。
「巻き込まれたってほどじゃないよ。ただ、目の前で起こっただけ」
「でも、そのおかげで朝礼のスピーチなくなったじゃん。麻友、苦手だったもんね」
美香がからかうように笑う。
横で紅茶をかき混ぜていた巴恵が、軽く眉を上げた。
「こらこら、不謹慎だぞ」
「だって事実じゃん? 朝から大変だったとは思うけど、結果的にスピーチ回避できたんだからラッキーじゃない?」
「まあ、来週に延びただけで、なくなったわけじゃないし」
私はため息混じりに返す。
スピーチのこともそうだけど、今日は朝から変なことばかりだ。
「…最近、変なことばっかり」
「まだ同じ夢見てるの?」
巴恵がカップを置きながら尋ねる。
私はスプーンを動かす手を止め、小さくうなずいた。
すると、美香がスマホを取り出し、得意げに言った。
「実はね、夢占いのサイトで調べてみたんだー」
「あんた、そういうの好きだよね」
巴恵が呆れたように笑う。
「女の子はみんな好きでしょ? 占い」
「まあ、私も好きかも。占い」
私はそう言いながら、美香がスクロールしているスマホの画面を覗き込んだ。
「鳥が出てくる夢は、基本的に運気上昇とか幸運の前触れみたいな意味が多いみたい」
美香が指で画面をなぞりながら読み上げる。
「幸運の前触れ…?」
私は思わず顔をしかめた。
「上から植木鉢が落ちてくるとか、階段を踏み外して落ちかけるとか、車が突っ込んでくるとか、友達の結婚式が3つも重なることが幸運の前触れ?」
「最後の結婚式はお祝いごとじゃん」
巴恵が半ば呆れたように言う。
「でもお祝儀が一人三万だよ? それが三人分なんだから、九万もかかるし、結婚式に行くならドレスだって…ああ! ヘアメイクの予約もしなきゃ!」
思わず頭を抱えると、巴恵がくすくす笑いながら紅茶を飲んだ。
「女はなんだかんだでお金がかかるから、嫌になっちゃうよ」
「あ、これは?」
美香が画面をスクロールし、ある項目で指を止める。
「『人から悪意を向けられてる』っていう意味もあるみたい」
私はスプーンを持ったまま、思わず固まる。
「…私が誰かに嫌われてる、ってこと?」
「まあ、みんなに好かれるなんて無理でしょ。誰かには嫌われてるのは当たり前だし」
巴恵が軽く肩をすくめる。
「そうそう。社内の頼れるお姉さま、藤崎課長だって嫌われてるもんねー」
美香が冗談めかして笑うと、巴恵が同調する。
「確かに。人によってはウザいって思うだろうね」
私は曖昧に笑いながら、視線を窓の外に向けた。
昼の陽射しがカフェのガラスに反射している。
行き交う人々。走る車。
そのすべてが、どこか遠くの出来事のように思えた。
なぜだろう。
なんだか、今日の世界は、少しだけ違って見える――。
***
「金曜だし、どこか寄っていく?」
会社を出たところで、巴恵が軽い調子で声をかけてきた。
夜の空気は少し冷たく、ビルのガラス窓に映る街の灯りがにじんでいる。
「ごめーん! デートなんだ!」
美香が両手を合わせながら、悪びれもせずに笑う。
「私も無理。結婚式あるし」
私は肩をすくめながら答えた。
「えー、麻友もダメなの? じゃあ今日はおとなしく帰るかぁ」
巴恵がちょっと残念そうに言いながら、駐車場の方へ歩き出す。
私はそんな巴恵を見送って、一人、駅の方へ歩き出した。
駅のホームは、金曜の夜らしく、人でごった返していた。
仕事帰りの人たちが足早に家路を急ぐ一方で、これから都心へ飲みに出る若者たちのグループもちらほら見える。
スマホを見ながら、何気なく電光掲示板に視線をやる。
『信号トラブルにより、現在電車が約二十分遅延しております』
「はぁー、最悪」
思わず独り言が漏れる。
早く帰りたい時に限って電車が止まってるなんてツイてない。
おまけに次から次へと人がホームへと流れ込んできて、ますます混雑していく。
狭い空間に押し込められるような感覚が、妙に息苦しい。
電光掲示板に「まもなく列車が到着します」の文字が点滅した。
「やっと帰れる……」
内心、ほっとした瞬間だった。
そのとき――
勢いよく、背中を ドンッ! と押された。
「えっ……?」
ぶつかった? いや、でも今のは――
次の瞬間には、視界がふわりと持ち上がる。
しまったーーー!
頭の中で警鐘が鳴る。
目の前には、ホームへ滑り込んでくる電車のライト。
そして、その電線の上に――
紅い炎をまとった鳥が、じっとこちらを見下ろしていた。
悲しげな目で。
望月 麻友
享年 29歳
死因:駅のホームから転落、列車との轢死
***
高い天井と、重厚な調度品。
広々とした部屋の中、長身の青年が窓辺に立っていた。
腕に止まるのは、赤い羽を揺らす炎の鳥――鳳燐。
「そうか……、死んでしまったか」
青年は、静かに呟いた。
その背後で、鉄色の衣を纏った男が恭しく頭を下げる。
「陛下、お呼びでしょうか」
青年は窓の外を見つめたまま、短く命じた。
「大至急、翊国の王女の様子を探れ」
「はっ」
男は静かに返事をすると、すぐさまその場を辞した。
鳳燐が小さく羽ばたく。
青年は、腕の上の鳥の羽を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「ごめん、雪姐さん……」