第2話 決裂の夜
次の日、早くもリーヴァはヴィルフレッドに弓の指南を始めるべく、彼の屋敷を訪ねた。ヴィルフレッドに出迎えられ敷地内の庭に通される。そこには弓と的が既に準備してあった。
「用意が良いのね……ところで、伯爵と夫人にご挨拶した方が良いかしら?」
こんな格好だけど、とリーヴァは付け加える。彼女はいつもと同じ動き易い男装で来ていた。
「い、いえっ。両親は社交界での評判は気にしますが、僕のすることには関心がないですし、それに今は出掛けています。どうか気にしないで下さい」
「そう? それじゃ、早速始めましょ」
いやにヴィルフレッドが慌てた様子だったが、リーヴァとしても貴族らしい挨拶ややり取りには苦手意識があったので、挨拶しなくて済むならそれで良い、とそれ以上は追及しなかった。
「お願いします」
「良い? まずは弓を引く姿勢が大事よ。あと弦を引くだけの力もね。弓は力で引くものではないって言われるけど、それでも腕や肩、背中にはそれなりに筋力が無いと弓を放つ姿勢を保てないわ」
そう言って、リーヴァが弓を手に取る。すっと背を伸ばし、矢をつがえ弓を構え、狙いを定めるように真剣な眼差しを的に向けた。それだけで、周囲の空気がぐっと引き締まった気がする。ヴィルフレッドはその姿に目が離せなくなった。そしてリーヴァは静かに矢羽を掴んでいた指を離す、と矢は勢い良く飛んで的の真ん中に刺さった。
「綺麗だ……」
「え? 何か言った?」
「弓を放つ姿がすごく美しいと思って……」
「な、なに変なこと言ってるのっ!」
整った顔のヴィルフレッドに惚れ惚れと言われ、リーヴァは照れと恥ずかしさと困惑で顔が赤くなる。
「真面目に弓の練習をしなさい!」
思わず怒ってしまいリーヴァは、こういうところが可愛げがないところなんだろうな、と内心反省するがどうしようもない。
「失礼しました。気を付けます」
特に気分を害した様子も無くヴィルフレッドは微笑み、リーヴァから差し出された弓を手に取った。こうして弓の鍛錬が始まった。そもそも弓を引く為の筋力の付け方から、矢を放つときのブレを少なく保つ姿勢、視線のやり方など。何日にも渡り、リーヴァは親身かつ真剣に彼に教えた。ヴィルフレッドが上手く出来ればリーヴァは我がことのように喜ぶ。そんな彼女の様子にヴィルフレッドは嬉しそうとも辛そうとも見えそうに目を細めた。
練習の合間、休憩がてらお茶を飲みながらリーヴァとヴィルフレッドが話をする機会もあり、リーヴァは楽しそうにリーフェンシュタールの自然や人々の営みを彼に語る。
「山はね、季節によって姿を変えるのよ。春には花、夏には緑、秋は紅葉、冬は一面真っ白になる……美しいけれど、とても残酷でもある」
「残酷?」
「そう。山はいとも簡単に人の命を奪うわ。遭難したり滑落したりね。そんな怖いところに何で住んでるのかって思うだろうけど、それを補って余りある魅力があるのよ。清流のせせらぎ、山の雄大さ、季節折々の山の恵み……」
山の光景を思い出すようにリーヴァはうっとりと話す。
「山とは興味深いところですね」
「貴方のところはどうなの?」
「我が家の所領は特に……麦畑が広がるだけの、何の面白味も無い平凡なところですよ」
「平凡じゃないわ。素敵じゃない。うちは耕作地は余りないから。見てみたいわ、一面の麦畑。まるで黄金の波のようだって話だし」
何ら変哲もない故郷の景色もそう言われると、平凡さも悪いものでもないような気がしてヴィルフレッドは不思議に思う。
「そうですね、いつか……」
笑うリーヴァに対し、ヴィルフレッドはどこかぎこちなく頷いた。
そんなこんなで、だいぶ打ち解けたある日、休憩の最中ヴィルフレッドが少し居住まいを正し、リーヴァを見つめる。
「あの、リーヴァ」
「どうしたの?」
怪訝な顔でリーヴァが見つめ返した。
「今度、ベルファーレン侯爵家の夜会があるのですが、出席する予定はありますか?」
「ベルファーレン侯爵……招待状が来ていた気がするけど、でもどこの夜会も出る予定はないわ。それが何?」
そういうことが苦手なことはヴィルフレッドも分かっているだろうに、なぜそんなことを訊くのか、リーヴァは首を傾げる。
「そうですよね……」
「はっきりしないわね。一体どうしたの?」
言い淀むヴィルフレッドにリーヴァは先を促す。中途半端な状態では気になってしょうがない。
「良かったら……貴女のドレス姿も見てみたいな、と」
「へ?」
思いもしなかったヴィルフレッドの言葉にリーヴァは固まる。
「あ、いえ……やっぱり、嫌、ですよね……」
「えーっと……」
リーヴァは答えに窮した。確かに夜会のような派手な場所は好きでは無いし、着飾るのも得意ではない。
けれど、ヴィルフレッドが一緒なら。
「別に嫌ってわけじゃないけど……私が着飾ったって馬子にも衣裳よ」
「そんなことありません。今でも充分お綺麗です。きっとドレス姿も美しいでしょう」
ほっとしたように微笑むヴィルフレッドをリーヴァが睨む。
「……何だか揶揄ってない?」
「そんなことありませんよ。ええ。決して」
とんでもない、とヴィルフレッドは手を振る。
「どうかしら?」
「誓って本心です」
「まあ、良いけど……私の格好が変でも笑わないでよ」
リーヴァは照れ隠しのように言った。内心はヴィルフレッドがドレス姿を望んでくれて嬉しかったのだ。
「笑いませんよ。楽しみに待ってます……その日、貴女にお話ししたいこともありますので」
意味深なことを言って、ヴィルフレッドは微笑んだ。
そしてその日。リーヴァはそわそわしていた。夜会が始まる随分前からドレッサーの前に座り、使用人達とどんな髪型が良いか、ドレスやアクセサリー、化粧などをどうするか相談していた。リーヴァが珍しくやる気になっているので、使用人達も張り切ってあれこれと試し、如何にリーヴァの美しさを引き立てるかと熱心に話している。リーヴァの母であるリーフェンシュタール伯爵夫人も娘がようやく年頃の女性らしいことに目覚めてくれたので、密かに喜んでその様子を見守っている。
何とか準備を整えて、リーヴァは馬車に乗り込む。結った黒髪を引き立てるようにガーネットの揃いの髪飾りにイヤリングと首飾り。ドレスは淡いラベンダー色で控えめながら上品な印象で、化粧も本人の良さを生かすように最低限だ。
ヴィルフレッドは気に入ってくれるだろうか、とリーヴァはどきどきしながら馬車に揺られ侯爵家の邸宅に向かう。近づいていくほど、リーヴァの緊張も大きくなった。
それに話しとはなんだろう? 次は剣技の指導でもしてくれってことかしら? 獲物を捌くのにナイフは使うけど、剣技となると基礎的なことしか教えられてないから難しいわね。でも、それなら別に昨日言っても良さそうだから、違いそうだわ。あと他にあるのかしら……もしかして、婚約の申し出、とか?
そう思った途端、リーヴァの心臓がドクンと大きく跳ねる。
まさかね、そんなこと……だって、全然女らしくないし。貴族の令嬢らしくもないし。でも……もしヴィルフレッドにそう請われたら……嫌ではない。むしろ嬉しい。
それがリーヴァの本心であった。ヴィルフレッドがドレス姿が見たい、というのだからそういう話になってもおかしくはないのでは、とリーヴァの心は我知らず高鳴る。落ち着かない気持ちのまま、侯爵家の邸宅に入り、華やかに着飾った人々がひしめく広間でヴィルフレッドを探す。煌めくシャンデリアに品の良い調度品、優雅な調べを流す楽団、気取って踊る男女、お喋りを楽しむ人々……ヴィルフレッドはまだ見つからない。彼を探してうろうろしているうちに、大広間から離れて人気のない廊下まで来てしまった。
まだ彼は来ていないのかも、とリーヴァが引き返そうとしたとき、近くの部屋から声が聞こえて来た。どうやら扉が少し開いているようだ。リーヴァは何と気なしに扉と壁の隙間から中をそっと覗く。その部屋は応接室のようで、絵画や美術品が並ぶ部屋の真ん中に背の低いテーブルとそれを挟むようにソファが二つ置いてあった。そのソファにだらしなく寝そべったり座っている若い男が3人と、その近くに扉を背に立っている男が一人。顔は見えないが、背の高い金髪の、その姿を見てリーヴァは誰か分かった。
ヴィルフレッド……?
どうして人目を避けるようにこんなところにいるのだろう、とリーヴァは疑問に思ったが、彼と一緒に居る若い男達に見覚えがあった。かつてリーヴァに嫌がらせをして来た男達だ。
「ずいぶんと上手くやってるじゃないか」
「どんだけ男勝りでも、顔の良い男には弱いってか」
男達の下品な笑い声が響く。
どうしてこんな連中と知り合いなのか、と嫌な予感にリーヴァの動悸が早くなる。
「今夜のリーフェンシュタール家の小娘を見たか? 妙ちくりんな格好で締まり無い顔をしていたぞ。笑える」
「お前に頼んで良かったよ。女の扱いは上手いからな」
「こうも簡単に騙されるとはな。あの女、本気でお前が自分のこと好きだと思ってるぜ。滑稽だな」
心無い言葉が放たれる度にリーヴァの心臓がより煩く鳴り続ける。
どうしてヴィルフレッドはずっと黙っているのだろう。
「誰があんな田舎モン、相手にするかよ」
「お前に夢中みたいだし、いっそ傷物にしてやったらどうだ? 伯爵家の娘だからって遠慮することはないぞ」
ぎゃははっと一層下卑た笑いが室内を満たした時、リーヴァの中で何かが決壊した。無意識に動いた足が扉にぶつかってカタン、と小さく音を立てる。それに気が付いてヴィルフレッドが降り返すそぶりを見せた、その瞬間リーヴァは廊下を走り出した。
全部嘘だった! 弓を習いたいのも、故郷の話に興味があったのも、単なる振りだった! これがヴィルフレッドが伝えたいことだったの? 気に入らない娘を騙してのぼせた姿をあざ笑って馬鹿にしたかったの?
騙された怒りと見抜けなかった己の愚かさと、悲しみ、悔しさ、憎しみ……あらゆる負の感情がリーヴァの中で渦巻く。
どこをどうやって駆けて行ったのか分からないが、リーヴァは気が付いたら美しく整えられた庭園に出て来ていた。だが、美しい花々も今はリーヴァの慰めにはならない。
「リーヴァ!」
走るリーヴァの後ろから誰かが声を掛けてきて、彼女の腕を掴んだ。声を聞いただけでリーヴァはそれが誰か分かった。
「触らないで!」
立ち止まってリーヴァは乱暴にヴィルフレッドの腕を振りほどく。今にも溢れ出しそうな涙を目に溜めてリーヴァは彼を睨む。今ここで泣いてしまったら負けてしまう気がした。
「さぞや満足でしょうね、田舎のバカな娘を騙せて!」
「リーヴァ、話を聞いて……」
「聞くって何を? 言い訳なんか聞きたくない!」
切羽詰まったようなヴィルフレッドの言葉を遮るようにリーヴァは叫ぶ。何を聞かされても今は罵詈雑言しか出て来ないだろう。
「友達だと思ってたのに……!」
ヴィルフレッドが喜んでくれると思ったから着慣れない瀟洒なドレスだって着た。イヤリングも首飾りも髪飾りも。
「こんなもの、こんなもの! こんなもの!!」
リーヴァはそれらを乱暴に引っ張り、体や髪から引きはがすと思いっきり地面に叩きつけた。似合いもしない華やかなものを身に着けていることが、今のリーヴァには我慢ならないし、どうしようもなく汚れているように思えて、出来るものなら、今ここでドレスだってびりびりに破いて脱ぎ捨てたい気分だった。
裸の方がずっとマシだわ。
「最低よっ。大嫌い!! アンタも、貴族も、この街も!」
吐き捨てるように言ってリーヴァはヴィルフレッドから逃げた。彼も同じくらい傷ついた顔をしていたことには気が付かずに。
屋敷に戻って来たリーヴァは何も言わずただ急いで自分の部屋に戻るとベッドに突っ伏して泣いた。悔しくて辛くて苦しくて、何を信じて良いのか分からなくて。
リーヴァの父も母も何かあったことは察し、それとなく聞き出そうとしたがリーヴァは頑として言わなかった。
自分が生きる場所は、懐深いあのリーフェンシュタールの山々だけなのだ、と悟ったリーヴァは、この年以降二度と王都に行くことはなかった。
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