最終話
「良平君、起きて。良平君」
ベットで眠っている彼の体を揺すりながら、声をかける。
何度か呼びかけるうちに、良平君は目を覚ました。まだ眠そうな表情をしている。それが愛おしい。
良平君に出会ったのは、去年の十二月。
職場の忘年会で、注がれるがままワインを飲んだ私は、帰り道に具合が悪くなった。その時に助けてくれたのが、良平君だった。
その数日後、職場近くのコンビニで偶然再会し、その後も奇跡が重なり、大学の時に憧れだった、精華医大のクリスマスイルミネーションを、二人で見に行くことになったのだった。
良平君は精華医大の卒業生で、今は私の職場近くにある総合病院で医師をしている。研修医時代にお世話になった先生経由でクリスマスイルミネーションのチケットをもらったようだった。
二人でイルミネーションを見に行った五日後。十二月二十五日。家に帰った私は、急に不安に襲われた。そう一年前、姉が倒れた時のことを思い出したのだ。
寒い部屋で具合が悪くなり、倒れて体が動かなくなって……そう想像しただけで、気が変になりそうだった。そして、気づくと良平君に電話して言っていたのだった。
「今からイルミネーション、見に行きませんか?」と。
ー☆ー☆ー☆
その日を境に、私達は関係を紡いでいき、この春からは一緒に暮らし始めた。
今日、良平君は大学時代の友人の、佑太さんのお店に髪を切りに行く予約を入れていた。佑太さんは良平君と同じ、精華医大を卒業した後、美容の専門学校に行き美容師になったのだった。
しかも、福祉美容師という、障がいや病気があって、通常の美容室には行きづらい人に、施術をしてくれる資格を持っていた。
姉は倒れてから、美容室に行っていない。前髪だけは何とか自分で切っているのだった。
――お姉ちゃんは、本当はもっと綺麗
私の中にそういう思いがあり、せめて伸び切った髪の毛を、何とかしてあげたいとずっと思っていた。
その話を良平君にすると、佑太さんのことを教えてくれたのだ。早速、良平君に連絡を取ってほしいと頼んだ。
それから、話はとんとん拍子に進み、先日、佑太さんが訪問カットで姉の髪の毛を切ってくれることになったのだ。
ー☆ー☆ー☆
訪問カット当時は、すっきりと晴れ渡った空が、気持ちいい日だった。実家に行くと、姉はいつもより緊張しているように見えた。無理もない。病気で倒れて以来、姉はほとんど家から出ない。
誰かが姉のために訪ねてくる、しかも今日は姉が主人公なのだ。緊張するのもわかる。
約束は十時半だった。時間通りにインターホンが鳴った。初めて顔を合わせた佑太さんは、人懐こそうな笑顔が印象的だった。
一般的な美容室で見かける、道具一式を並べ、洗面所で早速カットが始まった。
鏡に写る姉の表情は、やはり固い。
それでも、佑太さんの接し方は、すごく優しさに溢れていた。「どの辺りまで切りましょうか?」と姉の希望を聴いたり、体が辛くないか気にかけたり、他愛ない話で姉の緊張を解そうとしてくれたり……
私が何より嬉しかったのは、少し聞き取りづらい姉の言葉を、佑太さんがきちんと聴こうとしてくれたことだった。姉が途中で言葉に詰まっても、次の言葉が出るまで待ってくれる。
そんな佑太さんの心遣いは、姉の緊張を解いたのだった。
「すごく すてきになりました ありがとう」
姉が最後にそう言うと、「こちらこそありがとうございました」と佑太さんは言った。
「この かみがた いいね」と、姉はカットが終わってからも、手鏡で前や後ろを何度も確認していた。それを見て私は嬉しかった。姉が笑顔になっていたのだ。姉の笑顔を引き出してくれた佑太さんに、心から感謝した。
ー☆ー☆ー☆
帰りは佑太さんの車に乗せてもらった。車内ではいろんなことを話した。佑太さんが福祉美容師を目指したきっかけや、学生時代の良平君とのこと。
「瑞希さんに会ってから、アイツなんか変わったなって思うんです」
ハンドルを握って、前を見たまま佑太さんが言う。
「自分の幸せを見つけたっていうか」
その言葉を聞いて、私は胸の内にあった感情が言葉になって溢れた。
「今、幸せなんです」
「良平君と、毎日一緒にいられることが。できるなら、これからもずっと一緒にいたい。でも、こんな気持ち、私からは言えないです」
黙って聞いていた佑太さんが、ゆっくり口を開く。
「アイツ、幸せ者ですね。こんなに想ってもらえて」
佑太さんの方を見ていたわけではないけれど、笑顔でそう言ってくれたのがわかった。
家に着いてから、スマホを開く。今日撮った写真を見る。カットが終わった後、姉と佑太さんと三人で撮ったものだ。
後遺症の関係で姉の表情は固く見える。でも、それが今までで一番の笑顔だということが、私にはわかる。
良平君に写真を添付してメッセージを送った。
――素敵になりました
久しぶりに心が凪いでいる。
姉のことが、ずっとどこかで引っかかっていた。
『みずきは、わたしのこと、きにせず、しあわせになるんだよ』
私だけ幸せになるなんて、できないと思っていた。だから、良平君と一緒にいられて幸せだけど、どこか後ろめたい気持ちがあった。
でも、今日姉の心からの笑顔を見て、そんな後ろめたい気持ちを持つことの方が、姉には失礼になると思った。
しばらくして、スマホが震える。良平君からだった。
――すごく似合ってる
ー☆ー☆ー☆
ハムエッグとトーストを乗せたお皿を、良平君の前に出す。時刻は午前十時過ぎ。
「ありがとう」と言って、良平君はハムエッグを口にする。一緒に暮らし始めた当初、良平君は、ほぼ、朝ご飯を食べなかった。
仕事柄、昼食も不規則になりがちなので、せめて朝ご飯は食べて欲しいと思い、簡単なものだけど、必ず作るようにした。そして、今ではきちんと朝食を食べるようになった。
食事を終えると、良平君は玄関へと向かった。スニーカーを履く後ろ姿に、心の中で呼びかける。
――できるなら、これからもずっと一緒にいたい
いつか、声に出して言いたいと思う。
「じゃあ、いってくる」
「うん。いってらっしゃい」
互いに笑顔で手を振る。
――今、幸せ
そう思う。
ドアを開け、良平君が出て行く。
良平君もそうならいいな。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。