第二話
家に帰ってから、サンダルの代金を払っていないことを思い出した。お礼も言いたかったし、桃弥君にメッセージを送る。
――今日はありがとう。サンダルの代金、すっかり忘れててごめんなさい。
すると、すぐに「いいよ」と返って来た。そして、続けて
――こっちこそありがとう。楽しかった。
というメッセージと、ありがとうという文字を掲げたうさぎのスタンプが届く。
たぶん、これで会話は終わりにしていいはず。代金のことが気になりつつも、私は返信しなかった。綾子を介して返金できるかもしれない。
と、思ったところで、桃弥君にサンダルを買ってもらった件を話すと、余計な詮索をされるのでは、と不安になる。
それをきっかけに、「また飲み会しよう」という展開になるのは、気が重かった。
「あぁ」とため息が漏れる。私のベットの上で丸くなっていたプリッツが、一瞬こちらを見て、また目を閉じた。
翌日、綾子は朝からテンションが高かった。なんでも、昨日の飲み会で、もともと仲が良かった精華医大の子と、いい感じに進展しそうらしい。
それを聞いて早絵は「いいなぁ!」と声を上げた。その話を聞いた後では、綾子にサンダルの件は話しづらくなった。
講義が始まる。二限は精神保健の授業。不登校や場面緘黙といった、子どもが抱える課題の対応について学んでいる。その授業中に鞄の中で、スマホが何回か震えるのがわかった。
ー☆ー☆ー☆
昼休みにスマホを確認する。ぴくんと心が跳ねる。驚いたことに、桃弥君からのメッセージだった。
――おはよう 今から大学 なんか、しんどー。
――土曜か日曜、どっか行かない?
それを読んで、緊張が高まる。そんな私の様子に気づいた早絵が「どうした? どうした?」と、おどけて訊く。私は二人に桃弥君とのことを話した。
「瑞希、惚れられたね」と綾子が言う。「桃弥君って、稜北大の子だよね。ドライブ好きとか言ってた。いいなぁー。二人とも!」早絵はため息を吐く。
心のどこかでは、違和感を抱きつつ、それでも誘われたことには嬉しさを感じる。どちらの感情を優先すべきなのだろう。
桃弥君を思い出す。人懐っこい、愛嬌のある顔。頼りがいのある体つき。そして、きっと優しい。そこまで思い出し、私は返信した。
――日曜日なら大丈夫だよ と。
それに対する返事も、半日と経たないうちに来た。そして、今度の日曜日、映画を観に行く約束をした。男の子と二人で出かけるのは、高三になる前の春休み以来。一つ上の先輩と、付き合っていた時以来だ。
自分で日曜日なら大丈夫と返事をしておきながら、日曜日が来るのが怖かった。桃弥君と楽しく過ごせるだろうか、というより、桃弥君に嫌われないだろうか、と不安になる。
ただ誘われただけのに、そんなことまで考えてしまうのは、やっぱり自意識過剰なのだろう。
ー☆ー☆ー☆
あっという間に約束の日曜日が来た。待ち合わせ時間はお昼過ぎなのに、午前六時には目が覚めた。そして、布団の中で、二時間ごろごろしながら、今日何着て行こう……と考えていた。
いろいろ考えて、結局、うすい水色のリネンワンピースにグレーのニットカーディガンを羽織った。お姉ちゃんから、小さなクラッチバックを借りた。待ち合わせ場所まで、電車に乗っている時も落ち着かない。緊張で指先から冷えていく。電車を降りると、さらに緊張は高まった。
映画館が入る建物の前に、桃弥君の姿を見つける。まだ、私に気づいていない。行き交う人の間をぬいながら近づく。そして、目の前まで来ると、ようやく私に気づき笑顔で手を上げる。
「小柄だから、わかんなかった。それに前と雰囲気がちがうし」笑顔で桃弥君が言う。その横顔に目を向けると、私も桃弥君の印象が、前と少しちがうように見えた。
愛嬌のある顔つきは、そのままだったけど意外と目鼻立ちがくっきりしていることに気がつく。眉が太めのせいか、意思が強そうにも見える。
エレベーターに乗り込み、最上階にある映画館を目指す。乗り合わせたほとんどの人が、そこに向かっているようで、扉が開くと同時に、押し流されるようにして外に出た。
お目当ての映画のチケットを購入する。
「飲み物買う?」と訊かれ頷いた。店の前に並んでいる時に、「俺、一つ夢だったことがあるんだけど……」と、恥ずかしそうに桃弥君が、こちらを見て言う。
「あのでっかいポップコーン買って、一緒に食べない?」
メニュー表の隣にある、バケツタイプのポップコーンの写真を指差して、桃弥君が言った。桃弥君のほほえましい夢に親近感を持ち、「うん」と返事した。
ー☆ー☆ー☆
映画は今話題の、近未来を舞台にしたSF作品だった。難しいかな? と思っていたけれど、思ったより面白くて、開始直後からストーリーに引き込まれた。
二人の間にポップコーンがある。映画を観ながら、それを取った時、指先が触れ合った。どきっとして、隣の桃弥君をちらっと見るも、桃弥君はスクリーンを見たまままだった。それを見てほっとした。
映画が終わった後は、遅めのランチをして夕方に別れた。その日以来、メッセージのやりとりだけではなく、電話もかかってくるようになった。
今日も電話で話し始めて、かれこれ一時間が経つ。
「こないだ映画行った時さ、ポップコーン食べたじゃん?」
「うん」
「指先触れた時、どきっとしたけど、気づかないふりしてたんだよね」
桃弥君が笑いながら言う。それを聞いて、その時のことを思い出す。また胸がどきっとする。何も返事できずにいると、桃弥君は続けた。
「本当は会って言いたかったんだけど」
そこまで聞いて、次に言われるであろう言葉が、何となくわかった。体が緊張で固くなる。
「瑞希のこと好きなんだよね。初めて会った時から、いいなと思っていて」
桃弥君の声で実際に、そう言われると頭が混乱した。
嬉しい、でも、何かちがう。それが何なのかわからない。気がつくと「ありがとう」と言っていた。
電話を切ると、緊張が解けた。
――ありがとう
私はそう言ったけれど、本当の気持ちは、そんな単純じゃない。「好き」と言われて、嬉しい気持ちと同じくらい、戸惑う気持ちもあった。
それなのに、次の土曜日、会う約束をした。