久男の夢
時計の針は夜の11時を指していた。
ひとりの男がパソコンを前に仕事をしている。
その男の名は舌房 久男といった。
久男の人生は残業の毎日だった。
今日も残業、昨日も残業。一昨日は当然のこと、明日も当然残業だ。
繰り返される残業の日々にうんざりしていた。
デスクの並んだ広いフロアには久男がキーボードを叩く音だけが響いており物静かだ。
キーボードを叩いていると、しだいに頭が真っ白になる。
キーボードを叩く手が止まった。
その男は煌々と照射するブルーライトを疲れ目玉の水晶体に反射的させながら虚空を見つめている。
おそらくあまりゆっくりと寝られていないからだろう。それでまともな思考ができていないのだ。
久男は今いるフロアの宙を見つめながら、しばらく放心状態であった。
そうして、何もしないでいると睡魔が襲ってくる。
背筋が曲がっていく。まぶたが重くなる。
久男は眠ってしまった。
そして、彼は暫しの間、夢の中で妄想と思考にふけるのだった。
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ふと、気づくと辺り一面真っ暗な空間に立っていた。
夢を見ている。ここが夢の中だとすぐにわかった。
明晰夢とは少し違うが似たようなものだろう。
しばらくボーとして佇んでいると、目の前に白い霧のような靄がかかりその中から男が現れた。
自分の頭が作り出したまやかしかなにかなのか。
自分が作った夢の中だからなのか、その男の詳細な情報がかってに頭に浮かんだ。
その男は貧乏な家庭に生まれたため、常に明日食うものに困っていた。
貧乏ゆえ明日の食べるものがないというのは致命的だ。
資本主義というのは、貧困が貧困を産み、裕福なやつはさらに裕福になる。
そんなシステムをよしとする。貧乏だから不幸とは一概に言えないが、きっと彼は苦労するだろう。
しかし、その男が筋肉隆々で山と見まがうほど大きな体で、ずば抜けた身体能力を持っていたらどうだろう。
その男の名前はマッチョマンと命名した。
マッチョマンはスポーツが得意だ。
マッチョマンは学生のときにバスケットボールとアメリカンフットボールをやっていたが、少し練習しただけでレギュラーメンバーとなり、全国大会でチームを優勝に導いた。
腕相撲では、生まれてこのかた負けたことがないし、クラスでは一番走るのが早かった。
そんな逸話があった。
最終的にマッチョマンは、オリンピック選手になって、お世話になった両親に恩返ししましたとさ、めでたしめでたし。
体が大きいやつは体積があるぶん筋肉のつきかたが同じでも、体の小さいやつのそれよりはるかにパワーが出せる。
だから、スポーツの世界では、体が大きいということは、何よりの才能だ。それに高い身長は競技性の面でも有利だ。
強烈なダンクシュートも、強力なスパイクシュートも、目にも止まらぬ豪速球も。全て一様に高い位置から繰り出される。
また、身体の能力が高いやつは、大きなエンターテイメント性をもっている。
バク転を連続でおこなったり、500キロあるベンチプレスを持ち上げたり、100mを9秒で走り抜けたり。
その行為には、見るものを魅了する魔力がある。私たちがスポーツ観戦において選手を応援したくなってしまうわけだ。
身体能力の高い人はそうでない人に比べて優れているといえる。
なら、体格に恵まれず運動音痴で身体能力の低いやつに救いはないのか。
そんなことはない。
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マッチョマンの横に霧が立ち込めその中から新しく人が現れた。
彼は生まれつき体が小さく、力も弱く体が弱い。
しかし、そいつは一際コミュニケーション能力に秀でている。人を惹き付け、多くから慕われるような性質を持っているという設定だ。
彼の名はカリスマだ。
カリスマは、体つきもひょろく力も強くない、全力で走っても子供にも勝てない上、最後は嘔吐するくらい体が脆かった。
ただ、舌を巻くほど饒舌な彼は、びっくりするほど他人に好かれた。
いつでもひとの輪の中心にいて、周りの人たちを盛り上げるムードメーカーだ。
そんな彼は口下手な人の的を得ない発言も瞬時に理解できる。エスパーのように。ひとたび、演説すれば瞬時に聞き入った人のこころを虜にする。
だから、彼は人気ものだ。例えるなら、周りにとって太陽のような存在であった。
結果的に彼はその類いまれなる意志疎通能力とその副産物として得た多大な人望から、国を代表する政治家になりましたとさ。
世の中コミュニケーション能力の高いやつは重宝される。
そして、人から好かれ、尊敬される特性というのは、何より最強の個性だ。
人の社会の中心はやっぱりひとだ。個性豊かなたくさんの猛者たちの考えを理解し、それをまとめあげることができるのだから、彼はすごい。
人間社会でコミュニケーション能力が重宝されるのは周知の通りだろう。
常識の中の常識であり、社会通念上の事実だ。
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コミュニケーション能力が高いやつがいるということは、その逆も当然いる。
光あるところには必ず影があるもんだ。
また、一人のひとがさっきと同じように霧のなかから現れた。
彼女はカリスマとは対照的にコミュニケーション能力は絶望的であった。
他人と相対すると、とたんに言葉が出てこなくなる。相手の言葉の真意が理解できない。
だから、人と向き合おうとはしなかった。
その時間が無駄だと思っていたから。
彼女は他の追随を許さないほど賢い頭脳を持っている。
彼女の名前はサイエンスだ。
彼女は、勉学においてはずば抜けて優秀であった。
学校のテストは常に満点だったし、学生時代に書いた論文が海外の科学雑誌ネッチャーで取り上げられるほどだった。
数学においてはとくに天才的で、証明不可能といわれていた数々の数式を意図も簡単に証明してみせた。
サイエンスは、科学者になって世界の文明の進歩に貢献しましたとさ、めでたしめでたし
賢さは人類が誇る最強の武器だ。
自動車も飛行機もエアコンも薄型テレビも、天を摩する白銀のビル群も、みんなが手にしているスマートフォンだって、人が賢かったから今そこにある。
人類は賢かったから、他のあまたの生物を押し退けて、地球の支配者として君臨している。
じゃあ、そんな賢い人類の中でも飛び抜けて賢い彼女は最強の人間と呼んで差し支えないほどに、優れた存在ではないのか。
その通りかもしれない。
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そうだ、みんな短所があってもそれを補うだけの光る何かの持っている。
みんな違って、みんないいという言葉の通りだ。
たくさんの短所があっても、ひとつだけ長所を持っていればいいのだ。たったひとつだけでいいから、才能があればよいのだ。それでその人は救われる。
そんな"成功"と呼ぶべき偉業を成し遂げた彼ら彼女らは"成功者"と呼ぶにふさわしい。
でも、ちょっとまってほしい………。
長所がない人は、どうすればいいのか。
彼らは短所のマイナス面を帳消してもお釣りがくるほどの長所があったから、救われた。
貧乏で体も小さく身体能力も高くない、コミュニケーション能力も低く、頭もよくない。そのほか、さしあたって優れた才能もない。
そんなやつはどうすれば、成功者になれるんだ。どうすれば、強くなれるのか。
でん! と短所だけこれでもかと言わんばかりに目の前に置いていかれて、才能は渡されなかった人は。
天は二物を与えずというが、ひとつも与えられなかった人は。
一体どうすれば、特別な何かになれるんだ。
きっと強くて才能に道溢れ、挫折などを経験して人として弱さも知っている、そんな成功者のみなさまはさぞ有意義で満ち足りた人生を送っていることだろう。
貧乏で体が小さく運動神経もよくない、コミュニケーション能力が低く、頭もよくない。
そのほか、さしあたって優れた才能もない俺は、今日も夜遅くまで、パーソナルコンピューターとかいう化け物とにらめっこだ。
俺の人生に意味はあるのだろうか……
なぜなのだろう。
どうしてこうなったのだろう。
なぜ彼らと俺たち凡夫は違うのか。一体どこでさがついた。どこが違うというのだろう。
なぜ俺は苦虫を噛み締めているのか。
辛酸を舐めさせられているのか。
苦汁を飲まされているのか。
なぜ俺は不幸を感じているのか!
妄想の中の先ほどの3人が一斉にくるり、こちらを向いて口々に言ってきた。
マッチョマン「才能がないことを言い訳にして、現状を変えようとする努力をしなかったから今お前はそんななのだ!」
カリスマ「夢や目標をもっていないからだよ。人間本気になれるものがあれば、才能はあとからでも作れるもんさ。あなたにはないのかな? 明確な夢や目標が。とりあえず、嘆く暇があったら、行動するべきだよ」
サイエンス「まあ、いいんじゃないですか。そ、その今のままで。世の中大体の人は凡人。凡人以下な弱者のあなたにも強者の踏み台になるっていう役目があるんだから。存在価値がないわけではないと。あ、あとサイエンスて名前なんか嫌です。ジーニアスにしてください。そっちの方がかっこいいです!」
妄想の中の三人は至極まっとうなことを言う。
そして、その言葉は深く俺に刺さる言葉だ。サイエンスだけはただ辛辣なだけっぽいが……
努力ってそもそもなんだ?
飲み会で飲まされ過ぎて、リバースしそうになったとき我慢することだろうか。
それとも39度の熱が出ていても、仕事が終わらないから出勤することなのか。
嫌な上司やクライアントの機嫌をとるため、媚びへつらうことかもしれない。
夢ってなんだっけ?
ああ、そうか。今見てるのがそれだ。
とんでもない悪夢だ。夢っていうのはきっと悪いものなのだろう。
目標?
明日までに、今作っている資料を完成させることだな。厳密にいうと明日まで後45分しかない、絶望的だ。
盆百の人がそうなのか。なら、本当に俺は必要ない。おれの換わりはいくらでもいるし、なんなら俺は大体の人の下位互換だ。
俺という人間は、強者や成功者に搾取されるだけのむなしき存在。
今日のがんばりもまた、社長や親会社の役員たち、投資家たちが食べる夕飯の高級ステーキに変わるのだ。
ほぼ同じ遺伝子をもって生まれたはずなのに、おれは会社で飼育されている社畜で、おれを飼っている強者たちは見上げることしかできない触れることもかなわない天上の人々。
もはやまったく別の生き物どうしだ。
…………。
おれは怒っている……
とても怒っているぞ!
どうしようもなく理不尽なこの世界に怒っている!
なぜ、弱者ばかり虐げられなければならないのか。弱者が強い世界があってもいいじゃないか。
なぜ、才能があるやつばかり優れているのか。まったくの能無しでも、天才と呼べる存在がいてもいいじゃないか。
なぜ、人生は険しい山ばかりなんだ。平らな山があってもいいじゃないか。
なぜ、理想はいつも高みにあるんだ。 高嶺の花が低地にあっても別にいいじゃないか。
猛き怒りの炎を身に纏う。
石のように固く拳を握りしめ、上を向いて発狂する。
夢の中の真っ暗な空間に魂の叫びがこだまする。
その場で、寝っ転がってローリングしたり、手足をバタつかせたり、とにかく暴れてやった。
ほとんど、幼子の駄々のような有り様に、目の前の3人は肩をすくめ、あきれた顔をする。
しばらく、そうしているといつの間にか3人は消え、かわりに課長が突っ立っていた。
「舌房くん、そんなことしていていいのかね。明日まで時間ないんじゃない?」
「げ! か、課長!」
はっと我に帰る。
そういえば、そうだった。おれは何をやっているのやら。明日の朝までに資料を完成させなければならない。
「早く仕事にもどりなさい。仕事は人生そのものですぞ。欲しがりません、勝っても。の精神で仕事に挑むのです。さあ、ゆきなさい」
「すいませんでした……」