1 拾いもの
湿った土と錆とカビ臭さが混じる穴蔵は昔の炭鉱の名残だ。そこに人が住み着き、いつの間にか一つの街を形成していた。地天を這うように巡った薄暗い光源に照らされて、ボロボロの石段を滑るように少年二人が駆け下りていく。申し訳なさそうにコンクリートが張り付いた鉄筋剥き出しの穴蔵に足音が響いて「待てこの糞ガキども!」ダミ声がそれを追いかけた。こめかみに青筋を浮かべたスキンヘッドの中年男が棒切れを振り回しながら目抜き通りを駆け下りてゆく。だが視線を向ける者も居らず、すれ違う通行人が迷惑そうに顔を顰めるだけだ。ここは目抜き通りとは名ばかりで人が四人も並べば窮屈な広さしかない穴蔵名物の石段通路だ。そんな場所を駆けられては迷惑だが、それも日常の風景だった。
「ヤバイヤバイすっげーおこってるっ」
走りながら鼻の頭に絆創膏を貼った少年が振り返れば、
「せっかく手に入れたんだから落とすなよっ」
前を走る少年から声が飛んだ。
人の隙間を縫うように駆け抜ける少年達を、男は自分にできる限りの動体視力を駆使して追いかけて――――――――見失った。地下に向かって延びる石段が開けた十字路に出る頃には少年達の影すら見つからない。
「おい、そこの兄ちゃん!」
石段脇の壁に置かれた木箱の上に片胡座を掻く人物を男は見下ろした。歳の頃は十代後半だろう。白いシャツの上に長い裾の黒いパーカーを羽織って、足下は分厚い生地のパンツに合皮製のハーフブーツを履いていた。腰には少々ごついベルトにウェストバッグや小さい透明のボトルをぶら下げている。体躯は細身でも、引き締まって健康なのが捲り上げられた腕から見て取れた。肩まで伸びた黒髪を片側だけかき上げピンで止め、パーツがバランスよく収まった顔は表情が乏しくてまるで人形のようだ。顔が上げられた瞬間、男はギョッとたじろいでしまう。吊り気味の双眸は鮮血のように紅かった。
「どうかした?」
自分から声を掛けながら黙り込んでしまった男に、少し高めのハスキーな声が怪訝そうに応じた。気を取り直して男は箱の上の人物に向き直った。
「こっちに走ってきたガキがどこに行ったか見なかったか?」
「それなら、真っ直ぐ下に走って行ったかな」
丸い顎がクイッと前を指して男は首を回らせた。
「あっちか。兄ちゃんありがとよ!」
「どういたしまして」
走り去る背中に薄い手の平をヒラヒラと振った。
「『兄ちゃん』じゃないけど。まぁどうでもいいか」
名前はヤイチ。致命的に胸がないせいか中世的な顔立ちのせいか、初対面で男に間違われるのも珍しくなく本人も自分の性別に特に頓着がなかった。一つ伸びをして、箱からヒョイッと飛び降りる様子は猫のようだ。それまで座っていた木箱に片手を掛けて引き上げた。
「もういいよ」
浮いて口を開けた暗い箱の中から二人の少年が這い出した。
「ふぅーたすかったぁ!」
「ありがとう、ヤイチさん」
「にぃちゃんありがとう!」
「こらレキ!」
「せっかく助かったんだからそうツンケンすんなよケイ」
「お前なぁ」
ツンツン立った赤茶の髪の少年レキがニカッと笑えば、飴色の髪の少年ケイは琥珀の双眸を眇めた。
「はいはい、見つかる前に早く他所に行きなよ」
二人は顔を見合わせるともう一度頭を下げて右の石段を駆け降りていった。
腕一杯に食料を抱えた二人は孤児だ。レキとケイは他にも似た境遇の子供三人の面倒を見ていた。同じ穴蔵の住人でも穴蔵孤児と呼ばれる彼らに興味も関心も示さない。他人の面倒を見る余裕などなかった。ヤイチだって同じだ。ただ便利屋で生計を立てているヤイチは依頼によっては穴蔵孤児の手を借りることがあり、その見返りにこうして手助けすることがあった。
便利屋と言っても何でも請け負う訳ではない。とにかく臭い話しは避けることにしていた。仮に高額な依頼料に目が眩んだとして、何の後ろ盾も伝手もない者がどんな末路を辿るか少し考えれば分かることだ。地道にコツコツと、何事も自分の手に負える範囲が好ましいと思うヤイチは、迷子の捜索や(穴蔵は迷路の様に広がっているから住人でも容易には足を踏み込めないところが存在する。子供の頃から色々な場所に足を延ばして遊び場にしていたヤイチは穴蔵に関しては玄人だった。)店番に配達といった日常的な依頼を受けて糧にしている。今日も今日とて真面目に仕事をしようと指定された場所で依頼人を待っていたのだ。だが誰も現れる気配がなかった。
(来ないな)
ゴゥンゴゥンと、腹に響く重い音がした。昼を知らせる鐘の音だ。広場に我が物顔で立っている時計を見上げれば、二本の針が重なって十二時を指している。ヤイチは一つ伸びをした。このまま此処に居ても仕方がない。馴染みの店へ足を向けることにして左の石段にのんびりと足を掛けた。上ってゆく途中で三叉路に別れる石段を右へと上り、今度は人一人が通れるくらいの階段を下った。そうして合流する煉瓦の敷かれた道を暫く歩くと、壁に埋め込まれた店が並ぶ中に吊り下げられる大鍋を模った鉄板が見えて来る。食事処である大鍋亭だ。看板の下の扉を潜ると振り返った看板娘のアリシャと目が合った。
「あら、ヤイチ。いらっしゃい。仕事は終わったの?」
緑色をしたアーモンド形の目を丸めて小さく首を傾げると、揺れた明るい茶色の髪が室内灯の仄かなオレンジ色を弾いた。
「指定の場所に誰も現れなかったんだ」
「そうだったの。でも、ちょっと変わった依頼だったから気になってはいたのよ。お昼は?食べて行くでしょう?」
「うん」
長方形に奥行きのある店内は、入口の横に厨房と向かい合わせになったカウンター席があり、二人掛けのテーブルが七席あった。ヤイチは六脚の椅子が並ぶカウンター席の壁際へ迷いなく足を向けた。いつもの席に座り頬杖をつくと、髭面の中年男が厨房から声を掛けて来た。
「すっぽかされたみてぇだな。で、何を喰うんだ?」
アリシャの父親で大鍋亭の店主でもあるガウェンだ。
「無駄足だったよ。お任せで、量はいつも通り」
「はいよ」
ガウェンは筋骨隆々の見た目に反して繊細な料理をする。肉体労働者の多い穴蔵の食事処と言えばどこの店も質より量と値段だ。味の落ちる店が多い中で大鍋亭は質、量、値段のどれも文句なしと評判だった。それには仕入れから下ごしらえに始まってガウェンの拘りがあるらしい。一度興味本位で尋ねてみたらガウェンの口が止まらなくなった。それ以来ヤイチはこの話には触れないようにしている。
「親父さん。例の依頼をした人ってどんな人だったか覚えてる?」
ガウェンには仕事の中継ぎをしてもらっている。アリシャとは幼馴染で足を運ぶついでに食事もするから大鍋亭はヤイチが一日に一度は顔を出す場所だ。いつの間にかヤイチに頼みたい仕事がある時はガウェンかアリシャに言伝がされるようになっていた。迷惑な顔もせずに言伝を受けて管理までしてくれている二人にヤイチは頭が上がらなかった。
鍋を振るうガウェンがチラリと視線を投げて寄越した。
「おめぇ外に知り合いでも居るのか?」
「居ないと思うけど」
「依頼に来たのが外の人だったの」
水の入ったカップを置きながらアリシャは腑に落ちない顔をした。
「歳は父さんと変わらない位かしら。にこにこして気の良いウェスタの男の人だったわ。場所と日時だけ伝えてくれれば後は会って話すって言われたの。伝えてみるけど内容が分からないから応じるかは本人次第だって言ったら、それでも構わないって」
「結局向こうが現れなかったんだな。可笑しな依頼もあったもんだ」
「そっか。依頼人からしてちょっと変わってたんだ」
「ヤイチにとっては『ちょっと』の事なのね」
アリシャが困ったように笑うのでヤイチが首を傾げると、皿に料理を盛りながらガウェンが肩を竦めた。
「この店は穴蔵でも浅い場所にゃ在るが、外からわざわざ遣って来て名指しでおめぇみてぇな一介の何でも屋に依頼をするってのもな。名が売れてるってんならまだしも、普通は胡散臭いだろう」
「ふぅん。そんなもの?」
「警戒心が有るんだか欠如してんだか、おめぇもよく分からねぇヤツだよ」
しみじみと呆れながら、ガウェンは三枚の皿をヤイチの目の前に置いた。燻製肉のピラフに鶏肉と豆の甘辛い煮込みと野菜のピクルスだ。どれも三人前は量がある。
「いただきます」
「今日のデザートはリンゴのケーキよ。後でお茶と一緒に出すわね」
「やったね。アリシャの作る菓子は旨いから幾らでも食べられるよ」
「その細い体の何処に喰ったもんが消えてるんだ? 見てるだけで腹一杯だよ」
いつの間にか赤毛の青年が隣の席に手を掛けている。苦い顔をする青年にヤイチは視線だけを上げると、既に口の中に頬張っていたピラフを租借し飲み込んで口を開いた。
「胃袋じゃないかな」
「こっちが聞いてるんだけど」
青年、レオはヤイチのもう一人の幼馴染だ。レオは置かれた料理から顔を逸らすと椅子に座った。
「あら、レオ。なにしに来たの?」
「や、やぁ、アリシャ。その・・・・・・昼を食べに、さ」
ニコリと営業スマイルを浮かべるアリシャに、レオは笑おうとして口の端を引き攣らせた。ヤイチはそんな二人を横目に黙々と甘辛煮を租借する。アリシャが素っ気ないのは子供の頃にレオの悪戯が過ぎたのが原因だ。好きな子ほど苛めたいというやつらしいが、あいにくヤイチには分からない感情だった。まぁ、あれは不幸な事故だったとはヤイチも思う。
(たまたま閉じ込めた横穴が、たまたま虫の巣窟だった、なんてなかなかないことだ)
十にも満たない頃の話しだ。三人で遊んでいて何時ものようにレオはアリシャに悪戯を仕掛けた。道の横に空いた穴の中でヤイチが呼んでいると言ってアリシャを閉じ込めたのだ。すると尋常ではない悲鳴が響いて、レオはつられてパニックを起こした。気付いたヤイチが横穴を塞いでいた鉄板を退けると、アリシャは虫の中で身を固くしていた。引っ張り出して宥めながら付いていた虫を取り、レオにガウェンをどうにか呼びに行かせて事態は収まったのだ。ヤイチにとっては忙しない思い出だった。勿論、レオは父親から拳骨を落とされ、母親からはこってりと絞られた。それ以来、アリシャは虫と暗い閉所が大の苦手になった。
「反省してる。アリシャが望むなら一生掛けて償うよ」
「結構です」
「アリシャァ」
アリシャは見向きもせずカウンターの中へと姿を消した。
「うぅっ・・・・・・おやっさん、今日の昼定食なに?」
「ヤイチが食ってる燻製肉のピラフだ」
「じゃあそれを一人前で」
「あいよ」
可愛い一人娘にやらかしてくれたが諦めきれず恋心を抱き続けるレオに、ガウェンは苦く笑った。
「ヤイチが男だったらなぁ」
「オレを目の前にしてそれを言うとか、おやっさん酷くない?」
「それならおめぇだってスッパリと諦めがついただろう」
「親父さん、レオが憐れに見えてくるからその肉切り包丁下げてやってよ」
「自覚はないだろうけどお前も大概酷いからな!」
ガウェンに包丁を向けられて小さく降参の意を示すレオの隣で、ヤイチはピラフの残りを平らげた。
「はい、お待たせ」
アリシャはお盆にお茶とデザートを乗せて戻って来た。角切りのリンゴを煮詰めた物がたっぷりと入ったケーキをカウンターへ置いた。素朴な見た目だがとても旨そうだ。続いてお茶を置こうとしたアリシャの顔の横に垂れるものがあった。細くなかなか目で捉えるのが難しいそれは糸だ。その先に小指の先ほどの小さな蜘蛛がぶら下がっていた。
「っ」
気付いてしまったアリシャが血の気の引いた顔で声を飲み込む。バランスを崩した所へ咄嗟にレオが手を伸ばすが一足遅かった。ヤイチがその肩を抱き止めてついでのように熱いお茶が注がれたカップも逆の手に持っている。零れたお茶がカウンターと手を濡らしていた。
「ごめんなさい! 私ったら、」
「慌てなくても大丈夫だよ。アリシャは濡れなかった? 怪我は?」
「ヤイチのお陰で何ともないわ。拭く物と冷やす物すぐ持って来るから」
慌てて厨房の中へと消えていくアリシャの頬はほんのりと紅く染まっていた。レオの無言の視線にヤイチは「どうかした?」首を傾げながらお茶を置いた。ガウェンが小さく息を吐く。
「性別は、関係なかったみてぇだな」
何も言えなくなったレオはカウンターへと突っ伏した。
§ § §
あれから。新しく入れてもらったお茶でケーキを食べたヤイチは、忙しくなり始めた店内を後にして帰路につくことにした。整備されていない道は水が染み出してドロドロとしている。穴蔵の中心部である目抜き通りの大階段から離れるにつれて何処の道もこんなものだ。アリシャからお詫びだと貰ったビスコッティをポケットから取り出して銜える。硬いがドライフルーツの欠片も混ざっていて噛むほどに味に変化があるそれは旨い。ヤイチは少し調子外れな鼻歌を歌い、たまに水溜まりを跨ぎながらのんびりと歩いた。
もう少しで家に着くという距離まで来た時だ。曲がり角に差し掛かると地面に革の靴が転がっていた。泥で汚れてはいるがまだ十分に綺麗な代物だ。穴蔵の暮らしは下層へゆく程に貧しくなる。ここは中階層でも下の方で、見つけたのが穴蔵孤児や下層の住人だったら即彼らの収入源になっていただろう。特に興味もなく角を曲がったヤイチはピタリと足を止めた。どうやら靴は落ちていただけではなかったらしい。持ち主らしき青年が倒れていた。髪を黒に染めているようで、水溜まりに浸かった部分の色が所々抜けて白に近い金色が覗いている。銜えた菓子を租借しながらヤイチは様子の見える距離を取りつつ前屈みに覗き込んだ。
(死んではない、か)
仰向けに倒れた胸が浅くはあるが上下に動いている。行き倒れだろうかという考えは直ぐに打ち消された。左の肩が血で染まっていた。傷は服に空いた穴が焦げているから銃弾によるものだろう。弾が抜けていればいいが残っている可能性もある。怪我の具合からしてどうにも厄介な臭いしかしない。だが、見つけてしまった以上は放置するのも寝覚めが悪かった。更に、ヤイチにはこの怪我を手当できる人物に当てがあるのだ。
「困ったな。助けないって選択肢が見当たらない」
思わず呟いて再び青年を眺めた。しっかりとした骨格の割に肉付きは薄いが背丈のある青年に対して、力はあるがヤイチの背丈はそれ程高くはない。
(どうやって運ぼう。引きずるか担ぐかすると傷に響きそうだな。足場が不安定だから一人で背負うのも難しい。だからって人を呼びに行ってる間に何か起こらないとも限らないし・・・・・・)
思案の末にヤイチは青年を横に抱き上げた。抱えている方が抱えられている方より小さいので奇妙な騙し絵でも見ているようだ。青年に意識があれば意義を唱えそうな体勢だが、ヤイチはそんなもの気にしなかった。
(重さは問題なし。横もギリギリ大丈夫。これなら問題ない)
安定しているか確認をして歩き始めた。完全に荷物扱いをしながらヤイチは改めて青年の顔を見た。中太の眉から通った鼻梁は高く、閉じられた瞼を縁どる睫毛はフサフサとして量が多い。浅い呼気が聞こえてくる唇は薄く形が整っていて、それらが卵のような輪郭にきっちりと納まっていた。血の気が失せて蒼白になった顔は擦り傷が目立つが稀に見る美人だ。
(泥だらけだけどここの住人にしては小綺麗だし、髪の色からしてウェスタの人かな)
外の町、ベルクヴェルクの住人は髪と目の色にはっきりとした特徴がある。東のトンファンには暗めの色、西のウェスタには明るめの色が多いのだ。これはベルクヴェルクの町が創られた頃、遣って来た人々が文化の近い者同士で住み分けたからだという。
歩いている内に漂ってきた生活の匂いにヤイチは思考を切り替えて見慣れた姿を探した。丁度、横穴の出入り口の前で湯を沸かしながら小さな老人が煙管をふかしている。老人もヤイチに気が付くと皺くちゃの顔に呆れた表情を浮かべた。
「ゴロじぃ丁度良かった。この人診てやってよ」
「お前はまた、なんとも勇ましい帰宅をしてくれるのぅ」
ゴロじぃことゴロウは怪我人を抱えて帰ってきた驚きよりも、呆れとも諦めともつかない声でヤイチの姿を嘆いた。
「勇ましい?」
「何が悲しゅうて唯一人の孫娘が見知らぬ男を抱える姿など見ねばならんのか」
ぼやきを聞き流して横穴へと入ってゆくヤイチの後にゴロウも続いた。
ゴロウの住処である横穴は、補強して四つの部屋を造っている。入って右手と左手に向かい合わせて二部屋ずつあり、ヤイチは左手前の部屋へと迷わず入っていった。低い寝台に青年を寝かせるとゴロウがすかさず傷の具合を診た。
「銃創か。幸い弾は残っとらんし骨と血管は無事じゃが、縫った方が良いじゃろう」
ヤイチがハサミを渡すとゴロウは矍鑠とした動きを見せた。迷わずシャツを切って剥ぎ取り、壁に埋め込んだ棚から必要な物を取り出して準備する。その辺はヤイチにとって未知の領域だからゴロウに任せて暖炉に火を起こすことにした。その間にゴロウは傷口を綺麗に洗って準備をし、火が起きたら針を炙った。ヤイチは青年の腕と足を寝台に縛りつけて口には布を噛ませる。
「ちゃんと抑えとくんじゃぞ」
「うん」
外のように施設が揃っていない穴蔵に麻酔なんて上等な物はない。縫合の痛みで身体が動かさないよう、ヤイチは縛っただけでは制限できない頭部と肩を固定した。それでも完全に動きを封じることはできないが、ゴロウは実に手際よく傷口を縫い合わせてゆく。ヤイチは上がる苦悶の呻きを聞きながら、変化があれば反応できるようにと青年の様子を観察した。