秋高く、虎が吼えれば馬も肥ゆ (祭り編・後)
子どもには怯えられ、泣かれ、こんな牢に閉じ込められて、不二白に黙って勝手をした罰が当たったんだ、と揚羽は思った。
「ふ……ふぇ」
もう、嫌だ。どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「不二白……」
あの可憐な頬を打った手のひらが熱い。燃えるようだった。火傷の跡みたいに鈍い痛みが引きそうになかった。
「この人はお父上か」
という質問に、子どもたちが首を振ったのは致し方ない。官吏もまさか母親とは考えも及ばないだろう。
揚羽に剣が向けられ、そこから波紋のように広がる周りの喧騒によほど衝撃を受けたのか、双子が虎の姿に戻ってしまって町は更に騒然となってしまった。
めでたくただの誘拐犯から王族の誘拐犯に格上げされる。
大罪人の烙印を押されてしまった揚羽は、地下に閉じ込められて早幾時か。暗く冷たい闇の底で、環姫は小さく蹲った。
その人が姿を現したとき、不思議な緊迫感が辺りを覆う。小さなどよめきから、ため息まで。
濡れたような銀髪を肩に垂らし、優雅な足取りで部屋を横切る美しい国主は国民の誇りだ。
不二白は周りからの視線をまったく介することのないように、部屋の隅まで突き進む。
「なにやってるの」
瞬間、辺りに戦慄が走った。
幼い子に向けたとは思えないほどの辛辣な口調と、凍るような雰囲気に大人たちは震え上がる。
不帰白は慌てて立ち上がり、父の視線を受けた。その膝に丸まっていた虎は必然的に椅子に転がることとなり、目を覚ます。
「……あ」
子が口を開きかけたときだった。
西の国主は容赦なくその頬を打った。
高い音が響いて、不帰白の体が数歩後ずさる。
「……っ」
尻餅をついてしまいそうなのをぐっと堪える王太子に、不二白の心が動かされることはない。
「なにやってるの。……母親ひとり守れないでなにやってるの」
「……申し訳、ございません……」
謝罪のことばを口にした不帰白、かつてその声を聞くことはなかったが、国主にとってはそれもどうでもよいことだった。
「環姫も守れないような奴は要らない。早く僕の前から消えろ」
吐き捨てるように告げられたことばに、後ろに控えていた白髭の大臣は堪らず助けを出した。
「陛下、ご冷静に。そんなことをして悲しむのはあやつですぞ」
「…………」
しかし不二白は、無表情にそのまま顎をしゃくる。合図に気づいた兵士が恭しく王太子の傍まで駆け寄り、軽く礼を取った。
双子虎は離れていく兄と、静かに殺気を放っている父を交互に見やりながら、きつく抱き合ってお互いの震えをごまかしていた。
「勝手に姿を消したと思ったら、これか。……幼いから許されるなんて思わないほうがいいよ。次同じことがあったら容赦しないからね」
不二白はにっこりと笑った。
それは、ことばさえ聞かなければ鷹揚な父親としか映らないのだが。大きな瞳に向かって告げられた中に親子の情愛は欠如している。なまじっか口調と表情が柔らかいのが、かえって不気味だった。
その後はまったく興味を失ったかのように、子を顧みなかった。
「さあ? 捕まえたとか言う男を連れてきてごらん?」
笑顔はそのままに。
しかし官吏たちは、全身の血が凍った。もしや、自分たちはとんでもない過ちを犯してしまったのではないか?
国主の背後で、可哀想な虎が抱えられて去っていくのが見えた。叫びとも泣き声とも判断つかないものを響かせ、彼らが去ったあとは、呼吸音すら押し殺さねばならないような沈黙だけが残った。
「出なさい」
そう言われて、揚羽はようやく再び檻の門をくぐった。階段を上がり、貴賓室のような立派な扉の前に立たされる。
それで、鈍感な環姫にもわかった。
思わず縋りついてしまいそうな存在の、鼓動を感じる。
不二白が来てくれたのだ。現在の事態を招いたことに関して糾弾されるのは、恐くない。いくら叱られてもいいから、ただその胸に頬を当てて瞼を閉じてみたかった。
部屋の中の光に、揚羽はしばらく目が慣れない。
眩しげに細めて、何度か瞬きを繰り返して、近づく人影の気配を感じて、頬を冷たい指先でなぞられて、またじわりと込み上げる。
「誰? 揚羽を泣かせたのは誰?」
だが、そのことばの冷たさに、はっと意識を正す。
「だ……誰でもない。俺が勝手に泣いた。悲しくて……」
甘い余韻を楽しむ暇もなく、環姫は己の弱さを呪った。そう、西の国主にこんな姿を見せてただで済むはずもないのだ。
揚羽は子どもたちよりまだ付き合いが長い分、優しげな表情から生み出されるせりふの恐ろしさをよく知っている。
不二白は喉の奥で笑いを転がしながら、いとおしげに環姫を見つめる。
「そう。じゃあ、言い方を変えようか。揚羽を悲しませたのは誰?」
「え……。ちが……」
揚羽には自分が悪いという自覚がある。しかし、必ずしも不二白がそう思ってくれるとは限らない。慌ててことばを探る。すると、また右手がじわりと熱を持ち出した。
「俺が悪いんだ。俺……子どもたちを……ぶった……。絶対手を上げたりしちゃいけなかったのに……俺……俺……母親としても中途半端だ。ごめ……ごめん……」
「…………」
聞くと、不二白はそっと揚羽を引き寄せる。
「痛かったね」
そうして、手のひらに唇が落とされた。
「う……」
揚羽はとうとう、主の背に腕を回した。
……泣き声が聞こえる。
揚羽は遠くから響いてくる悲しげな声に、耳を澄ませた。主の胸から離れて、ぎこちなく周囲を見渡す。複雑そうな顔をした人間が固まっていたが、今の揚羽にはそれらを気にかける余裕もない。
不安げにちょっと主を見上げると、実に嫌そうに眉根を寄せている。
「うるさいなあ、もう。……揚羽、呼んでみれば?」
「え?……でも、もう……嫌われちゃったかも」
「いいから。呼んでみて。……揚羽を呼んでるよ」
「……俺を?」
「うん」
しばし躊躇いの時を経て、揚羽は小さくその名を呼んでみた。
「……しろがね、ホオジロ……」
すると二つの小さな白い塊がものすごい勢いで地を這って突進してくる。
「う……わっ」
胸と腹に受けた衝撃に思わず顔を歪ませて、恐る恐る下を向くと、ぶるぶる震える虎が必死になってしがみついてきているのが見えた。
じわりと上衣にしみ込んでくる涙が、揚羽の胸に万感の思いを伝える。
揚羽はふと、ここに姿を見せないもうひとりの息子を思い出す。
「フキは?」
「さあ」
面倒くさそうに言い捨てる国主の変わりに、側に控えていた兵のひとりが仰々しく告げた。
「王太子殿下はすでに馬車にお乗りです」
「…………」
揚羽はすぐさま主を見やる。
その瞳は冷静で、だんだんと大人の魅力が香り出してきたものの、そこに父性を見出すことは困難だった。
「不二白。フキを愛してやって」
泣きそうになる。最近、前よりもずっと涙腺が緩くなった気がする。
ただ単に、更に女々しくなってしまっただけなんだろうか。母親になったからなんだろうか。
揚羽にとって、いちばんはやはり不二白だ。口には出さないけれど、それは揺るがない。
今も、嫌そうに目を細めている、そんな顔も堪らなく好きだ。
「……揚羽をこんな目に合わせておいて?」
「ばか。あいつはまだ子どもだろう。それに今回のことは俺が悪い」
「……」
「そう。んじゃ、わかった。俺が不二白の分まで愛してあげる」
「……努力する」
言い捨てた主に、揚羽は笑った。
こんな、子にひどく冷たくて、俺のことしか考えてなくて。
何て奴。
でも……。
でも、言ったな。愛すると、今、そう言ったな。
西の環姫は、あとで死ぬほど後悔することになるのだが、その場では気がつかなかった。
「好きだよ、不二白」
世紀の大告白に、不二白の理性は幕間に追いやられる。
大衆の面前で、子どもを間に挟みながら、祝福ではなく戸惑いと驚愕を受けるだけだったが、揚羽は熱い舌を拒んだりはしなかった。
唇の端から、また流れ落ちてきたものが入ってくる。その苦いものを丁寧に舐め取られながら環姫は言った。
「何だか、泣き上戸になったみたい」
国主は笑った。
「そりゃあ、毎晩泣かせてるからね」
……。
ここで、ようやく揚羽は冷静を取り戻すのだが、それは不幸でしかなかった。更に気の毒なことには、先ほどまでただの部屋の置物だったものを、人と認識し直したものだから大変だ。あまりの羞恥に身の置き所が探し出せない。
青くなったり赤くなったり、挙動不審を繰り返す男を目にしながら、官吏は呆然と訊ねた。
「あの方は……いったい……」
答えるは白髭の大臣。
なんと説明すればそうなるのか、西の環姫さまの噂はその一夜で国を駆け巡り……。そうして朝になったころには、本人が眩暈を起こすような聖母像が確立されていたのだが、それはもちろん揚羽のお忍びを邪魔だてすることにはならなかった。
ただ、すれ違う官吏から大仰に腰を折られてしばし人々の注目を浴びるだけ。
ただそれだけ。
了