リコリスの女性(ひと)
あの赤髪を気にしていた美しい皇女は、今どうしているのでしょうか。
然るべき夫君に恵まれ、幸せに暮らしていると良いのですが。
僕がまだ十四歳だった頃、隣国であるリンドブルグ皇国に赴きました。皇王陛下は厳格な方だと父上からは伺っていましたが、単身で訪れた僕を温かく迎え入れて下さいました。
皇王陛下には、僕と近い年頃の子が二人おりました。一人は僕と同い年の皇太子、シャルル様。もう一人は彼の三歳年上の姉にあたる、ジュリアード様。
ジュリアード様は誰の目から見ても美しい皇女であったのですが、突然変異だったのでしょうか。髪の色が両親とは違う赤色であることを、殊更気にしている様子でした。僕にしてみれば、それは大地に燃えるリコリスの花のようで美点にしか映らなかったのに。
リンドブルグ皇国に滞在して、十日余りが過ぎた頃――僕は成り行きでジュリアード様と夕餉を共にすることになりました。
僕は絵画と音楽を嗜んでおりましたので、一国の皇女がお相手とはいえ会話の内容に困ることはありませんでした。ですがそれでも、ふとした時に沈黙が訪れることはあるものです。
尤も僕はそれを厭いはしていなかったのですが、女性とはこのような沈黙が気になるのでしょうか。それとも、会話自体が好きなのでしょうか。彼女は品の良い口調で静かに、言葉を紡ぎ出しました。
「戯言と思って頂いて構いません。ただ、お聞き頂けますか」
僕は黙って頷きました。その時の彼女に、言葉は必要ないと思ったからです。
「先日、家臣達が噂話をしているのを聞いてしまいましたの。私は……私は、お父様の子供ではないと」
変わった容姿をしているというだけで根も葉もないことを無責任に言う者は、どこにでもいるものなのでしょう。これが平民だったら、思いつめずに笑って聞き流すこともできるでしょうが、彼女の皇女という身分はそれを許さない。そう思うと、目の前の皇女がとても弱々しく映り、その家臣とやらが心底恨めしく思えました。
「赤い髪の皇族なんてリンドブルグ皇国が起こって以来、ただの一人もいなかったと。エミリオ様もご存じの通り、お父様もお母様も黒髪の持ち主ですわ。私は、やはり皇家の者ではないのでしょうか……ごめんなさい、こんなことを貴方に話しても、困らせるだけだとわかっているのに」
何を謝る必要があるのでしょうか。彼女は何も悪くない。伝えることがあるとすれば――。
「ジュリアード様。皇后殿下が今のことを聞かれたら悲しまれますよ、勿論皇王陛下もです。髪の色が違うからなんだと言うのですか。第一、貴国が起きてからまだ百年と経っていないのです。そのようなことは建国から千年以上の時が流れてから仰って頂きたいですね。口性ない者の話など、お気になさいますな。貴女様は一国の皇女として毅然と振舞っていれば良いのです。さすればいずれ、不届き者もいなくなりましょう。今はお辛いと思いますが……」
そう言い終えると僕は、思った以上に口が滑ってしまった僕自身に驚くと同時に、彼女の意に反してしまったであろうことに気付き、反射的に口を押さえましたが後の祭りです。
これでは怒られたとしても仕方ないと思いつつ、前を見据えた僕の目に映った彼女の表情は――想像していたものとは遥かにかけ離れていました。
茶色い目に溜まったものの一滴が、白い頬を滑り落ちたのです。けれどその表情には不思議と、悲哀の色は見て取れません。
「違うのです。私は、嬉しかったのです。そのように仰ってくださる方はエミリオ様、貴方がはじめてだったのですもの……」
いいえ、違うでしょう。彼女は嘘はついていないのでしょうが、一つ思い違いをしいらっしゃる。
「僕がはじめてというよりも、ジュリアード様はこのことをどなたにも打ち明けていらっしゃらなかったのでしょう? それにしても、何故僕に?」
単純な疑問でした。いくらそのような家臣がいるとはいえ、彼女の立場なら専属の女官も何人かいるのでしょう。そして皇女付きの女官と文官武官では、接点はほとんどないでしょうに。
「身近な彼女達に話して、見放されるのが怖かったのです。それに貴方はお若いけれど聡明な方。父上との遣り取りを何度か拝見しただけで、それは分かりましたわ。それに……貴方はこの国の方ではない。他の者と違い、利害関係で態度を翻すようなことはありませんでしょう?」
ああ。この方は、政で人が態度を変えることを知っている。いったい今までどれだけ辛い思いをされてきたのでしょう。
「大丈夫ですよ。ジュリアード様はお一人ではありません。それに、とても綺麗な赤ではありませんか。大地に燃えるリコリス。僕が一番好きな花と同じ色です」
彼女とはテーブルを挟んでいましたので髪に口付けることは出来ませんでしたが、傍にいたならばそうしたいと願ってやまない程、その赤髪は美しくあったのです。
「戯言が過ぎましたね、失礼致しました。ジュリアード様もお気になさらないで下さい。今日のことは他言致しませんので」
僕はどんな表情をしていたのでしょう。彼女の茶色い目が揺れているように見えます。
「エミリオ様っ……!!」
「早くお召し上がりにならないと、スープが冷めてしまいますよ」
事実、スープに口をつけるとそれは既に冷めていました。けれど僕はそれ以上に、これ以上彼女と会話を続けるのが辛かったのです。
とても美しくあるけれどその内面は脆い彼女のことが放っておけなくなりそうだったから。
僕は近々里へ帰らなければなりません。彼女が言うように、僕はこの国の人間ではないのですから、傍にいることもかなわないのです。
ならば、芽生えかけた想いを堅牢な砦の奥へとしまい込みましょう。誰にも迷惑をかけないように。だからお願いです、どうか僕に関わらないで――口に出せるはずもない本音を、スープと共に呑み込みました。
彼女も何かを察したのでしょうか、それ以降会話はなく食事を終えると挨拶だけ交わし、僕達はそれぞれの居室へと戻りました。
それから三日後。僕はリンドブルグ皇国を去ることになります。
父上がコルネリア王国の国直々に王都へと招かれた為、僕のリンドブルグ皇国滞在は予定よりも短期間のものになったのです。皇王陛下はそのことを惜しまれましたが、父上が里を離れた今、僕が長の代行を務めなければなりませんから、致し方ありません。
最後に皇王陛下をはじめとする皇族全員と挨拶を交わしました。勿論その末席には彼女もいたのですが、一瞬気まずい空気が漂ったのは僕の気のせいではないでしょう。
「お父上の後を継がれると聞きました……どうか、お元気で」
「ええ。僕も貴女の息災を祈っております。麗しき、リコリスの女性」
お慕いしております――その言葉を呑み込んで、僕は愛馬に跨り手綱を引きました。
「……エミリオ様」
名を呼ぶ声が微かに聞こえましたが僕は振り返ることが出来ず、必死で愛馬を駆けさせました。
あの時もし、振り返っていたならば何かが変わったのでしょうか。七年の時が過ぎた今となっては、それを知る術はありません。
その一年後僕もコルネリア王国の公爵令嬢を妻に迎えた為、リンドブルグ皇国との国交は暫く途絶えたものの、今春妹が彼女の弟であるシャルル様に嫁ぎ――リンドブルグ皇国の皇太子妃となりましたが、その時姉である彼女の姿はありませんでした。
別段驚くことでもありません。彼女も今は二十四歳になっているはずですから、一国の皇女の責務として何処かに嫁いだのでしょう。
そのことを悔やんではいません。ただ、毎年リコリスの花が咲く季節になると、かつて傷付けたであろう、彼女のことが思い出されるのです。
今も真っ直ぐに天へと向かって、赤い花が咲き誇っています。あのリコリスの女性は、同じ空の下の何処かで他の誰かを一途の想い、幸せに暮らしているのでしょうか。