序章③
「若様~若様~」
騒がしく、やや重苦しい空気になりつつあった俺の部屋。そこに俺を呼ぶ可愛い声と足音が廊下から聞こえてきた。
足音は徐々に大きくなり、こちらへ向かってきた。
そして音が止んだところで、1つの小さな影が顔を覗かせた。
「若様?」
開いた部屋の襖から顔を覗かせ現れたのは、可愛い小柄な少女。
少女は襖の影からこちらを覗き、布団に入っている俺を見ると、部屋の中にいる親父と夜叉丸を見てまた俺に視線を戻す。
「若様大丈夫!?」
決して大きな声ではない。
しかし普段から物静かな少女が精一杯声を出して、俺を心配して駆けよって来てくれた。
そしてそのか細い腕で俺に抱き、心配そうに見上げてくる。
「痛いところは無い?またとと様とじじ様にいじめられたの?」
目を潤ませ泣きそうになりながら、力強く抱きついて労わってくれる少女。
この少女は俺の唯一と言っても良い癒しであり、自然と笑みがこぼれた。
「大丈夫、心配ないよ恵佳」
今にも泣き出してしまいそうな、可憐な少女の頭を撫でながら微笑む。
正直まだ少し体が痛いが、心配してくれる恵佳の顔を見たら痛みも吹き飛んでしまった。
「よかったぁ…若様、若様…」
俺が微笑むと恵佳は胸をなでおろして安心したようだ。
恵佳…この子は一見人間の少女に見えるが、この子も夜叉丸と同じ妖怪である。
妖怪としての名前は鎌鼬。
鎌鼬とは旋風に乗って現れる、イタチに似た可愛らしい見た目の妖怪である。
しかし見た目は可愛らしくも妖怪、その名前の通り両腕は鎌の如く鋭く、その鋭さは鍛え抜かれた真剣をも凌ぐと言い伝えられる程だ。
基本的に3匹一組で行動する事が多く、人前に現れては悪戯をする妖怪だと認知されている。
一匹目が旋風で人間を転ばせ、二匹目が倒れた人間を斬りつけ、三匹目が傷口に薬を付ける。
薬は即効性が高く、薬を塗られた傷口は瞬く間に治り、切られた瞬間も一瞬であるため痛みは殆ど感じる事がない。
こうした事から人に害を与える鎌鼬は、悪神として人々に知られていた。
もっとも今となっては、鎌鼬だけでなく大半の妖怪が人間に危害を加える事は無くなった。
平安時代に残虐非道と称された鬼でさえ、今では人の血肉骨を食らったりしない。
なぜならこういった行為は悪戯に人間との溝を深めるだけだからだ。
なので恵佳は人間を襲うような真似絶対にしない。
それどころか妖怪と言われなければ気が付かないほど人間らしい生活をしている。俺だってたまに忘れてしまうくらいだ。
「むぅ…」
安堵の笑みを浮かべていた恵佳の表情が険しいものに変っていた。
怒っているのだろう。それをアピールするように唸り、後ろにいる親父と夜叉丸を睨み始めた。
「また…とと様とじじ様が若様をいじめたの?」
まるで敵を威嚇するように声に怒りをこめる。
「いぁ…恵よ、わしは主殿に命令されて仕方なくな…」
「なっ夜叉丸貴様!?自分だけ言い逃れするつもりか!?」
「何を言うか。事実ワシは主殿の命に従っただけじゃ」
「う…だが晴明を地面に叩きつけたのは貴様だろう!?」
「とと様…じじ様…」
恵佳に睨まれておどおどする2人、その姿は幼い自分の子供に怒られる親と孫に怒られる祖父の図である。
というのも、親父は恵佳のことを実の娘と思っており、夜叉丸は実の孫だと思って溺愛しているのだ。
かく言う俺も恵佳を実の妹だと思っている。
つまり家族全員が恵佳には形無しで、我が家では誰も恵佳に逆らう事が出来ない。
だから二人とも愛する娘・孫に嫌われたくないと必死で、俺を拘束した後は決まって見苦しい罪の擦り付け合いが始まる。
そして最後に…
「どっちも悪いよ…若様が怪我でもしたらどうするの?」
「ごめんなさい…」
「すまぬ…」
こうやって恵佳の機嫌を損ねて怒られるのがお決まりのパターンである。
この二人に素直に頭を下げさせることができるのは、世界広しと言えど恵佳だけだろう。
「だけどね恵ちゃん聞いてよ!また晴明が後を継がないって…」
「とと様…しつこい」
「がーん!」
「しつこい人は…嫌い…」
「ががーん!」
「しつこい上に若様をいじめるとと様は…もっと嫌い」
「うああああああああああああん!」
心をずたずたに引き裂かれた親父は傍にいた夜叉丸に泣きつく。
「夜叉丸ぅう!恵ちゃんがパパのこといじめるよおお!」
「落ちつけ主殿…恵も主殿の気持ちをくんでやらんと…」
「若様に怪我させようとするじじ様だって…嫌いだよ?」
「ぐはぁ!?」
「(あ~二人ともこれは死んだな)」
今日の恵佳はかなり怒っているようで言葉に容赦がない。
というのも恵佳は普段から軽々しく嫌いという言葉は使わないからだ。
嫌いと言い切る時はかなりのご立腹の証であり、大抵は暫く口をきいてくれなくなる。
それをよく知っているからこそ、親父と夜叉丸はノックダウンしているのだ。
「怒ってくれてありがとう恵佳。もう十分だよ」
俺のために怒ってくれたソノ気持が嬉しくて、俺は優しく恵佳の頭を撫でた。
「ん…でも若様…何度注意しても、とと様は若様に後を継げって言う。それにじじ様と二人で乱暴なこともする。若様は嫌だって言ってるのに…だから今日こそもっと言わないと…」
俺を心の底から慕ってくれているからこそ、真剣に怒ってくれている事がよく分かる。
俺がいつも夜叉丸に返り討ちにされる姿を見て、恵佳は心配なのだろう。俺が怪我でもしないかと……不安を滲ませた悲しそうな表情を見れば一目瞭然だ。
「本当にありがとう恵佳、でも大丈夫。どんなに親父に言われても俺は自分の将来は自分で決める。それに夜叉丸との戦いはお互い本気じゃないよ。もし本気を出していたら、とっくにどちらかが大怪我してるしな」
「若様がの間違いじゃろ?」
「じじ様は黙ってて…」
「はい…」
後ろから茶々を入れてきた夜叉丸が恵佳のお怒りに触れ、今度こそ完全に死んだ。
とぼとぼ歩いて隅っこで泣いてる親父と一緒に体育座りをしていじけ始める。
「ねぇ…若様…」
「ん?なんだい?」
「将来を自分で決めるってことは…陰陽師を継ぐこともあるってことなの?」
「それは…」
今の俺に陰陽師を継ぐ気はない…それは紛れもない事実だ。
だが…不安げな表情で答えを求める恵佳に対して、俺は直ぐに返答する事が出来なかった。
「……」
俺は……今の人間社会で英雄扱いされている陰陽師達が大嫌いだ。
傲慢で高飛車で尊大で、己こそが他者の上に立つべき選ばれし存在と疑わないあいつらが…心の底から大嫌いだ。
だが——俺は同時に今でも、今でも…この神社の現当主である親父の事を尊敬しているのだ。
妖怪も人間も、種族や見た目や立場も関係無く、分け隔てなく対等に接する親父の事を。
それに何より俺は——母さんと親父が笑顔で談笑していたこの場所を、この神社を、我が家を守りたい…その気持ちは今でも変わっていない。
だけど……陰陽師になる以外で此処を守る術を俺は知らない。いや、分からないのだ。俺にはその方法が未だに分からない…。
だから…俺は逃げているのだ、恵佳から親父から夜叉丸から。
そして己と向き合う事から。
「あのね…あのね若様…」
俺が答えに迷い言葉を詰まらせていると、恵佳が恐る恐る口を開いた。
「もし…もしね?若様がとと様の後を継いで陰陽師になっても、若様は若様…だよね?」
体を僅かに震わせて尋ねる恵佳、不安と恐れを滲ませるその顔は怯えきっている。
その理由は明白、彼女は危惧しているのだ。
もし俺が陰陽師になる道を選んでしまったら、今この世に蔓延る連中《陰陽師》と同じになってしまうのではか?と。
だから彼女は俺の口から直接答えを聞きたいのだろう、万が一否定されたら…という計り知れない不安に耐えながらも。
「大丈夫だよ恵佳、どんな道を選んでも俺は俺だよ。それは絶対に変わらないよ」
だから俺は目の前にいる可憐な女の子をそっと抱き寄せ、彼女の頭を優しく撫でた。
泣きじゃくる子供をあやすように、精一杯愛をこめて抱きしめた。
「わかさまぁ~~」
すると泣きそうな表情から一変、恵佳は安心しきって頬を緩ませた。
完全に緩み切った表情で俺の胸に頬をスリスリする姿は、まるでじゃれつく猫だ。
「あああああ!晴明だけずるいぞ!?恵ちゃんパパにもパパにも!!」
「主殿よ…歳を考えられよ……」
「歳なんて関係ないぞ!!パパはいくら歳をくったっていつまでも娘に愛されたい!!」
いつの間にか立ち直っていた2人が俺達の直ぐ傍に立っていた。
相も変わらずいい年こいて娘にベッタリ発言をする親父と、そんな親父を見て深い溜息をつく夜叉丸。
互いに恵佳を溺愛しているが、親父と違い可愛い孫を遠くから見守っている夜叉丸は流石に落ち着いている。
「とと様は嫌…若様がいい」
「うあああああああん!夜叉丸うう!!恵ちゃんが反抗期だよおお!」
気色悪い親父に拒絶反応を見せた恵佳が俺に強く抱き着いてきた。
そして拒絶された親父は、側に立っている夜叉丸に泣きついた。
「落ちつけ主殿、恵も年頃の女子なのじゃから、丁度思春期ということなのじゃろう。今は特に親の行動に対して敏感な時期…まぁわしから見ても今の行動は気色悪いがのぅ」
「お前はどっちの味方なんだ!?」
「別に誰の味方でもないが…それより良いのか?若様と話すことがあるのでは無かったのではないか?」
夜叉丸の言葉を聞いて、親父の表情が突然真面目なものへと切り替わった。
俺はその表情を見て身構えた。
というのも、親父がおふざけを中断してまで優先する話というのは、いつも重大な内容だからだ。
まぁ…真面目な表情をしておいて、稀にふざけることもあるが。
「恵佳よ…少し席をはずしてくれないか?」
だが今回は本当に真面目な話をするようだ。
その証拠に恵佳のことを『恵ちゃん』ではなく『恵佳』と呼んでいる。
これは親父が陰陽師としてのスイッチを入れたということ、つまりは仕事モードということだ。
「…はい」
変わった部屋の空気と親父の表情、察した恵佳は素直に言うことを聞いて部屋を出ていこうとした。
「………」
部屋から出ていこうと襖の敷居を跨ごうとして、恵佳の動きが止まった。
振り返ってこちらを見つめる恵佳、その表所はとても不安げだった。
「心配いらないよ、話が終わったら居間に行くから」
だから俺はいつもの様に優しく微笑んだ。
「うん!」
俺の意図が伝わったのだろう。恵佳は笑顔を浮かべ、部屋の襖を閉めて居間へと歩いて行った。